カテゴリ: 恥さらしの人生でした。

今日、会社で「齟齬って英語でなんていう?」という話になりました。

(Are we )on the same page?(俺たち同じページを見てるよね?)なんて会話は普通にするけど、齟齬の英語はすぐ思い浮かばないポンコツ集団でした。


今回は、齟齬というよりも「認識のズレ」という話です。

以前も書いた気がしますが、私のネイチャー誌やサイエンス誌の認識が間違っていたこと。

大学受験は文系理系二刀流でしたが、その後の人生は文系まっしぐら、なんて言い訳をしつつも「ネイチャーやサイエンスに掲載された研究論文は十分な裏付けが証明されて、評価がフィックスしたもの」と思い込んでいました。

現実には、長い歳月を要する実験結果を追認するのは同等に近い時間がかかることになり、基本的に性善説をとって論文掲載しているというのです。

ちょうど9年前の今くらいの頃。

世間はSTAP細胞の発見に「ノーベル賞もの」と沸き立ち、若い女性研究者は時の人となっていました。

たまたま、企業などで研究者として働いている友人と飲む機会があり〝性善説〟を初めて知り「ええー?それなら俺が不老不死の薬を発明した!と言ってもネイチャーは掲載してくれるのか?」なんて、私のバカなサーブを友人は「ちゃんと話聞けよ。性善説だ!お前は善じゃなく悪だから、何を書いても掲載されない」ときっちりリターンしてくれたのでした。

STAP細胞、その後の顛末はご存知の通りです。

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ネイチャーのコロナに関する記事は、今読んでも予見性に溢れて、ついついネイチャーは凄い!と思い込んでしまいがちです。

ネイチャー誌は権威があるから、掲載される論文も厳しい審査を通過した完全体、画期的な論文ならノーベル賞へGO!なんて思ってましたが、そんなことはなく、これまでにも研究ケッカノを捏造した論文が何度となく掲載されてきたそうです。

同じ雑誌でよく似てる現象が、The Ring Magazine、リング誌への日本のボクシングファンの誤解かもしれません。

現実に全く売れていないリング誌を権威があるなんて思う米国人はいないでしょうが、日本では「権威ある」が枕詞に添えられることが珍しくありません。

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どんどん薄くなるリング誌 ↑に、定期購読者は廃刊を覚悟していました。


このブログを甘噛みしてる人なら、リング誌が「慢性経営難の廃刊寸前雑誌」であることは十分に伝わっていたでしょう。

リング誌の場合はランキングを捏造するなど、自ら信用を失墜させ続けたのですが…。

リング誌電子版の立ち位置も微妙です。大量の記者をリストラ、ESPNやBoxing scene.comのようにプラットフォームと強固に結びつくメディアとは記事の質だけでなく、情報収集力でもどんどん引き離されています。

一方のネイチャー誌(比べるか?と笑われそうですが、私にとってリング誌はおそらく生涯最も愛した雑誌なのです)は、デジタル版も売れまくっています、というかデジタル版のくせに高額なのです。

世界中の科学者にとって、ネイチャーは貴重なニュース源で、定期購読しないわけにはいかないのです。それを逆手にとっての強気の価格設定なのです。

デジタル化の波に飲み込まれた(というか80年代にも廃刊してるからそもそも売れない雑誌の)リング誌と、デジタル版を買わないとどうしようもないネイチャー誌。

リング誌は「スポーツ」という特殊なジャンルとはいえ、本当に価値のあるものを売っていたのなら、紙でもデジタルでも関係ありません。

デジタル版を定期購読しなければ、情報乞食になるという状況を作ったネイチャーには「紙媒体のときの方が開かれていた」という批判もありますが、単純にすごいと思います。

大好きだったリング誌に関しては、初めて手に取った1980年頃は最高に面白かったのに、特に2000年代に入ってからはクオリティが明らかに下落。

焼き直しの記事で埋めた過去のグレードの特集号などが目立つようになり、ロンダ・ラウジーや井上尚弥を単独カバーする頃には末期症状を呈していました。

そんなリング誌を「権威ある」と崇める記事をを目にするたびに「こいつ、リング誌を見たことも読んだこともないだろうな」と、呆れ果てるのでした。

私のネイチャーやサイエンスへの〝誤解〟も似たようなことですが、私はネイチャーやサイエンスを手にとって読んだことはありました。

「リング誌のPFPは権威がある」というのも馬鹿過ぎます。

そもそもが妄想ランキングのPFPです。なおかつ、リング誌のいい加減極まる選考過程も知れば、ESPNなど記名投票のランキングの方が妄想を純粋に楽しめるのは明らかなのですが…。
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一昨日の「3150FIGFT vol.4」は、随所に挟まれる亀田興毅ファウンダーのたどたどしい挨拶も新鮮でした。

一番盛り上がったのは、ファウンダーがリングサイドにサイバーエージェントの藤田晋社長と並んで座る島田紳助を紹介したときだったでしょう。

というわけで、正月気分の抜けない1月8日、日曜日の朝はボクシングマガジン1989年8月号から。

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表紙は今なお「ボクシング史上最高試合」と謳われる、1981年のシュガー・レイ・レナードとトーマス・ハーンズの1981年の「THE SHOW DOWN」から、8年越しの再戦。試合内容から判定まで何もかもが「幻滅」のメガファイト、あまりにも遅すぎた再戦でした。 

当時、米国ボクシングは〝消灯〟寸前でしたが、クローズドサーキットからPPVへと一握りのスター選手がより巨額のファイトマネーを手にするシステムが構築されつつありました。

日本でもNHKがBSで「世界のボクシング」の放送開始、地上波のNHK総合へ28年ぶりの復活も噂されるなど、新しい局面を迎えていました。

この号は、私にとっても想い出がいっぱい。

まずは「ファン登場 I love Boxing」のコーナーに島田紳助が登場。

カラーページでも取り上げられた日本フェザー級タイトルマッチで1位の福田健吾を2ラウンドKOで初防衛に成功した王者・浅川誠二が「勝ったら」という条件付きでのインタビューでした。

紳助は「大場政夫に憧れ」プロを目指した高校時代や、ジムでは「シャドーの鬼と呼ばれていた」と持ち前のシャレっ気も披露。 

そういえば、セコンドから福田を思いっきりヤジっていました。 

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この頃は、個人的にも後楽園ホールによく通っていたボクシングファンとして優等生だった時代。

世界王者は不在、世界戦の連敗記録を更新中だった暗黒時代ですが、私の観戦歴では黄金時代だったのかもしれません。

レパード玉熊や畑中清詞、平仲明信、ストロー級で再起の大橋秀行らが世界へスタンバイしていましたが、私は後楽園ホールのリングで個性的なファイターが放つ妙な磁力に惹き寄せられていました。

ホープ時代のピューマ渡久地や川島郭志、日本タイトル3階級制覇のライト級王者の五代登、ジュニアフェザー級でますます〝磨きがかかった〟逆転の貴公子・高橋ナオト、ジュニアライト級の赤城武幸、ウェルター級の吉野弘幸にジュニアミドル級の上山仁…。

そして、五代に日本タイトルを追われた大友巌が朴奉春から一発KOでOPBF王座を奪取した試合も、この8月号に掲載されています。

当時のライト級はフリオ・セサール・チャベスがWBAとWBCを統一、IBF王者はパーネル・ウイテカーと、あらゆる意味で大友(大川ジム)がどうにかできる世界ではありませんでした。

それでも、大友の巌という名前そのままの無骨で不器用で力任せのファイトには異様な魅力がありました。「こいつとは絶対ケンカしたくないな」という。

引退試合では、あのオルズベック・ナザロフを相手に最後まで倒れず戦い抜いたど根性に、後楽園ホールの片隅で感動に震えていました。

その大友は、大動脈解離という病気で今年10月に突然死を迎えてしまいます。まだ59歳の若さでした。



そして、この号の世界の情報を伝える「トピックウォッチング」では「リング誌の廃刊」も伝えられています。

1922年の創刊から67年。この当時も、米国ボクシングの没落から廃刊が噂されており、最期の4月号の発行部数はわずか2万5000部(実際はもっと少なかったと思われます)でした。

モハメド・アリが活躍していた70年代の全盛期には60万部を発行していたと〝自称〟していた、〝自称〟「ボクシングの聖書」ですが、実際には12〜13万部で、信用が失墜したランキング操作のスキャンダルと同じく、発行部数も5倍もサバを読む〝詐称〟でした。

このときは、なんとか翌年に復刊を遂げたリング誌でしたが、その後も米国ボクシングの凋落は全く歯止めがかからず、今年で廃刊。今回は復活の目処が全く立たない、完全カウントアウトです。

当時の私の読者歴は長くはなかったものの「長い間ずっとお世話になった」と感慨深かったのを覚えています。スキャンダルに経営難と「権威ある」とは素直にいえないリング誌でしたが、面白い記事が多かったのです。私にとっては世界のボクシングと英語のテキストでした。

高校の図書館で貪り読み、大学では自分でも購入するようになって、人生の楽しみの一部だったリング誌、若く多感な時期に愛した雑誌との時間はとてつもなく長く感じたものだったのです。


そして、通算40年以上になるリング誌とのお付き合いが今年、ついに終わってしまいました。
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大昔に聞いて、ずっと忘れていたことが、ある日偶然に化石を見つけるように、突然蘇ることがあります。

高校時代、国道沿いの寂れまくった名画座に、月に何日か入り浸っていました。

100席もない座席の2割ほどはスプリングが壊れていました。

スプリングがシートカバーを突き出てたり、シートカバーが不自然に沈んでいたりすると「不良品席」だとすぐわかりますが、見た目ではそれとわからない、落とし穴みたいな席があるから厄介でした。

暗闇の中「この席は大丈夫」と思って座ると、中のスプリングが外れてて、ひっくり返るほど体が沈んでしまいビックリする、なんてことが何度かありました。

常連にすごく綺麗なお姉さんがいて、ズッコケた私を見られて、彼女にクスクス笑われたりするのは、なんだか意味もなく嬉しくなったのを覚えています。いや、十分に意味はありました。

高校では女子とほとんど話すことのなかった私に、綺麗なお姉さんが可愛い笑顔を向けてくれるのですから。

ずーーーーーっと後になって知るのですが、学生時代はミス近大だったりする〝そうでしょうね〟なお姉さんでした。

しかし、常連には昼間っから酒臭い謎のオッサンもいて、壊れた座席に気づかず、私がズッコケるのを見られて、思いっきり「お子ちゃまやのう」と笑われるのは無性に腹が立ちました。

多感な男子高校生にとって、綺麗なお姉さんにクスクス笑われるのと、酔っ払いのオッサンに笑われるのとでは、全く違う気持ちになるのです。

何度も通ううちに、私の頭の中に座席のハザードマップが完成し、ズッコけることがなくなる頃には、綺麗なお姉さんや酒臭いオッサンら、謎の常連さん達と顔見知りになっていました。

謎の常連さん達…きっと第三者から見ると高校生っぽい(実際、高校生でした)私も昼間っから映画館に入り浸る、謎の人物に見えたに違いありません。

顔見知りになったといっても、自己紹介なんてするわけもなく、まともな会話を交わすこともなく、名前もどこに住んでいるのかも、彼らのことは何一つ知りませんでした。

知っているとしたら、彼らが私よりも、映画にずっと詳しいだろうということだけでした。

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ある日、安全と見極めた座席にドスッと腰を落とすと、その酔っ払いのオッサン(今思うと最初に見かけたときに酒臭かっただけでそのあとはシラフだった気がします、第一印象で決め付けてたのかもしれません)が、後ろの席から「へえー。サル以下のお兄ちゃんやと思ぅとったけど、学習能力あるやんけ。大したもんや」とパチパチ拍手してきました。

無視していると、そのオッサンが隣に座って瓶コーラを渡してくれました。

映画館に行くと、ときどき常連さんが飲み物やポップコーンを奢ってくれていましたが、オッサンもそんな優しい大人の1人でした。

お礼は言ってたと思いますが、そこから話が膨らむことはなく、今なら連絡先を交換したりすぐできていたでしょうが、私は彼らの名前すら1人も知らずに高校を卒業し、しばらくすると国道沿いの名画座は取り壊され、跡地には家電量販店が建ってしまうのでした。

例のオッサンが隣に座ったときは「えー、こんなに空いてるのに他の席で見ろや!」と、心の中で絶叫していました。

その日、上映していたのはハワード・ホークス監督の傑作ギャング映画「スカーフェイス(暗黒街の顔役)」(1932年)。後に、アル・パチーノ主演でもリメイクされる名作です。

入れ替え制ではないので、一旦入場したら最終回まで何度も見れるので、その日もそうしようと決めていました。

オッサンは一回目を見終わった頃合いを見て「何回見てもええ映画やなあ」と話しかけてきました。

確かにいい映画でした。私にとっては初スカーフェイスで「何回見ても」と口にしたオッサンは、もう何度も見ているのでしょう。

黙っているのも気まずいので「何回目なんですか?」と聞く私の声が聞こえなかったかのように、オッサンは「昔、むかしに丹波にも映画館があったんや。ここに少し似てて、雰囲気ある映画館があったんや」と、問わず語りに話し出すのです。

小さい頃に親戚がいる丹波を訪ねたとき、父親にその映画館に連れられできたことがあったそうです。

その後、オッサンは「軟派な道」に入ってしまい、新しい事務所に〝転勤〟することになり、行ってみると、その丹波の映画館の跡地に建てられたビルだったそうです。

そのとき、自分が無性に情けなくなって、後悔が耐えられないほど膨れ上がってしまい、最後に大仕事を引き受けて〝お勤め〟から帰って「軟派の道」を抜けたそうです。

「ワシがあの映画館を壊してしまったような気分になってもぅてなぁ」。

当時、怖いもの知らずというか、俺なんてどっかで野垂れ死ぬと厭世的になっていた私が「おっちゃん、ヤーさんか?」と、ド直球に聞くと「ちゃうちゃう、ちょっと軟派な道に外れただけや」と、つまらなそうに否定しました。

もう、35年も前の話です。いや、もっと前か。

あれから幾星霜、先日訪れた立命館大学で「ヱビスシネマ」という映画館の広報紙を偶然手にして、それがあの「丹波の映画館」に間違いないと気づくと、高校時代の記憶が一気に呼び覚まされました。

オッサンの言ってた、あの映画館です。

あれから…近隣住民が暴力団追放に立ち上がり、2014年に建物を買い取り、2021年には映画館として復活していたのです。

しかし、2022年に新型コロナウイルスの感染拡大で緊急事態宣言が出てしまい、営業自粛、経営難に陥ってしまいます。

それでも、クラウドファンディングで資金を集めて、銀幕の光を繋いだという、ちょっとした感動物語が紡がれていたのです。


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そして、なんの偶然か、偶然か。ヱビスシネマの記事が日経新聞でも取り上げられていました!

その記事で、暴力団事務所が「山口組傘下の組織」ということもわかりました。

オッサンの「ちゃうちゃう、ちょっと軟派な道に外れただけや」と言う声を思い出し「何がちょっと軟派な道や、バリバリのメジャーリーガーやないか」と、思わず笑ってしまいました。

まあ、とにかく、ヱビスシネマ。行かねばなりません。

あのオッサンは、映画館の復活を絶対に知っているはずです。もしかしたら、会えるかもしれません。

元ミス近大とは再会を果たして、去年のお正月は夜通し映画談義したのでしたが、今年は私が大阪方面にヤボ用があってサスペンドになっていたところでした。

もし、あのオッサンと再会できたらどんなに面白いことでしょうか…しかし、あの頃であのオッサンは何歳だったのだろうと考えると、再会なんてあり得ないかもしれないと思い直すと、少し悲しくなりました。

60歳と言われたら、そんな気もするし、今の私と同じくらいとしても50過ぎ、今では85を超えてることになります。あのとき60歳なら、今95歳…。



あのオッサンと「スカーフェイス」や「ゴッドファーザー」「仁義なき戦い」なんかの話ができていたら、どんなに面白かったことでしょう!

私がますます高校に行かなくなってたことは間違いありません。


どうして、あのとき名前や連絡先を聞かなかったのか…後悔が募ります。

高校を卒業したタイミングで「お世話になりました」と挨拶に行って、遅ればせながらにも程がある自己紹介や連絡先を交換していたら…。

世の中、後悔することばかりです。

今ならすぐ連絡できる関係に繋がることができるのでしょうが…よくよく考えると、あのオッサンのSNSとか見たないな…。それに「軟派な道は抜けた」なんてウソだったかもしれんし。

ああ、でもとにかく無性に会いたくなりました。
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子供の運動能力が飛躍的に伸び、のちの成長やバランス感覚に大きな影響を与える9歳から12歳頃はゴールデンエイジと呼ばれています。

これはおそらくその通りで、ここでしっかりしたバランスの土台と感覚を覚えると、のちのちのトレーニング効果が変わってくると思います。

では、知能的なゴールデンエイジはどの年代にあるのでしょうか?

記憶力や知能的反射という点から考えると、おそらく運動のゴールデンエイジと変わらないような気もします。

藤井聡太の強さは、多分に若さに依拠しているように思えます。

もちろん、ゴールデンエイジなど将来トップレベルで戦うことを想定した場合の仮説であって、100メートルを10秒台で走る、東大や国立医学部に入るとかいうレベルなら「思い立ったが吉日」です。

昨年の夏に母校の現役高校生らと会ったとき、彼らの若さと感性の瑞々しさに驚いた一方で、自身がない子、自分の潜在能力を過小評価している子が多いことに軽い衝撃を受けました。

もちろん、彼らは運動ならきちんと考えて練習していないとか質がどうとかいう以前に、練習量が圧倒的に少ないし、勉強するにしても質や効率的以前に量が全く足りていません。

彼らとは、メール交換しながら運動や勉強の話をしてきました。

初対面のオッサンとのメールのやり取りなんてすぐ飽きるだろうと思ってましたが、意外なことに濃密なないよの相談を次から次へと持ちかけてくれています。

夏の別れ際に、陸上中長距離の子には「11月の地域の駅伝大会で結果が出なければ、このメールとかの指導も終わり。俺の指導が合わんかったということ」というようなことを伝えると、みんな「あと3ヶ月もないのにそんなの無理だ」と口を揃えたので「お前ら高校生やろ?そもそも全部まとめても36ヶ月しかない。3ヶ月で成果を上げられないなら、やめてまえ」と吐きました。

突き放すような言い方をしたので、メールもあんまり来ないかな、とか内容も恐々の遠慮がちになるかなと思いきや、全くそうではありませんでした。


その駅伝大会では見事入賞。私の先輩も「みんな泣いてるでぇ」と動画を送ってくれました。

ただ、よくよく聞くと私たちの時代で20校近く参加していた大会は10校まで減り、入賞というのも私たちの頃の6位から8位に拡大と、ボクシングでいうなら4団体17階級時代を迎えていたのでした。

「10校中8位を入賞って、なんかおかしくないか?」と意地悪する私に「成果を上げろってゆうたやん!最下位から8位入賞は成果とちゃうんか!」と嬉しそうに反論してくる高校生ども。

夏には過半数を占めた5000メートル18分30秒以上かかっていた子は1人もいなくなり、1人もいなかった16分台を2人も出していました。

数少ない記録会のチャンスで、全員が1分以上も自己ベストを短縮していたのです。

ちゃんと練習したら、成果が出るのは100%分かっていました。「亀からスッポンくらいに進化したな」と口では言いましたが、私の想像を超えてくれました。

もちろん、私の指導が良かったわけではありませんが、彼らのモチベーターにはなっているとメールのやり取りでも感じることができました。

15、16、17歳は、よくいうゴールデンエイジは過ぎていても、心身とも爆発的に成長するという時期です。その意味でも間違いなく、ゴールデンエイジです。

とはいえ、16分台までなら亀やスッポンでも出せますが、15分台になると壁は全く違う種類のものになります。さらに14分台は新しい景色です。13分台なら、比較対象が違うとはいえ、東大合格よりも間違いなく、はるかに難しい。

なんだろう、自分が関わった子が頑張って成長しているのを見るのは、自分が自己ベスト出したときとは、全く違う喜びがあります。

同じ大会で優勝テープを切ったときに、私は腕にテープを絡ませてくるっと回って体に巻きつけ、こっぴどく怒られたことがありました。

野球でも決定的なヒットを放って、これ見よがしなガッツポーズをして、やはり怒られたことが何度もありました。

野球の場合は対戦相手もやってるというのもありましたが、陸上では珍しく、他校でマネする選手が出て問題になり「野球とちゃうねんぞ」と怒られながら「いや、野球でも怒られるけどな」と思ってました。

夏の懇親会では先輩から「模試や講習で成績優秀者、あちこち受験して現金もらってたことや、駅伝でふざけたゴールしたとか武勇伝系の話は一切NG。知ってるOBがなんか言ってきても、そんなの全部ウソの噂、ゴールテープは精魂尽きてよろめいた拍子に絡みつきたいということやで」とクギを刺されていましたが、それは私もわかってました。

これから戦おうという子にとって、百害あって一利なしです。


そういう自己顕示欲に根ざす喜びとは、ずっと遠く離れた嬉しさが、教えた若い子の成長を見るときに湧き上がってくるもので、これがきっと年を取るということなんでしょう。
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高校時代、授業にも出ずに自宅や図書館で引きこもっていた日々。

進学など全く考えずに、図書館の本を貪り読んだり、場末の映画館で古い名画を朝まで繰り返し観ながら、未来への不安をかき消そうとしていた毎日。

高校2年生のときに、一つ上の先輩から「大学行った方が就職するまでの執行猶予が楽しめるやん」と、薦められるまま模擬試験を受けると、5割ちょっとの点数しか取れませんでしたが、学校の中間期末試験はもっと酷い点数だったので、簡単な模擬試験なんだと思っていました。

しかし、先輩は「やっぱり思ってた通りや、この模試で偏差値60超えるって大したもんや。丸腰でこれやから、次受けたらもっと点数伸びる。この予備校から講習受けてくれってお願いされるで」と、励ましてくれて、次は教科書や参考書も少しなめて読んでから受けると、先輩の言う通りになりました。

無料で招待されたいくつかの予備校の中に、元学生運動の闘士で2万冊以上本を読んだという名物英語講師がいました。

ある日、講義が始まる前にボクシングマガジンを広げて読んでいると、その講師が「珍しいものを読んでるな」と取り上げて、パラパラ見て「もしかしてこの英語のキャプションで勉強しとんか?」と話しかけてきたのを覚えています。

確かに、今見直すと記事の頭にある英語の概要は結構なボリュームです。

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そのボクマガが1986年2月号でした。表紙は「新・世界の顔 ドン・カリー」。ミルトン・マクローリーとの完全統一戦に勝利、シュガー・レイ・レナード以来のウェルター級Undisputed Championは、世界のボクシングシーンの中心であった、ミドル級のUndisputed Championマービン・ハグラーとの対戦が熱望されていました。

今から36年前、ラスベガスの中心地はシーザース・パレス。リングの主役はマービン・ハグラーでした。

記事は1985年12月下旬〜1986年1月上旬に行われた試合が中心。

ページをめくると、巻頭特集は「打倒ハグラーに狙いを定めるクールなキングコブラ」。

そして「カオサイ、豪快に倒し納め」では、ラジャダムナン・スタジアムでエドガー・モンセラットを2ラウンドKOで破壊したWBAジュニアバンタム級王者カオサイ・ギャラクシーの防衛戦を詳報。

「韓国が世界Jフライ級独占」では、柳明佑がホームの大邱体育館でWBA王者ジョーイ・オリボからスプリットデジションでタイトルを奪取。すでに防衛のテープを8に伸ばしていたWBC王者の張正九の対立王者に就きました。

今なら、寺地拳四朗vs京口紘人のようにUndisputed Championshipに向けて盛り上がったのでしょうが、両団体の確執は深く、統一戦に乗り出した王者はタイトル剥奪が当たり前の時代。

Undisputed Championを戴いていたのは、ウェルターとミドルという大きな興行になる人気階級だけでした。

今回、この号を取り上げたのは、WBCライト級王者ヘクター・カマチョのノンタイトル戦がしっかり報じられていたからです。

「カマチョ、無冠戦で楽勝」のヘッドラインで、記事の中にはトラッシュトーカーのマッチョマンが「珍しく相手を褒めることを忘れなかった」「彼はベストを尽くした。自分が負けることを知りながら、全力でぶつかってきた」と話したことが紹介されていました。

かつて、ホワイトホープと期待され、世界ランカーに入ったこともある、カマチョの対戦相手は…。

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当時25歳のフレディ・ローチでした。

前の試合で、のちの世界王者グレグ・ホーゲンに7ラウンドでストップされていたローチは「スーパースターのカマチョに勝てば人生がひっくり返ると信じて最後まで諦めなかったが、とにかく手も足も速かった」と、完敗を受け入れます。

後になって、バージル・ヒルを指導してトレーナーの素質を開花させたローチを知り、このボクマガを引っ張り出して読み返したこともよく覚えています。

「あのとき、カマチョに何もできずに完敗した白人が頑張ってる」…感動しました。

その後、ローチはマーロン・スターリングやウェイン・マッカラーらのトレーナーもつとめ、指導者としての地歩を固めます。

リングの中で夢を叶えられなかった青年がトレーナーとして大きな成功を収めるーーー人生の逆転劇に勇気づけられましたが、そんな大きな成功が単なるプロローグに過ぎなかったとは…。

まさかもっともっと大きな栄光が、ローチに待ち構えているなんて、ボクマガ1986年2月号を手に取って予備校の講堂で読んでいた当時の私には想像だにできませんでした。
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※もしかしたら差別表現になるかもしれない記述がありますが、ご容赦ください。韓国や北朝鮮の在日の方への差別意識は全くなく、一人二人の友人もいますし、むしろリスペクトしています…。

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お隣さんと仲良くしよう。 コメも仏教も、大事なもんはほとんど全部、全部半島から列島にもたらされたんやし。 …高校時代の私を知る、在日の方々からすると「どの口でゆうとんねん!」と、怒りを通り越して呆れ果てられそうです。

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在日コリアンの物語を活写してくれた崔洋一が膀胱癌で亡くなりました。

73歳。

「月はどっちに出ている」も「血と骨」も、どういうわけだかロードショーで見ませんでいた。

在日。韓国も北朝鮮も、知り合いといえば(知り合いと呼べるなら)高校時代の喧嘩相手。

落ちこぼれの引きこもり、そんな私が大学進学、東京に出たいと思ったのは、いろんな理由があります。

高校進学で野球強豪校からの期待していた条件の誘いは全くなく「プロ野球選手になる」という夢が絶対に不可能だと思い知らされ、そんな気持ちで入学した高校の環境に馴染めるわけもなく、ささくれ立っていた何もかもひっくるめた「それまでの自分」を完全にリセットしたい、チョン高の奴らと喧嘩するなんて最低な人生も、人生の記録から抹消したい、そんな思いからでした。

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私にとって、無かったことにしたい思い出が蒸し返される、そんな嫌な予感から崔洋一の作品をロードショーで見るのを敬遠していたのです。

そして、東京に出た私は大きな勘違いをしていました。

新入生のオリエンテーションで「他大学との交流」みたいな〝演目〟があって、慶應やら上智やら青学やらの可愛い女の子と知り合えればいいなあ、とボンヤリ思っていました。

キャンパスだけはあちこちにあって、私学と比べるとどこもだだっ広かったので、他大学の学生がやってくるのですが、私の担当が何の因果か「朝鮮大学」。

私は今も昔も大馬鹿なので、その当時もチョン中、チョン高は関西にはあっても、東京にはほとんどない、ましてやチョン大など存在しない!と思い込んでいたのです。
しかし…。

牽引ビームでデス・スターに引き込まれたミレミアムファルコン号の」気分でした。

私が「ちょっと担当替えてくれませんか?俺、あいつらのネットワークで指名手配されてるから」というと、インストラクターの先輩たちは冗談だと思って爆笑してくれましたが、こっちとしてはそこから逃れるために東京くんだりまで出てきたということも、少しばかりはあるわけです。

もちろん、指名手配はされてるわけもなく、担当は滞りなくこなしました…。



ロードショーは外しても、名画座などで崔洋一の作品は全て見ました。
小心者の逃亡者、そんな私が敬遠したのが、身に沁みてよくわかる迫真の作品ばかりでした。

胸ぐらを掴まれて、次の一瞬、殴られそうな、そんな作品ばかりでした。


さよなら、崔洋一。ありがとうございました、崔洋一。
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ときどき、都心から車で家路につくことがあります。

横浜の自宅まで、高速に乗れば20分ちょっと。1時間近くかかる電車とは、まったく違う高速移動。

今日は、静岡から来た仕事先の方の車に乗せてもらうことに。

このパターンでは、途中のPAで降ろしてもらうのですが、ちょうど事故があったようで大渋滞。

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10年来のお付き合いで、いろんな話をしてきた方。お名前は、京口さんにしましょうか。

私が今年のお盆に母校の現役高校生と遊んだ話から「最近の若い子は文章が書けない」という話に。

彼らとメールで色々やり取りしていること「相談したいことや、言いたいこと、それを書いたらタイトル(件名)をつけろ」と言って、いざ始めると、最初はカナブン並みだった文章力は飛躍的に向上している、と話すとものすごく興味を持たれて、彼らの「進化」を教えました。

特に、タイトルの付け方の上達は、どの子も目を見張るものがあるのです。

「最近の若い子は文章が書けない」。どこでもよく聞くことですが、その通りかもしれませんが、正確には「最近の若い子は(まともな)文章を書いたことがない(だけで練習したら飛躍的に向上する)」のです。

京口さんは「先生がいいと、そうなんですねぇ」と褒めてくれますが、私は彼らに「この文章おかしい」とか「このタイトルおかしい」とか、まったく何一つ指導していません。 

それなのに、このバカブログの無茶苦茶なタイトルやカテゴリとは月とスッポンなメールを返してくるようになるのです。

京口さんの話は「映画とか音楽が好きでコンサートとかにも行きたいんですが、なかなか行けなくてWOWOWとかテレビで見る方が圧倒的に多くて」と、WOWOW方面へ。

「私もWOWOWには入ってます。幅広くあってリーズナブルですよねえ」と言うと「うちの家族は映画と音楽までですね、サッカーや総合格闘技とかのスポーツは見ないから」。

そっか、京口さんは「エキサイトマッチ」を絶対見てないと確信。

エキマ見ないのにWOWOW契約してる人なんて、私には想像できないのですが、世間ではそれが多数派です…。うちでも私だけで、誰も見ないし…。
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リング誌とボクシングマガジンの相次ぐ廃刊。

ボクシングが斜陽スポーツであることだけでなく、インターネットによって紙媒体が駆逐されるのは時代の趨勢です。

スポーツイラストレイテッド誌ですら週刊体制を維持できず、現在は月刊。メジャースポーツを伝えるサッカーマガジン誌も週刊から月刊への〝撤退〟を余儀なくされています。

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とはいえ。

米国のスポーツ報道の覇権がESPNに移譲される一方で、日本の週刊ベースボールは今なお週刊体制を維持しています。

リング誌に「権威がある」というのはお笑い種ですが、「週べ」には「権威がある」と言っても全く差し支えありません。

もちろん、野球とボクシングではメジャーの度合いが全く違います。

アーカイブを活用した企画でも、リング誌が単なる過去記事の転用や焼き直しにとどまったのに対して、週べは別冊で特集、単なる焼き直しではなく現代の視点から発展的に歴史を掘り起こすことに成功しています。

もちろん、どちらも厳しいとはいえ、実質破綻状態が血付いていたリング誌とベースボールマガジン社では財政面での逼迫感が全く違うでしょう。

インターネットの持つ速報性と動画は、スポーツメディアにおいて紙媒体を殺す最も強烈で問答無用の殺戮兵器です。「紙媒体」という宿命から、週べの未来も安泰とは言えませんが、速報性の土俵には上がらない名鑑的な別冊企画は、紙媒体の突破口の一つです。

何れにしても、従前と同じやり方では紙媒体は生き残ることができない時代に突入しました。

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このパンデミックでもネイチャー誌やサイエンス誌は、正確で早い情報を公開してくれました。


その一方で、ほとんど変わらないスタイルで週刊体制を維持している、リング誌とは真逆の「ガチで権威のある」雑誌も存在します。

英国の「ネイチャー」と米国の「サイエンス」です。ネイチャー誌は1869年、サイエンス誌は1880年創刊。

前置きが長くなりましたが、本題はずっと以前に「権威ある」ネイチャー誌に惑わされたことです。

2014年のことですから、もう8年も前。

学生時代の仲間内での新年会、数日前にネイチャーに掲載された衝撃的な論文が話題にのぼりました。

すでに、ニュースでも話題を集めていたSTAP細胞です。

理研の女性博士が発見「女性でもすごい科学者がいる」、早大出身ということも「本物の才能に大学は関係ない」と感動を覚えたものでした。

この酒席で、大学で研究に携わってた一人が「STAP細胞は怪しい」と口にしました。

その理由は、白衣にアップリケを付けていることの危険性から、公開されていた彼女のノートの記述のいい加減さまで、様々でしたが、私たちは「(権威がある)ネイチャーが認めてるんだから」と言うと、彼は「そこも大きな問題」と答えました。

ときには何十年もかけて何百回、何千回も実験して再現性があることを証明する研究結果の論文発表は性善説によって受け入れられているから、悪意を持っている研究者がデータを捏造することはこれまでにも何度も繰り返されてきた、というのです。

つまり、ネイチャーやサイエンスに発表された論文が本当に正しいかどうかは、世界中の研究機関による追試試験で再現性が確認されるまで待たなければならないということでした。

しばらくして、論文の記述や記載データの不正疑惑が明るみになり「世紀の発見」は「スキャンダル」に堕ちてしまいます。

みずから不正に手を染めたリング誌と、ネイチャーやサイエンスを同列に語っちゃいけませんが、このブログでは同じマナイタの上の材料です。



高校時代に図書館に送られてきた洋雑誌の中にサイエンス誌もありましたが、リング誌やスポイラ誌、タイム誌などと違って、全く興味が刺激されず、パラパラ見てもほとんど読解することができず、そんな経験も「サイエンス誌はレベルが高い、権威がある」と勝手に思い込んでいたのかもしれません。

サイエンスやネイチャーが性善説に従って論文を掲載していることを教えてくれた友人は帰りがけに「ネイチャーもサイエンスも面白い雑誌。お前の好きな超能力やUFO、ネッシーの論文だってある。ちゃんと読んでたら『ネイチャーに掲載されたから本物』なんて発想にはならない。いっぺん読んでみろよ」と笑っていました。


そんな大学時代の悪友たちと久しぶりに痛飲して、ただいま午前様・帰宅。

もう、若くねーなあ。

タクシーの中でポチポチ書いてると気分悪くなって、真夜中の「ドミトリー・ビボルvsヒルベルト・ラミレス」はパスします…。

井上尚弥がFIGHTER OF THE YEAR に近づくために、ビボルの敗退を予想して(予想じゃなく願望だな)、おやすみなさい。
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結婚式に出席すると、自分が年を取ったことを実感します。

大学在学中から卒業、20代の頃は先輩や同輩、後輩たち、同じ時代を生きた仲間たちの結婚式。

30代になると、違う時代を生きた後輩や、仕事関係の人が増えてきます。

40代になるともはや同じ時代を生きた人の結婚式は少なくなりますが、付き合いの長い彼らへの戦友感、応援したいという思いは増すものです。

稀に仲人などもつとめるようになる50代になると、結婚式は若い二人の旅立ちを優しく見つめる気持ちだけに濾過されてゆきます。

若い頃は久しぶりに出会う旧友たちと大暴れする絶好の〝同窓会〟でもあった結婚式ですが、暴れるには年を取りすぎました。

というよりも、旧友たちがいない結婚式がほとんどです。暴れるには年を取りすぎただけでなく、暴れる理由も無くなってしまったのです。

アカデミー賞の受賞式と結婚式のスピーチは面白くないのは世界共通ですが、まだ大学生の頃に先輩の結婚式に出席したときの花嫁の父親のスピーチは今でもよく覚えています。

父親の仕事は牧場経営。生きてる牛が相手ですから、1年365日休み無し、です。

朝、同じ時間に起きて、同じ段取りで仕事を進めて、同じ時間に就寝する。

そんな生活を中学を出てから、40年近くも続けてきました。

花嫁は高校を卒業すると上京、私の先輩と結婚することになるのですが、その先輩の家が大変なおうちで、先輩のご両親が結婚を反対して一悶着。

それでもなんとか、式の日を迎えたのでした。

「毎日、牛の世話をしてましたから、朝から町に出るなんて初めての経験でした。知り合いの牧場にお手伝いしてもらうことで、今日ここに出席できました。正直、今も牛のことが心配ですが、娘についてはもう何も心配していません。素晴らしい人にお嫁にもらっていただいた娘と私は幸せです。明日から、また普通の毎日に戻ります」。

そんなスピーチでした。

アフター・コロナがようやく見えてきて、結婚式も増えてきました。

若い二人の旅立ち、そのスタート地点で応援できるのって、私たちにとっても幸せな時間です。
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今日から「秋の読書推進月間(BOOK MEETS NEXT)」(11月23日まで)だそうです。

 これは〝逆襲〟の秋です。

誰が逆襲するのかというと、不況の出版業界と、減少する街の書店です。

インターネットの普及で紙の本、雑誌の売上は減少の一途を辿っています。 

恥ずかしながら、最も本を読んだのは10代。 

 

十五は 胸を患って 咳き込むたびに 血を吐いた

十六  父の夢壊し 軟派の道を こころざす

十七 本を読むばかり 愛することも 臆病で

十八 家出の夢を見て こっそり 手紙  書き続け
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