グッシー・ナザロフ…いやさ、オルズベック・ナザロフが人気階級でどれほど強いファイターだったのかは、ここでは別の話。
このキルギスの拳の嵐に曝されながらも、OPBFライト級王者の大友巌は12ラウンド36分間を、一度も倒れることなく立ち続けました。
大友は1984年7月6日にプロデビュー。2戦目で敗北を喫してしまいますが、持ち前のタフネスと強打で、そこから1引き分けを挟んで9連勝(8KO)をマーク。
そして1987年1月22日、シャイアン山本を9ラウンドでストップして奪った日本ライト級タイトルは9連続防衛。1989年6月19日には朴奉春をKOしてOPBFライト級王者に。
しかし、大友は日本から東洋へと単純にステップアップしたわけではありませんでした。
OPBF王座を獲得する4ヶ月前、2月13日に日本王座を追われているのです。
9度の防衛戦のうち7度をKOで片付けている大友を王座から引き摺り下ろしたのは五代登。
圧倒的不利と見られた五代は強打の大友と真っ向から撃ち合い、2−1で10ラウンド判定勝ちを手繰り寄せました。
五代はフェザー級、ジュニアライト級に続く、史上初の日本タイトル3階級制覇を達成。

勝利を告げられて拳を突き上げる五代。トーア・ファイティングボクシングジムの原田政彦会長も両手を挙げて拍手。
…「五代登が日本タイトル3階級制覇」。その表現は正確ではないのかもしれません。
まず、タイトルを獲ったのはフェザー級が田中敏之、ジュニアライト級が田中健友、そしてライト級を獲ったのが五代登でした。
人が名前を変える理由は、必ず生まれ変わると強く意識したからです。
その意味で、この男は3度生まれ変わったことになります。
本名の田中敏之で1977年にヨネクラジムからプロデビュー。1982年、抜群のボクシングセンスで桑原邦吉と争った日本フェザー級王者決定戦を勝ち抜きました。
しかし翌年、天才肌にありがちな放蕩な生活もあって来馬英二郎に敗れて初防衛戦に失敗。
米倉健司会長の「健」と、後援会からのサポートを意味する「友」をもらって田中健友として再出発。
空位の日本ジュニアライト級王者決定戦を藤本将吉に勝利、二つ目のタイトルを手にしました。
しかし、彼はまたしても周囲の期待を裏切ってしまいます。
2度目の防衛戦でウルフ佐藤にKO負け、タイトルを手放してしまったのはしかたがないにせよ、1987年1月20日、覚醒剤取締法違反で逮捕されるのです。
日本ボクシングコミッションは6か月間の出場停止処分を決定。執行猶予が付いたとはいえ、私生活の乱れからたびたびブランクを作ってきた田中のボクシング人生は今度こそ終わったと思われました。
それでも、トーア・ファイティングボクシングジムへ移籍、五代登としてリング復帰。
3度目の心機一転で、彼は名前だけではなく、スタイリッシュなボクシングまで捨てました。
打撃戦を上等とするファイターに変身した男は、3階級目で初めて決定戦ではない、9連続防衛中の強打のチャンピオンに挑み勝利を掴み獲ったのでした。
ーーーそして。田中健友の時代に〝天才対決〟で五代登が敗れたのが、古口哲。
物語はまだまだ続きます。
このキルギスの拳の嵐に曝されながらも、OPBFライト級王者の大友巌は12ラウンド36分間を、一度も倒れることなく立ち続けました。
大友は1984年7月6日にプロデビュー。2戦目で敗北を喫してしまいますが、持ち前のタフネスと強打で、そこから1引き分けを挟んで9連勝(8KO)をマーク。
そして1987年1月22日、シャイアン山本を9ラウンドでストップして奪った日本ライト級タイトルは9連続防衛。1989年6月19日には朴奉春をKOしてOPBFライト級王者に。
しかし、大友は日本から東洋へと単純にステップアップしたわけではありませんでした。
OPBF王座を獲得する4ヶ月前、2月13日に日本王座を追われているのです。
9度の防衛戦のうち7度をKOで片付けている大友を王座から引き摺り下ろしたのは五代登。
圧倒的不利と見られた五代は強打の大友と真っ向から撃ち合い、2−1で10ラウンド判定勝ちを手繰り寄せました。
五代はフェザー級、ジュニアライト級に続く、史上初の日本タイトル3階級制覇を達成。

勝利を告げられて拳を突き上げる五代。トーア・ファイティングボクシングジムの原田政彦会長も両手を挙げて拍手。
…「五代登が日本タイトル3階級制覇」。その表現は正確ではないのかもしれません。
まず、タイトルを獲ったのはフェザー級が田中敏之、ジュニアライト級が田中健友、そしてライト級を獲ったのが五代登でした。
人が名前を変える理由は、必ず生まれ変わると強く意識したからです。
その意味で、この男は3度生まれ変わったことになります。
本名の田中敏之で1977年にヨネクラジムからプロデビュー。1982年、抜群のボクシングセンスで桑原邦吉と争った日本フェザー級王者決定戦を勝ち抜きました。
しかし翌年、天才肌にありがちな放蕩な生活もあって来馬英二郎に敗れて初防衛戦に失敗。
米倉健司会長の「健」と、後援会からのサポートを意味する「友」をもらって田中健友として再出発。
空位の日本ジュニアライト級王者決定戦を藤本将吉に勝利、二つ目のタイトルを手にしました。
しかし、彼はまたしても周囲の期待を裏切ってしまいます。
2度目の防衛戦でウルフ佐藤にKO負け、タイトルを手放してしまったのはしかたがないにせよ、1987年1月20日、覚醒剤取締法違反で逮捕されるのです。
日本ボクシングコミッションは6か月間の出場停止処分を決定。執行猶予が付いたとはいえ、私生活の乱れからたびたびブランクを作ってきた田中のボクシング人生は今度こそ終わったと思われました。
それでも、トーア・ファイティングボクシングジムへ移籍、五代登としてリング復帰。
3度目の心機一転で、彼は名前だけではなく、スタイリッシュなボクシングまで捨てました。
打撃戦を上等とするファイターに変身した男は、3階級目で初めて決定戦ではない、9連続防衛中の強打のチャンピオンに挑み勝利を掴み獲ったのでした。
ーーーそして。田中健友の時代に〝天才対決〟で五代登が敗れたのが、古口哲。
物語はまだまだ続きます。















