カテゴリ: がんばれニッポン!

Q:今はボクシングの黄金時代らしいですが、何を基準に言ってるのですか?

A:それは世界王者の数です。白井義男が初めて世界王者になり、陥落してから8年間も世界王者不在という屈辱的な時代もありました。



Q:8年間!今では考えられません。つい最近、たった一つの階級だけで4人も日本人王者がいたこともありました。昔の人が聞いたらびっくりしますよね!

A:そうですね。昔のバンタム級はエデル・ジョフレという謎のブラジル人が強いと言われていましたが、何度防衛したか?というと、8回だけ。ジョフレはフェザー級のタイトルも獲りましたが、たかが2階級制覇なのに当時のファンやメディアは大騒ぎでした。



Q:バンタム級タイトルを8回防衛って、亀田興毅と同じですね。そうか、ジョフレって興毅と同じレベルなんですね。

A:いや、それは興毅を馬鹿にしすぎです。ジョフレは2階級制覇しかできなかったって言ったじゃないですか!

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Q:確かに!興毅は3階級制覇でした!ジョフレとは次元が違いますね。

A:昔はとにかくレベルが低かったから、仕方がありません。大谷翔平と井上尚弥のようなレベルの高い現代に生まれた私たちは幸せです。



Q:井上尚弥なんて、権威のあるリング誌のPFP1位になったこともありましたよね?こんなのサッカーでいうバロンドールに匹敵、野球なんて米国内でやってるだけで大谷のMVPなんて全くステージが下ですね。

A:その通り。井上尚弥のようなボクサーと同時代に生きられるなんて、何度も言いますが、私たちは本当に幸せです。世界的にはむしろ井上尚弥の方が大谷より騒がれているのに「なんで(母国の)日本での評価が今ひとつなのか」という松本人志の嘆きもよくわかります。


ーーー【僕らは何を見ているのか?】1971年と1992年。そして…2025年が暮れてゆく。



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Game seven


大勝負を表現する言葉は数えきれないほどあります。

ボクシングならThe を頭に付けて Fight や Showdown、Super Fight、ClassicにOnce For ALL…などは日本でももよく知られた〝大勝負〟です。

そしてMLBやNBA、NHLのポストシーズンでよく聞くのが、Game seven。

7戦4勝獲りのシリーズで、最高潮のクライマックスは、当たり前ながら3勝3敗で迎える第7戦、Game seven です。

阪神タイガースには遠すぎた Game seven 。そして、これから火蓋が切られるトロントとロサンゼルスのGame seven。

ボクシングでは1勝1敗のタイで迎える決着の第3戦、ラバーマッチがそれに近いかもしれませんが、短期間で一気の最終決着、勝った方が優勝というドラマは団体競技のGame seven でしか味わえません。

シュガー・レイ・レナードとトーマス・ハーンズの「The Showdown」を、海外メディアはebb and flow と描写し、ジョー小泉はそのまま受けて「寄せては返す波のよう」と、史上最高試合を表現しましたが、そんなドラマが9日間、7試合で堪能できるのです。

プレイヤーにとっての達成感、恍惚は個人競技の方が優りますが、団体競技にはGame sevenに代表される最後の総力戦がファンをそうしようもなく惹きつけます。

そして、トロントがあれほど熱狂的な都市だったとは知りませんでした。

BEAT LA に燃えるトロント、いいです、素晴らしいです。



これで、今年の野球はおしまい。

大谷翔平が中三日で先発。もうすぐプレーボール、しっかり楽しませてもらいましょう。
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2.アルゲロマニア

5度目の防衛戦でペレスと戦わなかったら、どれぐらい防衛したのかなとたまに夢想してしまいます。

当時で4度防衛ってすごい記録のような気がします、しかもノンタイトル挟みながら…。  

5度目の相手がフライ級オールタイムの中でも屈指の王者になったわけですから、運が良ければ白井もまだまだ防衛したのかなぁと妄想してしまいます。

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後楽園球場や大阪球場、当たり前に巨大スタジアムの特設リングに上がっていた白井の人気がどれほどだったのか…現代では想像だに出来ません。


オリジナル8の時代、デタラメランキングがタイトルマッチのベースになっている現代とは全く違う「世界ランカーに弱いやつはいない」という常識が、まだ常識のままだった時代。

ご考察の通り、当時の4度防衛の価値は現代とは比較出来ません。

10年ディケイドで PFPから漏れた白井ですが、ディケイドでなければ、年間 PFPなら10傑に数えられていたのは疑いようがありません。

地球上に8人しかいない世界王者の1人だっのですから。

そもそも、 PFPのような妄想ランキングが横行するようになっては、そのスポーツはおしまいです。


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1.a

ファイティング原田がここまでの評価を与えられたのは彼の現役生活が60年代にまとまってたからでしょう。

➡︎その通りです。ロイ・ジョーンズJr.や井上尚弥のように二つのディケイドにまたがって活躍したファイターにとって、この西暦くくりの評価は不利になります。

原田のレガシーは60年代に圧縮されていました。



undisputedの2階級制覇(当時10人ちょっと)、ジョフレを2度破りこれが評価対象になっているかは分かりませんが、事実上の3階級制覇まで成し遂げましたからね。サルディバルもキャリアのほぼを60年代で過ごしたのでそれよりも評価が高いのは不思議ではありますが…メキシコ人の括りなら歴代でもトップ5に入るような選手なんですけどね。流石に60年代のオリバレスよりは上だとは思います。

➡︎ Fighter of the yearではブレが少ないのに対して、PFPはブレやすい評価の典型です。

原田がサルディバルやオリバレスよりも上というのは考えにくいとはいえ、アリではなくジョフレを1位に選んだ時点で、原田は無視できない存在になってしまいました。



語るべきかはわかりませんが、日本人ボクサーと綴る以上村田は避けて通れないのではと思います。後はガッツ?

➡︎アマチュア実績はカウントせず、プロの世界評価だけに絞ると村田も、ガッツも対象外です。

「日本人にとっての難易度」を評価要素に取り入れると、急浮上してきますが。

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ここで着丼。ちょっと贅沢させてくれ。
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同時代の評価と、後世の評価、

前者が熱狂の渦に巻き込まれた過大評価で持ち上げられ、時間を置いて冷静に見つめることの出来る後者では評価が下落するというのが世の常、デフォルトです。

これは「誰に勝ったのか?」が問われるプロボクシングの世界で特に顕著になります。

しかし…森羅万象には必ず例外があります。

この例外の中でも、特殊極まる例外が、ファイティング原田です。


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今年8月5日に発行・発売された「昭和100年シリーズ ボクシング 1926〜2025」から。「日本歴代最強は誰か。これは原田か井上に尽きるだろう」…辰吉丈一郎、長谷川穂積、西岡利晃についても「原田に並んだか」と報道されてきましたが…井上もそんな泡沫の一つになってしまうのでしょうか?それとも…?


日本歴代最強は誰か?

井上尚弥を礼賛する日本の専門メディアですら、答えを保留させざるを得ないのがファイティング原田というファイターの実績なのです。

「長年のボクシングファン」と自称するような多くの日本のボクシングファンがPFPランキングを作成すると…1位:井上尚弥、2位:中谷潤人、3位以下は具志堅用高や長谷川穂積、西岡利晃、井岡一翔らが占めるのではないでしょうか?


それなのに…母国日本では〝過去の遺物〟扱いの原田が、なぜ圧倒的な世界評価に浴しているのでしょうか?

60年以上も前の古臭いファイティング原田ごときが、日本以外の世界から特別すぎるリスペクトを集めているのは何故なのか?

彼は一体何をやってのけたというのでしょうか?



▶︎世界史上初のフライ級とバンタム級の2階級制覇。いずれもUndisputed title。

複数の団体が存在しない時代でしたから、基本的に「団体統一戦」などという言葉も存在していませんでした。

この意味で「テレンス・クロフォードは〝史上初の4団体統一の3階級制覇〟」という表現は正確ではありません。「(WBOが主要団体に数えられるようになった1990年代後半から)約30年の歴史で初めて」としなければ誤解を招くことになります。

しかも、団体統一戦が容易になったのはこの10年。「この10年史で初めて」というのが、最も正確な表現でしょう。

また、複数階級制覇の価値も4団体17階級でデタラメランキングが横行している現代と、1団体8階級時代では全く違います。

マニー・パッキャオがミゲール・コットをストップして7階級制覇に成功したとき、米国メディアやジョー小泉は「(1団体8階級時代に3階級制覇した)ヘンリー・アームストロングに並んだ」と表現しましたが、いまそんな戯言を口にする人は1人もいません。

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▶︎当時、定期的に発表されるPFPランキングなど存在しませんでしたが、21世紀になってリング誌がまとめた1960年代PFPで、エデル・ジョフレがモハメド・アリを抑えて1位。

ジョフレを2度撃破した原田が5位。

ちょっと信じられませんが、ルーベン・オリバレスやビセンテ・サルディバルよりも上!なんです!

さて、残念ながら井上尚弥は現代ですらTOP評価は得ていません。2020年区切りで見ても、井上がオレクサンデル・ウシクとテレンス・クロフォード、カネロ・アルバレスの実績に届かないのは、井上信者でも認めるしかありません。

現時点で、まだ半分近くを残す2020年代での4位。中谷との大勝負に勝って、それを上回る大勝利を重ねなければディケイドで5位以内は非常に苦しいと思われます。

井上が後世、2020年代のPFPで5位以内の評価を受けているかどうか…現時点では悲観的になるしかありません。



▶︎海外の専門メディアでも注目された「日本ボクシングがバンタム級の4つのタイトルを独占」。

彼らが日本を語るとき、必ず名前を出すのが「ファイティング原田」です。

日本のミュージックシーンが語られるときに「上を向いて歩こう」がいまだに粘着してくるように。

ボクシングファンは「なぜ長谷川や西岡、辰吉、具志堅ではないんだ?」と訝しがるかもしれません。

どうしてなのでしょうか?

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様々な意味で「ファイティング原田」は現代に問題を投げかけてくれています。

フライ級からフェザー級への3階級で世界のトップで戦った原田の時代、身長160㎝の原田はけして貧相なフレームではありませんでした。

プロ野球を見ても王貞治から大谷翔平へと、体格は見違えるほど向上しています。

それなのに、プロボクサーは戦後の栄養失調状態のまま。

かつて、欧米の人気階級、つまり中重量級で活躍できる才能を優遇する募集をかけていたジムが複数ありましたが、現在は大っぴらに展開しているジムはほとんどありません。

「PFPはすごい、ラスベガスもすごい。それが軽量級の西岡でも実現できるのに、世界で人気があるのは中重量級とわざわざ宣伝するのはいかがなものか?」と同業の超大手から嫌悪感を抱かれることもあったと聞いています。

日本人の平均体格は当時から飛躍的に向上しているというのに、いまだに「フェザー級が重い」ままなのは、単純にボクシングがマイナースポーツへと転落して、体格や良い少年がプロボクサーを目指さなくなったーーーそれだけが原因なのでしょうか?

日本が好き勝手できて、低コストでタイトルホルダーになりやすい軽量級に傾倒するばかりで、欧米の人気階級、本物のラスベガスへの真剣な挑戦が疎かになっているのではないでしょうか?

こういうことを、私がある超大手ジムの関係者にぽろっと言ったとします(架空の話ですよ…)。

そしたら、そのバカが激昂するんです。

「日本人がレベルの高い人気階級で井上尚弥や中谷潤人みたいに活躍できるわけがない、そこで惨敗する日本人を見せたらボクシング人気が冷めてしまうじゃないか!それが、本当に日本ボクシングの発展につながるのか?!」と。

渡辺ジムの会長も「(タイトルがいくつもあって個々の価値が下がっても、これだけ王者がいたら)全部合わせせると、原田さんのファイトマネーや注目度も超えるでしょ。世界王者が1人もいないよりも、何人もいる方が私たちには良いのです」と公言しています。

均さんが悪いわけではありません。

ここまでボクシングが衰退してしまうと、原田の時代のような多くのスポーツファンが日本タイトルマッチに興味を持つことはありません。

「世界王者を育てないとジムは赤字。才能のあるボクサーを(借金してでも)育てて、王者にしてから投資を回収する。欧米の人気階級には何度も挑戦できないし、そんなことしてたらジムが潰れてしまう。だから軽量級で何度も王者を目指す」のは当然かもしれません。

微妙なポジションのワタナベジムは、内山高志が井上にも井岡にも不可能な「ガチのビッグネーム」に挑戦させることができませんでした。

「内山にはWBAが用意した(安全牌な)相手に防衛戦を重ねてほしい。その先で大きなテレビ局やスポンサーがつけば名前のある本物の強豪と米国でやりたい」ーーーそんな均さんの本音の中で、内山のモチベーションは減退し、雑魚挑戦者に足元をすくわれてしまいます。



〝ファイティング原田〟は「後世に語り継がれるような超強豪に勝つことの意味」を教えてくれています。

さらに、当時の標準体型で戦った原田の姿から、ボクシングファンは「栄養失調状態ではない時代に即した体型の日本人の活躍を見たい」と渇望するべきなのです。

井上尚弥を馬鹿みたいに絶賛するのではなく、122ポンド(ジュニアフェザー級)でプロテストを受けた彼を108ポンド(ジュニアフライ級)という〝纒足〟に無理やり嵌め込んだ日本のボクシング界に「NO」を突きつけるのが本当のボクシングファンです。




さて…このあとは具志堅用高、そして〝令和の怪物〟井上尚弥へ。

もし、具志堅と井上と同じように語るべきだと思われるファイターがいたら、教えてくださいませ。


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1952年、白井義男の世界タイトル挑戦のために、日本ボクシング・コミッション(JBC)が設立されました。

当時は1団体8階級で、米国でもボクシングがまだメジャースポーツだった時代。

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1954年2月18日締めのWORLD CHAMPION。「Yoshio」なのに「Yoshiro」になっているのはご愛嬌。

日本では大相撲と野球、ボクシングがメジャースポーツでしたが、世界につながる舞台を持つのはボクシングだけという時代。

野球と大相撲と比べても、ボクシングのステイタスは抜きん出ていました。

ボクシングが世界的にもメジャースポーツだったのが、1950年代です。

世界王者は地球上に8人しか存在しないのですから、世界中のボクシングファンの多くが普通に白井義男の名前を知っていたと思われます。

当時、最も人気があったのはもちろん、ヘビー級のロッキー・マルシアノ。

そして、マニアの間で評価が高かったのがシュガー・レイ・ロビンソン。彼を指す PFPの概念が広がりつつありましたが、 PFPランキングのようなものはまず見当たりません。

リング誌が1980年から年間PFPであるBest Fighter Pollを選出したのが、定期的なPFPランキングの始まりです(リング誌の経営難から2017年で廃止)。

1990年からは年間表彰のBest Fighter Pollとは別に、月刊でもPFPを発表。もちろん、最も栄誉あるFighter Of The Yearも存在していますから、読者は混乱してしまいました。

ボクシングの堕落とシンクロするように、リング誌も醜聞まみれの中で信用を失墜してしまいます。

それでも、的確な批判と興味深い記事もありました。だから、高校時代の私は薄っぺらの没落雑誌を溺愛していたのです。

話が脇道に逸れそうなので。。。元に戻して。


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後年、リング誌がリリースした1950年代10年間のの PFPで、白井は〝落選〟。

米国ボクシングは黄金時代、⬆︎こんなメンツではどうしようもありません…そして、こんなメンツでもパスカル・ペレスは5位と高評価。

白井をカウントすると10傑のうち2人がフライ級になってしまう…そんなバランスも考慮されたのかもしれません…。

それでも、白井と矢尾板貞雄の名前がしっかり刻まれています。

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白井義男を讃える展示会ーーー素晴らしかったです。ただ、こんなレベルでいいのでしょうか?本当にボクシングの歴史と伝統と、この競技の純粋性を識っているなら…。


白井義男がペレスにタイトルを奪われてから8年!日本は世界王者不在の長い長い厳冬のトンネルに突入します。

しかし、NHKやすべての東京キー局がボクシング中継番組を持ち、毎日ゴールデンタイムで中継されていた時代。

軽量級で世界タイトルに挑戦するだけでも莫大なコストを要した時代。

世界に挑む日本人ファイターが現代の大谷翔平を除く日本人メジャーリーガーを凌駕する注目と尊敬が集められていたであろうことは容易に想像できます。

現代を〝黄金時代〟と呼ぶのは、ファンでも正確には把握しきれないほど多くの世界王者を抱えている「数」が理由です。

日本チャンピオンが多くのスポーツファンに認知され、世界タイトルマッチがサッカーW杯の大勝負に挑む日本代表に勝るとも劣らない熱視線が注がれていた時代。


ーーーーさて、あなたは、どちらが黄金時代だと思いますか…? 



そんな本物の黄金時代に、暗くて冷たい厳冬を終わらせ、日本列島に春をもたらしたファイターが白井を超える国民的英雄になるのは、まさしく自然の摂理でした。


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グッシー・ナザロフ…いやさ、オルズベック・ナザロフが人気階級でどれほど強いファイターだったのかは、ここでは別の話。

このキルギスの拳の嵐に曝されながらも、OPBFライト級王者の大友巌は12ラウンド36分間を、一度も倒れることなく立ち続けました。


大友は1984年7月6日にプロデビュー。2戦目で敗北を喫してしまいますが、持ち前のタフネスと強打で、そこから1引き分けを挟んで9連勝(8KO)をマーク。

そして1987年1月22日、シャイアン山本を9ラウンドでストップして奪った日本ライト級タイトルは9連続防衛。1989年6月19日には朴奉春をKOしてOPBFライト級王者に。

しかし、大友は日本から東洋へと単純にステップアップしたわけではありませんでした。

OPBF王座を獲得する4ヶ月前、2月13日に日本王座を追われているのです。

9度の防衛戦のうち7度をKOで片付けている大友を王座から引き摺り下ろしたのは五代登

圧倒的不利と見られた五代は強打の大友と真っ向から撃ち合い、2−1で10ラウンド判定勝ちを手繰り寄せました。

五代はフェザー級、ジュニアライト級に続く、史上初の日本タイトル3階級制覇を達成。

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勝利を告げられて拳を突き上げる五代。トーア・ファイティングボクシングジムの原田政彦会長も両手を挙げて拍手。


…「五代登が日本タイトル3階級制覇」。その表現は正確ではないのかもしれません。

まず、タイトルを獲ったのはフェザー級が田中敏之、ジュニアライト級が田中健友、そしてライト級を獲ったのが五代登でした。


人が名前を変える理由は、必ず生まれ変わると強く意識したからです。

その意味で、この男は3度生まれ変わったことになります。

本名の田中敏之で1977年にヨネクラジムからプロデビュー。1982年、抜群のボクシングセンスで桑原邦吉と争った日本フェザー級王者決定戦を勝ち抜きました。

しかし翌年、天才肌にありがちな放蕩な生活もあって来馬英二郎に敗れて初防衛戦に失敗。

米倉健司会長の「健」と、後援会からのサポートを意味する「友」をもらって田中健友として再出発。

空位の日本ジュニアライト級王者決定戦を藤本将吉に勝利、二つ目のタイトルを手にしました。

しかし、彼はまたしても周囲の期待を裏切ってしまいます。

2度目の防衛戦でウルフ佐藤にKO負け、タイトルを手放してしまったのはしかたがないにせよ、1987年1月20日、覚醒剤取締法違反で逮捕されるのです。

日本ボクシングコミッションは6か月間の出場停止処分を決定。執行猶予が付いたとはいえ、私生活の乱れからたびたびブランクを作ってきた田中のボクシング人生は今度こそ終わったと思われました。

それでも、トーア・ファイティングボクシングジムへ移籍、五代登としてリング復帰。

3度目の心機一転で、彼は名前だけではなく、スタイリッシュなボクシングまで捨てました。

打撃戦を上等とするファイターに変身した男は、3階級目で初めて決定戦ではない、9連続防衛中の強打のチャンピオンに挑み勝利を掴み獲ったのでした。





ーーーそして。田中健友の時代に〝天才対決〟で五代登が敗れたのが、古口哲。

物語はまだまだ続きます。

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1992年5月11日、私は後楽園ホールのリングサイド席にいました。

メインイベントは東洋太平洋ライト級タイトルマッチ。

王者の大友巌はこれが6度目の防衛戦。5度連続防衛しているとはいえ、その内容は2勝3分。2つの勝利は一つがKOでしたが、もう一つはスプリットデジション。

けして安定した政権とは言えませんでしたが、6度目の防衛戦が絶望的な目で見られてたのは全く別の理由からでした。

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大友の前に立ち塞がった挑戦者が、グッシー・ナザロフだったからです。

試合後、ジムの大川寛会長が「3回までという(大友との)約束だったが、これが最後と思ってラストまでやらせた」と公言したように、大友は王者にもかかわらず、陣営までが序盤で粉砕されると覚悟したリングでした。

当時、大友の戦績は22勝19KO4敗5分。まだ28歳の若さでしたが、典型的な激闘型ファイターで肉体的ダメージの蓄積が深かっただけでなく、ライト級という世界戦を組むのが非常に難しいクラスであったこともモチベーションをキープするのに苦労したはずです。

当時はすでに4団体時代でしたが、JBCが認めていたのはWBAとWBCの2団体のみ。

ライト級タイトル挑戦には、今以上にカネもコネも莫大なコストがかかる時代でした。

当時、すでに「ボクシング人気は落ちた」と嘆かれていました。1970年代までの「世界王者>>>プロ野球のトップ選手」という絶対の不等式はもはや絶対ではなくなり「6回戦でも食うだけなら食っていける」なんて時代からファイトマネーの保証は据え置かれたまま…世界王者になっても読売ジャイアンツのレギュラー選手よりもはるかに無名…。

それでも、全体市場は沈下一方でも、辰吉丈一郎や畑山隆則、亀田興毅、長谷川穂積、西岡利晃、井岡一翔、井上尚弥と間歇的にヒーローが生まれてきました。

また、ボクシングファンに支持される世界とは無縁でも大友巌のような後楽園ホールのヒーローたちは水道橋にマニアックな熱気をもたらしてくれました。

そして…。後楽園ホールのヒーローたちはいつの間にか絶滅してしまいます。

後楽園ホールを熱くした拳を、大友巌から縦横無尽に辿っていきます。


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11月24日、トヨタアリーナ東京。

中谷潤人のleftovers(残飯)の一つ、空位となったWBCバンタム級のストラップを争うのが井上拓真と那須川天心。

井上と井岡と亀田、父と子の物語を紡いで来たのは彼らだけではありません。

キックボクシングからボクシングへ。

日本ではMMAが根付いていないこともあり、プロ格闘技の中でもボクシングの地位は抜きん出ています。つまり、天心はボクシング転向からここまで、頑迷な〝長年のボクシングファン〟の多くから懐疑的な視線で見られ続けてきたということです。

もちろん、天心が勝ってきた世界ランカーは認定団体のデタラメランキングから産み落とされた雑魚、ジェイソン・モロニーも元〝穴〟王者に過ぎません。

ただ、それは井上尚弥も含めたほぼ全ての現代ファイターの共通項。今回、天心が戦う拓真の相手も質が低い相手が目立ちます。

フロイド・メイウェザーとの茶番劇まで含めて、天心と弘幸の2人が最も挑戦的な Patrilinealität でしょう。

那須川親子にとって、この試合が大きな節目となるのは間違いありません。

そして、この試合を熱望した、実績的には格上の拓真と尚弥もまた絶対に負けられない戦いになります。

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日本での戦前予想は拮抗していますが、英国skybetなど海外のオッズは天心の勝利が1/6(1.67倍)、拓真4/1(5倍)と、明白に元キックボクサーを支持しています。

完全劣化版41歳バージョンのリボリオ・ソリスのスローモーション・ボクシングに手こずった拓真が、天心のスピードと機動力についていけるとは考えられません。

天心から見ても、ここまで非力な相手はキャリア初、怖さはゼロでしょう。

天心27歳、拓真29歳。年齢的には大きな隔たりはありませんが、キャリア7戦の天心は発展途上、20勝2敗の拓真は戦績こそ悪くないものの、完全に底を晒しています。

オッズの通り、天心に完敗すると、「井上尚弥の弟」という重い十字架に押しつぶされるかもしれません。…引退でしょう。

一方の天心はそこまで追い込まれてはいません。

その心理面が吉と出るのか、凶と出るのか?


個人的には、天心の終盤ストップ勝ちを予想します。






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1. 山田 2025年09月27日 12:53

ワタシの記憶が確かなら、ドネア対モンティエルの時に
「勝った方俺とヤレ!」
と、言っていたような…


▶︎▶︎▶︎亀田興毅ならそう聞かれたら、そう答えていたでしょうし、聞かれてないわけないから、そう言ったでしょうが、私は逆に記憶がありません。

ただ「ドネアvsモンティエル」(2011年2月19日)が行われたラスベガスのマンダレイベイ・イベンツセンターのリングサイドに亀田興毅の姿はありませんでした。

そして、当時の報道を振り返ってもWBA(セカンド)王者の興毅との対戦を期待するメディアは確認できず、多くの人が実力的にはもちろん、興毅本人が対戦に積極的であるはずがないと決めつけていました。

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興毅の3階級制覇はボクシング・ビート、ボクシング・マガジン、いずれの専門誌でも表紙を飾ることなく、小さな扱い。それどころか、記事の内容は非常に批判的でした。


ちなみに、日本のボクシングファンの間でも大きな話題となったこの試合、戦前は日本では「互角」と見られていましたが、米国では「ドネアのKO勝ち。問題はいつ倒すか」。

日本のファンの心情には「The Real 長谷川穂積からタイトルを強奪したモンティエルが強いに決まっている」という応援の気持ちが強かったのです。

2人はかつてのスパーリングパートナーでしたが、その内容はドネアがパワーで圧倒していたと伝えられ、この試合でも「2ラウンドKO」を予告する余裕ぶりだったことを報道する日本メディアはほとんどなかったはずです。

そして、日本では注目の試合でしたが、米国では誰も興味を持たない「外国人の軽量級対決」。WOWOWなどのメディアはモンティエルを「人気者」と表現していましたが、メキシカンとはいえモンティエルは全く人気がありません。

この試合でもドネアの生贄役で、メキシコ人は「弱いメキシカンが屠られるのを見たくない」という気持ち。

さらには、そもそもの注目度が低く、上階席は封鎖。当日のリングサイド席は100ドル台まで投げ売りされました。HBOの放送枠も二線級扱い。

日本の3000人レベルのアリーナでやれば、間違いなくフルハウスになってリングサイドが5万円でも完売したはずです。

そして、ボブ・アラムは「ドネアは不良債権」と名指しで非難、両者の関係は冷え切り、ゴールデンボーイ・プロモーションズへの移籍騒動に発展するのでした。

それでも、この試合はPFPファイター同士の対決。

勝利したドネアのランクを3位に引き上げたリング誌は「モンティエルごときに勝っただけで3位はない。同じ2ラウンドKOでも、ポール・ウィリアムスをもっと衝撃的に轟沈させたセルヒオ・マルチネスの方が上」とマニアや他のメディアから非難されるとドネアの評価を下げました。

コーナーに戻った長谷川穂積を「強い、過去最強や」と驚かせたモンティエルでしたが、ドネアからは予告KOが宣言できるほど「フェイントにすぐ引っかかるし、なによりもスピードがない」相手でした。

そんなモンティエルでも3階級制覇できるのが、4-Belt Eraという時代です。

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ちなみにーーー。

話はさかのぼって「亀田興毅vsアレクサンデル・ムニョス」のWBAセカンド王者決定戦(2010年12月26日)が行われた、さいたまスーパーアリーナ。

リングサイドにはドネアが座っていました。

目の前で見た興毅のボクシングについては関心を示さなかったドネアでしたが、大会場の熱気には「いつかぜひ、ここでやってみたい。私の試合でもこんなに盛り上がってくれるだろうか?」と感動していました。

その夢は、8年後と11年後、2度も実現するのですが、それはまた別の話…。

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