戦後最大のヒーローは誰か?
北海道から沖縄まで画一的な価値感を共有する日本の場合、この答えは簡単に3人に絞ることが出来ます。
力道山か、長嶋茂雄か、大谷翔平か。
価値観が多様化した21世紀に出現した大谷翔平、引退後も圧倒的な存在感を見せつけた長嶋茂雄は特別な国民的英雄ですが、この二人でも国民を狂乱させた瞬間最大風速で見ると、力道山には及ばないでしょう。

1950年代に米国をサーキットした力道山は、飛び抜けて敏感なアンテナであの国のエンタテインメントが日本にも遅れて到来することを予見していました。「プロレスは日本でも熱狂的に受け入れられる」という確信は、簡単に現実となります。
そして、彼は米国の人々がプロレスのリングだけに熱狂していたわけではないことも正確に理解していました。
それは「リングの中で最も尊敬されるているのはプロレスラーではなく、ボクシングの世界ヘビー級チャンピオンである」ということです。
1952年5月19日、後楽園球場で世界フライ級王者となった白井義男の熱狂を、プロレスブームを巻き起こす寸前だった力道山がどう見ていたのかはわかりません。
しかし、米国で黄金時代を迎えていたボクシングは「ヘビー級こそ(ある意味でヘビー級〝だけ〟)がボクシング」というのは厳然たる事実でした。
力道山は、おそらく米国修行・サーキットで「白井義男」の名前を聞いたことすらなかったかもしれません。
もちろん、ビジネスに長けたプロレスラー力道山が日本で「本当に尊敬されているのはボクシングの世界ヘビー級チャンピオン」などと口にすることはありませんでした。


マークシティ裏の坂を登りきったところにあった宮殿の跡地には、ヒューマックス渋谷ビルが立っています。
それでも、軽量級が中心のボクシングをはるかに上回る巨大なプロレスブームを巻き起こし、巨万の財を築いた力道山はナイトクラブや不動産業、レジャー施設などを手掛ける実業家としての顔を見せはじめる中で、日本のプロレスのリングで米国人を倒すのではなく、米国で本当に認められる格闘技の頂点を目指します。
1961年に竣工した渋谷の街一帯を睥睨するリキ・パレスは文字通りの宮殿で、プロレスの常設リング(ボクシングやプロレスの常設のハコは先進国では極めて異例)だけでなくボーリング場やビリヤード場、レストラン、サウナなども内包していました。
さらに、この宮殿でボクシング専門のリキジムも開設、ボクシング界に参入するのです。
当時から外部の刺激に対して過剰なアレルギー反応を起こす閉鎖的な日本ボクシング・コミッション(JBC)と全国のジムで構成される日本ボクシング協会は、力道山の参入にさまざまな制限を加えますが、リキジムはなんとか協会の加盟を認められます。
力道山の夢は「米国で尊敬される世界ヘビー級チャンピオンの養成」であり、目先の軽量級に拘泥する矮小な日本ボクシング界とは見ている方向が全く違いました。

1962年、力道山がハワイ巡業に出向いたときに、ちょうど10歳年上のボクシングのトレーナーと出会います。エディ・タウンゼントJr.(1914年〜1988年:享年73歳)です。
このとき、力道山は38歳。48歳のエディは当時の感覚ではすでに「老トレーナー」の域に入っていたかもしれませんが、力道山はエディを「日本人の世界ヘビー級チャンピオンを育てて欲しい」とリキジムに招聘します。
エディは、Townsend was born to an American father and a Japanese mother in Honolulu, Hawaii. (米国人の父と日本人の母との間にハワイ・ホノルルで生まれた)とBoxRecやWikipediaなどに記載されていますが、ボクシング・マガジン1988年3月号の「エディさん逝く 愛弟子・井岡弘樹〝勝利の夜〟」によると「父エドワードは日米混血のハーフ、母のヒデコは日系移民2世」とありますから、日本人75%/米国人25%のクオーターになります。
おそらく、正しいのは後者でしょう。
力道山は1963年に赤坂のナイトクラブ・ニューラテンクォーターで暴力団員に腹部を刺されたことで死亡してしまい、二人の関係はわずか1年で終わってしまいますがそのエピソードは豊富です。
リキジムを初めて見学したエディは、怒りを爆発させます。
相撲部屋スタイルの竹刀で選手を叩いて指導しているのを見て「リングで叩かれて、ジムに帰って来てまた叩かれる?!何考えてるの!私はハートのラブで選手を育てる!」と力道山のやり方に断固反対し、最後はあの力道山が折れたというのは最も有名な逸話です。

若き?(すでに50歳オーバーの)エディと藤猛。
ハワイ時代から旧知の藤猛がリキジムを偶然訪れ、エディは世界ジュニアウエルター級チャンピオンに育て上げました。
しかし、リキジムは強力なオーナー力道山を失って自然消滅。「ジプシー」と呼ばれたエディの流浪のトレーナー人生が始まります。
それから…海老原博幸、柴田国明、ガッツ石松、友利正、井岡弘樹。強烈な個性を放つチャンピオンを育て上げ、赤井英和とカシアス内藤というチャンピオン以上の魅力を放つファイターもリングに送り込みました。
https://www.tiktok.com/@alain.delon731/video/7660241904428272914
#緑の日々 #PV #オフコース #小田和正 作詞作曲 #清水仁 主演 高樹沙耶 富樫要 松尾一彦 大間ジロー
エディ・タウンゼント
昭和 ヒット曲 名曲 JPOP ニューミュージック
しかし、力道山と約束した「米国からも尊敬される世界ヘビー級チャンピオン」にはアプローチすることすらできないまま、名匠がカンバスに絵筆を振るった最後の作品は、力道山が全く知らない未来に作られたクラス、約47.6kgのストロー級の井岡弘樹になりました。
「ヘビー級の夢」を託されたエディが育てた最重量のチャンピオンは、皮肉なことに最初に手がけた藤猛だったのです。
もし、力道山が生きていれば「世界ヘビー級チャンピオン」の夢はもっと現実に近づけたかもしれません。
これほど日本人の体格が向上したというのに「世界ヘビー級チャンピオン」など夢に見ることすらなく、日本が好き勝手できるライト(軽量)級未満の層が薄く競技レベルも低い超軽量級ゾーンで、PFPのような弱者救済ランキングに注目しているのが現代の〝日本ボクシング黄金時代〟の実態です。
藤猛や柴田、石松のような米国で関心が持たれる階級ですら、もはや憧れの領域。
リキジムの時代よりもボクシングの世界だけが、日本人の体格がどんどん貧弱になっているという、あまりにも悲しすぎる惨状です。
井上尚弥を見る眼がある人がいたなら「今は複数階級制覇の時代だから、無理矢理にでもジュニアフライ級からタイトルを拾っていこう」ではなく、プロテストを受けたジュニアフェザー級をも飛び越えてフェザー級以上の体を作りあげ「誰もやったことがない冒険をしてみるか?成功したらカネには困らないが、孤独だ。日本のリングには重要な試合ほど上がれない。ラスベガスかニューヨーク、ロンドンで最強のビッグネームばかりと戦うことになる」と、ホンモノのT-モバイルアリーナを目指していたかもしれません。
ただ、アマチュア時代の井上を見抜く人などどこにもいませんでした。大橋秀行と真吾は論外、本人すらも。
それは、デビューから咬ませ犬を用意したことからも明らかです(井上信者は「強い相手としかやらない契約」なのにそんなわけないと言い張るでしょうが)。
もちろん、彼らは「レベルの高いフェザー級デビューなんてさせてたら潰されてしまって、PFP1位の尚弥はなかった」というかもしれませんが…。
マニー・パッキャオの不認知階級から人気階級への殴り込み、大谷翔平の絶対不可能と言われた二刀流への挑戦… ボクシングに限らず、スポーツが孕む究極のカタルシスはハイリスク・ハイリターンです。
来月でエディさん生誕92年。天国に招かれて18年。まだ生きていてくれていてもおかしくない年齢です。
北海道から沖縄まで画一的な価値感を共有する日本の場合、この答えは簡単に3人に絞ることが出来ます。
力道山か、長嶋茂雄か、大谷翔平か。
価値観が多様化した21世紀に出現した大谷翔平、引退後も圧倒的な存在感を見せつけた長嶋茂雄は特別な国民的英雄ですが、この二人でも国民を狂乱させた瞬間最大風速で見ると、力道山には及ばないでしょう。

1950年代に米国をサーキットした力道山は、飛び抜けて敏感なアンテナであの国のエンタテインメントが日本にも遅れて到来することを予見していました。「プロレスは日本でも熱狂的に受け入れられる」という確信は、簡単に現実となります。
そして、彼は米国の人々がプロレスのリングだけに熱狂していたわけではないことも正確に理解していました。
それは「リングの中で最も尊敬されるているのはプロレスラーではなく、ボクシングの世界ヘビー級チャンピオンである」ということです。
1952年5月19日、後楽園球場で世界フライ級王者となった白井義男の熱狂を、プロレスブームを巻き起こす寸前だった力道山がどう見ていたのかはわかりません。
しかし、米国で黄金時代を迎えていたボクシングは「ヘビー級こそ(ある意味でヘビー級〝だけ〟)がボクシング」というのは厳然たる事実でした。
力道山は、おそらく米国修行・サーキットで「白井義男」の名前を聞いたことすらなかったかもしれません。
もちろん、ビジネスに長けたプロレスラー力道山が日本で「本当に尊敬されているのはボクシングの世界ヘビー級チャンピオン」などと口にすることはありませんでした。


マークシティ裏の坂を登りきったところにあった宮殿の跡地には、ヒューマックス渋谷ビルが立っています。
それでも、軽量級が中心のボクシングをはるかに上回る巨大なプロレスブームを巻き起こし、巨万の財を築いた力道山はナイトクラブや不動産業、レジャー施設などを手掛ける実業家としての顔を見せはじめる中で、日本のプロレスのリングで米国人を倒すのではなく、米国で本当に認められる格闘技の頂点を目指します。
1961年に竣工した渋谷の街一帯を睥睨するリキ・パレスは文字通りの宮殿で、プロレスの常設リング(ボクシングやプロレスの常設のハコは先進国では極めて異例)だけでなくボーリング場やビリヤード場、レストラン、サウナなども内包していました。
さらに、この宮殿でボクシング専門のリキジムも開設、ボクシング界に参入するのです。
当時から外部の刺激に対して過剰なアレルギー反応を起こす閉鎖的な日本ボクシング・コミッション(JBC)と全国のジムで構成される日本ボクシング協会は、力道山の参入にさまざまな制限を加えますが、リキジムはなんとか協会の加盟を認められます。
力道山の夢は「米国で尊敬される世界ヘビー級チャンピオンの養成」であり、目先の軽量級に拘泥する矮小な日本ボクシング界とは見ている方向が全く違いました。

1962年、力道山がハワイ巡業に出向いたときに、ちょうど10歳年上のボクシングのトレーナーと出会います。エディ・タウンゼントJr.(1914年〜1988年:享年73歳)です。
このとき、力道山は38歳。48歳のエディは当時の感覚ではすでに「老トレーナー」の域に入っていたかもしれませんが、力道山はエディを「日本人の世界ヘビー級チャンピオンを育てて欲しい」とリキジムに招聘します。
エディは、Townsend was born to an American father and a Japanese mother in Honolulu, Hawaii. (米国人の父と日本人の母との間にハワイ・ホノルルで生まれた)とBoxRecやWikipediaなどに記載されていますが、ボクシング・マガジン1988年3月号の「エディさん逝く 愛弟子・井岡弘樹〝勝利の夜〟」によると「父エドワードは日米混血のハーフ、母のヒデコは日系移民2世」とありますから、日本人75%/米国人25%のクオーターになります。
おそらく、正しいのは後者でしょう。
力道山は1963年に赤坂のナイトクラブ・ニューラテンクォーターで暴力団員に腹部を刺されたことで死亡してしまい、二人の関係はわずか1年で終わってしまいますがそのエピソードは豊富です。
リキジムを初めて見学したエディは、怒りを爆発させます。
相撲部屋スタイルの竹刀で選手を叩いて指導しているのを見て「リングで叩かれて、ジムに帰って来てまた叩かれる?!何考えてるの!私はハートのラブで選手を育てる!」と力道山のやり方に断固反対し、最後はあの力道山が折れたというのは最も有名な逸話です。

若き?(すでに50歳オーバーの)エディと藤猛。
ハワイ時代から旧知の藤猛がリキジムを偶然訪れ、エディは世界ジュニアウエルター級チャンピオンに育て上げました。
しかし、リキジムは強力なオーナー力道山を失って自然消滅。「ジプシー」と呼ばれたエディの流浪のトレーナー人生が始まります。
それから…海老原博幸、柴田国明、ガッツ石松、友利正、井岡弘樹。強烈な個性を放つチャンピオンを育て上げ、赤井英和とカシアス内藤というチャンピオン以上の魅力を放つファイターもリングに送り込みました。
https://www.tiktok.com/@alain.delon731/video/7660241904428272914
#緑の日々 #PV #オフコース #小田和正 作詞作曲 #清水仁 主演 高樹沙耶 富樫要 松尾一彦 大間ジロー
エディ・タウンゼント
昭和 ヒット曲 名曲 JPOP ニューミュージック
しかし、力道山と約束した「米国からも尊敬される世界ヘビー級チャンピオン」にはアプローチすることすらできないまま、名匠がカンバスに絵筆を振るった最後の作品は、力道山が全く知らない未来に作られたクラス、約47.6kgのストロー級の井岡弘樹になりました。
「ヘビー級の夢」を託されたエディが育てた最重量のチャンピオンは、皮肉なことに最初に手がけた藤猛だったのです。
もし、力道山が生きていれば「世界ヘビー級チャンピオン」の夢はもっと現実に近づけたかもしれません。
これほど日本人の体格が向上したというのに「世界ヘビー級チャンピオン」など夢に見ることすらなく、日本が好き勝手できるライト(軽量)級未満の層が薄く競技レベルも低い超軽量級ゾーンで、PFPのような弱者救済ランキングに注目しているのが現代の〝日本ボクシング黄金時代〟の実態です。
藤猛や柴田、石松のような米国で関心が持たれる階級ですら、もはや憧れの領域。
リキジムの時代よりもボクシングの世界だけが、日本人の体格がどんどん貧弱になっているという、あまりにも悲しすぎる惨状です。
井上尚弥を見る眼がある人がいたなら「今は複数階級制覇の時代だから、無理矢理にでもジュニアフライ級からタイトルを拾っていこう」ではなく、プロテストを受けたジュニアフェザー級をも飛び越えてフェザー級以上の体を作りあげ「誰もやったことがない冒険をしてみるか?成功したらカネには困らないが、孤独だ。日本のリングには重要な試合ほど上がれない。ラスベガスかニューヨーク、ロンドンで最強のビッグネームばかりと戦うことになる」と、ホンモノのT-モバイルアリーナを目指していたかもしれません。
ただ、アマチュア時代の井上を見抜く人などどこにもいませんでした。大橋秀行と真吾は論外、本人すらも。
それは、デビューから咬ませ犬を用意したことからも明らかです(井上信者は「強い相手としかやらない契約」なのにそんなわけないと言い張るでしょうが)。
もちろん、彼らは「レベルの高いフェザー級デビューなんてさせてたら潰されてしまって、PFP1位の尚弥はなかった」というかもしれませんが…。
マニー・パッキャオの不認知階級から人気階級への殴り込み、大谷翔平の絶対不可能と言われた二刀流への挑戦… ボクシングに限らず、スポーツが孕む究極のカタルシスはハイリスク・ハイリターンです。
来月でエディさん生誕92年。天国に招かれて18年。まだ生きていてくれていてもおかしくない年齢です。


















