カテゴリ: さよならは別れの言葉じゃなくて。




フレデリック・フォーサイスが9日、86歳で亡くなりました。

「ジャッカルの日」「オデッサファイル」「戦争の犬たち」…角川書店から数多く出版されていたフォーサイスの作品と出会ったのは高校図書館。

角川書店の学校図書館用は文庫なのにハードカバーだったのを今もよく覚えています。

フォーサイスは陰謀が渦巻く複雑な国際関係を描き出してくれましたが、現実の世界といえば、力任せの味も素気もない単細胞が暴れています。

多くの作品が映画化もされ、高校時代にリバイバルで「フォーサイス特集」なんてオールナイトも観ました。遠い思い出です。


さよなら、フレデリック・フォーサイス。

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有楽町駅前で「号外です!」の呼び声があちこちから聞こえてきました。

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8時間ほど前、ジャマイカのスポーツ庁が「マイク・マッカラムが68歳で死去した」と発表しました。

1984年に最初のタイトル、WBAジュニアミドル級を決定戦で掌握すると、オールKOで6度の防衛戦をクルーズ。

そのリストにはジュリアン・ジャクソン、ミルトン・マクローリー、ドナルド・カリーの名前もありました。

そのあと、ミドル級とライトヘビー級のベルトもコレクションに加えました。

生涯キャリア45勝36KO5敗1分。途轍もないテクニシャンでありながら、一発強打のパワーを持ち、KO負けは一度もない頑健な顎の持ち主でもありました。

5つの敗北のうち3つはジェームス・トニー(2度)、ロイ・ジョーンズJr.に喫した判定負け。

ジャマイカ生まれの史上初の複数階級世界王者。

ジュニアミドル級、ミドル級、ライトヘビー級の層の厚いクラスで3階級制覇。

PFPランキングの常連。

ーーーマッカラムを語るとき、偉大な業績よりも、ifとwhyがいつまでも付きまとい続けています。

1980年代中盤に圧倒的な強さを見せつけたボディスナッチャー。

IF。もし、マッカラムがマービン・ハグラーやシュガー・レイ・レナード、トーマス・ハーンズ、ロベルト・デュランと戦うチャンスに恵まれていたら、私たちは一体何を目撃していたのか?

WHY。なぜ、4KINGsは1人の例外もなく、マッカラムを敬遠したのか?

強ければつよいほど大きなチャンスが巡って来る…プロボクシングがそんなスポーツライクな常識から逸脱した、怪しく不可解なエンタテイメントであることを最初に教えてくれたのがマイク・マッカラムでした。


さようなら、マッカラム。

ずっと忘れません。




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ニノ・ベンベヌチは1960年のローマ五輪ウエルター級で金メダルを獲得、プロではジュニアミドル級とミドル級で世界王者になったイタリア・ボクシング界のスターでした。

カルロス・モンソンにミドル級王座を追われたのが1970年11月7日、そのモンソンに返り討ちで敗れた1971年5月8日のプロ90戦目(82勝32KO7敗1分)でリングを去りました。

私がボクシングファンになる10年も前のことですから、当然、ベンベヌチをリアルタイムでは知りません。



「歴史」としか知らないベンベヌチですが、モハメド・アリ(カシアス・クレイ)を抑えてローマ五輪のMVP(ヴァル・バーカー・トロフィー)に輝き、ジュニアミドル級タイトルは韓国の金基洙に奪われ、ミドル級に上げてエミール・グリフィスを激闘の末に勝利、そして史上最強のミドル級・モンソンにタイトルを強奪された伝説として記憶に刻まれています。

ミドル級の絢爛な歴史は、ベンベヌチを抜きにして語ることはできません。

そして、韓国と日本のボクシング界で存在感が膨らむジュニアミドル級に最初の息吹となった金基洙。日本のボクシング界にも、バタフライエフェクト的に大きな影響を与えてくれたグレートでした。

さらに、このハンサムなイタリア人には映画俳優としての顔も持っていました。

ミドル級の世界王者にして、イタリアでは映画俳優…マービン・ハグラーをすぐに連想しますが、ベンベヌチは「Sundance and the Kid(荒野の大活劇)」(1969年)でジュリアーノ・ジェンマとともに主役をはるなど、銀幕にも爪痕を残しました。

私にとっては、その名を知ったときから、すでに伝説だったニノ・ベンベヌチですが、もうこの地上にいないと考えるとやはり寂しいものです。

安らかにお眠りください。




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ラテンアメリカの2人の反骨が亡くなりました。

13日にペルーのノーベル賞作家マリオ・バルガス=リョサが89歳で旅立ち、21日には、ラテンアメリカから初めてローマ教皇に選ばれたアルゼンチンのフランシスコが88歳で天国に招かれました。


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スポーツといえばサッカーというお国柄のアルゼンチン。全盛期にはリオネル・メッシに次ぐ人気を博したセルヒオ・マルチネスは、バチカンに招かれフランシスコから祝福の言葉を贈られました。


この2人に共通するのは既存の体制への反骨でした。

マリオ・バルガス、フランシスコ…ボクサーなお名前で親しみが持てました。



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ジョージ・フォアマンの20年越しの贖罪。

それは、モハメド・アリへの〝リベンジ〟だけではない。

1968年のメキシコ五輪、金メダルを獲得したリング上で星条旗を振りながら四方に頭を下げる巨人の姿と、やはりこの五輪で公民権運動という〝絶対正義〟のヒーローとなったなかりのトミー・スミスとジョン・カーロスとのコントラストは、フォアマンへの幻滅と軽蔑を強烈に引き起こしていました。

体制に従順な黒人、アンクル・トム。

叛逆は過激であればあるほど賞賛され、体制側への従順は本当はそうではなくてもそう見えただけで「疑わしきは罰す」とばかりに徹底的に叩かれる。

フォアマンはのちに「もし、あのときに戻っても同じことをした」と言い続けたが、それは頑固な強がりだ。

そして、あのメキシコのリング上での行為は良くいえば心優しい男の振る舞いであったが、悪くいえば世の中の空気に鈍感な男の場違いな行いであった。


⬆︎アルジャジーラ・イングリッシュから。アリの存在はイスラム圏ではさらに特別です。


そして、1974年のザイールでも彼は同じような迂闊で無神経な行動で、現地市民たちの反感をさらに煽ってしまった。

フォアマンは愛犬のダゴ(ジャーマン・シェパード)を連れてキンシャサの街を歩いたが、その犬種はベルギー植民地時代に苦しめられた抑圧と搾取のシンボルだった。ザイール国民がフォアマンへの反感をさらに増幅させ、たのはいうまでもなかった。

それでも、試合は残酷なショーにしかならないと地球上の誰もが確信していた。ただ1人、モハメド・アリを除いて。

第8ラウンドのあの瞬間まで、アリは滅多打ちにされていた。

それでもフルマークをつけたジャッジは1人だけ。残りの2人は1ポイントと2ポイントをアリに与えていた。

しかし、後世のメディアやファンが付けた後付け採点のほとんど全てはフォアマンのフルマーク。

まるで、そうであったに違いないとでもいうように。いや、そうであらなければならないと信仰していたかのように。



ロープ・ア・ドープ。相手に打たせるだけ打たせて疲弊させ、そして一瞬の隙を突いて乾坤一擲の拳をお見舞いする。

「そんな戦略があるはずない。考えられない。でもそれを信じてやってのけるのが、モハメド・アリだった」(マイク・タイソン)。

そして、奇跡のフィナーレ。

アリのショート連打は特に最後の右があまりにも短く、そしてフォアマンが優れた俳優のようにゆっくりとカンバスに落ちる光景があまりにも劇的だったがために、八百長だと疑う者もいたほどだった。


10年間のブランクを経て、1987年にフォアマンがカムバックした理由は「経営難に陥った教会を再建するため」だったが、自ら背負った十字架を下すためでもあった。

カムバックの成功を知らしめる最も効果的な方法は、最もカネになるマイク・タイソンを倒すことだった。しかし、メディアとファンが希求したにも関わらず、タイソンは絶対にフォアマンと戦おうとはしなかった。

自分よりもはるかに重く、速くて強いジャブを持つフォアマンは、タイソンを蹂躙した挙句に破壊したバスター・ダグラスをグレードアップして、左右の強打まで装備した、タイソンでは到底勝つことが難しい相手だとわかっていたからだ。

逃げ回るタイソンを諦めたフォアマンはタイトル一本に狙いを定める。




No surprise, then, that Moorer won eight of the first nine rounds, working behind that tough corkscrew jab.

若いチャンピオンが老いた伝説を無情に打ち砕く。それがリングの中の法則だったが、キンシャサからちょうど20年後、ジョージ・フォアマンはあまりにも過激なやりかたで、それに反抗した。

サウスポーのモーラーが繰り出すパンチが見えないのは当たり前だ。モーラーは史上初のサウスポーの世界チャンピオンだったのだから。

しかも、この無敗のサウスポーはコークスクリュー・ジャブという厄介な武器を持っていた。

強烈なコークスクリューを打たれ続けたフォアマンの顔面、頭部はコブだらけになった。

そして、奇跡のフィナーレが第10ラウンドに訪れる。

大型扇風機のような、あの大ぶりのパンチを振り回し続けたフォアマンが最後に放った一撃は、わずか数インチ(1インチは2.54㎝)の距離を閃光しただけのあまりにも短い右ストレートだった。


フォアマンは相手に打たせるだけ打たせて疲弊させ、そして一瞬の隙を突いて乾坤一擲の拳をお見舞いしたのだ。

最後の右はあまりにも短く、モーラーが背中からカンバスに叩きつけられてしまう光景があまりにも劇的だったがために、八百長を疑う者までいた。

ジョージ・フォアマンの20年越しの贖罪。

それは、モハメド・アリへの〝リベンジ〟だけではなかったが、それによってもう一つの〝罪〟も綺麗に贖われたのである。

ジョー小泉は「アリと再戦していたらフォアマンが勝っていた。タイソンはフォアマンを恐れて、対戦を拒んだ。フォアマンこそが史上最強のヘビー級王者だった」と追悼しましたが、タイソンには楽勝だったでしょうが、アリとの再戦はもっと酷い結果になったと思います。

それでも、フォアマンが歴史上最も恐れられたファイターであることは間違いありません。


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“Down goes Frazier!Down goes Frazier!!Down goes Frazier!〟 commentator Howard Cosell famously called.”



ダウン、ゴーズ、フレイジャー!ダウン、ゴーズ、フレイジャー!ダウン、ゴーズ、フレイジャー!

後年、「ダウン、ゴーズ、タイソン!」などなど二番煎じが溢れていますが、元祖はハワード・コーセルの「ダウン、ゴーズ、フレイジャー!」です。

あのタフなフレージャーが枯葉のように吹っ飛ばされた!



さて、リングから離れた伝説のヘビー級ファイターは生涯でどれほどのカネを稼いだのか?

大谷翔平に代表されるように、2020年代になってさらに急騰しているアスリートの報酬。ビッグ・ジョージが活躍した1970年代はボクシングの社会ステイタスとヘビー級トップ選手のファイトマネーは高かったとはいえ、現在とは数字だけを比較すると比較になりません。

モハメド・アリとのメガファイトで保証されたファイトマネーは500万ドル、当時の為替なら15億円と他のスポーツ選手が見上げて羨む桁違いの報酬でしたが、それでもスポーツ長者番付トップが1億ドルを超える現代と比べるとどちらが上なのかわからなくなります。

スポーツビジネス専門サイトSporticoは昨年3月に「50 Highest-Paid Athletes of All-Time(オールタイム・アスリート長者番付50傑」をご紹介。

ここでは当時と、インフレ率を調整した「今なら」の推定金額も併せてレポートしています。

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1位はナイキとの超大型契約でエンドースメントが膨れ上がったマイケル・ジョーダン。2024年時点で稼いだ金額は27億ドル、インフレ調整を加えると37億500万ドル(約5600億円)に上ります。

フロイド・メイウェザーが10位に滑り込んでいますが、次回は圏外に追放されている可能性が濃厚。ボクサーの名前がトップ10から消えてしまうのは必至。

そのボクサーは50傑の中で7人がランクイン。

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10位のメイウェザーが11億4800万ドル(インフレ調整後:14億800万ドル=約2220億円)。マイク・タイソンが18位で4億6000万ドル(同:9億500万ドル=約1350億円)、22位がマニー・パッキャオで5億6500万ドル(同:7億5000万ドル=約1125億円)。

余談ながら、フォーブス誌は「米国の50分の1以下ともいわれる物価のフィリピンに生活拠点を構えるパッキャオが史上最高の富裕アスリート」という見方も示していました。

メイ、タイソン、パックのトップ3に続くのが全体26位の…ジョージ・フォアマンで3億6000万ドル(同:7億500万ドル=1115億円)。

このうち1億3750万ドルが 昨日紹介しGeorge Foreman Lean Mean Fat-Reducing Grilling Machineの名前の永久使用料。

五輪・プロ・ビジネスで最高の成果を挙げたボクサーが、ジョージ・フォアマンです。

続いて、全体29位のオスカー・デラホーヤ。4億1000万ドル(同:6億8500万ドル=約1027億円)。アマ・プロ・プロモーターとして大きな爪痕を残し、10年ほど前には「ドジャース買収」も取り沙汰されましたが、今となってはドジャースの価値は爆上がり、ゴールデンボーイは金欠。

全体37位でカネロ・アルバレスの5億5000万ドル(同:6億4000万ドル=約960億円)。

7人目が全体40位のイベンダー・ホリフィールドで3億1500万ドル(同:6億3000万ドル=945億円)。

この手のアスリート長者番付の類では、プロボクサーが上位を席巻していましたが、サッカーとゴルフ、バスケの時代です。

ボクサーで大谷翔平並みに数えきれない有力企業がスポンサーに名乗りを挙げるなんて考えられませんし、マネーですら10位。まあ、所詮はお金の話。

それになによりも、パッキャオが永遠不滅の1位のようですし…ね。





…さあ!ビリオネラとは全く関係のない私は、少年野球の大一番に出陣じゃ!



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80年代に米国ボクシングに取り憑かれた私は、モハメド・アリを知りません。

私が夢中になったのはシュガー・レイ・レナードやマービン・ハグラー、トーマス・ハーンズ、ロベルト・デュランが躍動したウェルター級からミドル級の〝メジャーリーグ〟でした。

そしてその直下、ジュニアライト級からジュニアウェルター級にかけてヘクター・カマチョ、ラファエル・リモン、エドウィン・ロサリオ、ホセ・ルイス・ラミレス、コーネリアス・ボサ・エドワーズ、レイ・マンシーニら多士済済 の〝準メジャー〟もまた、「もしかしたら日本人にも手が届くのではないか?」という淡い期待とともにその魅力に惹き込まれていました。

リビングストン・スクランブルもまた、そんな魅惑的なチャンピオンの1人でした。

米国ボクシングの魅力は日本のリングにはない華やかさや格式、そして何よりもファイターたちの際立つ個性です。かれらのキャラクターは〝怪人性〟と呼んでも差し支えない鮮烈なものでした。

リビングストン・スクランブル…名前からして只者ではない感を放散しています。そして国籍はセントクリストファー・ネービス、住まいはバージン諸島…聞いたこともな国名も10代半ばのバカな高校生の想像をどこまでも膨らませてくれました。

試合前の記者会見で、対戦相手に見立てたブードゥー教の人形で呪いをかけるパフォーマンスを披露、そしてリング入場では大蛇を体に巻いて入場するのですから、もはや怪人そのものでした。


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スクランブルは1984年6月1日にWBAライト級王者レイ・マンシーニに挑戦、人気者を14ラウンドでTKOに屠り大番狂せを起こします。

この試合は当初、マンシーニは2階級制覇を狙ってWBA/IBFジュニアウエルター級王者アーロン・プライアーとのメガファイトに挑む予定でしたが、プライアーが網膜剥離からWBAタイトルを剥奪され、一旦白紙に。

マンシーニとは翌年2月16日に再戦、15ラウンドで返り討ち。この試合はBoxRecのパンチスタッツが初めて導入された記念すべき一戦となりました。

WBC王者ヘクター・カマチョとの決戦が期待される中、ブランブルは3度目の防衛戦で4−1で明白に有利と見られていたエドウィン・ロサリオの強打に2ラウンドで沈められてしまいます。

当時のロサリオはまだ23歳だったとはいえ、カマチョを苦しめるなどその実力は折り紙付きでした。リビングストン・スクランブルは、そのロサリオを大きく上回る評価を集めていたのです。

バディ・マクガート、コンスタンチン・チュー、オバ・カー、ロジャー・メイウェザー、ラファエル・ルエラス、チャールズ・マレー、フレディ・ペンデルトン…ブランブルは80年代を代表するファイターたちと次々に拳を交えました。

もちろん、それこそが彼もまた80年代を代表するファイターであったことのアリバイそのものです。

3月22日土曜日(日本時間24日)、大好きなリビングストン・ブランブルが神様に呼ばれました。まだ64歳。

死因は不明ですが、64歳という若さから病気か事故だったのでしょうか?

いや、怪人の死因を人間の私が詮索するなんて意味がないことかもしれません。

さようなら、リビングストン・スクランブル。





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飛び抜けたパンチャーの顎は脆いガラスで出来ている。

一体、誰がそんなことを言ったんだ?

そいつがジョージ・フォアマンを見たことがあるならそんな台詞は思い浮かぶわけがないし、ジョージ・フォアマンを見たことがない、知らなかったと考えるには、ビッグジョージはあまりにも有名すぎる。



ヘビー級王者は一度タイトルを手放すと2度と取り戻すことは出来ない。

そんな思い込みの常識を打ち砕いて3度も王者に就いたのは、あの憎きモハメド・アリだった。アリは1971年にジョー・フレイジャーとの世紀の対決でタイトルを失い、3年後の1974年に取り戻した。78年にレオン・スピンクスに奪われると、その年のうちに11歳年下のレオンにリベンジした。

ビッグ・ジョージの返り咲きはアリよりも一つ少ない2度だ。1974年にキンシャサでタイトルを失い、ちょうど20年後の1994年にラスベガスのMGMグランドガーデン・アリーナで奪還した。こんな文字通りの離れ業は、アリにだって出来やしない。





ーーー1968年メキシコ五輪で金メダルを獲得した偉業抜きにして、ビッグ・ジョージの人生を語ることは出来ない。

国を代表して4年に一度の世界チャンピオンになることが、腐り切ったプロボクシングのアルファベットタイトルを集めるよりも遥かに価値があるというありきたりの理由だけではない。

金メダル・ファイトに勝利したフォアマンが星条旗を持ってリングの隅々でお辞儀をしていた光景を多くの人が記憶しているはずだ。

日本人の目には「謙虚な黒人ボクサー」と映ったかもしれないが、1968年がどういう時代だったのか、そしてあのメキシコ五輪でフォアマンが金メダルを獲る10日前に何が起きていたのかを知れば、星条旗を振って四方にアピールする黒人が大きな十字架を背負ってしまったことを理解できるだろう。

10日前、トミー・スミスとジョン・カーロスが金・銅を獲った男子200メートルの表彰式。2人は表彰台で拳を高く挙げるブラック・パワー・サリュートの姿勢で人種差別に抗議した。

五輪憲章に違反する政治的パフォーマンスに、2人は代表チームから除名され、選手村からも追放されてしまう。

権力側から見れば〝重大犯罪〟でも、当時燃え盛っていた公民権運動の中ではあの2人は英雄。フォアマンは黒人社会からも白人に追従する裏切り者とみなされた。




6年後のザイール・キンシャサでアリが熱狂的に支持されたのは、両者に刻印されたステレオタイプのイメージから当然の結果だった。

金メダルをかけて、誇らしい気持ちで胸をいっぱいにしながら地元テキサス州ヒューストンのライオンズアベニューを闊歩していると、知人男性が駆け寄って来るなり「ブラザー(スミスとカーロス)が俺たちのために権力に抗議したというのに、お前はどうしてあんなマネをしたんだ!」と侮蔑の目を向けながら吐き捨てた。

それでもフォアマンは後悔していない。

オリンピック村に入ったとき、私と同じ肌の選手が何人もいた。話しかけても英語が通じない。自分たちを識別するのは国旗だけだとわかった。だから国旗を用意していたんだ。

常識で考えてくれたらわかるはずだ。私が人種差別を肯定しているわけがない。

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もしフォアマンがいなければ〝モハメド・アリ〟も存在していなかった。

もしフォアマンが恐るべき強打者でなければ、キンシャサでの出来事は50年後も語り継がれる奇跡だと熱狂されることはなかった。

そして、20年もの時空を超えてフォアマンが世界チャンピオンになっていなければ…それでも1970年代のヘビー級は史上最強と謳われていただろうが、それに異を唱える者もいたはずだ。



引退後のフォアマンは圧倒的なネームバリューを生かして、起業家としても大成功を収めた。1994年に発売された「George Foreman Lean Mean Fat-Reducing Grilling Machine」は、世界中で1億台以上も売り上げたのだ。

きっとあなたの家の台所にもあるはずだ。


さようなら、ビッグジョージ。


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ジョージ・フォアマンが天国に旅立ちました。76歳。

1949年1月10日生まれ。アメリカンフットボールからボクシングへ転向、メキシコ五輪1968で金メダルを獲得。翌年プロデビューすると、1973年世界ヘビー級統一王者ジョー・フレージャーを大番狂せのKOでタイトル奪取、世界中を驚かせました。



「象をも倒す」と形容されたパンチで、いまなお史上最強のヘビー級の1人に数えられています。あのときのフォアマンに勝てるファイターがいるとしたら、過去も現在も未来も、モハメド・アリただ1人だけでしょう。

1974年に「ジャングルの決闘」「キンシャサの奇跡」「ロープ・ア・ドープ」…やはり誰もが知っているフレーズで語られる正真正銘のメガファイトに敗れてタイトルを失うと、1977年にジミー・ヤングにいいところなく判定負けして、引退。

10年のブランクを経てカムバックしたときは、笑いものでした。

リング誌は「ヘビー級のレベルが地に堕ちている今の時代なら、10年のブランク明けで38歳になったフォアマンでも通用する可能性がある」とレポートしていましたが、誰も本気にしませんでした。

しかし、現実は「通用する」などというレベルではありませんでした。

「マイク・タイソンを倒すことは出来た。レノックス・ルイスを下がらせることも出来た。しかし、フォアマンはびくともしなかった。全盛期はどれほど強かったことか。そしてアリは何だったのか」(イベンダー・ホリフィールド)。

タイトルを失ってから20年後の1994年、WBC /IBF王者マイケル・モーラーを10ラウンドKOで沈めたとき、45歳9ヶ月。

史上最強のPuncher であり、敬虔なPreacherは、スポーツで絶対視されている「後世の方が優れている」という進化論を根底から打ち砕きました。


さて、ビッグマックでも食いながら、フォアマンが見せたスペクタクルな名勝負を見直しましょうか…。


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