フシ穴の眼 〜スポーツ疾風怒濤編〜

      Hope Lights Our Way / 希望の道を、つなごう。

カテゴリ: Styles Make Fights

LIFE IS CRAZY 2021

2020年に続いて、今年もまた、世界中の人々にとって困難な時代が続いています。

普通の生活に戻れると思うと、すぐに急ブレーキをかけなければならない日常の中、ブルックリンを拠点とする39歳の拳闘家が4月23日にリングに戻ってきます。
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ヘザー・ハーディーもまた、新しい日常の中でリングに向かうことを余儀なくされているのです。

ワクチン接種に副作用で試合を中止しなければならなかったが、モハメド・アリも汗を流したブルックリンにある伝説のジム、グリーソンズ・ジムで4月6日から練習を再開しています。

ルウ・ディベラは〝The Heat〟ハーディの復帰戦を5月下旬に計画していますが、米国屈指の人気ボクサーは「具体的には何も聞いていない。火曜日に練習再開できたばかりなのに!?今年も波乱の一年になりそう」。

ハーディーは2019年9月13日にアマンダ・セラノに敗れて世界フェザー級タイトルを失い、ドーピング検査で禁止薬物(利尿作用があるフルミセド)が検出。

ニューヨーク州アスレティック・コミッションからライセンス停止6ヶ月と罰金1万ドルを科せられてしまい、復帰に向けての準備を進めていたところに新型コロナの問題に直面しました。

「生理痛の薬に含まれていた」と釈明していますが、服用している薬品・サプリメントの事前申請はしていなかったというからお粗末です。

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https://fushiananome.blog.jp/archives/14948488.html

ハーディは、高校生の娘がいるシングルマザー。

「格闘家に失業保険はない。戦わなければお金が入ってこないし、副作用がひどくていつ救急病室に担ぎ込まれるか心配だった。それでも今はアレルギー症状が出る程度で早くリングに戻りたい」。

試合は前倒しされ、4月23日に決定しました。



日本のセルフプロデュースの能力は、日本のボクサーも含めた女子格闘技選手の教科書の一つになると思います。
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臣秀吉がまだ木下藤吉郎だった頃、都の南で接触相撲という怪しげな催事がはびこっていた。

相手の体に何回接触するかを競う接触相撲は、誰の目にも退屈で、強さとは全く無関係に思えた。

ところが、接触相撲で無敗を誇った風呂井戸関は巧みな言動で人々を煽り立て、接触相撲こそが最強という錯覚を引き起こす妖術使いだった。

朝廷や大相撲の識者は「言語道断の戯事。接触相撲など、童の遊び鬼ごっこと同じ」と非難したが、風呂井戸のまやかしに踊らされた八百八町の人々は酔狂するばかり。

浴びせられる非難轟々を、風呂井戸は笑い飛ばした。

「偉大になるために戦ってるんじゃない。銭のためだけに戦っているんだ」。
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「フロイド・メイウェザーが有力な対戦相手から逃げ続けた」という見解は、森羅万象がそうであるように一面では正しくもあり、別の一面では間違いです。

また、マネーはカネ儲けだけを追求する銭ゲバだというのも大間違いです。

ボクシングにおいて勝利の絶対スタイルは存在するのか?

「数学上の未解決問題」に匹敵する難問です。

クイーンズベリー・ルールが開闢してから130年以上の歴史を積み重ねて来た近代ボクシングですが、その答はまだ紐解かれていません。

「ポアンカレ予想」のように、いつかその解明者が現れるのでしょうか?

現在のところ、この130年間で2人のボクサーがこの難問に挑みました。

1人はシュガー・レイ・ロビンソン。もう1人がフロイド・メイウェザーです。

メイウェザーが「カース・オブ・ゼロ=ゼロ(無敗の呪い)」に取り憑かれているというリング誌の見立ても、大間違いです。

マニー・パッキャオのティモシー・ブラッドリー第1戦や、ジェフ・ホーン戦が許容されるなら、メイウェザーのホセ・ルイス・カスティージョ第1戦とマルコス・マイダナ戦も判定負けで何ら問題はありません。

しかし、重要なことはメイウェザーがダイレクトリマッチで明白に〝雪辱〟していることです。初戦と同じ内容なら、判定は相手に転がりかねない状況できっちり再戦で勝利しているのです。

フロイドを逃亡者と揶揄したり、カネの亡者と軽蔑することは、彼の表層しか見ていないだけで、その本質を見落としています。

もちろん「コットとの無敗対決」「パッキャオとの究極の盾矛対決」が、もっと早い段階で実現できなかったA級戦犯はメイウェザーです。

ここまで書いて、メイウェザーの話は「0=ゼロの寓話」で触れるべきではなかったと、思い至ってしまいました…。

一旦、撤退して出直してきます。
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アメリカのボクシングが最後の輝きを放った80年代の絢爛。

北米大陸の東西海岸、主にニューヨークとラスベガスで行われることが多かったメガファイトは、ラスベガスに偏向します。

それもシーザースパレスの屋外特設リングへの一極集中でした。
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夕闇迫る砂漠のギャンブルタウン。

まだ残る日差しの中でアンダーカードが始まり、夜のとばりが下りた頃、煌々と照らされたリングの上でメインイベントが厳かに始まる。
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それは、まさしく儀式でした。

世界中のボクシングファンにとって、あの特設リングは天井のない神殿だったのです。
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ミドル級の呪い。

その栄光と没落のコントラストが残酷なまでに強烈なのは、注目を集める階級の〝人気税〟のようなものです。

それでも…ときにその代償があまりにも大きく、重すぎると感じるのは私だけではないでしょう。

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英国に史上最大の勝利をもたらしたランディ・ターピンもまた、ミドル級の呪いに絡め取られてしまいます。


1951年7月10日、英国ロンドンはケンジントン、アールスコートアリーナで100人が100人ともミスマッチと断定する世界ミドル級タイトルマッチが行われました。

挑戦者は当時23歳の英連邦王者ターピン。40勝29KO1分、22連勝中と、確かに勢いに乗っていました。

しかし、30歳の王者は世界に轟く強豪を撃破しながらの129勝85KO1敗2分、88連勝中。欧州のぬるま湯で作られたターピンの戦績とは全く異なる本物でした。

現代まで続くボクシング近代ボクシング150年の歴史上でも「この王者に勝てる選手はいるか?」と聞かれて「いる」と答える専門家は一人もいないでしょう。

そんな、おそらくこれからも未来永劫史上最高のボクサーであり続ける王者は、この年からフランス・パリを皮切りにスイス、ドイツ、イタリアと欧州転戦ツアーを展開、千秋楽を飾る英国でターピンの挑戦を受けたのでした。

すでに「史上最高」と評価されていた歴代PFPキングに慢心が無かったといえば嘘になるでしょう。観光気分の欧州ツアーの最終戦、膨らみ続けた油断の風船が破裂しても不思議ではありませんでした。

結果はまさかの大番狂わせ。

ターピンは一躍、大ヒーローになります。

しかし、リングをニューヨーク、ポログラウンズに移した2ヶ月後の再戦では10ラウンドTKO負け。

失意の帰国でターピンに浴びせられたのは情け容赦のない罵詈雑言。2ヶ月前に担ぎ上げられた国民的英雄の神輿と、賞賛の拍手の手の平はあっさりと返されてしまいます。

「2ヶ月前に20倍に増えた友人や親戚が2ヶ月後には誰もいなくなった」。

生活は乱れ、財産も使い果たしたターピンは地元ワーウィッシャーに借りていた粗末なアパートで、こめかみにピストルの銃口を当ててしまうのです。

思いとどまることなく、引き金をひいたターピンは、まだ37歳でした。
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今日のお昼は、あさりラーメン+サービスライス。

仕事が超繁忙期につき、昼からビールは飲まない。

わしでもやるときはやる!飲まないときは飲まない!のだ!

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勝手知ったる港湾でしかセールしないヨット乗りがいた。

惚れ惚れするほど完璧な船の扱いに、誰もがヨット乗りに薦めた。

「あんたが沖に出たら、有名なヨット乗りにだって勝てるかもしれないよ」。

しかし、彼はその港湾から出ようとしなかった。

「私はこの湾を知り尽くしている。波の高さも深さも水温も、潮の満ち引きも。慣れない沖に出て下手くそなセールをするより、ここで完璧なセールを追求する方が素晴らしいことだと思わないかい?」

「もったいない。有名になれて大金も稼げるかもしれないのに」。

残念がる人々に彼は言い切った。

「私は有名になったり、お金持ちになるためにヨットの腕を磨いてるわけじゃないんだよ」。


スベン・オットケは、Phantomの渾名を持つベルリン生まれのエリート・アマでした。

五輪は1988ソウルと1992バルセロナに連続出場、いずれもミドル級でベスト8敗退ながら、世界選手権では銅メダル、欧州選手権ではミドル級とライトヘビー級で金メダルと、素晴らしい成績を残しました。

そして、プロでは34戦全勝(6KO)と無敗のままグローブを吊るすのです。

オットケはプロ7戦目にオーストリアのリングに上がったとはいえ、キャリアを通してホームを出ることがありませんでした。

〝Phantom〟オットケもまた「0=ゼロの寓話」の主人公です。



34の勝利の中には殿堂クラスはもちろん、PFPファイターの名前も見当たりません。

「無敗」「21連続防衛」「団体統一」という外見に対しで「誰に勝ったのか?」という中身では空っぽ。

当の本人も殿堂はもちろん、PFPとも全く無縁のキャリアを送りました。

「無敗王者のまま引退」という数字上は最高の形でキャリアを終えたオットケでしたが、その存在感は渾名の通りPhantom、幻だったのです。

そして、複数階級制覇や防衛回数、無敗=ゼロという数字だけでは評価されないプロボクシングの世界を語るとき、レオ・ガメスやサムソン・ダッチボーイジム、テリー・マーシュ、オマール・ナルバエスらとともに〝数字だけボクサー〟の典型例に挙げられてしまっているのが現実です。

その試合は事実、本当に面白くありませんでした。その退屈さは、強烈な睡眠薬にも喩えられました。

寝付きの悪い夜なら、子守唄に丁度いい…なんて冗談にもなりません。

ドイツに引きこもったキャリアも、オットケが冒険を避けたのではなく、米国や英国が塩分過剰のオットケを忌避したのかもしれません。

「リングの上では子守唄は歌わせない」と。そうです。「子守唄はリングにゃないぜ」(小池朝雄)です。

17ストーン、168ポンドのスーパーミドル級は英国の人気階級で、欧州の猛者たちは英国の大会場や巨大スタジアムを目指します。

また、シュガー・レイ・レナードやトーマス・ハーンズ、ナイジェル・ベン、クリス・ユーバンク、ジョー・カルザゲ、ミッケル・ケスラー…今ならカネロ・アルバレスに見られるように、間歇的な人気が沸騰することがあるのが、スーパーミドル級です。

しかし、オットケが子守唄を歌うのを許されたのはドイツのリングだけでした。

その世界戦22試合に、メガファイト、ビッグファイトと呼べるものはありません。

21度も王座を守って無敗のまま引退。これがオリジナル8の時代ならもちろん、オットケは団体統一王者にも就きましたから二団体時代なら完全統一王者、Undisputed Championです。

しかし、現実の時代は4Belt-Era。オットケは王者の1人に過ぎませんでした。

Phantomが王者のストラップを握っていた1998から2004年までの7年間の世界スーパーミドル級シーンを振り返りましょう。


▶︎まずは、対立王者から。

1998年のWBA王者はフランキーライルズが翌1999年にバイロン・ミッチェルに敗れてタイトルが移動。2003年3月15日、オットケは、このアルファベットのピースをミッチェルから奪います。

WBCの1998〜2004年は〝猫の目〟の政権交代が続きます。リッチー・ウッドホールからマルクス・バイエル、グレン・キャトレイ、ディンガン・トベラ、デーブ・ヒルトン、エリック・ルーカス、そしてマルクス・バイエル。

7年間でちょうど延べ7人が短いバトンリレーを繰り返したのです。

ディンガン・トベラ…。ムラムラしてきましたが、思いっきり話が脇道に逸れること間違いなしなので、泣いてトベラは忘れます。

WBOのストラップはジョー・カルザゲが1998年から2007年まで、ビッグネームを倒しながら10年帝国を築きます。

〝ウエールズの誇り〟カルザゲはPFPに2005年:5位、2006年:3位、2007年:2位とキングに王手まで迫り、オットケと同じく無敗のまま引退。

そして、文句無しの一発殿堂入り。

英国のスーパースター と時代が完全にオーバーラップしたこと、そして対戦が叶わなかったことが、オットケの日陰色をより一層濃くしてしまいました。


 

▶︎次に、1998〜2004年のリング誌PFP(Best Fighter Poll)を振り返ると、この7年間のトップ10にスーパーミドル級の選手は一人も食い込むことが出来ませんでした。

オットケの在位期間はスーパーミドルの暗黒時代ともいえます。
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世界戦22連勝、21連続防衛。2団体統一。数字だけなら一発殿堂でもおかしくありません。

精一杯の尊敬を込めると、勝利を追求する誠実な人柄がにじみ出るようなボクシングスタイルでした。 

しかし、本人が「飛び抜けて最強だったのはアンソニー・ムンディン」と認めているように、その対戦相手の質は劣悪でした。 

米国のスター選手まで追い求めたカルザゲと違い、オットケは慎ましくキャリアを重ねて行き、何事もなくキャリアを閉じました。

そう、何事もなく。 
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昔、むかし。小さな森に一匹のキツネが棲んでいました。

キツネは昆虫や、ネズミ、リスを虐めて「我こそは無敗の森の王様」と宣言します。

ある日、ネズミが訊きました。

「キツネさんがやってることは弱いもの虐めだ。山脈にいるオオカミやクマには負けるから、食べ物が少ない小さな森でガリガリに痩せながら無敗だと威張ってるだけじゃないか」。

キツネはコンコンと笑います。

「そりゃあ私にはオオカミの牙やクマの爪はないからね。でも、想像力を働かせてご覧。すばしっこい私にオオカミの鋭い牙と、クマの大きな爪があったなら今頃、山も海も私のものだよ」。

ネズミは反論します。

「それなら、キツネさんよりも私の方がすばしっこいよ。私がクマなら、私が無敗の王様だ。負ける相手と戦わなければ誰だって無敗だし、強い相手の土俵に上がらずに〝都合の良い想像〟の世界で最強だなんて言っても、それは詭弁だよ」。

キツネの目の色が変わっても、ネズミは畳み掛けてしまいます。

「本当に強いなら山脈に入ってオオカミやクマを倒せばいいんだ。それが出来ないから、この痩せた小さな森で威張ってるだけじゃ…」。

ネズミが最後まで言い終わる前に、キツネはネズミを捕まえると言いました。

「その通りだよ。私は負ける相手とは戦わない。深い山や海の方が美味しい食べ物がいっばいあるのは知ってるさ。でも、そんな競争の激しいところに行ったら私なんて埋もれてしまうだけ、ただの餌にされるだけなんだよ。こんなふうにね」。

キツネはネズミを一飲みにすると言いました。「また無敗の記録が伸びちゃったよ」。

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今夜から始まるのは「王者のまま引退」だけでなく「無敗」までセットにしたボクサーのお話。

テリー・マーシュの生涯成績は26勝(10KO)0敗1分。

1987年3月4日から同年7月1日までの、わずか3ヶ月と26日の短い時間でしたが、マーシュは確かにIBFジュニアウェルター級チャンピオンでした。

プロデビューは1981年10月12日。アンドリュー・ダコスタとのウェルター級6回戦でフルマークの判定勝ち。

本業からFighting Fireman(戦う消防士)と呼ばれたマーシュは、27試合のキャリアでフランスとモナコに遠征した2試合を除いた25試合を、ホームの英国リングで戦いました。

6年9ヶ月のキャリアで英連邦ジュニアウェルター、欧州ウェルター、そしてIBFジュニアウェルターのタイトルを獲得。

最後の試合はロイヤルアルバートホールの特設リングで行われた1IBF王座の初防衛戦(1987年7月1日:vs 亀田昭雄=7ラウンド TKO勝利)でした。

マーシュと亀田は、奇しくも互いに引退試合を戦ったことになります。

当時のIBFは創設からまだ4年しか経っていない〝離陸直後〟。

日本ではもちろん、世界的にも主要団体とは認められていませんでした。
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テリー・マーシュがジュニアウェルター級王者だった頃のIBFの王者一覧

韓国勢が目立つほかは、強豪の名前がひしめき、WBA/WBCとの差はほとんどないように見えます。

WBAの北米活動をフィールドにしていたNABFを母体に持つIBFが、創設4年で世界的な認知を待つだけの王者を揃えていたことがわかります。

ちなみに1987年のジュニアウェルター級シーンは、WBAはパトリツィオ・オリバからファン・マルティン・コッジに覇権が移り、WBCでは我らが浜田剛史がレネ・アルレドンドとの再戦に敗れ、そのレネもロジャー・メイウェザーに粉砕されていました。

このあと、フリオ・セサール・チャベスの進出でジュニアウェルター級は一気に活性化するのですが、当時はビッグネームが積極的に乗り出すことのないマイナー階級に過ぎませんでした。


そして、マイナー団体のマイナー階級王者マーシュは「無敗のまま引退した」というだけで、ボクシングマニアの記憶にとどまっています。

戦績以外はボクサーとして地味を極めたマーシュ。

てんかんの持病を抱えていたのは気の毒でしたが、その人生は奇行が目立ちました。


1989年11月30日、マーシュの元プロモーターフランク・ウォーレンがルガーP08で銃撃された事件の容疑者として逮捕され10ヶ月間拘留されますが、証拠不十分で釈放されています(現在も犯人は捕まっていません)。


そして、2015年3月、57歳になった戦う消防士は28年ぶりにボクシングの〝世界チャンピオン〟に返り咲きます。

といっても、日本ではまったく馴染みのないチェスボクシングというボードとリングの複合種目。チェスと6ラウンドのボクシングで勝敗を決める、肉体と知能の限界に挑む競技です。

マーシュは12歳のときにロンドンの少年チェス大会で優勝したほどの腕前で「小さい頃からチェストボクシングをずっと続けてきた。引退した後もチェスはもちろん、ボクシングの練習も続けていた」そうです。

レベルは違いますが、藤井聡太がボクシングもやってる感じでしょうか?

「無敗のまま引退した世界チャンピオン」として、マーシュは必ずその名前が挙げられます。

しかし、スベン・オットケやサムソン・ダッチボーイジム、エドウィン・バレロらが記名された名簿を「栄光の紳士録か?」と問われれば言葉に詰まるしかありません。

マーシュはもちろん、オットケもサムソンもバレロも名誉の殿堂にノミネートされることもなく、PFPの末席にもお呼びじゃありませんでした。


では、マーシュは当時マイナー団体のIBFのピースにありついただけの弱いボクサーだったのか?というと、現在の4Belt−Eraなら、何かしらの世界王者になっていたと思われます。

そして、凶悪犯罪の容疑者というのはいただけませんが、大プロモーターと大喧嘩を繰り広げ、英国下院議員の総選挙に立候補したり、チェス・ボクシングで王者に〝返り咲く〟。

テリー・マーシュ、ユニークな生き様です。

好きか?嫌いか?と問われたら…嫌いじゃありません。 

オットケやサムソン、 バレロ…メイウェザーまで連なる「0=ゼロの寓話」の開幕です。
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何年ぶりか、もはや記憶も辿れない六本木。

昔はもう少し猥雑だった気もしますが、日が暮れてもここで酒を飲みたいと激しい発作に襲われることはない、私には無縁のお上品な街です。
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なんだ?これは?どこかで見た気が…と思うとHUBLOTで見た村上隆のオブジェの本物?ではないか。

それにしても、村上隆はどこがいいのか、どれを見てもさっばりわからん。

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東京駅前よりも一回り小さなカウントダウンタイマーが、場違いな感じで立っていました。

このオメガのタイマー以外に「東京2020」が目前に迫ってることを伝えるものは、六本木でも全く見当たりません。 
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こんなのもありました。

これは、史上稀に見る大失敗イベント、横浜開国博Y150に登場した巨大クモでしょうか?

そういえば、チューリップの季節です。
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1942年、昭和16年生まれの青木勝利

日本ボクシング史上最高の強打者の資料が驚くほど少ない理由は、私の情報収集能力が貧弱であることはもちろんですが、やはりリアルタイムで観ていないことが大きくのしかかっている気がします。

テレビ画面を通した二次元でしか知らない、という点では青木勝利も井上尚弥も同じはずです。

しかし、単純に情報量の寡多だけでなく「今そこにいる、試合を見ようと思えば見に行ける」というリアルタイムかどうかの差が、井上を「現実」に青木を「歴史」に感じてしまう理由でしょう。

また、青木勝利のことを探すと「青木 勝利(あおき かつとし=1942年11月28日 〜 ?)」という、一世風靡した人物とは思えない「生死不明」の〝標識〟に突き当たってしまいます。

この〝標識〟が青木を、より悲劇的に、よりミステリアスに、よりセクシーに見せているのかもしれません。

では、ファイティング原田は?

リアルタイムでは知らなくても「歴史」と「現実」が攪拌された存在です。もし、原田が私が物心つく前に亡くなっていたら、原田も「歴史」だったでしょうか?

そうではない気がしてきました。


〝なるべくして〟の流れに為す術もなかった青木

〝なるべくして〟の流れに懸命に抗った原田。



2人が戦った共通の相手、エデル・ジョフレとの試合を見ると原田はもちろん、「黄金のバンタム」を前にして青木もどうしようもなかったわけではありません。

青木のメガトンパンチの強烈さは、ジョフレも感じていたはずです。

しかし「黄金のバンタム」( O GALO DE OURO / 1979年)や、1996年1月24日発行の「ワールド・ボクシング1月号増刊 ボクシング最強の一冊」などで、ジョフレが「バンタム級の世界戦10試合」の相手を振り返ったとき、青木を「弱かった」と一言で切り捨てています。

ジョフレを最も苦しめ、黒星をなすりつけた唯一の相手、原田については「ジョー・メデルの方が強い」「バッティングがひどかったのに、主審が注意をしなかった」「判定は微妙なものだった」「テクニックは私の方が上」と酷評しながらも「負け惜しみに聞こえるのが嫌だから、これだけははっきりさせておく。原田は強い」と認めています。

ジョフレ戦を前にした青木と原田のコメントも全く違いました。

「ジョフレに勝ったらとんでもないこと」と興奮する記者に、青木は「ジョフレに勝ったからって、どうにもならないよ」としらけた口調で答えたといいます。

一方の原田は「ジョフレに勝てると思うか?」と聞かれて、婚約者とともに来日し笑いながら握手してきた王者を思い出して「畜生!観光気分で来やがって!」と質問とは違う答えを吐き出しました。

もう一度同じ問いを繰り返された原田は「同じ体重で二つの拳で戦うのに勝てないわけがない」と闘志を剥き出しにしました。

青木の言葉は、強い決意を隠した照れ隠しだったのかもしれません。しかし、彼は引退後も「ジョフレに勝ってたとしても何も変わらなかった」と同じことを口にしています。


ジョフレは自伝のカバーや、サイン色紙などに「青木戦」の写真を好んで使っています。「弱い」と切り捨てた相手の写真にそこまで思い入れがあるものでしょうか?



私たちは「絶対不利」と決めつけられたリングに自信満々で上がるモハメド・アリや原田、パッキャオが大好きです。

アリが偉大な理由は、あんなパンチで大男が倒れるのか?というファントムパンチを放つからではありません。 

原田の戦い方に血湧き肉躍るのは、無尽蔵のスタミナで打ち続けるラッシュに魅せられるからではありません。

パッキャオを刮目して見なければならないのは、大砲の左で試合が一気に動くからではありません。 

絶対不利と決めつけられ、常人なら怯むしかないはずの大勝負。そのリングに、自分を信じて嬉々として上がることが出来るからです。

そして、そこまで自分を信じることなど私たちには出来ません。大袈裟ではなく、あれは本当に超能力としか思えません。

超能力者は間違いなく、確かに実在するのです。



そして、私たちと同じように、青木勝利もまた、自分を信じることが出来なかったのです。

青木は超能力など持ち合わせない、生身の1人の人間でした。
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プロアスリートが引退後に破産したり、犯罪に手を染めてしまうことは、よく見聞きします。

周囲からチヤホヤされて、同年代のサラリーマンとは比較にならない高額の報酬を手にした現役時代から、引退後にスポットライトが暗転することに耐えられなくて崩れ落ちてしまうのかもしれません。

また、現役時代に有名を馳せたスターの没落はメディアや一般市民にとって見上げるしかなかった羨望や嫉妬が、上から見下ろす憐憫や嘲笑に変換する愉悦のニュースです。

極めて若い年齢から、地に足をつけた地道な生活とはかけ離れていたプロアスリートにとって、引退は夢から醒めるようなものでしょう。

ボクシングの世界でも「ミドル級の呪い」や「マイク・タイソンの天国から地獄」「トレバー・バービックの最期」「エドウィン・バレロの狂気と破滅」…スターへの成長が期待された才能や、頂点から転落した王者は数知れません。

そして、引退後に身を滅ぼす選手の多くが、現役時代からその兆候を発芽させていたケースも珍しくありません。

そんな〝堕ちた英雄〟には2つのタイプがあるように見えて来ます。

一つは、人生をやり直したら同じ過ちは繰り返さないタイプ。もう一つは、もはやそんな問題ではないタイプと。

モハメド・アリやマニー・パッキャオは、何度生まれ変わってもアリやパッキャオのままでしょう。

しかし、自分を信じる才能が超能力レベルで備わっている彼らは〝堕ちた英雄〟にはなりえません
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今夜から始まる〝堕ちた英雄〟は、自分も世界も信用することが出来なかった悲しい人間の物語です。

彼らは、多くの人が思ってるように、心が弱かっただけなのか。血と生い立ちと環境が、彼らを脆弱な人間たらしめたのか。

アリやパッキャオが偉大なことは誰にでもわかります。なにしろ、彼らは超能力者ですから。

しかし、アリやパッキャオに共鳴できる人はいないでしょう。

私たちが 、私たちに近い存在として同調できるのは、自分を信じきれなかった〝堕ちた英雄〟です。

当たり前ですが、リアルタイムで観てきた光景は、独断と偏見とはいえ断定的に語ることができます。

具志堅用高の躍動や渡辺二郎の冷徹、辰吉丈一郎の絶頂、畑山隆則の情熱。

しかし、私にとってファイティング原田の偉大さや、大場政夫の激情、輪島功一のカリスマはビデオや活字から学習した体温を持たない歴史です。

どうしても語ったり、書くことに、前のめりになることはできません。

それでも、気になって仕方がない「歴史」もあります。体温を持たないはずなのに、なぜだかやけに熱く感じたり、その逆に冷たく感じたり…。
 
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https://www.youtube.com/watch?v=mdgdZBWzUkU


生涯66戦48勝25KO14敗4分。 

ついに世界に飛び立てなかった「日本ボクシング史上最高の才能」 。1942年11月28日生まれの元東洋バンタム級チャンピオンは、78歳になっているはずです。

生きていれば…。
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私はプロはもちろん、アマでも「まともな公式戦」のリングに上がったことすらありません。

中学時代に近所(といっても電車に乗らないと通えない距離)のジムに誘われて、高校も大学もかじりましたが、後から思えば格好つけてただけで、本当は怖くてたまりませんでした。

ジムのスパーリングはそこまで怖くなくても、大学時代の「公式戦」デビューは〝絶対強くない大学〟相手の対校戦、52㎏級でガリ勉のもやしみたいなのと思ってましたが、コーチが「インターハイでてるけど野球で言ったら市大会レベル」と怪しいことを口走り出し「帰国子女やからアメリカに叩き返したれ」と言われた時点で私は「外人ですか?僕のデビュー、外人?」とひるみました。

「そう、外人」というコーチに、私は「僕、陸上部で選手ですし、準硬式野球部もやってるし、言い方悪いですがボクシングで勝負しようとは思ってないんです」みたいなことをやんわりと伝えて「じゃあ、やめるか?」という期待してた返事はしてくれません。

当時は情報なんて口コミと紙ベースしかありません。
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「コレラの時代の愛」。
あの当時、ガブリエル・ガルシア・マルケスの小説に凝ってました。。。高校図書館になかった作品も、私が知らなかった作品も大学図書館では当たり前に待っててくれてました。それにしても、こんなパンデミックが来るとは…自分の想像力の貧困さにあらためて幻滅する日々です。

試合当日。5人くらいの団体戦、私の相手の52㎏やつなんてすぐわかります。そもそも体格じゃなくて、外人です、俺の相手、ダンスパートナー。しかも黒人でした。

心の中で「おいーーーーーーッ!!!」と叫んでました。

ストレッチしてる私にコーチは「見た目は関係ない。スピードと喧嘩根性ならお前が勝ってる」と耳元で囁いてくれますが、私は緊張で固まってしまい、心の中で「待て待て、待て待て!スピードと喧嘩根性で勝ってる…?テクニックとパワーで負けてるってことやないかーーーッ!」とパニックになっても口には出せずに、吐き気を覚えるような恐怖に怯えるばかりでした。

今となっては、楽しい思い出でも当時は「今この瞬間に、巨大隕石が東京に直撃してくれ」と思うほど、逃げ出したかったです。

それでも「さすが落ち着いてるなあ、絶対勝てるって」とお世辞と励ましを受け、グローブはめてもらって、ヘッドギアかぶせてもらい、マウスピースを洗って入れてもらい、ウォーミングアップと緊張の汗をガビガビのタオルで拭いてもらうと、もうどんなに怖くても、このコーナーに絶対勝って帰るしかないと、負けたらこの人たちをがっかりさせてしまうと、とりあえず勝つしかないと、覚悟が決まってくるんです。

コーチは練習から「リングは四角いけど、まぁーるく使え」と教えてくれてました。「丸く使う」というのはコーナーやロープに詰まるなということです。

その試合までは、ボクシングなのに、パンチではなくフットワークだけしか教えてもらえてなかった気がします。ミットやサンドバッグ、マスボクシングでも、ほとんど何も指摘されず。

本当は最初に教わる「ジャブ」をちゃんと指導してもらえませんでした。

まあ、パンチの打ち方は自由なんです、オーソドックスの構えからでも「右ジャブ」はありえます。でも、それは「ジャブとは何か」があってのことです。

それを教えてもらえずに、リングに上がったのです。

ブザーが鳴る少し前から、もう吹っ切れてましたが刺し違える覚悟でした。「技術とパワーで負けてる」と味方に言われてる試合です。

全然ダメで、ジャブの手応えはあるけど、打たれっぱなしで、コーナーに戻って口をすすぐと濃いピンク色、口の中が切れてる感覚がなかったから、戸惑います。

。。。実は、私が左拳で打ってたのは、ジャブではありませんでした。

最近も、中谷正義がボディブローについて語ってましたが、それだけでなく「拳の角度」ってものすごい意味があるんです。


「左は世界を制する」ってサウスポー(「右は世界を制する」)でも同じことがいえるのか?
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天才(ホプキンス)の教え、歴史的名著、ボクシング入門、芸術の嘘…。それがジャブやねん。

「スポーツ教本」の話とも融合しながらと考えて書き始めました。そして絶対、終わらないと思ってましたが、やっぱり終わりません。続きます〜〜〜。
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ジャマイカからカナダへ。

このお話の主人公、トレバー・バービックだけでなく、マイク・タイソンと打撃戦を繰り広げたレーザー・ラドックもジャマイカか生まれでカナダをベースに戦ったボクサーです。

ボクサーではありませんが、ベン・ジョンソンも同じルートで世界最速の男になりました。

*******ホテル暮らしで週末帰宅。ホテルにボクシングニューズ誌を持って行かなかったこともあり、続きが書けていませんでしたがようやく着手。

デジタル版で読めるでしょ?というなかれ。プリントバージョン、紙媒体の方がやっぱり、いろんなインスピレーションが湧いてくるのです。

と、ここまで書いたところで小さな友人たちの襲撃を受けたので、ちょっと中座。 
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