フシ穴の眼 〜スポーツ疾風怒濤編〜

      Hope Lights Our Way / 希望の道を、つなごう。

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〝延期〟されていた村田諒太とゲンナディ・ゴロフキンの試合が、4月開催で調整されているそうです。

この日程で開催に漕ぎ着けたとして、村田は2019年12月23日のスティーブン・バトラー戦から2年4か月ものブランクを作ることになります。

2年4か月、約850日。

ぼんやり毎日生きている私にとってはあっという間の時間ですが、トップアスリートにとってはプライムタイムの黄金の砂がさらさらと落ちて無くなってしまうのに十分な時間です。

村田の場合はパンデミックによる、これ以上ない不可抗力、誰にも恨み言のいえない不運でした。

ボクシングの長い歴史には、大きなブランクを作ってしまったファイターに枚挙に暇がありません。

それはファイターにとって悲劇であるばかりか、ボクシングファンにとっても痛恨の悲劇です。

この50年間だけでも、多くの偉大なファイターがその全盛期に予期せぬブランクを強いられました。

その理由は、村田のように時代の不運であったり、眼疾や怪我、病気であったり、プロモーターとの確執であったり、あるいは同情の余地のない自己責任の愚行であったり…十人十色です。


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【ブランクの原因】アメリカ合衆国を敵に回した。

その全盛期を知らない私のような人間でも、「ブランク」と聞いて、真っ先に思い浮かぶグレートは、モハメド・アリです。

ベトナム戦争への徴兵を拒否、無敗のまま統一世界ヘビー級王座を剥奪され、ブランクを強いられてしまいました。

ライセンスが停止されたのは1967年3月22日(ゾラ・フォーリー戦)〜1970年10月26日(ジェリー・クォーリィー戦)の3年7ヶ月あまり、世界中のスポーツファンはThe Greatestの25歳から28歳のプライムタイムを奪われてしまったのでした。

1971年に完全統一王者の後釜に座っていたUndisputedChampionジョー・フレージャーに、LinealChampionとして挑戦するも、ダウンを奪われた末にキャリア初黒星。

そして、アリのジョーカー、ケン・ノートンにも敗れて1974年にジョージ・フォアマンに挑みました。

フレージャーとノートンを簡単に粉砕している無敗のフォアマンに勝てるわけがない、と誰もが確信していましたが…。

傑出したアスリートが時代を代表するアイコンになることは珍しいことではありませんが、アリの場合は次元が違います。

引退後もリング誌などがたびたび特集を組み、その最期にはCNNが丸2日生中継で追悼するなど、アリの存在は規格外、父ブッシュが亡くなったときよりも扱いが篤かったことに驚きました。


【ビッグイフ】もし、あのブランクがなければ?

もし、アリが米国の意向に沿ってベトナム戦争に従軍していたなら、失われた3年7ヶ月は存在せず、米国の大会場で愛国の英雄として何度もメガファイトを戦っていたはずです。

バート・シュガーら多くの専門家は、あのブランクさえなければ、史上最高のボクサーはシュガー・レイ・ロビンソンではなかったとまで言い切ります。

しかし…。私はその多数意見を受け入れることは出来ません。

アリの強さの源泉はどこにありましたか?

米国をも敵に回す反骨と自己陶酔です。従軍したというアナザーワールドでは、その二つの牙が抜かれていたことになります。

そんなアリが史上最高なわけがありません。



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【ブランクの原因】網膜剥離などの眼疾や病気、怪我

1981年、史上最高の試合とまで絶賛されるトーマス・ハーンズトの大勝負に勝利したシュガー・レイ・レナードは、絶頂の翌年に網膜剥離のために引退を宣言。

1982年2月15日(ブルース・フィンチ戦)〜1987年4月6日(マービン・ハグラー戦)の5年2ヶ月、25歳から30歳、アリ以上の長いブランクでした。

1984年にケビン・ハワードとジュニアミドル級10回戦を戦っていますが、キャリア初ダウンを奪われるなど散々な出来で、試合後に2度目の引退宣言。多くのメディアで使われている「実質5年」という表現は間違いではありません。

5年以上のブランクからリングに舞い戻り、調整試合なしでいきなり挑戦したのがハグラー。「1対1のリンチにしかならない」と言われていましたが…。

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このパンデミックで日本でも有名になったジョンズ・ホプキンス大学。その名を初めて耳にしたのは、レナードが手術する「最高権威の大学病院」というニュースでした。


【ビッグイフ】もし、あのブランクがなければ?

ハーンズとの再戦は避けられなかったでしょう。また、ドナルド・カリーら新興勢力を迎え撃つことになっていたはずです。

カリーには勝てたでしょうが、ハーンズとの再戦はどうなっていたでしょうか?


●レナードと同じ眼疾からブランク…日本では辰吉丈一郎が有名ですが、世界戦直前の田辺清は手術をしても視力が回復せず、そのまま引退。

また、具志堅が、金平正紀会長の強硬な再起の勧めを断った理由が硝子体混濁。長らく飛蚊症に悩まされていた具志堅は「このまま現役継続すると網膜剥離に進行して失明するかもしれない」という診断に、引退を決めました

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プロモーターとの確執でブランクを余儀なくされた最近の代表格はマイキー・ガルシア。テレンス・クロフォードも訴訟を起こしましたが、ボブ・アラムから手痛い逆襲を喰わないとは限りません。

才能あるファイターのキャリアに、くだらない裁判沙汰で空白が出来ないことを祈ります。

ジム=プロモーターとの確執で、世界戦が決定していたにもかかわらず引退を決意したのが矢尾板貞雄。具志堅のケースも眼疾だけでなく、金平の搾取が目に余ったというのが本当の原因かもしれません。


自ら犯した重大犯罪で引退やブランクを作った愚か者も、数え切れません。

マイク・タイソンやアントニオ・マルガリート、エドウィン・バレロ…。ドーピングで短いながらブランクを作ったカネロ・アルバレスもこの軽蔑すべき〝凶悪犯罪者集団〟の一員に数えて差し支えないでしょう。

私生活の乱れから再三ブランクを作った五代登は、重大犯罪というか自己破滅型でしたが、復帰後は日本タイトル史上初の3階級制覇を達成。1987年2月、後楽園ホールの日本ライト級王者・大友巌戦はシビれました。



自己破滅型、というと精神不安定・対戦相手から逃亡してブランクや惨敗を喫するボクサーもいます。

昭和と平成、その三羽ガラス。

「昭和」では、ファイティング原田と海老原博幸よりも才能があったと言われた青木勝利。

「平成」で、辰吉丈一郎と鬼塚勝也よりも素質は上と評価されたピューマ渡久地。

彼らがもっと真摯にボクシングと取り組んでいたなら、エデル・ジョフレ戦や、ユーリ・アルバチャコフ戦は違う展開、結果になっていたでしょうか?

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また、気まぐれな自己都合でブランクを作っては、性懲りも無くリングに戻ってくるファイターもいます。

フロイド・メイウェザーが2008年、最初の引退宣言で理由に挙げたのは「モチベーションの低下」と「拳の慢性的な故障」でしたから、本来は網膜剥離などの眼疾や病気、怪我のメンバーに入れるべきかもしれませんが、復帰の理由は未納の税金支払いが560万ドルに膨らんだから。

この人の場合は常に「気まぐれな自己都合」です。

マニー・パッキャオもそうです。「2016年4月9日のティモシー・ブラッドリー第3戦を最後に引退する。神のお告げだ」と吐きましたが、4ヶ月後の8月9日に〝神のお告げ〟を撤回、11月にジェシー・バルガスと〝復帰戦〟を戦いました。

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村田諒太のブランクはパンデミックという問題に、日本史上最も大きな夢が賭けられたミドル級ボクサーという問題が複雑にミックスされて長引いてしまいました。

パンデミックがなければ、ミドル級でなければ…。そんなことを言い出したらキリがありません。

パンデミックは人類に降りかかった試練。ここを乗り越えてくれたなら、パンデミックに打ち勝ったアスリートのシンボルとして歴史に記憶されるでしょう。

そして、ミドル級だからこそ、村田を特別な思いで応援するのです。フライ、バンタムなどとは種類の違う夢と期待です。

そう、ミドル級だからこそ。 
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他のスポーツとボクシングの決定的な違いは試合数の少なさです。

それは「何が評価されるか?」という問題に直結します。

強豪を倒さなければ数字が付いてこないテニスや野球、サッカーでは「誰に勝ったのか?」は大きな問題ではありません。

「ロジャー・フェデラーのグランドスラムは弱い相手に勝っただけで評価できない」なんて誰も言いません。

しかし、プロボクシングでは「誰に勝ったのか?」が評価の柱です。
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それは、4団体17階級・同一団体が同一階級に複数王者を抱えるというアバンギャルドな倒錯時代では、特に優先的な評価基準です。

軽量級史上初の4階級制覇を達成したレオ・ガメスや、無敗のままフライ・ジュニアバンタムでそれぞれ二桁防衛のオマール・ナルバエスらが欧米メディアから笑い者にされることがあるのは「誰に勝ったのか?」に対して何も答えられないからです(オマールの場合はそれだけでは済みませんが…)。

誰に勝ったのか?もっと具体的に言うと「旬の強豪に勝ったのか?」。

「旬の強豪」同士の激突がファンの関心を呼ぶのは当然です。そして、それが同国人対決となると、その国では最大の関心事です。

「タイソン・フューリーvsアンソニー・ジョシュア」はその最たるカードです。

日本は「井上尚弥vs井岡一翔」=両者合わせて7階級制覇・PFP対決=という究極の絵札を持ちながら、それを求める声はファンはもちろん、メディアからも聞こえてきませんでした。

昨日、井上がそれを口にしました。流石です。

とはいえ、今は何も始まっていません。

井上は減量苦も伝えられており、バンタム級にとどまる時間は今年がタイムリミットかもしれません。

井岡も軽量級最大の激戦区115ポンドの完全統一を目指しており、その実現はどんなに最短でもあと2試合は必要です。

もし、全てが順調に運んで「井上vs井岡」が実現するなら、今年の大晦日でしょうか。


前置きが長くなりました。


「叶わなかったJapanese ShowDown」

第1回は「日本のジムから誕生した27人目の世界王者・井岡弘樹」と「28人目の大橋秀行」。

「井上vs井岡」の原型と言い切って差し支えのない好カードです。

井岡弘樹は1969年1月8日生まれ、86年1月プロデビュー。87年10月にWBCストロー級初代世界王者決定戦に勝利。ファイティング原田の最年少記録を更新する18歳9ヶ月、具志堅用高に並ぶ最短9試合での戴冠でした。

大橋は井岡より4歳上の1965年3月8日生まれ、85年2月に「150年に一人の天才」としてプロデビュー。ジュニアフライ級では張正九の壁に跳ね返されますが、90年2月に階級を下げてWBCストロー級で世界奪取。

デビュー前から騒がれた二人の小さな巨人は、運命の糸に絡まれていたようにも見えました。

井岡の最短記録更新を狙った大橋は痛烈な挫折を体験しますが、井岡が陥落してから1年3ヶ月続いていた不名誉な世界戦連続失敗記録を21でストップ(15ヶ月で21試合も世界戦をやったということです)。
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しかし、1990年2月7日の後楽園ホールで21試合連続失敗ストップのクサビを打ち込んだ大橋への注目度は高くありませんでした。そうです、4日後にお隣の東京ドームで世界的なメガファイトが迫っていたからです。

それでも大橋のパワーボクシングはストロー級で開花、井岡キラーのナパ・キャットワンチャイにも圧勝します。

大橋は「井岡君の後追いしてるようでイヤ。世界王者なんだからアジア以外の選手とも戦いたい」と語っていたように、少なからず意識はしていました。

そして、大橋は「クーヨ・エルナンデスの最高傑作?そんなわけないでしょ」とリカルド・ロペスを選んでしまうのです。


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井岡は初防衛戦で李敬淵との死闘を制してエディ・タウンゼントへ感動の餞とします。しかし、ナパとの試合で限界を曝け出しただけでなく「疑惑のゴング」で悪役に。

それでも、PFPファイターで無敗、のちにモダーン部門で殿堂入りする柳明佑を攻略、大番狂わせを起こして2階級制覇を果たします。大橋が苦しめられた〝韓国の壁〟を越えたのです。


両者が対決することはありませんでしたが、80年代後半から90年代初めにかけて、二人は糾える縄の如く日本のボクシング界を支えていたのでした。
 
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フレディ・ローチがしぶとい戦い方で人気者のプロボクサーだったことを、多くの人が忘れてしまっている。

仕方のないことだ。この30年間で彼が教えた世界チャンピオンはおよそ50人。グローブをミットにはめ代えて史上最高のトレーナーの一人になったのだから。

ローチは1960年3月5日、ニューイングランドのマサチューセッツ州デーダムで生まれた。

「デーダムは素晴らしい土地だった。野球、フットボール、アイスホッケー、季節の移り変わりに合わせて、兄弟であらゆるスポーツを楽しんだ。家の向かいに公園があって、リトルリーグにも参加していたんだ」。
 
ローチ兄弟は、1940年代後半から1950年代前半にかけてライト級のプロボクサーとして活躍していた父からボクシングの手ほどきを受けた。

フレディは「私が6歳か7歳のとき、父が私をボクシングに引き込んだんだ」と振り返る。裏庭にリングもあって、兄弟で競い合っていた。

堅実なアマチュア・キャリアを積んだフレディは、主にフライ級で41勝13敗の成績を収めた。

1978年8月にフェザー級でプロ転向、すぐに地元の人気者になり、最終的には偉大なトレーナーであるエディ・フッチとチームをコーナーに迎え入れた。

「エディからは多くのことを学んだ。「彼は私をより良いボクサーに、より良いファイターにしてくれた」。

ローチの好戦的なスタイルはテレビ向きで、1980年代前半にはESPNのボクシング番組で活躍。プロ27試合時点での星勘定は26勝1敗だった。

1985年3月、ローチが「アイドルだった」という2階級制覇のボビー・チャコンと対戦。

「試合には勝てなかったが、2度ダウンを奪った。素晴らしい思い出だ」。 

1985年には8月にノンタイトル戦でグレッグ・ホーゲンと戦い、12月にはヘクター・カマーチョと10ラウンド判定までもつれ込んだ。

最後の6試合は1勝5敗。ローチはまだ26歳だったが、ファッチの助言に従い40勝13敗(15KO)の成績を残して引退。

ESPN認定のジュニアライト級、WBC米大陸などのタイトルに挑戦したが、チャンピオンにはなれなかった。 

27歳でパーキンソン病と診断されてしまう。テレフォンアポインターなど様々な仕事をしながら、最後はファッチの元でトレーナーを目指すと決める。

「5年間、アシスタントトレーナーとしてファッチの薫陶を受けた」ローチは、単なるアシスタント以上の存在になることが運命づけられていた。

「最初の世界王者はバージル・ヒル。彼は地元でライトヘビー級王座を奪還した。私にとって大きなハイライトだった」。
 
その後、マイケル・モーラー、ジェームス・トニー、スティーブ・コリンズ、ミゲール・コット、アミール・カーンらを世界王者に導いた。

また、マイク・タイソンやオスカー・デ・ラ・ホーヤら既に伝説となっていたグレートとも短期間仕事をした。

彼はあっという間に「世界最高のトレーナーの一人」になったが、フレディ・ローチの名前を世界に轟かせたのはマニー・パッキャオと行った共同作業に違いない。

「世界タイトルを獲得することは、一つの勲章だ。しかし、それ以上に大切なことは、選手の中で眠っている多くの才能の中から最大限の力を引き出すこと」。

2012年に殿堂入り。 BWAAの Trainer of the Year に 2003, 2006, 2008, 2009, 2010, 2013と6度も選出された伝説のトレーナーは61歳になった。
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1989年2月4日、シーザース・パレス・スポーツパビリオンでWBCウェルター級王者ロイド・ハニーガンを番狂わせでストップしたマーロン・スターリングのコーナーについたローチとファッチ。
 
 
BEST JAB
ヒル。速くて強烈だった。ジャブの一発で相手を倒すこともできた。

BEST DEFENSE
コット。 常に高いガードをキープしながら頭を振ってフェイントも巧みだった。相手のパンチがよく見えていた。

BEST HAND SPEED
タイソン。とにかくパンチが速かった。パワーもあったから、相手にとっては厄介だったろう。

BEST FOOTWORK
パッキャオ。速くて小刻みなステップを踏んで、同じ場所には絶対いない。そして、相手の死角からパンチをまとめてくる。対戦相手は、どこからパンチが飛んできたのか、全くわからないまま倒されてしまうんだ。

SMARTEST 
ヒル。罠を仕掛けるのが最高に上手かった。破壊力のある左パンチを最も効果的に使った。相手がヒルがコンバーテッドサウスポーであることの意味を知るのは、すでに手遅れの状態になってからだった。

STRONGEST
モーラー。強烈な左を持っていた。あのパンチを食ったら全てが終わる、そんな一撃だった。

BEST PUNCHER
タイソン。あれほど強烈にパンチを繰り出すファイターはいない。どんな相手でも倒せる。※次のBEST CHINへの前振りです。

BEST CHIN
フレディ・ローチ。ミット打ちでタイソンのパンチがミットを弾いて顎に直撃したことがあった。一瞬目の前が真っ暗になったが、ダウンはしなかったんだ。

BEST BOXING SKILLS

コット。理想的な基礎をアマチュアで培った万能型のファイターだった。 

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BEST OVERALL
パッキャオ。観客を沸かす天才で、PFPキング。ハードワークを厭わない、最高の弟子だ。8階級制覇と、4つのディケイドで世界王者という偉業は、誰も近寄ることすらできない。強敵と戦うことも躊躇したことがなかった。あんなファイターはもう2度と現れないだろう。
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読売新聞が募集した「2021年読者が選んだ日本10大ニュース」。

広義のスポーツで上位30位に入ったのは11項目。

「大谷翔平、メジャーMVPに」は、2位「東京五輪、日本は史上最多58メダル」を抑えて堂々1位。

有効投票に占める割合が唯一70%超え、81.9%をマーク、ブッチギリの1位でした。

納得です。
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それにしても、半年前に五輪を上回るスポーツのトピックスがあると誰が考えたでしょうか。

その他、広義のスポーツでランクインしたのは8位:藤井聡太が新竜王、史上最年少四冠、9位:松山英樹がマスターズ優勝、10位:東京五輪「原則無観客」決定、13位:ヤクルト20年ぶり日本一、14位:東京パラ、日本は史上2番目51メダル、18位:大坂なおみテニス全豪V、19位:横綱白鵬が引退、21位:春夏甲子園、2年ぶり開催、30位:全米女子OPで笹生優花が優勝。

今年も残り1週間を切りました。
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狭き門より入れ(新約聖書–マタイ伝・七)。

PFPがマニアの間で注目され出したのは、4-Belt Eraになってからのことです。

考えてみれば、誰が一番強いのかがハッキリわかったオリジナル8の時代では、PFPランキングなど何の意味もありません。10傑には8人の世界王者がすっぽり入るだけで、残りの2人はどうしようか?って話でおしまいです。

あるいは、打倒マービン・ハグラーを巡って繰り広げられた80年代の中量級ウォーズでは、惑星同士が次々に激突、誰が一番強いのかがリングの上で明らかになりました。

そこには妄想が付け入る隙はありません。

ある意味で、全く面白くありません。

ところが今は、どのメディアもPFPランキングを発表しています。そして、1年どころか月に何度もシャッフルされるランキングなどファンはいちいち覚えていません。

誰が一番強いのか?が同一階級ですらわからないのが当たり前の4-Belt Eraでは、誰が一番強いのか?は妄想するしかありません。

畢竟、4-Belt Eraは妄想の付け入る隙が満載、の時代です。
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さて、boxing scene .comなどではPFP入りしていた長谷川穂積と西岡利晃。彼らは、4-Belt  Eraの魔宮に迷い込んだ仔羊でした。

まだ、BWAAがPFPランキングを発表していなかった時代。

彼らの前に重い扉で閉ざされていたのが、ESPNとリング誌のPFPでした。

リング誌は、2017年を最後に「年間PFP」ともいえるBEST FIGHTER POLLを廃止したため、現在は電子版による〝猫の目〟PFPしか存在していません。

ちなみに、1980年からスタートしたBEST FIGHTER POLL、その最後の年になった2017年に日本人として初めてランキングされたのがジュニアバンタム級バージョンの井上尚弥でした。しかも初登場で6位!

電子版ではそこから遡ること2年、2015年9月に山中慎介が9位、内山高志が10位と2人が一気にランクインしたのが〝日本初〟となります。

しかし、2016年にケル・ブルックがショーン・ポーターを下してランクイン、10位の内山が弾き出されてしまいます。

それでも2017年7月に井上尚弥が10位に登場、再び日本人2人体制に。ところが、この年8月に山中がルイス・ネリに倒されてPFP陥落。

残された井上もマイキー・ガルシアのランクインで10傑から追われ、ここでPFPから日本人の名前が消えてしまいます。

その後、井上がランキングに再突入。最高2位まで駆け上がりました。4-Belt Eraにおいて、最も評価の高い日本人が井上尚弥であることに誰も異論はありません。

しかし、4-Belt Era以前までさかのぼると、リング誌はディケイド(10年単位)PFPでファイティング原田を1960年代5位にランキングしています。

少なくともリング誌の「日本史上最高評価」は原田になります。

1960年代1位はエデル・ジョフレ。

当時、猫の目の電子版PFPが存在していたなら原田はジョフレ初戦に勝利した段階で1位評価を得ていたかもしれません。

少なくとも、連勝した時点で1位だった可能性大です。この推測だけでも原田は別格です。

そもそもが脳内妄想のPFPで推測やタラレバを語るなんて幻覚の二段重ねですが、このお遊びには正解も不正解もなく、幻覚をてんこ盛り出来るから楽しく遊べるのです。

さて、現在は井上が4位、井岡一翔が9位と日本人2人時代が復活しています。

井岡戦で「勝った方がPFP入り」と見られていた田中恒成、田中と同様に〝ウェイティングサークル〟でスタンバイしている京口紘人、番狂わせに足元をすくわれたものの高い評価を集めていた寺地拳四朗らが、対戦相手にもよるものの最短1試合でPFPファイターの仲間入りと見られています。

また、将来性を感じるスケールの大きなボクシングをする中谷潤人は、井上レベルのPFP常連になる可能性も秘めています。

私たちの前に、まだ見たことがないPFP3人時代の景色が、いつ広がっても何の不思議もない状況です。

それどころか、4人、5人…リング誌PFP10傑の過半を日本人が占める日だって、近い将来に待ち構えているかもしれません。
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PFPは妄想であり、幻覚です。

妄想は自由な発想ではありません。幻覚は先入観や既成概念の眼鏡を通して見える光景です。

その頑固な氷塊を溶かし、楔を打ち込んだのが長谷川と西岡でした。

そして、ついに氷を打ち砕いた山中と内山。

さらに、世界的には軽量級のローマン・ゴンザレスが2年間もPFPキングに君臨。

勇敢な先人たちがその道を整備、井上と井岡にとって心強い追い風になったことは間違いありません。
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良い悪いは別にして、ボクシングの面白さは政治を超えることです。

今も、絶対に許してはいけない犯罪行為が国家主導で行われたことが疑わしいにも関わらず、中東でボクシングのメガファイトやカーレースが開催されています。

過去にもザイールやフィリピンの独裁専制国家が、国威発揚のために莫大な税金を投じてモハメド・アリのメガファイトを招致しました。

アリの試合と同じように国威発揚に効果的な五輪も、暗愚な政治の駆け引きの道具にされてきました。

そして、今もまた、来年の北京五輪が政治的な波に揺らされています。

現状で起きてる様々な深刻的な事実を踏み越えても、フシ穴視点は、日本も参加すべき、それ以外にありません。

このブログは〝フシ穴〟の〝スポーツ疾風怒濤編〟です。何が何でも、アスリートが活躍するステージを一方的に応援します。

もちろん、それにも限度がありますが、中国共産党はそこを逸脱しない常識を持っていることを信じています。

話が、横道に逸れてしまう前に…。と言うか、すでにそれてるな…。

全斗煥が昨日、亡くなりました。世界的にも大きなニュースですが、ボクシングファンにとっても感慨深い名前です。

韓国は、いつでもなんでもライバルでした。それは、政治や経済や、大きなもんじゃなくても、めっちゃ小さなところ、個人的にも、彼らは私の中高時代の喧嘩相手でした。

戒厳令。

当時、中学生だか小学生だか正確に思い出せませんが、私は映画や書籍から、戒厳令がなんであるかを知っていました。

いまでいうロックアウトのさらに上の都市封鎖、絶対外出禁止、軍隊が街を制圧する非常事態です。

そんな戒厳令下で、ボクシングの世界タイトルマッチが行われたのですから、このスポーツの無茶苦茶さ、魑魅魍魎さを、そのときにも思い知らされました。

「戒厳令下でボクシングの世界タイトルマッチが行われるのか!?」。

きっと、私がボクシングの世界に引きずり込まれた要因の一つは、このときの衝撃だったかもしれません。

Martial Law
【ソウル聯合ニュース】韓国の全斗煥(チョン・ドゥファン)元大統領が23日、歴史に消えない過ちと傷を残してこの世を去った。90歳だった。全氏は1980年9月から88年2月まで大統領を務めた。


◇陸軍士官学校卒業後に政治軍人の道へ クーデターで実権

 全氏は1931年、慶尚南道・陜川生まれ。貧しい家庭に育ち、51年に陸軍士官学校に入学した。同期には盟友の盧泰愚(ノ・テウ)氏(元大統領)がいた。55年に陸軍少尉に任官された後、情報機関・中央情報部の人事課長、第1空輸特戦団長などに就いて出世街道を走った。

自らが中心となり、慶尚道出身の陸軍士官学校の同期や後輩らを集めた軍内私組織「ハナ会」を結成。76年には大統領警護室の次長補となり当時の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領を間近で補佐し、権力の中枢に一段と近づいた。

国軍の内部を統括する保安司令官だった79年10月、朴大統領が側近に射殺されると権力欲をあらわにし始める。

同事件の合同捜査本部長に就いた全氏は、さまざまな越権行為により軍内で批判が起き、ポストを外されそうになると、ハナ会の将校らと軍事反乱を企てた。同年末、当時の崔圭夏(チェ・ギュハ)大統領の承認も得ず、上官に当たる戒厳司令官を逮捕するクーデター(12・12軍事反乱)を起こした。 

軍の実権を握り、ハナ会の出身者で軍部を再編すると、80年5月17日には非常戒厳令を全国に拡大させ、金大中(キム・デジュン)氏(元大統領)ら有力政治家を逮捕して一挙に権力を掌握した。

これに対し、翌日に光州市で市民が民主主義の復活を叫び、軍に抵抗する「5・18民主化運動(光州事件)」が起きたが、新軍部は武力でこれを鎮圧し、現代史で最悪の悲劇を招いた。

全氏は同年8月、軍服を脱いで政治家としての道へ足を踏み入れた。崔圭夏大統領を下野させると、統一主体国民会議による間接選挙で第11代大統領に選出され、9月に就任した。

◇7年の独裁後に盟友の盧泰愚氏へ政権移譲

憲法を改正し、81年に第12代大統領に就任すると、不正・腐敗・政争の一掃を叫んだ。政権は「正義社会の具現」をスローガンとしたが、国全体は正反対の方向へと動いた。言論統廃合と報道指針によって報道を規制し、情報機関・国家安全企画部の要員らを使って学生を監視した。野党の政治家や学生らは親北朝鮮・容共の罪を着せられ、ひどい拷問を受けた。

独裁政権を倒したのは民主化を望む国民だった。87年1月に警察庁の対共分室で起きたソウル大生の拷問死事件は、6月民主抗争という国民の抵抗を招いた。民主化デモに屈した全氏は権力の座を降りることになる。

大統領直接選挙制の導入などを盛った盧泰愚氏の民主化宣言により盧氏に有利な世論が形成され、文民出身候補が金泳三(キム・ヨンサム)氏、金大中氏の2人に分かれたことから、同年末の大統領選では盧氏が当選した。全氏にとっては幸運だったが、それは長くは続かなかった。

少数与党の政局で全斗煥政権を清算する動きが強まり、大統領退任からわずか1か月で弟が不正の疑いで逮捕されるなど、全氏は果てしない転落を経験することになる。88年11月には在任中の過ちと不正を国民に謝罪し、政治資金や個人資産などの私財を国庫に献納した後に妻と共に江原道の寺で隠遁(いんとん)生活を送った。

それから2年後の90年12月にソウルの自宅へ戻ったが、待ち受けていたのは歴史の断罪だった。

文民政権を開いた金泳三大統領がクーデターや光州事件の真相解明と関連者処罰などの措置を取り、全氏はこれらの責任を問われた。95年末、内乱罪の容疑で検察から出頭要請を受けた全氏は捜査に協力しない旨を表明して故郷に向かったが、逮捕状が執行されて連れ戻され、刑務所に入った。
金大中氏が当選した97年末の大統領選直後、金泳三大統領の特別赦免により釈放されたが、その後は一度たりとも誠意ある反省の姿勢を見せなかった。カネがないという理由で裁判所に命じられた追徴金を納付せず、回顧録や裁判を通じて光州事件の真実をゆがめたと批判されている。

◇経済成長やスポーツ・文化の発展政策巡っても批判の声

全斗煥政権は物価安定などで経済成長基調を維持し、88年のソウル夏季五輪を招致するなどして韓国の国際的地位を高めたと、全氏は自評する。長期政権を画策して悲惨な最期を迎えた朴正熙元大統領とは違い、7年という任期の約束を守り、政権を平和的に後任に譲ったことも、全氏が掲げる功績の一つだ。

ただ、経済成長一つをとっても、「朴正熙が用意した膳の上の飯を食べたもの」だとする反論は少なくない。統治資金の名目で輸出大企業から多額の資金を集めたことも、全斗煥政権が経済成長に尽力したという評価を色あせさせる。

プロ野球をはじめとするスポーツや映画などの文化の発展に力を入れたというものの、政治に関心を持たせず、民主化への熱望をそぐ愚民化の手段として文化を利用したとの批判もある。

https://www.youtube.com/watch?v=ATaRtst8AA0

1980年5月18日。大熊正二が、戒厳令下の敵地ソウルで、WBC王者朴賛希に9回KO勝ち。

韓国ボクシングがまだ、健在だった頃、彼らはライバルでした。

日本人が苦手な中南米のテクニシャンを、無骨なコリアンファイターが破壊するのを複雑な思いで見ていました。

日本人にとって分厚い壁のミドル級周辺で東洋無敵の韓国ファイターが世界の壁に跳ね返される光景は、当時のサッカーともオーバーラップして「アジアからあの壁を蹴破りたい!」という思いを強烈にさせてくれました。

今のボクシングシーンに韓国というピースが完全に抜け落ちておることは、本当に寂しい、残念です。

サッカーでも野球でも、彼らが強いのはわかりきっています。かつてはボクシングもそうでした。

どこかで書きかけだったお話ですが、全斗煥のニュースで韓国の偉大なファイターや、日韓の壮絶な戦い(ほとんどが日本開催というのが申し訳ないけど、それがボクシングです)を振り返ります…って書いてて振り返ってなかった気がしますが…。

恐ろしいコリアンファイター、数え切れません。日本で活躍したファイター、帰化したファイターもいますが、今回は完全なる「日韓対決」ということで…といっても「米国のイタリア系ボクサー10傑」が大混乱、大問題を提起してしまうように、敏感な琴線も張られまくりですが…。

ここでは、独断と偏見で行っちゃいましょう!

その前に「戒厳令下のビッグファイト」を回想します!
 
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どんなスポーツであっても、引退には哀愁が付きまといます。

マニー・パッキャオに白鵬、斎藤佑樹、松坂大輔、大久保嘉人… (どんな並びや)。彼らに寄せる思いはそれぞれに全く違います。

彼らが見せてくれた炎のゆらめきが鮮やかであればあるほど、私たちはもう一度「それ」を見せてくれるのではないかと淡い期待を抱き続けてしまいます。

引退とは、それが「もう絶対に見れない」(パッキャオは復帰する可能背大)と、彼ら自身から告げられるということです。

だから哀しくなるのでしょう。

かつて、パッキャオのジュニアミドル級進出に向けてのキャンプでスパーリングパートナーを務め、フレディ・ローチから「100%世界王者になる。アントニオ・マルガリートよりもはるかに強い」と賞賛されたショーン・ポーターが引退を発表しました。
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土曜日の夜、マンダレイベイの大アリーナで2度目のダウンを喫したポーターは悔しさのあまり、拳を何度も何度もキャンバスに叩きつけました。

31年以上前に東京ドームでマイク・タイソンからダウンを奪われたバスター・ダグラスも同じやりかたで悔しさを表現しましたが、ポーターとダグラスはその後が違いました。

彼を最もよく知る、トレーナーであり父親のケニー・ポーターが試合を止めてしまったです。

ポーターは父親の判断を尊重しながらも「まだできた。エロール・スペンスJr.に倒されたときに比べたら全くダメージはなかった」と語りましたが、父親は「十分な準備ができなかった」と試合前から何か問題を抱えていたことを示唆しました。

試合後の会見でも「4つの敗北で、ゲートキーパーとしてやり直す道があるかもしれない。ただ、それは私の望む道ではない。3つの敗北を踏まえて、やり直しがきくと考えてクロフォードと戦ったわけじゃない」とこの黒星が引退の引き金だと説明しましたが、その一方で「結果はどうあれ引退は既定路線だった」とも告白しています。

A development that he said was predetermined no matter the outcome. 

全盛期のマニー・パッキャオのスパーリングパートナーを務め、ケル・ブルック、キース・サーマン、スペンス、クロフォードの4人に敗れたポーターは、現代の黄金階級で最も充実したキャリアを送ったファイターでしょう。

ブルファイトで積み上げた歴戦の34歳、肉体のダメージと経年劣化は限界に達していたのかもしれません。

ポーターはスペンスに敗れたとき、引退を考えたそうです。これで、リングの上に思い残すものはない、と。

そうではないと確信したのは、先月の「タイソン・フューリーvsデオンティ・ワイルダー第3戦」で解説者の仕事のため、アンドレ・ウォードらとはT-Mobileアリーナのリングサイドにいたときのことでした。

一人のファンがウォードに近づいて声をかけました。

「あなたにはやるべき試合があと一つ残されている」。

The fan told Ward he still had one more fight left in him. 

ウォードがことあるごとに聞かれる、カネロ・アルバレスとの試合。

メディアでもファンの間でも、現在の体格にビルドアップされたカネロには全盛期のフロイド・メイウェザーでも破壊されてしまうと考えられています。

マネーがカネロからなんとか勝利を得たのは7年以上前、ジュニアミドル級=154ポンド=の試合でしたが、152ポンドのキャッチウェイトを押し付けたものでした。

ただ、多くの人の仮想対決で今のカネロでも競り落とすだろうと見られている唯一のボクサーが、全盛期のウォードです。

そのとき、ポーターは確信しました。「私にもやるべき試合が一つだけ残されている」。

逆に言うと、その試合が終われば、リングの上にやり残したことは何一つなくなる、ということです。




「どの試合も全力を振り絞って戦ってきた。それが見ている人に伝わっていたなら、こんなに嬉しいことはない。

ポーターはすでにNBCスポーツネット、フォックス、トリラーで人気解説者として活躍しています。

記者会見でのケニーはトレーナーから父親の顔に戻っていました。

「ボクシングがどれほど危険な仕事か、よく理解している。一番重要なことはボクサーとして一生懸命に戦い、健康なまま次の人生を送ることだ」。

「明日の朝には、道を挟んだ向かい側にある彼の家を、今までとは違った気持ちで見ることができるだろう。家族との幸せな時間がたっぷり戻ってくる。ショーンはもちろん、私たちにとってもそれは幸せなことだ。ショーンはやりきった。私たちは勝者だよ」。


When Should He Retire ?ファイターはどのタイミングで引退すべきなのか?

人気階級で並み居る強豪と堂々と戦い抜き、多くの報酬と注目を得て、リングの上に思い残すことがなくなって引退するショーン・ポーター。

もう一人のShow-Time(あっちは正確にはSho-Time)は、間違いなく最高のタイミングでグローブを吊るしました。 

https://fushiananome.blog.jp/archives/19002290.html 
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スワローズとバッファローズの日本シリーズ初戦。

「エース対決」、見応えありました。そして、なんという幕切れ!


さて、村田諒太とゲンナディ・ゴロフキンの世界ミドル級団体統一戦が12月28日に開催されます。

1988年と1990年のマイク・タイソンの完全統一ヘビー級タイトルマッチを凌ぐ「日本ボクシング史上最大の興行」とも言われています。
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ここでは、本当にそうなのか?も含めて我が国のスーパーファイト、ベスト10を語りましょう。

日本のエースの系譜を下地に、興行規模10傑を考えてゆきます。

メガファイトの主人公となった「エース」の系譜です。

現代の選手に贔屓したのは当たり前、未来の話がしたいんだ!

メガファイトの舞台はこれからのご紹介、カッコ内は選手短観です。

井上尚弥(リング誌最高PFP2位)

亀田興毅(ボクシング没落時代に奇跡の注目度)

長谷川穂積(boxingscene.comのPFP8位)

畑山隆則(ジュニアライト〜ライト2階級制覇)

辰吉丈一郎(WBCから寵愛された浪速のカリスマ)

具志堅用高(最後の国民的ヒーロー)

西城正三(海外でメガファイト)

柴田国明(海外でメガファイト)

ファイティング原田(説明不要)

白井義男(ホームリングは後楽園球場)
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リング誌1月号はフェリックス・トリニダード特集。

ティトは村田諒太をはじめ、今なお熱狂的なファンを抱える一発殿堂のグレートです。

それにしても、もう1月号。

そして2月号はリング誌100周年記念特集号となるはずです。90周年はなかなかのボリュームでしたが、大きな区切りの100周年はどうなることやら…。

この1月号もそうでしたが、米国で現役スターがカネロしか見当たらない惨状の中で、リング誌は懐古的な特集を重ねています。

紙媒体の絶滅危機以前に米国ボクシングの衰退に引きずり込まれるように、リング誌の存在感も軽く薄くなるばかりです…。

気を取り直して、トリニダード特集!

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プエルト・リコ。

サン・ファンに入港したクリストファー・コロンブスはその風光明媚に絶賛、その言葉がそのまま国名の由来と言われています。

「¡Qué Puerto Rico!(なんという美しい港なんだ!)」
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「プエルト・リコ」「サンファン」と聞くと、多くの人はアメリカの貧しい自治州(Estado Libre Asociado=自治連邦区)とその州都のイメージでしょう。

普通の人のイメージはそこで止まってしまい、プエルト・リコ出身の人物を聞かれても、1人も答えられないかもしれません。

しかし、ボクシングファンにとってのプエルト・リコは怪物の特産地です。


カルロス・オルチス、エステバン・デ・ヘスス、ウィルフレド・ゴメス、ウィルフレド・ベニテス、ヘクター・カマチョ、カルロス・デ・レオン、エドウィン・ロサリオ、イバン・カルデロン、ミゲール・コット、ファン・マヌエル・ロペス…。

横浜市よりも少ない人口330万人の島国ですが、野球やバスケットボール、バレーボールで傑出した才能を輩出し続けるスポーツ大国、中でもボクシングはメキシコのライバルと見なされる超強豪国でした(現在の状況を鑑みると過去形で書くのが正解です)。


そんな、どこまでも妖しいまでの魅力に溢れるグレートたちをリング誌が蘇らせてくれました。



◉◉◉◉◉トリニダードはプエルト・リコ史上最高傑作か?

ボクシングは他のスポーツと比べて、国の大きさや経済力に左右されず、個人の才能で世界の頂点をつかめ、国民的英雄になれる手段だ。

現在、82の国が少なくとも1人以上のチャンピオンを擁立している。特に発展途上の国にとって、ボクシングの世界王者は、国を代表する特別なアスリートになっている。

プエルトリコは面積はコネチカット州より小さく、人口はユタ州と変わらない330万人だが、The Sweet Scienceとも呼ばれるボクシングの世界地図で、最も強力な juggernaut=大勢力の1つである。


プエルトリコの伝説は、1936年にNBAとNYSACのタイトルを獲得し、バンタム級のUndisputed Championになったシクスト・エスコバルを先駆けに、85年後の現在はWBOストロー級王者ウィルフレド・メンデスまで脈々と繋がれている。

2000年〜2021年10月1日現在までの7,945日のうち7,324日=92.2%にわたって、少なくとも1人のプエルトリコ人がメジャー団体の世界タイトルを保持、2000年1月1日からフロイド・メイウェザー・ジュニアがミゲール・コットを下してWBAジュニアミドル級王座を獲得した2012年5月5日まで、この記録は100%だった。


フェリックス・トリニダードは、2000年3月にWBAジュニアミドル級王座を獲得し(UD12=デビッド・リード)、ママドゥ・ティアム(3ラウンドTKO)、フェルナンド・バルガス(12ラウンドTKO)と防衛を重ね、2001年5月にはWBAミドル級王者ウィリアム・ジョッピーを5ラウンドで屠り、その4ヵ月後にバーナード・ホプキンスに敗れるまで12年間に渡って王座をキープしてきた。

しかし、ティトが最も輝いたのは、IBFウェルター級王者として長く活躍した1990年代だ。

滑らかな動きと長い距離から繰り出される強打で、キャリア通算42勝3敗(35KO)の戦績をマーク、2014年には殿堂入りも果たした。


さて、トリニダードはプエルトリコで最も偉大なファイターなのだろうか?

数か月前のフリオ・セサール・チャベス特集では、チャベスがメキシコ史上最高のボクサーなのかどうかを検証したが、多くのライバルがひしめくメキシコの歴史の中でも、チャベスが頂点に立っていることは明らかだった。

「メキシコのチャベス」のように「プエルト・リコのトリニダード」も史上最高なのか?

 トリニダードの〝対戦相手〟を見てみよう(アルファベット順)。



▶︎ウィルフレド・ベニテス(1973年~1990年、53勝8敗1分、31KO)
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「エル・レーダー」「ザ・ドラゴン」「ボクシングの聖書」と称された、稀代のディフェンスマスターは、ピンポイントのカウンターパンチも操る正真正銘の天才。

後に殿堂入りするグレート、アントニオ・セルバンテスを17歳6ヶ月で下し、史上最年少で世界王者になった。

シュガー・レイ・レナード、ロベルト・デュラン、トーマス・ハーンズと拳を交え「第5の王者」(総当たり戦に参画できなかったためFour Kingsには数えられない)と呼ばれることもあるが、1983年6月にムスタファ・ハムショーに判定負け、ミドル級の完全統一王者マーベラス・マービン・ハグラーへの挑戦と、史上初の4階級制覇のチャンスが霧散してしまう。

ビッグイフだが、もしハグラーに勝ってジュニアウェルターからミドルまでの4階級制覇を達成していたなら、ベニテスは歴代最高ボクサーの議論に登る存在だっただろう。

世界戦で9勝2敗(3KO)、殿堂入りボクサーとの対戦で3勝2敗(0KO)、アルファベット団体の王者との対戦で7勝4敗(1KO)。

全盛期を、普通に20代半ばで迎えていたなら、さらに刮目する数字になっていただろう。

天性の才能に頼りすぎたベニテスは、規律と情熱を失い、1982年1月のデュラン戦以降は3度のKO負けを含む9勝7敗(3KO)と山を下ってしまった。

1984年7月の元王者デービー・ムーア戦(負傷により2ラウンドでストップ負け)や1986年2月のマシュー・ヒルトン戦(9ラウンドでKO負け)は、本来のベニテスなら負ける相手ではなかった。

それでも、ベニテスは1996年に一発殿堂、37歳280日と、サルバドール・サンチェス(1991年の入会式に出席していれば32歳142日だった)に次ぐ史上2番目の若さだった。



▶︎イバン・カルデロン(2001年~2012年、35勝3敗1分、6KO)
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ベニテスのように、Iron Boy El Nino De Hierro=鋼鉄の子もまた、その時代を代表するディフェンスマスターの一人だった。

ベニテスとは異なり、7年以上にわたってアルファベットの世界タイトルを保持(2003年5月から2007年4月までWBOストロー級王者、タイトル返上後、2007年8月から2010年8月までWBOジュニアフライ級王者)。

世界戦は19勝3敗1分(3KO)、ストロー級で11回、ジュニアフライ級でで6回の防衛に成功し、世界王者経験者9人の選手を破った。

ファンやメディアがすばしっこい動きと、非力で見せ場のないラウンドを繰り返すカルデロンを批判する中でも、小さな巨人はスコアカードを巧みに組み立てるリングジェネラルシップを貫いた。

その長期にわたる優れた業績が評価され、数年前から殿堂モダン投票にノミネートされているが、まだ殿堂入りは叶っていない。



▶︎ヘクター・カマチョ(1980年~2010年、79勝6敗3分、38KO)
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 ベニテスのディフェンス、カルデロンの素早い動き、さらにレナードばりのハンドスピード。

そして何よりもテレビ画面やライブの観客を沸かせる卓越した才能を持つ "マッチョマン "は、確かに一時代=マッチョ・タイムを築いた。

1982年7月、CBSテレビでルイス・ロイをTKOで下したことで、カマチョのパフォーマンスとカリスマ性、そして別次元の技術に全米のボクシングファンが目を見張った。

さらにネットワークテレビで5連勝、カマチョは世界王者ラファエル "バズーカ "リモンを5ラウンドでストップ、世界王座に就く。

バヤモン出身のマッチョマンは、1985年8月にはホセ・ルイス・ラミレスを下してWBCライト級タイトルを獲得し、ボクシングシーンの主役の一人になった。

ラミレスを倒してから10ヵ月後、エドウィン・ロサリオが放った強烈なフックによって、キャリアで初めて大きな危機に追い込まれた。試合はスプリットデシジョンで勝利したものの、生き残りに逃げるだけのマッチョマンの姿に世界は失望してしまう。

それでも、1991年2月にグレッグ・ハウゲンに破れるまで、デビューから38連勝をマーク。

その一方で、カマチョのリング外での闇に沈んだ私生活は、彼の才能を一枚一枚削ぎ落とし、経年劣化も深刻化。

1989年には、レイ・マンシーニを微妙な判定で競り落とし、3階級制覇。

世界王者経験者との対戦成績は10勝4敗2分(2KO)、世界タイトルマッチでは9勝4敗(2KO)、1994年のトリニダードへのポイント負けを含む。

特筆すべきは、30年にも及ぶキャリアの中で一度もKOされなかったことだ。2016年に殿堂入り。



▶︎
ミゲール・コット(2001年~2017年、41勝6敗33KO)
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2000年のシドニーではメダルを獲得できなかったが、プロで披露した上質のテクニックと強力なフックで、多くの人が「トリニダードの後継者」と認めた。

若い選手の多くはその期待の重圧に潰されるが、石のように無表情のコットは大試合を勝ち抜き、マディソン・スクエア・ガーデンの主役になる。

コットはプエルト・リコで初めて4階級制覇を達成、今も母国の最多階級制覇者だ。

トリニダードが殿堂入り式典に参列する前夜、リング誌とWBCミドル級王者セルヒオ・マルティネスを倒してミドル級のタイトルを獲得。

世界戦20勝6敗(16KO)、王者経験者との対戦成績は16勝6敗(12KO)、プエルトリコ以外で行われた世界戦(全て米国)で14勝5敗(11KO)。

しかし、殿堂入り選手との対戦成績は1勝1敗(モズリー判定勝ち、メイウェザー判定負け)だが、マルチネス(TKO10)、マニー・パッキャオ(12ラウンドTKO負け)、カネロ・アルバレス(判定負け)が殿堂入りすれば、2勝3敗になる。

多くの人が、コットが一発で殿堂に選ばれなかったことを驚いた。

彼のレガシーを常識的に考えると、殿堂入りにそう長い時間はかからないだろう。




▶︎ウィルフレド・ゴメス(1974年~1989年、44勝3敗1分、42KO)
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サントゥルセ出身のゴメスは、その圧倒的な拳の威力から「バズーカ」というニックネームで呼ばれた。

122ポンドではこのバズーカ砲は無敵だった。

プロデビュー戦こそ、まさかの引き分けだったが、1977年5月に廉東均(韓国)を12ラウンドTKOしてWBCジュニア・フェザー級王者を獲得すると、歴史的な6年間の絶対王政が走り出した。

17回の防衛戦の全てをノックアウトで片付けたのだ。ミドル級のゲンナディ・ゴロフキンが16連続KO防衛まで迫ったが、団体や階級の数、そして軽量級という要素を考えるとプエルト・リコのバズーカがいかに破壊てきだったかがよくわかるだろう。

1974年12月から1981年6月までにマークした32連続KOも世界記録だ。

プエルトリコ以外でのタイトル戦では11勝1敗(11KO)、世界戦で20勝3敗(18KO)。

殿堂入り選手との対戦成績は2勝2敗(2KO)。サンチェスやアズマー・ネルソンにKO負けしたことを指摘するが、ルペ・ピントールやカルロス・サラテにKO勝ちしたことを忘れてはならない。

ゴメスがジュニアフェザー級を去ってから40年が経とうとしている。それなのに、多くの人はゴメスが史上最強の122パウンダーだと信じているのだ。

1995年に事実上の一発殿堂。
 


▶︎カルロス・オルティス(1955年~1972年、61勝7敗1分、30KO)
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ポンセ生まれのオルティスは、幼少時に家族とニューヨークに移住、ストリートファイトを繰り返して、警察官から「ボクシングをやれ」とマディソン・スクエア・ボーイズ・クラブに入会した。

アマチュアでは40戦あまりの経験ながら、才能を発揮。その成功はプロに入っても続く。

1959年6月、ケニー・レインを2ラウンドで粉砕して、13年間眠っていた世界ジュニア・ウェルター級タイトルに息吹を吹き込んだ。

1962年4月、オルティスは体重を下げて2つ目のタイトルを獲得。〝逆2階級制覇〟を果たした数少ない選手の1人となる。その後の6年間、オルティスは2度の政権で通算9度の防衛に成功、フラッシュ・エロルデ(14ラウンドKO、14ラウンドTKO)、イスマエル・ラグナ(判定勝ち)、ウルティミニオ・"シュガー"・ラモス(5ラウンドKO、4ラウンドKO)の強豪相手に勝利を収めている。

多彩な戦略、テクニック、インテリジェンス、そしてコンディショニング。ボクサーに必要な内面を全て持ち合わせていたがオルチスだ。

世界戦は14勝4敗(8KO)。ジュニアウェルター、ライト級というクラスながらビッグファイトも繰り広げたグレート。
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さあ、問題の「トリニダードはプエルト・リコ史上最高のボクサーか?」。

トリニダードとゴメス、カルデロン、コット、オルティスの4人との対決だ。

カルデロンは、他の選手に比べて対戦相手の質が低く(殿堂入り選手がいない)、試合は退屈で、地味。

オルティスは対戦相手の質が高く、同じチャンピオン(8勝5敗1分、4KO)や殿堂入りした選手(8勝4敗1分、4KO)を相手に偉大な勝利を得ているが、ゴメスと比べるとインパクトは小さい。コットも有力な選択肢の1つだったが、やはりゴメスを上回る要素は見当たらない。



トリニダードとゴメス。このマッチアップは、非常に拮抗している。

両者とも20歳で初タイトルを獲得、間断なく優秀な成績を収め続けた。

両者とも頭抜けた強打者だが、ゴメスの破壊力が上、ジュニアフェザー級の全盛期には顎も強く、ディフェンスも固かった。

殿堂入り選手という点では、ゴメスが無敗のサラテと、まだ全盛期だったピントールに2回のKO勝ちを収めたことは、トリニダードが全盛期を過ぎたウィテカーとカマチョに判定勝ちした結果を上回っている。

無敗のオスカー・デラホーヤとの「1000年に一度の戦い」に微妙な判定で勝利したことは、いまだに議論の的となっている。

ティトとゴメス、2人とも1つの階級で傑出したものの、他の2つの階級では成績が振るわなかった。

トリニダードは154(ジュニアミドル)と160(ミドル)の世界戦で4勝1敗(3KO)、敗北はKO負け。

ゴメスは126と130のタイトルマッチで2勝3敗(0KO)3度のKO負けを喫しているので、トリニダードに軍配が挙がる。

また、キャリアの中で世界王者経験者は、ゴメスの9人に対し、トリニダードは12人。

ゴメスの時代はベルトの数が圧倒的に少なかった点は考慮すべきだが、ゴティトはそのパワーをスケールアップさせ、上のクラスでも結果を出した。
 

Given the evidence presented here, a strong argument can be made that Trinidad is indeed the greatest Puerto Rican fighter in history. 
 

以上から、トリニダードがプエルトリコの歴史上、最も偉大なファイターであることは明らかである。




■■■ティトとゴメス、確かに甲乙つけがたいです。ただ、軽量級は層が薄い反面、殿堂選手もビッグネームも少ないというディスアドバンテージを抱えています。

ボクシングマガジンやビートがこの企画をやれば、ゴメスが凱歌を奏していたのではないでしょうか。
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スポーツは技術が支配する世界です。

技術以外に勝敗を決する要素が、一つだけあります。

異質であることです。

サウスポーはその典型です。

多数派のオースドックスはサウスポーとの練習や実践が乏しい一方、サウスポーはオースドックスと質の高い練習と試合を積み上げることが出来ます。

歴史的に左利きは邪悪なものとして忌み嫌われてきました。多くの社会で左利きは、右利きに矯正されてしまいます。

世界の人口の約90%が右利きで、左利きの人が使うには非常に不便であったり、危険であったりする製品がたくさんあります。例えば、私と同年代の人なら学校の机にインク壺があり、それが常に机の右側に置かれていたことを覚えているでしょう。

しかし、スポーツの世界に限らず、左利きから偉大な人物が生まれるのは、今更いうまでもありません。

ナポレオン・ボナパルト、ジュリアス・シーザー、アレキサンダー大王、モーツァルト、ベートーベン、ジャンヌ・ダルク、キューリー夫人、レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロ、アインシュタイン、ベーブ・ルース、ウィンストン・チャーチル、マリリン・モンロー…そしてスター・ウォーズのチューバッカまでもが左利きだったのです。

「left=左」という言葉は、アングロサクソン語で弱いという意味の「lyft」に由来すると考えられています。

英語の「sinister」は、ラテン語の形容詞sinister/sinistra/sinistrumから派生したもので、もともとは「左」を意味していましたが「悪」や「不運」という意味も持つようになりました。

つまり、私たちは「左」という言葉を本能的にも歴史的にも否定的に捉えてきたのです。
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「サウスポー」が左利きの意味となったのは、左投げのピッチャーの腕が体の南側にあったことから野球用語として使われ、それ以前は「普通ではない」という意味で使われていました。

20世紀初頭のボクシング界でも、サウスポーは非常に珍しい存在でした。

ボクシングを習うためにジムのドアを叩いた左利きの若者には二つの選択肢しかありませんでした。

オーソドックス(正統派という意味です!この言葉は左利きは正統派じゃないということの証左です)への矯正を受け入れるか、ボクシングを諦めるか、の二択だったのです。

ボクシングでは1960年代にサウスポーが見直される大きな地殻変動が起きました。

1950年代末までの60年間で、わずか13人しかいなかったサウスポーの世界王者が60年代の10年間で7人も誕生したのです。

メキシコのビセンテ・サルディバルの他にも、オラシオ・アカバロ、フラッシュ・エロルデ、レネ・バリエントス、バーナベ・ビラカンポ、海老原博幸、金基洙、具志堅用高らアジア人の台頭がサウスポーの時代の扉をこじ開けたのでした。

この中には米国人は一人もいません。もしかしたら、東洋思想よりもキリスト教の宗教観に左利きへの禁忌意識がより深く刻まれていたのかもしれません。

70年代は、17人の世界王者を輩出。80年代には51人、90年代には59人、00年代には65人のサウスポーが世界王者につきました。2010年代は55人と頭打ち傾向ですが、今やサウスポーの世界王者を特別視する人はいません。

もちろん、世界王座の数が劇的に増えたことも大きな原因ですが、人々の意識が変わったことも間違いありません。

サウスポーは遺伝ではないというのも面白い特徴です。

オーソドックスのレオン・スピンクスの息子コーリーはサウスポー。やはりオーソドックスのペニャロサの二人の息子ジェリーとドディははサウスポー、亀田三兄弟でサウスポーは長男の興毅だけ。

エリック・モラレスはオーソドックスなのに弟のディエゴとイワンはサウスポー。

その一方で、カオサイとカオコーのギャラクシー兄弟、ラモンとラウルのガルシア兄弟はともにサウスポーでした。
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80年代以降は渡辺二郎、マービン・ハグラー、ヘクター・カマチョ、パーネル・ウイテカー、ビック・ダルチニアン、セルヒオ・マルチネス、マニー・パッキャオ、ワシル・ロマチェンコ、オレクサンドル・ウシク、2階級制覇に成功したばかりのシャクール・スティーブンソンもサウスポーです。

異端であり、禁忌であったサウスポーは、オーソドックスに対するキラーとして、むしろ歓迎されています。

ボクシングを志す若者がサウスポーだと100年前なら「オーソドックスに治せ」と言われましたが、今は「お!サウスポーか!いいなあ!」と喜ばれるはずです。

ハグラーや渡辺二郎らは右利きなのに左が前を選んだ、典型的なコンバーテッドサウスポーでした。

また、21世紀になるとナジーム・ハメドやテレンス・クロフォードのようなスイッチヒッターも散見されるようになります。

いまやオーソドックスであることは、少なくともプラス要素とは認められていません。

「史上最高のオーソドックス」という命題が存在しないように、このままサウスポーやスイッチヒッターが増え続けると「史上最高のサウスポー」という言葉が死語になる日も近いのかもしれません。



 
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