カテゴリ: 英国ボクシングニューズ誌

一発大逆転のスペクタクル。

え!まさか!信じられない!これは奇跡だ!…そんな驚きと、次の瞬間にはそれが必然だったと感じてしまう、不思議な恍惚。ボクシングのリングの上だけに現出される超常現象です。



今世紀に入って25年、このスパンで最も決定的な一撃を持つパンチャーはデオンティ・ワイルダーでしょう。

自分よりも遥かに重い、つまり打たれ強いタイソン・フューリーからも豪快にダウンを奪っているワイルダーは、ヘビー級以外の減量階級のパンチャーとは同列に考えるべきではありません。

そんな元WBCヘビー級王者のブロンズボマーは2019年11月23日、ルイス・オルティスとの再戦で圧倒的ビハインドを〝一発精算〟してみせました。

第6ラウンドまでのスコアは55-59が2人、56-58が1人と明らかなリードを許していました。

そして、第7ラウンドも残り10秒を切ったとき、ワイルダーの右ストレート一閃、この一撃でオルティスをノックアウト、10連続防衛を果たしました。

5年以上も経ったとはいえ、あの試合を鮮明に覚えているファンも多いはずです。

しかし「え!まさか!信じられない!これは奇跡だ!」という驚きで、あの結末を迎えた人は少数派かもしれません。

ほとんどの人は「ワイルダーの逆転の一撃がいつ火を噴くのか?」と期待を膨らませていたはずです。

多くの人がワクワクしながら予見していたという意味で、あの結末は「まさか」でも「奇跡」でもありませんでした。

想定通りの一発大逆転…言葉にすると、なんとも大きな矛盾を抱え込んでいます。

ワイルダーが経験した世界戦は13試合、その全てが自分よりも大きく重い相手でした。

アマチュア時代はヘルシンキ五輪のミドル級で金メダルを獲ったフロイド・パターソンは、164ポンドでプロデビュー。軽くて小さなヘビー級でしたが、ワイルダーのような爆発的なパンチャーではありませんでした。

身長179㎝/リーチ173㎝のロッキー・マルシアノも小さなヘビー級で、強烈なパンチャーでした。いつも自分より重い相手と戦っていましたが、その体重差はワイルダーほどではありませんでした。


デオンティ・ワイルダー。PFPに選ばれてもおかしくない〝理屈〟を持ったエンターテイナーでした。




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Only in boxing can a seemingly lost cause be rescued in a split second


昨日のMLBワールドシリーズ初戦。2−2の同点で迎えた6回裏、ブルージェイズが大量9点を入れて11−2としました。

ドジャーズは残り3イニングの攻撃を残していましたが、この時点で勝負あり。

スポーツの醍醐味は大逆転ですが、それにも限度というものがあります。満塁ホームラン2本でも追いつけない9点差。

この点差では、奇跡を起こしてひっくり返すにも時間がかかります。



しかし、ボクシングにおいてはどんな劣勢でも1秒もかからずひっくり返す、とんでもない奇跡がありえます。

英国ボクシングニューズ誌のOnly in boxing can a seemingly lost cause be rescued in a split secondから。

普通に訳すと「絶対絶命の劣勢を一瞬でひっくり返せるスポーツはボクシングだけ」。ぎゅぎゅっと圧縮して訳すと「Puncher’s Chance」。



*****一方の選手が終盤までリードしながらスタミナ切れで失速して大逆転を許す…ボクシングでも見られるスポーツの逆転パターンですが、ここで取り上げるのはもっと唐突で、予兆のない、劇的な大逆転です。

え!まさか!信じられない!これは奇跡だ!…そんな驚きと、次の瞬間にはそれが必然だったと感じてしまう、不思議な恍惚。ボクシングのリングの上だけに現出される超常現象です。


Only in boxing can!


1952年9月23日、フィラデルフィア・市立スタジアムで行われたNBA世界ヘビー級タイトルマッチ15回戦。王者ジャーシー・ジョー・ウォルコットの左フックで初回にダウンを喫したロッキー・マルシアノは12ラウンドまで8ラウンドを失っていました。

第13ラウンド開始から30秒、王者がカウンターを狙って挑戦者を引き寄せますが、マルシアノの強烈な右フックがウォルコットの顎に叩きつけられて、テンカウント。


1980年3月31日、テネシー州ノックスビル・ストークリーアスレティックセンター。WBAヘビー級王者ジョン・テートは最終15ラウンド、残り60秒まで優勢に試合を組み立てていました。

2位を大きく引き離し、あとはゴールするだけ。マラソン競技なら、そんな展開でしたが…。

試合を全米生中継していたABCは判定勝ちを確信して、試合終了後に流すニュースと広告を告知していましたが、ウィーバーの電撃の左フックで王者テートがダウン!

ABCは慌ただしく衝撃の瞬間のリプレイを用意、判定勝ちで進めていた番組プログラムはKO勝ちで放送時間をオーバーするという普通はあり得ない事態に見舞われました。



Only in boxing can!


1994年11月5日、ラスベガス・MGMグランドガーデン・アリーナ。WBA /IBFヘビー級タイトルマッチ12回戦。

サウスポーで史上初のヘビー級王者となったマイケル・モーラーは第9ラウンドまで88−83*2/85−86の2−1でリード。9歳も年上、45歳のジョージ・フォアマンに出来ることは12ラウンド終了のゴングを聞き、大差判定負けのコールを受けることだけに思えましたが…。

モーラーのパンチで左目が塞がったフォアマンでしたが250ポンドの巨体は、222ポンドの王者の心身を着実に削っていたことに多くの人は気づいていません。

唐突に訪れたかに見えたその瞬間は、必然でした。45歳の右は試合を終わらせるにはあまりにも遅く、短く、軽く打ったように見えましたが、それは「象をも倒す」と恐れられたジョージ・フォアマンの拳です。

人間マイケル・モーラーを昏倒するのには十分すぎる威力を秘めていました。


それまで積み重ねてきた大量リードが一瞬でひっくり返されて試合が終わるーーーそんな不条理、狂気の沙汰がときとして起きるのがボクシングです。

そして、そんな〝必然の奇跡〟はヘビー級だけで起こされてきたスペクタクルではありません。


Only in boxing can!


1991年5月10日、アイオワ州ダベンポートはジョン・オドネル野球場。ミシシッピ川のほとりに作られた小さなボールパークで奇跡が起きます。

IBFミドル級王者マイケル・ナンは5連続防衛中、36戦全勝24KOのスーパースター候補。

10ラウンドまでは99−91/98−92/97−93と3者ともナンを支持。

第11ラウンド、王者が左アッパーを突き上げてガードが空いた一瞬にトニーの左が炸裂。背中からキャンバスに叩きつけられた王者はナンとか立ち上がるだけで精一杯。再開後のトニーの猛攻に再び崩れ落ちたところでジ・エンド。

過大評価のナンと、フレディ・ローチが「マイク・タイソンやマニー・パッキャオも比較にならない才能」と認めることになるトニー。この結果も奇跡ではなく、必然でした。


Only in boxing can!

1994年12月10日、メキシコ・モンテレー。WBAミドル級王者ホルヘ・カストロは2度目の防衛戦にジョン・デビッド・ジャクソンを迎えます。

階級最弱と見られ、王者ながらアンダードッグのカストロでしたが、タフネスだけは怪物級。

挑戦者に一方的に打たれ続けて両目を負傷、何度もぐらつくアルゼンティーナは頼みの右フックを振り回しますが、空気をかき回すことしか出来ません。

8ラウンドまで80−71/80-73/79-74と大きくリードを許していたカストロでしたが、第9ラウンドで乱雑な右フックに狙い澄ました左フックをこっそり忍ばせます。

予想できないパンチにジャクソンは痛烈にダウン。さらに2度のダウンを追加して、ミドル級史上最も不安定な王者カストロが大逆転で防衛に成功しました。

リング誌の年間最高試合にも選ばれたこの試合、カストロが「死んだふりをしていた」と見るのは早計ですが、試合をひっくり返した左フックは無尽蔵のスタミナと、岩石のような顎という必然があったからこそ。


Only in boxing can a seemingly lost cause be rescued in a split second…スペクタクルはこれからも不規則な彗星のように私たちを楽しませてくれるはずです。








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二つの拳、それもナックルパートだけしか攻撃が許されない偏狭極まりない格闘技、ボクシング。

18世紀後半に英国で着手されたルール整備は、現代の総合格闘技以上に自由だったボクシングの攻撃手段をどんどん制限する方向で進められました。

そして生まれたのが、異種格闘技戦の舞台では最弱であるボクシングです。

しかし、偏狭の追求は、究極の研磨を意味しています。

あまたの格闘技の中で、いいえ、あらゆるスポーツの中で、ボクシングが最もドラマティックであることはそれがテーマに作られた小説や音楽、映画などの数が圧倒的であることからも誰にでも理解できるでしょう。

そして、やはりドラマティックなことに、そんな映画などを易々と超える現実のリングがいくつも存在してきました。

もしかしたら、小説や映画にも出来ないからこそ、作家や脚本家は現実を越えることが出来ないことを承知で、このスポーツをフィクションで表現することに敢えて挑戦し続けているのかもしれません。


前置きが長くなりました。



英国ボクシングニューズ誌から40 years on, Lee Roy Murphy recalls his astonishing double-knockdown fight をご紹介。

ドラマに溢れたボクシングの世界でも Double-knockdown は滅多に見ることができませんが、日本時間の今日、ちょうど40周年を迎えるこの試合はROCKY II IN REAL LIFE として記憶され続けてきました。


Saturday 19, October 1985
  
Stade Louis II, Fontvieille, Monaco
commission:Federation Monegasque de Boxe 
promoter:Roberto Sabbatini

IBFクルーザー級12回戦


©︎リー・ロイ・マーフィー
vs
チサンダ・ムッティー



序盤から激しいパンチを交換した両者は最終回にダブルノックダウン。

まるで、ロッキー・バルボアとアポロ・クリードのように。そして、日本のボクシングファンなら竹原慎二と李成天の第8ラウンドも思い出すでしょう。


It wasn’t no damn Rocky II fight – it was real, man. We did that for real. 

あれは映画のロッキー2なんかじゃなかった、いいかい、あれは映画ではなく、現実に起きたことなんだ。〜マーフィー



マーフィーはマービン・キャメルからタイトルを奪い、ドワイト・ムハマド・カウイらクルーザー級の強豪たちと拳を交え、イベンダー・ホリフィールドともニアミス。

そして、多くのクルーザー級王者と同様に「いつかヘビー級で王者になる」ことが夢でした。

身長179㎝のマーフィーは、キャリア終盤で夢の無差別級に身を投じました。

そして、同じシカゴ出身で、同じヘビー級への夢を見ていたクルーザー級のアルフォンソ・ラトリフ(マイク・タイソンの噛ませ犬)とイリノイ州ヘビー級タイトルを争ってベルトを勝ち獲るのです。

「些細な足跡かもしれないが、ヘビー級で戦ったアリバイを作れたかな」と、マーフィーは笑ってみせました。


オリバー・マッコールと互角以上のスパーリングを展開、レノックス・ルイスの練習パートナーもつとめたマーフィーは、アマチュア時代に遡ると幻のモスクワ五輪代表でした。

Even today, when I go out, when I get on the bus and folks recognise me, which they do from time to time, that’s the fight they want to ask me about. 


時代が少しだけ違えば…地上波生放送されていた当時、五輪でメダルを獲っていたなら、プロキャリアは全く違った環境でのスタートとなっていたはずです。

「五輪ボイコットがなかったらもっと有名になっていたかって?それは違うと思うな。ムッティーとの試合があったから、私はこうしてあなたたちメディアの取材を受けてるんだから」。

「いまでもバスに乗ったりすると、当時を知っている人からあの試合のことを聞かれることがある。五輪に出場してても、ムッティーとの試合がなければ、今でも私のことを覚えている人がどれだけいるだろうか?」。



ムッティーは1990年に38歳の若さで亡くなり、カウイも今年7月25日に72歳でこの世を去ってしまいました。

「彼らがいないのは本当に寂しい。だけど、今でも私たちの戦いを覚えてくれている人たちがいる。それはやっぱり、素晴らしいことなんだ」。



ボクシングには語り継がれるドラマが、確かにあります。




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英国ボクシングニューズからOne bad night: How boxing turns on its fighters…「たった一度の不運な夜:ボクシングがファイターたちを弄ぶ」に思い切り私見を交えて。

https://boxingnewsonline.net/one-bad-night-how-boxing-turns-on-its-fighters/

⬆︎原文も十分に面白いのですが、もっといろんなサンプルを並べたり、無敗に意味はないことをしっかり伝えた方がお話として一貫すると思いました。

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ヘビー級にも関わらず、多くのメディアでPFPに数えられたアンソニー・ジョシュアでしたが、リング誌では21世紀になって特に濃厚になった「ヘビー級大好きだけど、PFPに入れない」という方針?からPFP10傑に入ることはありませんでした。

「英国ヘビー級のスターがニューヨーク上陸」…ジョシュアがどれほど強いのか、その顔見世興行になるはずでしたが…。


不運な一発を喰らったばかりに、その後のキャリアが暗転するーーー私たちはそんなファイターを何度目撃してきたことか…。

しかし、その残酷さもまた、ボクシングから漂う妖しい魅力の一つ。


野球やサッカーではこんなことはありえない。

痛烈なサヨナラ負けを喫したクローザーが、その試合を境に別人のように打ち込まれてしまう。一瞬の隙を突かれてまさかの敗北を経験したサッカーチームが、その後の試合で崩壊してしまう。

他のスポーツでは痛恨の敗北は何度も経験するもの。〝たった一度の夜〟は他のスポーツにはないのだ。

「アルフォンソ・サモラは過大評価だった。カルロス・サラテにKOされなくても落ちぶれていた」。もし、あなたがボクシングファンならそんなことは1ミリも思わないはずです。

アルフォンソ・サモラのカルロス・サラテ…ドナルド・カリーのロイド・ハニーガン…ロイ・ジョーンズJr.のアントニオ・ダーバー…。

それまで「史上最高」の声もあがっていたファイターがたった一晩でメディアやファンから「過大評価だった」「よく考えたら本当に強い相手に勝っていない」「あいつはもう終わった」…と手の平を返される。

みんな忘れてしまっているが、アンソニー・ジョシュアは、そんなファイターの典型だ。

「いや、私はジョシュアは過大評価だと思ってたよ」と言うなら、あなたは大嘘つきだ。ジョシュアは、〝史上最強〟とも推されているオレクサンデル・ウシクと24ラウンドにわたって互角の戦いを繰り広げたじゃないか?

ジョシュアは2019年に「何ラウンドでKOするか?」が焦点だったアンディ・ルイスJr.戦を衝撃的なKO負けで落としてしい、無敗のレコードはストップ。

ルイスとのダイレクトリマッチを完封で雪辱するも、神経質に距離を取るボクシングに徹したジョシュアは確かに何かを恐れていた…いや、何かを失っていた。

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The obsession with the “0” is something that has developed over time, becoming a valued legacy metric with the great Floyd “Money” Mayweather using his unbeaten record as a publicity statement in the lead-up to all of his biggest fights.



ボクシングは興行であり、無敗であることは一つの商品価値だ。

フロイド・メイウェザーは「0」に執着し、ジョー・カルザゲやリカルド・ロペスも無敗のままキャリアのゴールテープを切った。

無敗記録は悪いものではないが、ボクシングにおいての評価では後回しにされる項目だ。

永遠のGOAT、シュガー・レイ・ロビンソンは何敗したか?マニー・パッキャオは米国に乗り込んだとき、すでに〝傷モノ〟だったじゃないか。


先日、かつて史上最高とも言われたカネロ・アルバレスが2階級下で2つ年上のテレンス・クロフォードに完敗した。

カネロは3年前に圧倒的有利と見られたドミトリー・ビボル戦を落としてから6連勝していたが、それまでの決定力は完全に喪失していた。

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完全無欠のファイター…そう言われていましたカネロだったが…。


カネロはビボルに痛烈なKO負けを喫したわけではないが、あの試合を境にかつての輝きを失ってしまった。

それでも、カネロが2010年代後半から2020年代前半にかけて、最高のファイターであり続けた事実は揺らがない。


The crowd will always call for blood


メディアや解説者は煽動的で皮肉たっぷりに敗者を批判し、観客は常に残酷な血を求めて騒ぎ、敗者をさらに踏みつけようとする。

彼らは舌なめずりしているはずだ。

「次はクロフォードの番だ」と。

クロフォードがデビッド・ベナビデスに惨敗したら…「完全劣化版のカネロに判定勝ちしただけ」と言われるだろう。


ファイターは人生を賭けて戦っている。そこには勝者と敗者が必ず存在する。

そして、たった一つの敗北がファイターを別人にしてしまうのがボクシングだ。


こんな残酷極まるスポーツに全身全霊を捧げるファイターたちを、ほんの少しの慈しみをもって見守っていこうじゃないか?








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ジュニアウエルター級で最高のファイターは?

多くの人は「アーロン・プライアー」と答えるかもしれませんが、この問いには正解が二つあります。

もう一つの正解がリッキー・ハットン」です。

英国ボクシングファンが本能的に愛するのはどんなに強い相手でも怯まず立ち向かう無骨なファイター、そして彼らが親しむストーン単位の階級で活躍するファイター、さらに彼らと共にビールと冗談を好んでいつも大笑いしている男です。

早くからブルーカラー・ヒーローと熱狂されたハットンは、狡猾なフェイントを使うフロイド・メイウェザーとマニー・パッキャオにも真っ正直に攻め込みました。

ジュニアウエルター級(140ポンド)、つまりちょうど10ストーンの階級を主戦場にするウォリアー、さらに試合の間はビールを飲んで、太鼓腹をさすりながら「ハットンじゃない、ファットン(デブちん)だ!」と冗談を言って仲間たちと笑い合う、リングとパブの英雄。

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ラスベガスを根城とするメイウェザーとパッキャオに挑んだ2試合、MGMグランドガーデンには大西洋を渡って「我らがヒーロー」の応援しようと熱狂的なサポーター3000人以上が駆けつけました。

ハットンのテーマソングを高らかに歌うサポーターたちの、なんと誇らしげだったことか。

井上尚弥の〝なんちゃってT-モバイル・アリーナ〟に際して、ボブ・アラムは「日本にはハットンのように熱狂的な井上ファンがいる」と期待するポーズを見せましたが、ハットン以外にハットンのように愛されたボクサーは、どこの国にもいないことを一番よく知っているのは、この北半球最悪の男(つまり地球最悪の男)です。

日本のボクシングファンは、強引な突貫を「ファットン相撲」と揶揄していましたが、その不器用なスタイルこそが英国サポーターたちを熱狂させる強烈な媚薬でした。

圧倒的不利と見られたコンスタン・チューとの決戦、PFPファイターをブルーカラー戦法で攻め落とし、マンチェスター・アリーナを沸騰させた嵐のような歓喜。

リッキー・ハットンがいる英国リングが、たまらなく羨ましく思えました。




それにしても、46歳って…まだまだ飲み足りないだろうに。

最後まで冗談言うなんて、やめてくれ。









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The time a fighter with a losing record became boxing world champion

負け越しボクサーが世界チャンピオンになるとき。


英国ボクシングニューズ(BN)誌から、日本のボクシングファンなら馴染みのある名前が満載のお話です。

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ボクシングの世界は無敗よりもドラマティックなことに溢れている…。


シュガー・レイ・ロビンソンの生涯成績は174勝109KO19敗6分。モハメド・アリは56勝37KO5敗。マニー・パッキャオは62勝39KO8敗2分。

その数字からは、彼らがどれほど特別なボクサーだったのかは全く読み取ることができません。

しかし、ボクシングのレガシーは「誰に勝ったのか?」だけで決まります。

無敗のまま引退した、高い勝率と高いKO率のまま引退した…他のスポーツなら賞賛される数字を並べても、ボクシングの世界ではそれでどうした?と笑われるだけです。

また、シュガー・レイやアリ、パッキャオの戦績が色褪せて見えるのは、引退間際に負けが混んでいるというほとんど全てのボクサーに共通する事象を抱えているからでもあります。

世界チャンピオンになるとき。挑戦者たちは連勝の勢いに乗っていたり、キャリアの中で心身ともにピークにあるのが常識です。

ところが…。


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前置きが長くなりました。

フランシスコ・キロスのお話です。

元世界チャンピオンのドミニカ人が33歳でグローブを吊るしたとき、その戦績は11勝5KO13敗1分(原文では15敗)。

キャリア終盤で負けが混めば、元世界チャンピオンでもそういう数字にはなるだろうーーーいえいえ、そうではありません。

キロスは近代ボクシング150年の歴史でもたった1人だけという記録の持ち主。

負け越しボクサーが世界チャンピオンになった、という稀有なケースの主人公なのです。

キロスが母国ドミニカでキャリアをスタートさせたのは20歳のとき。

首都サントドミンゴで6連勝、世界ランク入りを狙ってコロンビアとプエルトリコを転戦するも、当時プロ4戦の経験しかなかったシュガー・ベビー・ロハスに敗れるなど壁にぶち当たります。

ロハスはのちにサントス・ラシアルを破ってWBCジュニアバンタム級タイトルを獲得、ヒルベルト・ローマンに敗れて陥落。

ジュニアバンタムのWBCストラップは渡辺二郎から奪ったローマンがラシアルにまさかのTKO負け。そのラシアルに勝利したロハスからローマンが奪冠する、日本のファンも身近に感じるタイトルでした。

キロスはドミニカに帰ってフライ級のナショナルタイトルに挑戦するも、ラモン・アントニオ・ネリに3ラウンドKO負け。

※BN誌によると「Upon his return, Quiroz challenged eventual WBA world title challenger Ramon Antonio Nery two times in the same week for the Dominican Republic flyweight title and was knocked out for the first and second time in his career.(のちにWBAタイトルに挑戦するラモン・アントニオ・ネリのドミニカ・フライ級王座に1週間で2度挑戦するも2試合ともKO負け)」とありますが、BoxRecでは1982年3月1日に行われた1試合のみしか記載がありません。

デビューから6連勝のあと、一つの無効試合を挟んで10連敗(BoxRecでは8連敗ですがBN誌や他の文献を見ると10連敗が正しいと思われます)。

連敗のトンネルを3勝1分で抜けると、サプライズとしか表現できない話がWBAからもたらされました。

WBAジュニアフライ級王者ルペ・マデラへの挑戦です。

ルペ・マデラ。渡嘉敷勝男の現役時代を知るファンで、彼の名前を忘れた人はいないでしょう。

日本ボクシングを協栄ジムが代表していた忌まわしい時代の不憫な犠牲者が、マデラでした。

不可解な判定に翻弄された渡嘉敷との4試合で、ようやくタイトルを掴んだマデラの初防衛戦に選ばれたのがキロスだったのです。

1984年5月19日、ベネズエラの〝麗しの太陽の地〟マラカイボのリングに上がったキロス。この時点での戦績は8勝10敗1分、なんと負け越しボクサーが世界タイトルマッチのリングに上がりました。



キロスは完全アンダードッグでしたが、ジュニアバンタム級で戦ってきた体格は小さなマデラを悩ませます。

ドミニカ人挑戦者は長距離の左右を槍のように突き刺して、ゲームを支配。

迎えた第9ラウンド。キロスのタイミングが合っていた左アッパーがクリーンヒット、ワンツーをフォローすると王者がついにダウン!

必死に立ちあがろうとするメキシコ人でしたが、主審はカウントを終えて立ち上がった元王者を抱きしめました。

負け越しボクサーが世界チャンピオンになった、史上初の瞬間です。

新王者のキロスは9勝10敗1分。負け越しの世界王者でもありました。

キロスは初防衛戦を2ラウンドKOでクリア、戦績はついに10勝10敗1分のイーブンに戻します。しかし、2度目の防衛戦でジョーイ・オリボに敗れてタイトルを手放してしまいます。

そして…米国史上初のジュニアフライ級王者になったオリボは、韓国のリングに引っ張り上げられ、のちの殿堂入りファイター柳明佑にタイトルを開け渡すのでした。

キロスはオリボ戦から5連敗、33歳で引退を決意します。

その2年後、ナイトクラブでマフィアの乱闘事件に巻き込まれたキロスは悲劇の死を遂げてしまいます。

まだ35歳の若さでした。


負け越しボクサーが世界タイトルマッチに…明確な規定は存在しませんが、どの団体も負け越しボクサーをタイトルマッチに組み込むことには極めて消極的で、よほど特殊な条件が揃わなければキロスのレアケースは再現不可能です。

最も近似するサンプルは、1勝1敗の五分の戦績でWBOフェザー級王者決定戦に挑みゲイリー・ラッセルJr.に勝利したワシル・ロマチェンコでしょう。特殊な条件がいくつも重なったロマでも、イーブンの成績。


フランシスコ・キロスの奇妙な大番狂せは、なんでもありのボクシング界でも再現不可能な記録です。



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Although Oleksandr Usyk could walk through most US citeies unnoticed and unheralded,in his enbattled but defiant homeland of Ukraine the world heavy weight champion is that rarity among pugilists – a boxer who matters deeply to those living beyond the sports's usually constituency of hard core fans. 

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オレクサンデル・ウシクは、彼が米国の街を歩いても何者なのか誰も気づかないほどに無名ですが、ロシアの侵略に断固抵抗している彼の母国ウクライナでは特別すぎる存在で、ボクシングファンを超えて深く重大な意味を持つ世界ヘビー級チャンピオンです。

PFPキング、いやそれどころか議論する余地のない世界ヘビー級チャンピオンでも誰もその名前を知らない米国ほどではないにせよ、ウクライナでもボクシングはメジャースポーツとは言えません(現在のウクライナが「それどころではない」という意味ではありません)。

それでも、身長191㎝、220ポンドの38歳は母国では「英雄」という言葉ですら物足りない存在です。

ボクシング黄金時代の米国で文字通りに巨人だったジャック・ジョンソン、ジョー・ルイス、モハメド・アリーーー打ちのめされ、虐げられた人々に勇気を与えたこの3人の世界ヘビー級チャンピオンのように、ウシクもまた苦難に喘ぐ母国の人々を支える大きな希望になっているのです。


Oleksandr Usyk have proved an invaluable salve for a wounded nation and its people. 

ヴィルヘルム・オレクサンドロ・ビチウクはウクライナ南部のミコライウ生まれ、まだ23歳ですが、この戦争のベテラン兵士が語ってくれました。

「私と私の家族にとって非常に辛い戦争だ。小さい頃にクリミアに引っ越した。そして2013年にこの戦争の始まった。ロシアがクリミアを侵略、占領したんだ。私たちはミコライウに逃げ帰った」。

2021年には志願して歩兵部隊に加わりました。

「父親も兄も母国を守るために戦っていたから、従軍することに迷いはなかった」。

そして。

2022年2月24日午前4時、ロシアがウクライナへの全面侵略を開始。「起きろ!ついに始まった!ロシアが攻めてくる!」。

中尉の大きな声で私たちは叩き起こされ、ヴィルヘルムたちは直ちに戦闘配備に付きました。

「戦闘の最前線で見たのは、悲惨なんてものじゃなかった。町が破壊された、殲滅されたってニュースはいうけど、体をバラバラにされた男性の死体や、乱暴されて大怪我を負い死んだような目で空を見つめる女性や子供たちのことは語られることはない」。

ヴィルヘルムは、マリウポリの女性や子供を安全な場所まで退避させる撤退作戦に参加、ロシア軍の榴散弾の破片が当たり重傷を負ってしまいました。

野戦病院には負傷したウクライナ兵が続々と運び込まれました。ウィルヘルムは背中に負った大きな傷が塞がらない状態で「私の傷はまだ浅い」と、戦線復帰を願い出ます。

彼が次に合流したのは最前線の突破作戦。ヴィルヘルムのようなまだ傷の癒えない負傷兵がより過酷な戦闘に送り込まれるーーそれほどウクライナ軍は追い詰められていたのです。

最前線から数メートルも進むと機銃掃射の嵐に晒され、前方にはロシアの戦車部隊が待ち構えていました。



Ukrainian soldiers! Hands up! Surrender!

塹壕まで撤退した私たちは、銃撃が止んだのを不思議な思いでいましたが、すぐにスピーカーから大音量で流れるロシア兵の声が鼓膜をつんざきました。

「お前たちは完全に包囲されている!」「ウクライナ兵ども!両手をあげて出てこい!降伏しろ!」。

指揮官は「ここで全滅するわけにはいかない」と、私たちを説得して降伏を選びました。

ヴィルヘルムに大きなトラウマを残す、1年に及ぶ捕虜生活が始まります。

「ロシア人が捕虜を国際法に則って扱うことはない。捕虜の指を折ったり、牢屋に獰猛な犬を放ったり、電気ショックを与えて笑い転げていた。エイズや梅毒などに感染させた囚人と同じ房に閉じ込められることもある」。

ヴィルヘルムは「抵抗するな」という指揮官の命令に従って、言いなりになっていました。

彼が腕に印したウクライナ国旗のタトゥーに唾をかけられてもおとなしくしていましたが、それを抉り取られそうになるとナイフを奪って叫びました。

「これを抉り取るなら、まず私の心臓を抉り取れ!」。

ヴィルヘルムは警棒でめったうちにされましたが、腕の国旗は守り抜きました。

1年後、ようやく釈放されたとき、彼の体重は75kgから47kgまで削り取られて別人のように痩せさらばえていました。

すぐに戦線復帰を申し出ましたが、長期のリハビリが必要で、運動能力にも障害が残るヴィルヘルムは心理学者となって、彼と同じように肉体と精神に重大な傷を負った兵士をカウンセリングし、支援する仕事につきました。

さらに、リナト・アフメトフが資金提供している、マリウポリ防衛軍とその家族を支援するプロジェクト「The Heart of Azovstal (アゾフスタル魂)」(※)の大使にも就任。

自分たちがどれほどれほど強大で無慈悲な相手と戦っているのかを思い知らされたウクライナの傷ついた人々にとって、自分よりもはるかに強大な敵と勇敢に戦い勝利するウシクは希望そのものです。



From the frontline to ringsaide

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   ◾️写真の右端がウィルヘルム


昨年12月、彼らに思いがけないプレゼントが贈られました。

The Heart of Azovstal projectのサポートによって、サウジアラビア・リヤドで行われた世界ヘビー級タイトルマッチを観戦したのです。

王者はもちろんオレクサンデル・ウシク。挑戦者は55ポンド(24.9kg)も重いタイソン・フューリー。

「スポーツ観戦といえばサッカー、これ以上ない喧騒の中で自分のチームを大声で応援するんだ。でも、リヤドのキングダムアリーナは静まり返って、厳かな空気は試合が始まってからも変わらなかった。とんでもない経験をしていることが理解できた」。

「そんな厳粛なアリーナでウクライナ国歌を聞いたんだ。涙が出ると思ったけど、そうじゃなかった。ウシクがこれから命懸けの戦いに向かうというのに、私たちが泣くわけにはいかなかった。リングサイドからウシクの姿がよく見えたけど、現実以上に距離が近い気がした。ウシクと一緒に私たちも戦っている気持ちになったんだ」。


While many in the West have urged Usyk to retire, arguing he has nothing left to prove in the boxing ring.



英国や米国では「もうリングの上で証明することは何一つなくなった」と、ウシクに引退を勧める声があります。

フロイド・メイウェザーやマニー・パッキャオにはかけられなかった優しい言葉に聞こえますが、彼らの本音は「英国のスター選手や米国のホープにとってウシクは強すぎる。全く人気がなく商業的な価値が低いウシクが引退したら、大きなタイトルを巡って人気選手が争うことができる」ということ。

ヴィルヘルムは「ウシクには戦い続けて欲しい。小さな彼が巨大な敵に立ち向かう姿はウクライナの誇りそのものだから」と現役続行を願っています。



▶︎▶︎▶︎(※)かつて西側諸国でも「ネオナチ」と表現されるほど悪名高かったアゾフ旅団、アゾフ大隊ですが、現在は軍規を改正しています。とはいえ、ここにホワイトウォッシュ的な目的がないとは思えません。

アゾフ旅団の前身がFCメタリスト・ハリキウのウルトラス(狂信的サポーター)で、ソ連時代からスパルタクス・モスクワと友好関係にあったというのも不思議な気がします。

日本が騒乱、戦争に巻き込まれて狂信的な

ESPNの投票結果を見るまでもなく、ウシクはほぼ満場一致のPFP1位ですが、ウクライナ以外の国、専門家以外のファンの間で、ウシクが最も正確(正当?)に評価されているのは間違いなく日本です。

それはとても誇らしいことだと思います。

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クリミア併合に抵抗するビタリクリチコ。「催涙弾なんてレノックス・ルイスのパンチと比べたらたいしたことはない」。

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アゾフの話につながりますが、ゼレンスキー大統領やウシクは〝そっち側〟。キーウ市長のビタリ・クリチコはそうではないんです。


NHKの「世界のドキュメンタリー キーウ市長クリチコ 戦うボクシング元世界王者」を見た方もいるでしょう。
本当なら、国家存亡の危機、メンツはもちろん、当面の主義主張は後回しでビタリに歩み寄ってタッグを組むべきなんですが、ゼレンスキーは明らかに距離を置いています。








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よく見聞きする「日本のボクシング界は黄金時代」。

常時、10人前後の世界王者を擁するという数字上では黄金時代です長いが、その世界王者の名前をどれくらいの人が知っているでしょうか?

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1954年11月26日、白井義男がフライ級史上最強の一人と評価されるパスカル・ペレスに敗れてタイトルを失ってから1962年10月10日にファイティング原田が取り戻すまで、なんと8年間も世界王者が存在しない時代が続きました。

数字上は日本ボクシング史上最低、最悪の冬の時代ですが、民放各局がボクシング番組を毎日放送、日本タイトル戦はもちろん、新人王戦までが中継、日本チャンピオンの名前はカジュアルなスポーツファンでも当たり前に知っていたに違いない、そんな時代です。

もちろん「カジュアルなスポーツファン」なんていっても、当時は相撲と野球、競馬くらいしか観戦スポーツのない時代。しかも、ボクシング以外のスポーツはドメスティックに国内に閉じこもり、世界で戦う日本人を応援できるのはボクシングだけ、という今では考えられない特殊な環境でした。

野球やサッカーでホンモノの世界を見せられてしまった現代に、摩訶不思議なシステムで複数の王者が乱立、世界戦のほとんどがなぜか日本で開催されるボクシングは怪しいスポーツになりました。

当時、スポーツの中で、ボクシングは格上だったのです。

そして、日本からはるか離れた英国でもフランク・ウォーレンやエディ・ハーンが「黄金時代」と騒いでいます。

米国ボクシングの黄金時代、1950年代から60年代のような盛況を、英国ヘビー級は迎えている、というのです。

アンソニー・ジョシュアはBBCのドキュメンタリーを見ても英国のスポーツセレブなのはひしひしと伝わってきます。

米国ではそのポジションのボクサーは、長らく出現していません。

さて、現在の日本の〝黄金時代〟はどうなのか?

地上波から離れて、ユニバーサル・アクセス(国民的関心のあるスポーツは無料地上波で簡単に見ることができるべき)という視点では国民的関心事とはファンですら考えていません。

また、ファイトマネーについても以前にも増してブラックボックス化、怪しい空気を発散させています。

日本の〝黄金時代〟を追いかけてみましょう。







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先日、紹介した英国ボクシングニューズ誌の「RIVALS The biggest threats in Inoue's future(好敵手 井上の前に立ち塞がるライバルたち)」。

ここで取り上げられた5人を元記事に、私の目線もブレンドしてみます。

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◾️ムロジョン・アフマダリエフ:ジュニアフェザー級で井上尚弥がトラブルに見舞われるとしたら、アフマダリエフ以外に考えられない。

「五輪メダリストのエリートアマ」でプロでも実質無敗。

タパレス戦は1人のジャッジがスコアした「118−110でMJ」はおかしいと思うが、判定が読み上げられた瞬間にMJが首を振って笑い、タパレスが号泣して崩れる、その光景のままの大きな議論を呼ぶ判定だった。

とはいえ、中盤にはアフマダリエフ(陣営)は採点は怪しいと倒しにかかるべきだった。そして、最終回を見るまでもなく、もっと早い段階で攻撃を加速していたらKOできたはず。もし再戦なら、やはりMJが圧倒的有利の予想とオッズが立つはず。

そんなことをいっても、もう後の祭り。負けに不思議の負けはなし、です。

それでも、井上のキャリアの中では文句なしで最高評価のファイター。



◾️中谷潤人:井上戦が実現すると、日本ボクシング史上最大の興行になるかもしれない。そして、両者にとって、キャリア最強の相手になるのも疑いようがない。

ここ数試合、完全格下の相手を選んでいる井上は強引なボクシングが目立つようになっている。一方で、バンタム級のトップ選手を自然に沈め続けている中谷は明らかに進化の途中。

自らのフレームを活かして、変幻自在に空間を操り、左右の強打を振るう。

ノニト・ドネアを恐れずに攻めきったライオンハートを持つアレハンドロ・サンチアゴに「自分のパンチが当たらない距離で痛めつけられ、削りまくられた状況で接近戦に持ち込まれる。最後は立とうと思ったら立てたかもしれないが、どうしようもなかった」と言わしめ、心をヘシ折った一戦が中谷のベストファイトだろう。

両者のキャリア曲線が交錯する前に戦うなら井上有利だが…。もしかしたら、すでに逆転の交錯カーブは完了してしまっているか?



◾️ニック・ボール:フェザー級進出で井上が一択ターゲットにした、いつ誰に負けても不思議では無い最弱王者。

井上よりも8㎝も低い身長157㎝のリバープール生まれ・リバプール育ちのニックには、目立った武器は見当たらない。

劣化バージョンのレイ・バルガス相手に2度のダウンを奪いながら、粘られた末にドロー。ダウンがなければ、あのレイバルに完敗という、井上レベルから見下ろすと穴王者を通り越した雑魚王者。

それでも、勇敢に前進し力の限りパンチをまとめるタフなリバプール・ファイターには、井上も手を焼くかもしれない。



◾️ラファエル・エスピノサ:フェザー級で最も厄介な長身メキシカン。ロベイシ・ラミレスを大番狂せで下すと、再戦ではより明白な形で返り討ち。

エル・トレインを2度も脱線させた身長185㎝/リーチ188㎝の126パウンダーが、現時点のフェザー級シーンで最強王者であることは明らか。

世界基準の相手と対戦してこなかったことから過小評価されてきた30歳のメキシカンが、戦績通りの火力を持っていることも証明された。

ラミレスとの初戦、第5ラウンドで喫した痛烈なダウンがゴング終了間際でなければ、あそこで仕留められていた可能性大だが、その後のリカバリーは見事。

それでも、とはいえ異形の長躯を生かしきれていない戦いぶりを見れば、モンスターは笑いを噛み殺しているかもしれない。



◾️アンジェロ・レオ:4年前にスティーブン・フルトンに敗れてジュニアフェザー級のストラップを手放して「122ポンドを作るのは限界を超えている」とフェザー級転向を表明したレオが再びタイトルを掴むことは無いと考えられていた。

この4年の中で2年5ヶ月もリングから離れていたレオは2023年11月から積極的に試合をこなし、昨年8月に完全ホームのニューメキシコ州アルバカーキでセットされたフェザー級タイトル挑戦へ漕ぎ着ける。

しかし、その舞台で彼の役割は生贄。

相手は当時、階級最強と目されていたIBF王者ルイス・アルベルト・ロペス。敵地でもお構いなしにビッグネームを撃破してきたスラッガーだったが、レオがまさかまさかのカウントアウトでKO勝ち。

「あの2年5ヶ月でチームを再編成し、自分のボクシングをじっくり作り直した」という通り、フルトン戦とは見違える快活な動きを見せての大番狂せ。

しかし…。あの夜のロペスは心身ともに完全にレオをナメ切っていた。そんなロペスにKOまでは1−2のスコアで採点上は劣勢。あの番狂せは、レオの再生が2割、ロペスの油断が8割で引き起こされたフロックと見るのが自然かもしれない。

5月24日に亀田和毅との初防衛戦が内定しているレオ。引っ張り上げられるのは、完全アウエーの大阪のリング。

日本のボクシングファン的には和毅が不可解な判定で勝利、大ブーイングを浴びながら「次は井上チャンピオン、タイトルかけてやりましょう!」とIBFベルトを掲げるのが一番面白い展開だが…。






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【左】英国ボクシングニューズ(BN)誌024年8月29日号。あまりにも唐突な「こんにちは」。中身の記事との関連性もありませんでした。「日本=漫画」ということで、吹き出しにセリフを入れてみようと考えたのか?それなら「俺は怪物君だ♬」の方が…。

【右】1月23日号。おもいきり日本語で「モンスターに迫る脅威 誰が井上尚弥を攻略できるのか」。その言葉の通りに、記事は「RIVALS The biggest threats in Inoue's future(好敵手 井上の前に立ち塞がるライバルたち)。

わずか5ヶ月でここまで来たか!さすが、創刊1909年の世界最古のスポーツ専門誌!




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