カテゴリ: さよならは別れの言葉じゃなくて。

史上最悪のドーピングスキャンダルを巻き起こした〝ドーピング・グル〟ビクター・コンテが膵臓がんのため、75歳で亡くなりました。



このブログでも度々取り上げてきましたが、好意的に書いた記憶は一つもありません。

UNTOLD: Hall of Shame | Steroid Scandal Exclusive Clip | Netflix 

2023年にNetflixが制作したドキュメンタリーではかなり好意的に描かれていますが、スポーツ界にとっては彼が存在しなかった方が良かったに決まっています。

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マリオン。ジョーンズやバリー・ボンズというトップ中のトップアスリートを巻き込んだ一台スキャンダル。

そして、司法取引で懲役を短縮、社会復帰したコンテにセカンドチャンスが許される米国の懐の広さ、というか徹底した商業主義、成果主義。

〝李下に冠を正さず〟なんて格言を無視して、シャバに戻ったコンテに駆け寄ったノニト・ドネアら現役ボクサーたち。

スポーツ史上、最悪の犯罪者の1人でした。


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マンチェスターの正午(日本時間は夜8時)、英雄リッキー・ハットンを悼む全長18マイル(約29キロ)にも及ぶ葬列は、スカイブルーの棺を主役にハットン行きつけのチェシャーチーズ・パブをスタート。

ヘアヒルタバーンを通って、サルフォードのニュー・インで〝一泊〟置いて英雄の功績が讃えられ真っ白い鳩がマンチェスターの空に放たれました。

そのあと、ハットンジム、ハイドタウン・ホールを通ってハットンが48試合中14試合を戦ったAOアリーナ(マンチェスター・アリーナ)に到着。

英雄はこの場所からラスベガス、MGMグランドガーデンアリーナに乗り込み、フロイド・メイウェザーとマニー・パッキャオを相手に、勇敢に戦ったのです。

ラスベガスの巨大アリーナが英国から3000人以上の大応援団が詰めかけ、ハットンのホームのように彩られたのが昨日のことのように思い出されます。

会場に入れなかった1万人以上のファンはクローズド・サーキット(大きなスクリーンで生中継)の劇場で英雄に声援を送りました。

メイウェザーとパッキャオに敗れたハットンもまた、ハットン。逃げることなく、最後までハットンらしく戦い抜きました。

葬列はマンチェスター大聖堂に入り、葬儀が執り行われました。



さらに、葬列は進みハットンとスカイブルーを共有し、互いに愛し愛されたマンチェスターシティのエティハド・スタジアムへ。

 シティとユナイテッドのダービーでもハットンを追悼していましたが、それにしてもとんでもない人気です。



あのリアーナもハットンの熱烈なファンでした。

スポーツ界、芸能界のグレートとも交友が深かったハットン。



ファイトマネーはアンソニー・ジョシュアやタイソン・フューリーのようなヘビー級には及びませんでしたが、ここまで愛されたファイターがいたでしょうか?

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アーツロ・ガッティと付き合いの深かったチャック・ジトがSNSに、アーツロ・ガッティJr.がメキシコで自殺したと投稿しました。

17歳の若さでした。

父親は2009年にブラジルのアパートで自殺しているのを発見されており、同じ悲劇が16年後にも起きてしまいました。

父ガッティは亡くなって、4年後の2013年に国際ボクシング名誉の殿堂入り…



…死んで花実が咲くものか!
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1936年8月18日、カリフォルニア州サンタモニカから始まった89年間の旅が、2015年9月16日、ユタ州の山間部サンダンスで終わりました。

ありがとう。

さよなら。


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ジュニアウエルター級で最高のファイターは?

多くの人は「アーロン・プライアー」と答えるかもしれませんが、この問いには正解が二つあります。

もう一つの正解がリッキー・ハットン」です。

英国ボクシングファンが本能的に愛するのはどんなに強い相手でも怯まず立ち向かう無骨なファイター、そして彼らが親しむストーン単位の階級で活躍するファイター、さらに彼らと共にビールと冗談を好んでいつも大笑いしている男です。

早くからブルーカラー・ヒーローと熱狂されたハットンは、狡猾なフェイントを使うフロイド・メイウェザーとマニー・パッキャオにも真っ正直に攻め込みました。

ジュニアウエルター級(140ポンド)、つまりちょうど10ストーンの階級を主戦場にするウォリアー、さらに試合の間はビールを飲んで、太鼓腹をさすりながら「ハットンじゃない、ファットン(デブちん)だ!」と冗談を言って仲間たちと笑い合う、リングとパブの英雄。

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ラスベガスを根城とするメイウェザーとパッキャオに挑んだ2試合、MGMグランドガーデンには大西洋を渡って「我らがヒーロー」の応援しようと熱狂的なサポーター3000人以上が駆けつけました。

ハットンのテーマソングを高らかに歌うサポーターたちの、なんと誇らしげだったことか。

井上尚弥の〝なんちゃってT-モバイル・アリーナ〟に際して、ボブ・アラムは「日本にはハットンのように熱狂的な井上ファンがいる」と期待するポーズを見せましたが、ハットン以外にハットンのように愛されたボクサーは、どこの国にもいないことを一番よく知っているのは、この北半球最悪の男(つまり地球最悪の男)です。

日本のボクシングファンは、強引な突貫を「ファットン相撲」と揶揄していましたが、その不器用なスタイルこそが英国サポーターたちを熱狂させる強烈な媚薬でした。

圧倒的不利と見られたコンスタン・チューとの決戦、PFPファイターをブルーカラー戦法で攻め落とし、マンチェスター・アリーナを沸騰させた嵐のような歓喜。

リッキー・ハットンがいる英国リングが、たまらなく羨ましく思えました。




それにしても、46歳って…まだまだ飲み足りないだろうに。

最後まで冗談言うなんて、やめてくれ。









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1986年7月12日。

39年前のリングは、今とは大きく様相が違っていました。

3年前に創設されたIBFは人気階級のスター選手を取り込んで存在感を増していたとはいえ、3団体時代はまだ夜明け前。

ストロー級とスーパーミドル級はまだセットされていない、全15階級。

そして〝上位タイトル〟など無く、〝地域タイトル〟も、東洋太平洋(OPBF)や欧州(EBU)など文字通り地域を代表するものに限定されていました。

そう、そう、マイク・タイソンが巧みなマーケティングで、自分よりも軽くて弱い相手を次々と粉砕していた時期でもあります。

世界はWBAとWBCの2団体に分裂していましたが、現在のようなデタラメ・ランキングではなく両者のランキングはほとんどオーバーラップしていました。

とはいえ、対立王者をランキングから外すのがデフォルトになって、デタラメの道に大きく舵を切った、そんな時代の〝ある日〟が1986年7月12日でした。

WBAジュニアヘビー級タイトルマッチ15回戦。

そう、世界タイトルマッチも当時はまだ15ラウンド制。このクラスは当時、WBAがジュニアヘビー、WBCがクルーザー級と呼び、リミットも現在の200ポンド(90.72kg)ではなく190ポンド(86.18kg)でした。

チャンピオンは33歳のドワイト・ムハマド・カウイ。挑戦者は10歳若い23歳のイベンダー・ホリフィールド

170㎝もない低身長でライトヘビー級からクルーザー級で、そしてヘビー級までクルーズした異形の怪人カウイ

強盗罪で懲役刑を科せられたカウイは監獄でボクシングを覚え、Bサイドのキャリアを疾走したカウイは、2004年にFirst Ballotでの殿堂入り。



カウイを自分が犯した過ちを猛省して正しい道を歩み、引退後はボクシングを教えるだけでなく、過去の自分のように人生を踏み外しそうな危うい人々を助け続けました。

史上最高のライトヘビー級戦と言われるマイケル・スピンクス戦で主審をつとめたラリー・ハザード(のちのニュージャージー州ボクシング・コミッショナー)は、カウイを「人生をやり直したパーフェクト・サンプル」と表現しています。

「ニュージャージーのアルコールとドラッグのリハビリ施設The Light House で、患者たちに自分のために酒と薬物をやめなさいとカウンセリングしていた。彼の言葉を聞けばそれがカウンセリングではないことに、すぐ気づくだろう。彼は愛を説いていたのだ」。

He was a perfect example of someone who makes their mind up that they’re gonna walk the straight path. 




このブログでも度々登場する、ドワイト・ムハマド・カウイ。

体重制のボクシングを語るときに欠かせない、170㎝に満たない体躯で重量級を暴れ回ったノコギリ怪人のお話をするときが来てしまいました。



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プロレスほど正体不明の競技は存在しません。

スポーツではない、だからといってエンターテイメントと呼ぶには深すぎる。

そう、プロレスはスポーツではありません。

それなのに、彼はスポーツ・イラストレイテッド誌の表紙を飾りました。

もちろん、スポーツマンとしてではありません。

プロレスラーとして、です。

それにしても、ここまでド派手であからさまなのに正体不明って、不思議でなりません。

しかし、その謎の答えはハルク・ホーガンが実在する人間だからです。

…いや?本当に実在してたのかな?

私はこのニュースもまだ半分は、信じていません。

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「さようなら」ではなく「ありがとう」で送られる男。

惜別ではなく、感謝の言葉を送られる男。

時代に恵まれたんじゃない。

時代が長嶋茂雄に恵まれたのだ。
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山崎照朝が亡くなりました。

最初にその人を知ったのは「力石徹のモデル」ということ。

矢吹丈やホセ・メンドーサのモデルについても、あれこれ言われていましたから、力石徹のモデルの「1人」くらいの認識でした。

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しかし、実際に写真を見たときの衝撃は、いまでも忘れません。

さらに、後楽園ホールでそのお姿を拝見したときにいたっては…。

漫画やアニメ、二次元、ちばてつやがペンと墨汁で描いた架空の人物が、ありえないことに、間違いなくすぐそこで動いていたのです。

1969年に直接打撃制ルールによる公式試合「第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会」で初代チャンピオンになります。


力石徹の生き写し。

生きる伝説が、その実力と名声を要領よく使えば…つまり、自分流の空手道場、格闘技道場をオープンする、力石徹のアイコンを看板に使う…。きっと、大儲けできたでしょう。

しかし、彼はそんなことには一切、手を出しませんでした。

絶対の競技者に見える山崎が、格闘技の記者になったことも意外でした。

伝説の人、というのは、えてして世間離れした、融通の効かない(誰もそこを求めませんが)ところがありがちですが、山崎照朝にはそんな雰囲気が全く感じられませんでした。

スポーツ新聞社で、新人社員にも「山崎です」と自分から先に挨拶したといわれています。

めっぽう強いのに、柔和で腰が低い。

女子プロレスのコーチにも気さくに応じる懐の広さと、旺盛な好奇心。


キックボクシング全盛の時代。再三の誘いを断り、プロになることを拒んだその精神の根底には「スポーツ」ではなく「道」の血が流れていたのかもしれません。

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フレデリック・フォーサイスが9日、86歳で亡くなりました。

「ジャッカルの日」「オデッサファイル」「戦争の犬たち」…角川書店から数多く出版されていたフォーサイスの作品と出会ったのは高校図書館。

角川書店の学校図書館用は文庫なのにハードカバーだったのを今もよく覚えています。

フォーサイスは陰謀が渦巻く複雑な国際関係を描き出してくれましたが、現実の世界といえば、力任せの味も素気もない単細胞が暴れています。

多くの作品が映画化もされ、高校時代にリバイバルで「フォーサイス特集」なんてオールナイトも観ました。遠い思い出です。


さよなら、フレデリック・フォーサイス。

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