カテゴリ: 赤煉瓦

晴田さやかが「一緒に行きたいとこがある」と誘ったのは、廃線・閉鎖になって間もないJR福知山線(旧)でした。

いまでこそ「福知山線廃線敷ウォーク」としてハイキングコースになっていますが、当時は閉鎖区間とその周辺は立ち入り禁止。当たり前です。

「ドッジボール大のダイアモンドが転がってる」という嘘でも面白い伝説があった仁徳天皇陵の〝ハイキング〟は夜間決行でしたが、このときは深酒した翌日の午前中に〝ハイキング〟開始。

明るいうちからスタートしたのは、旧福知山線が武庫川渓谷の断崖絶壁を走る恐るべき単線で、夜間では真っ暗の廃線痕は危なくて歩けないと判断したからでした。



当然、トンネルもあるので懐中電灯などの照明は必須。そこまではわかっていましたが、どこまで危ないのか、わかってませんでした。

いま、仁徳天皇陵に夜中でゴムボートで乗り入れようとする中学生や、立ち入り禁止の断崖絶壁を走る廃線跡を歩こうとする大学生がいたら、間違いなく止めます。

ーーーいや、私の話は妄想なので実際には行ってませんよ。



妄想の中で晴田さやかと、ザザーッと山道を滑り降りて廃線跡に立ったのは、かれこれ35年近くも前のことです。

バランスを崩して線路脇に尻餅をついて滑り落ちた私が思わず「晴田、大丈夫か?」と声を上げると、しっかりと降り立った彼女は私を見下ろして「大丈夫ってそっちがゆうん?どんくさーー!」と文字通り、ケラケラコロコロと笑い転げてました。


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あのとき。

今のような、4.7km程度の整備されたハイキングコースなどあるわけもなく、⬆︎こんな注意を促す立て看板もありませんでした。

そもそも、私たちが最初に歩いた廃線と、いまのウォーキングコースが完全に一致しているわけがありません。

廃線跡まで滑り降りたはいいものの、ここからどこまで行くのか、行き着いた先で〝シャバ〟に登る道はあるのか…?

今は、枕木が地面に埋まって歩きやすくなっていますが、当時は枕木も高く、何よりもほとんど全ての区間で線路が短く熔切されてはいましたが、まだ除去されていませんでした。

しかし、ハタチになったばかり(全くなってなかったかもしれんが、このあと酒を飲むのできっとハタチになってた)のバカップルは「これなら、全然行けそうやん」と武庫川渓谷の崖っぷちをナメていたのでした。

当時、どんな会話を交わしたのかしっかり覚えているわけもありませんが、待ち合わせ場所に先に到着していた晴田は「無理ゆうたのにありがとう。こんな付き合いのいい男やとわかってたら、もっと早く告白したら良かったー」…みたいなことを言ってくれました。

「一個、聞いていい?なんで俺みたいな男の第二ボタンくれってゆうたん?」

「ずっと好きやったってゆうたやん」

私は「ありがとう。俺、高校時代まで誰にもそんなこと言われたことなかったから、最初はひと間違いだと思ったし、晴田なんて野球部や陸上部の純真な男を弄んでたやん?そんな悪い女がなんで俺?と思うたよ」とからかうと、晴田は「ずっと好きやったけど、ここで殺していい?」と足元の外れかけの線路をベキベキと引き剥がして振り回そうとするのでした。

「ここなら誰も見てない。密室みたいなもんや。武庫川渓谷密室殺人事件!」と、晴田は2メートルほどの線路を振り回そうと両手に力を入れますが、さすがに鉄、立ち上げても持ち上げることはできません。

それでも、晴田は「(私がモテたんは)野球部と陸上部だけちゃうねんで!」と自慢げに笑うのでした。

高校時代、ほとんど話したことがありませんでしたが、笑ってるとこはそんなに見たことない気がしたので「こんなに笑い転げるやつだったのか」とちょっと驚きました。


ーーー青春は面白すぎてやばい。

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今はこのような看板が短い間隔でズラーーッと立てられていますが、35年前はそんなもの一つもありません。

「事故の責任は持ちません」…そんなに何回も繰り返さんでも。

しかし、私たちは山肌をパラパラ落ちてくる小石に、落石がありうる危険を肌身に感じながら進んでいました…。まー、小さいとはいえ小石が落ちてきてるので、あれもあれで落石といえば落石でしたが。



・・・・卒業式以来の再会でしたが、あのとき私たちはずいぶん長い時間を離れてて、お互い大人になった気になっていました。たった数ヶ月というのに。

そして、あれから35年以上も経った2023年、つまり約35年ぶりの再会だったというのに、全く変わってない2人の間の感覚にびっくりしてしまいます。

大袈裟ではなく、あの武庫川渓谷を歩き抜けたのは、35年前じゃなくて、本当は昨日だったんじゃないかというくらいに。

これは、気心の知れた友だちには共通の感覚です。一方で、そうではない友だちだと久しぶり感が半端ないというか、お互い変わったなあ感が強烈というか…。

そんな、50年配のバカ男女が約35年ぶりに会って、いまは穏やかなハイキングコースとなった廃線跡を当時を回想しながら歩くのです。

面白すぎ。

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あのときは、武庫川沿いにガードレール的なもの⬆︎はありませんでした。それ以外はあまり変わらない気もしましたが、川が近い、流れが穏やかな気もしました。

私たちはいきなり峻厳な渓谷脇の線路に滑り降りた記憶があったのですが…。

ーーー少し歩くと、ありました。渓谷のご登場です。

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「この辺りは通った気がするー!」という晴田に、「もしかして、この辺りが王家の谷ちゃう?」と聞くと「そうかも!そんな気がするー!」。

武庫川渓谷の〝王家の谷〟は私たち2人だけにしか通用しないワードで、あのとき晴田が持ってきたサントリー・ロイヤルを河川敷まで降りて、川の水で割って飲んだのでした。ロイヤルの谷=王家の谷というダジャレでした。

「しかし、よう覚えてるよね、細かいとこまで、私ら。信じられへん」。

「若かったからな」。

あの当時の私たちですら「この水、飲んで大丈夫か?」という常識的な疑いはありましたが、幸い何事もありませんでした。

「でも、これもう柵が張り巡らされて、降りたらアカンて書いてある」と、晴田は少し残念そうでしたが、免疫力も衰退している50過ぎの老いぼれ2人、いまあの川の水飲んだらダメです。


「1年生の最初の授業が剣道でトーナメントみたいなことしたん覚えてる?君、すごく強かったやん」

「ちょっとだけやったことあったから」

「男子で剣道部の子が完全に君に飲まれてて、先生も言わんでええのに『野球部に負けたら恥』みたいにけしかけて。それで、君がわざと負けてん。その子が踏み込んだとき、君は面を差し出すようにスッて竹刀を外した。その子は大喜びやったけど、私にははっきりわかった」

「いや、本当に記憶にない。そもそも俺はそんなことしない気がする」

「私、学校とかウザいし面倒くさかったけど、行かなしゃーないと思って行ってたんやけど。君は何日も休んでも、しれっと登校してきて、先生からめちゃくちゃ言われても堂々としてて、私たち学校の日陰コーナーからは〝こっち側〟のヒーローみたいに見えてん」

「こっち側って…」

「私たちは〝こっち側〟。先生から可愛がられてて、品行方正、成績優秀なやつらが〝あっち側〟やん」

「まてまて、勝手に俺をそっち側に入れるな。なんか、あんまり嬉しくないぞ」

「え?自覚ないの?完全にこっち側の人間やったで」

「そうかもしれんけど、あっち側って少数派やろ?」

「(学級員とか生徒会長してた)水原なんか典型やん。君、あの女と仲良かったやん?嫉妬でぎりぎりしてたわ。こっち側の男に手ぇ出すなって」

「いや、仲良いとかそんなんなんなかったわ」

「1個上の(柔道で近畿、陸上で全国、京大行った)石川さんとか〝あっち側〟の首領やな」

「石川さんは、さん付け?」

「一応、年上やし。私、君と石川さん付き合ってると確信してたから、君に告白したら100%フラれると思っててん」

「俺とあの女のどこをどう見たら付き合ってるって思うねん…。そんなに仲良くしてた記憶はない!」

「でも、こっち側の男があっち側の女首領を落としたわけやから、それはそれとしてこっち側としては喜ぶべきことでもあって」

「まてまて、勝手に俺をそっち側にすな。なんか、俺、あっち側の方がええわ、水原とか石川さんとは事務的な会話はしてたからな。俺、あっち側や」

「いやいやいや、貴方様はこっち側の首領ですよ」

「こっち側とかあっち側とか、もうやめろ。そもそも、何を基準にあっちとかこっちとかゆうとんねん!」

「いろいろ基準はあるけど、一つは出席日数やな」

「え?そうなん…?ほんなら、俺、もう思いっきり振り切ったこっち側やないかーい!」

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⬆︎王家の谷(たぶんこのあたり)⬆︎


そんな35年も前のやりとりを、2人で再現しながら歩くのである。

そして、私たちの記憶と今歩いている廃線跡がオーバーラップしてきます。

いくつかのトンネルを抜けていきます。

トンネルの中は一切、照明がありません。真っ暗です。右も左も上も下も、真っ暗闇です。

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こんな見事な赤煉瓦のトンネルもあるのでした。

しかし、35年前は赤煉瓦への興味など微塵もなく、3年前に再訪(というんかなこの場合?)して気づいた次第です。

このアーチは「えんま積み」というやつか?

いやはや、見事な赤煉瓦でござる。


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入り口と出口付近はまだ明かりがあります。

100m前後の短いトンネルなら、入り口から出口の光が見えますが、もっと長いトンネルになるといつ終わるかわからない真っ暗闇を懐中電灯の灯りだけで進むことになります。


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これ⬆︎なんかは出口まで30m程度。これくらいなら、懐中電灯を消しても差し支えありません。

一番長いトンネルは400mを超えます。真っ暗闇の距離が長く、あとどれくらいで出口なのかもわかりません。

いまは、トンネルの入り口と出口に、トンネルの長さを教えてくれる立札がありますが、35年前にはそんなもの、あろうはずがありません。

「このトンネル、どこまで続くんだ?いくらなんでも長すぎないか?」

「崖崩れとかでトンネルが塞がってたら引き返すしかない…っていうかもう引き返すか?」

「途中でトンネルが崩落したら、俺たちどうなるんだ?」

「そもそもここまでの道のりも下は渓流、山側も土砂崩れがあってもおかしくない」

そして、山川の斜面からは、パラパラと小石が足元に落ちてくる…。

嫌な予感から膨らむ恐怖と闘いながらも、〝こっち側〟のバカップルはズンズン進んだのでした。


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そして、約35年後バージョン、2023年の〝こっち側〟2人はどんどん記憶を呼び覚ましてゆきます。

⬆︎「ここ、確かに通った」。

「うん、見覚えある」。

そして、この先に〝アレ〟があることを確信するのです。

「多分(このトンネルの先)!!!」と、2人でほとんど同時に口にしました。

〝こっち側〟のバカップルのくせに、なんという正確な記憶力!

年はとっても、覚えてることは覚えているのである!

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福知山線廃線敷ハイキングコースのクライマックス。

渓谷を渡る鉄橋です。

もちろん、35年前の2人はこんなものがあるなんて知らずに、いつ出口の光が見えるのかと不安になりながらトンネルを歩いて「ん?アレはなんだ?」「橋?向こうには行ける?行けない?」とか言いながら、小走りになって出口に向かったのでした。

あのとき、トンネルを出たとき、冒険を成し遂げたすごいご褒美をもらった気がして、2人で歓声を上げた気もします。

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ーーーおお!…?なんだこの違和感は?

〝こっち側〟50代バカップルは違和感の正体にすぐ気づきます。

鉄橋が錆びていたからではありません。

線路が撤去されて、歩道が架けられていたからです。

35年前は、渓谷を流れる川面が枕木の隙間から見える線路を、こわごわと渡ったのでした。

「そういや、俺、あのとき自分が高所恐怖症だとはっきり認識したわ」。

いまなら歩道が敷かれて、足元から下の渓谷が見えるなんてことはありません。

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35年経って、2人が再びこの鉄橋を渡るとどうなるかというと、意味もなく笑い合うだけでした。



そして35年前は、この鉄橋を渡ってホッとした私たちの鼓膜をゴオオ…と低い地鳴りが震わせ「なんか、やばいぞ」と思う間もなく大きな轟きが走り、足元が確かに揺れました。

大地震か?と思いましたが、しばらくして地鳴りも轟きも収まりました。

何が起こったのかわからず「もしかしたら大きな天災が起きて私たちの町が壊滅してるんじゃないか?」という不安に駆られて「どこか登れる山肌を探して地上に戻らねば!」と地底人に捕まった地上人が脱出するように早足になるのでした。

そして…。

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この画像中央の巨岩。これが、目の前で見るといかに不自然なまでに大きいのかわかるのですが、これでは伝わらないかも知れません。


35年前の私たちは落ちたばかりのこの巨岩が噴煙を立ち昇らせている光景をまさに見たのでした。

あの地鳴りと轟きは、この巨岩が河原に落下した衝撃だったに違いありません。

その巨岩とも35年ぶりの再会。

「まだあったんや!」

「いや、あんなもん、誰も撤去でけへんて」


ハイキングコースはどこかの山肌を這い登って地上に戻る必要などなく、酒の飲めるお店と駐車場のある広場がゴールなのでした。

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足湯でバシャバシャしながら、2人は「めっちゃおもろかったけど、35年前と比べるとスリルとサスペンスは全くなかったな」と、約5km、私たちの足では1時間ちょうどくらいの短いウォーキングを終えるのでした。

晴田は「35年前は、こんな足湯なかったね」と、足で湯を蹴って私に引っ掛けてきました。

「かけかえしたろか!」と一瞬思いましたが、私は「もう若くないわ」と言ってしまいました。

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猪コロッケとふろふき大根。もちろん、最初は生ビール。

…やっぱり飲むんかーーい!










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廃線跡です。

東京では、木場駅から三ツ目通りを辰巳方面を走ると、マンション群の間に唐突に廃線跡が出現します。

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かつての東京港湾局専用線で、貨物列車が往来していたようです。

それにしても。都会に残る廃線跡の唐突さは半端じゃありません。

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赤錆れた「瑞穂橋梁」を走る廃線跡。

1934(昭和9年)年に建造され、日本最初の溶接鉄道橋は、米軍施設「横浜ノース・ドック」前に残っています。

廃線にもいろいろあって、東京港湾局専用線や横浜の瑞穂橋梁のような都会を走っていた線路もあれば、とんでもないとこを走っていた線路の跡というのもあります。

これまでに紹介してきた廃線跡は全てマイナーなものでした。


最も郷愁を誘い、想像力を刺激してくれるのは、都会の日常に唐突に現れる、そんなマイナーな廃線跡です。

しかし、そんな廃線跡ばかりではありません。

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何度か書いていますが、全くモテなかった私の暗くて湿っぽかった高校時代。

そもそも不登校で、女子とまともな話をしたこともなく、短い事務的な会話も交わした記憶があるのは陸上部の先輩と、おせっかいな同級生の1人だけ。

それでも、卒業式が終わって「制服の第2ボタン、私にくれへん?」と言ってくれた同級生が1人いました。

ちょっと反抗的な雰囲気の剣道部の子で、それが晴田さやかさんでした。

あまり学校に行ってなかった私が、同級生とはいえ彼女を知っていたのは結構、男にモテて、野球部や陸上部の同級生が何人か玉砕してたのを聞いていたからでした。

とはいえ、それまで気にしたこともなかったのですが、ヤンキーな雰囲気もある晴田がキッとした目を私に真っ直ぐ向けてスタスタと近づいてきた時は「こいつ、なんか俺に文句あるんか?俺、こいつになんかしたか?」と、トラブルの気配しか感じられませんでした。

それだけに、ボタンをくれとお願いされ「1年のときからずーーっと好きでした」と告白されても、「いやいやいや、それは俺じゃないやろ」としか思えず、「え?俺?ひと違いやろ」とみたいなことを言ってしまいました。

彼女はそれまでの恥じらう乙女の仮面を一瞬で脱ぎ捨て「はあ?こんなん、ひと間違いすることぉ?」と、笑いながらも睨んできました。

私も勇気を出して告白してくれた女性に失礼な態度だったと「ごめん」と謝り、ボタンを差し出すと「ありがとう」と受け取ってくれました。

彼女のことをあらためて見ると、確かに男ウケする可愛い人だと納得しましたが、同輩が「晴田に他に好きな人がおんねんってフラれた」と落ち込んでいたのを思い出して、「もしかして、それ俺のことか?いや、俺はなんも悪ぅないよな、この場合?」と、ものすごく複雑な気持ちにグラグラしてしまいました。

生まれて初めてのことに何をしゃべっていいのかわからなくなっている私に、彼女は「大丈夫、付き合ってくれなんてゆわへんから」と笑いました。

私としては「なんで付き合ってくれと言わないんだろう?」とも思いましたが、そのときは深く考えていませんでした。


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昔むかしを振り返ると、彼女も含めて私はとんでもない悪い友だちにも恵まれました…。

ここから先は、たぶん以前書いた「仁徳天皇陵」の話と同じで、私の妄想として受け止めてください。

大学進学で上京したばかりの夏休みだった気がします。

高校時代の友だちと尼崎で飲んで最後に入ったバーで、その友だちが同じカウンターに座っていた二人組の女の方に目配せしながら「あの奥の方の子、めっちゃ可愛いなあ。声かけてきていい?」と言うので、私は「え?俺、そんなん好きやないからもう帰るで」と腰を上げると〝奥の方のめっちゃ可愛い子〟と目が合ってしまいました。

晴田さんでした。

「あーー!三島くん!帰ってきてたん?」と大声で立ち上がった晴田さん。私は「(なんでこんなとこで)晴田?」と言うのが精一杯。私の友だちは「お前ら、知り合いやったん?」と驚き、成り行き上、仕方がなく4人で飲むことに。

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私は翌々日に東京に戻る予定で、次の日はゆっくりしようと考えていましたが、深夜にバーを出て別れぎわ。

晴田が他の二人にはわからないように私のジャケットのポケットに電話番号を書いた紙を入れて「私、起きて待ってる」と早口で囁かれました。

晴田に対して、なにか説明できない負い目を感じていた私は自宅近くの電話ボックスで彼女に電話しました(当時は携帯電話などない!)。

「さっき思いついてんけど、一緒に行きたいとこがある」というのです。「さっき思いついたこと、そんなすぐ実行しようとすな。って、もう12時とっくに回ってるし、明日帰らなあかんから、俺」。

「じゃあ、今日にしよ、今日に!」と、まだ酔いの冷めてない晴田は上機嫌で「大丈夫、付き合ってくれなんてゆわへんから」と、あの日と同じように笑うのでした。



ーーーここまではセーフですね。妄想はもちろん事実と受け止めてもらっても大丈夫。



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先日、東京出張中の弟に会って話をしていたとき、大阪教育大学の附属高校を再編する話になりました。

天王寺、平野、池田のうち、天王寺と平野を統合する予定だそう。

「平野なんて人気がなくて、定員割れしてる」と聞きました。

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弟は大教大池田→東大という、阪神地区の勉強出来る子コースど真ん中を歩んだので、ちょっとは思い入れがあったようですが、東海大姫路などの方面に目が向いていた私には全く思い入れがありません。

とはいえ、時代は感じます。

私たちの時代、大阪兵庫は公立高校もなかなか優秀でしたが(我が母校は除く)、高校授業料無償化の影響で私立の人気が上がっていることも影響してるといいます。

そういえば、きょうは兵庫県の公立高校の入試でした。

他愛もない会話の中で弟が「兄ちゃん、晴田さんって知ってる?美人剣士で有名やねんで」と聞いてきて、ドキッとしてしまいました。

晴田さやかさんは高校時代の同級生でした。

弟の娘、私の姪が入ってる剣道クラブで晴田さんが教えてるということでしたが、私の同級生だということは最近知ったそうです。

私は「こいつ、どこまで知っとんねん?」と人質でも取られたような不安にかられながら「ああ、高校の同級生や、確か。俺のことなんか言っとったん?」とさりげなく答えると、「高校のとき、兄ちゃんのことが好きやってんってゆうてた。兄ちゃんがあんな綺麗な人に、なんかの間違いかと思うたわ」と、ますます「こいつどこまで知っとんねん?」と人質的不安が膨らみました。

晴田さんには卒業式が終わったあとに「ずっと好きでした」と告白されましたが、「どないせぇっちゅうねん?」という高校最後の日です。

高校時代、不登校な私は女子と話したことはほとんどない、彼女なんていたこともない、バレンタインデーには義理チョコすらもらったことがない、というひたすら暗い青春を送っていた私にとって、晴田さんはたった一人の花でした…といっても卒業式のあとの話なので、高校時代とはいえませんが。

高校卒業してからは、尼崎のバーで偶然会ったのと、その翌日に2人で結構危ないデート、それからずっと時代が下って、3年前に〝結構危ないデート〟を辿った3回だけ。普段から連絡を取ることも、ほとんどありません。



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丹下健三の設計により1967年に竣工。地上13階・地下3階・塔屋2階、塔屋を含む高さ約60m。

巨大戦艦の司令塔のような塔屋が印象的です。

1967年に竣工。2002年に汐留の電通本社ビルが完成するまで電通の本社ビルでした。

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こんなオブジェも、まさに昭和。

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こんな大きなオブジェもあった、まさに昭和な建築でした。

2021年に解体。

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解体工事が始まります。解体で生じる粉塵などを防ぐため、シールドで覆われるビル。

シールドの中から解体工事の音が大音量で響いていました。

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築地のランドマークが消えてゆきます。

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さらば、昭和。



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阪神エリアが絶対的・全面的にガラが悪く、極度に民度が低いわけではありません。

宝塚歌劇のある宝塚市も阪神エリアです。また、池田市なんかも阪神エリア。

池田には、大阪教育大学附属高校という、私なんかが通っていた中学校からは学年に1人合格するかどうかという難関高校もあります。

自分のことではないので自慢になりませんが、妹が大教大池田卒。

同じ阪神間で、ガラの悪い我が高校とは何度か野球の練習試合をしてボコボコにしてやったのですが、彼らの同窓会みたいなのに招かれてしまい「ちょうどそのタイミングで大阪にいるわ」と、参加することに。

池田、やはり、民度が高い!私に「民度が高い!」と褒められても池田や宝塚の人々は全く嬉しくないでしょうけど。


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なんだか理由はわからんが、ここまでくるとあんまり好きじゃないかも…。

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そして、見つけた赤煉瓦。

むむむむ…。

赤煉瓦マニア歴4年くらい?目利きの俺は一眼見て「これ、化粧煉瓦やん」と喝破したのでした。

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案の定!島村丈!

この小綺麗な赤煉瓦の建物は、河村商店(旧加島銀行池田支店)という国登録有形文化財。
大正7年に加島銀行池田支店として、能勢街道に面して建てられ、屋根は金属葺で木造モルタル2階建。

…つまりは木造モルタル。私のような大家が見れば化粧煉瓦、タイル煉瓦であることなど一目で見抜くのである。

正面の構えは石積みと赤 煉瓦積 みで長大な柱型を表していて、窓上や柱型上部に抽象化された装飾を設けている。

設計は辰野片岡建築事務所、つまり東京駅や中之島公会堂などを手掛けた辰野金吾が関わってるということ。なるほどな面構えです。

銀行時代の金庫、接客カウンター、室内床タイルがまだ店内に残っているとのことでしたが、入り口は閉ざされてました。


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側面から見ちゃダメ!ですね。









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式典大嫌いな私ですが、結婚式は嫌いではありません。


ホテル近くの大阪府庁で赤煉瓦遺構を発見。

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旧大阪府庁舎跡から見つかった暖炉だそうです。

なんか、言われてみると暖炉な気がします。

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正面?から見るとまさに暖炉。

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年季を重ねた赤煉瓦の劣化と爛れ具合、なんとも蠱惑的です。


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庁舎のすぐ目の前は大阪城。

3〜4年前に大阪城で旧大阪砲兵工廠化学分析所の見事な赤煉瓦遺構に巡り会えましたが、すぐそばにこんな暖炉があったとは。

事前に調べておけば、あのとき一度に見ることができたんでしょうが、それは私の赤煉瓦哲学に反する行為、行き当たりばったりで良いのです。

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しかし、結婚式は疲れます。

しばらく、大阪に滞在。大阪といえばホルモン。

東京ではまず食えない部位がたくさん味わえます。

酒と合い過ぎて、たまらん。





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廃墟にはそこまで興味はないのだが、これほどの廃墟となると壮観です。

根岸森林公園は第二次世界大戦までは、競馬場として利用さ、競馬場には馬場のほかに、一時馬見所・二等馬見所・下見所などの施設がありました。

全ての施設は、アメリカ人建築家・Hモーガン(1877~1937)による設計。

モーガンは横浜山手の洋館などを手がけていますが、この一等馬見所は東北学院大学の本巻と同じ香りを漂わせています。

東北学院大、知りませんでした。

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現存している建物は、一等馬見所で昭和5年(1930年)に建設されたもの。

この威容、そして見事に絡まるツタですが、管理されていら様子が窺えない廃墟です。

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小さなおひとり様用テーブルに案内されて。

オムライスをカレーとハヤシで挟み撃ちにしたところに、スプリングバレー豊潤496 という生ビールを急襲させてみました。

ここは約60㎝四方、360㎠の天国かもしれません。


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https://fushiananome.blog.jp/archives/21902291.html

1870年(明治3年)にウィリアム・コープランドが横浜でビールに適した湧水を見つけ「スプリングバレーブルワリー」という醸造所を作りました。

スプリングバレーの由来です。

この湧水は埋め立てられてしまい、その跡地は横浜市立北方小学校になってしまっているのですが…当時の湧水を汲みだした井戸、枯れ井戸だけが今も遺っているのです。

ずっと前に見て来ましたが、赤煉瓦で組まれた見事な井戸でした。


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【倉敷観光WEB】倉敷アイビースクエア…白壁のイメージが強い美観地区も産業観光の舞台です。

綿花や米の集散地として栄えた天領の町倉敷でしたが、明治になると紡績業で再興が図られ、代官所跡に倉敷紡績所が建設されました。

本社工場を再開発し、複合文化施設として再生したのがアイビースクエア。ツタ(=アイビー)のからまる赤いレンガが目をひく敷地内には、陶芸が体験できる工房やホテルなどがあり、創業当時の原綿倉庫を利用した倉紡記念館は、当時の産業の歩みを現代に伝えています。

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ツタのからまる赤煉瓦が麗しいホテルでしたが、客室前の往時の赤煉瓦そのまんま剥き出しは圧巻でした。

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100年以上の風雪に耐えて爛れた赤煉瓦。

妖艶です、もはやエロいです。

廊下ではなく部屋の壁に取り入れて欲しかったですが、ホテルの中でこのレベルの赤煉瓦遺構を拝めるとは!

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元々が紡績工場です。

当然、真面目なイギリス積みです。

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この壁の上の方にある、オッパイみたいな二つの半球体。

これは「鉄鈴」なるもので「工場の始業・終業などの合図に使われていた」そうです。

「蒸気により鉄鈴が鳴る作動装置もそのまま残っています」とのこと。

パイプの中を蒸気が吹き上がり、鉄鈴オッパイを打ち鳴らしていたのでしょうか?

鉄鈴の下の8つの円筒はスピーカーみたいな役割?

そして、朝ごはんも美味しかったです。



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尼崎信用金庫、創業時の本店事務所である。


1897年(明治30年)頃に建てられたといいますから、もう127年前。

当初はこの場所から50m南に建てられたそうですが、新本店の建設にともない1972年(昭和47年)に現在の場所に移築したそうです。

そのときの「移築」って一体、どんな作業だったのでしょうか?

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単調な長手積みですが、煉瓦の焼きむらがいいアクセントになっています。

いつまでも遺して欲しい見事な赤煉瓦建築です。



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