カテゴリ: 恥さらしの人生でした。

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自分に正直に生きている人が、今も昔も眩しいです。まあ、そんな幸せな人はめったにいないし、自分がそうではなかったと思ってるからですが。



高校時代は私よりも野球が下手だったくせに、大好きな野球にしがみつき、関西2部の大学から実業団に進んで都市対抗にも出場、現役引退しても高校で野球部の顧問をしている先輩。

大学時代に国家公務員や高待遇の民間企業への就職に全く興味を見せずに、大学に残って大好きな研究を続けている友だち。

あるいは知り合いではありませんが、芸能界という最も自分に嘘をつかなければならない世界で、正直なまま活躍しているさかなクン。彼が自宅に帰って「こんなのやってられるかッ!」とハコフグ帽子を叩きつけることなんて一度も無い気がします。

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高2のときに、学校始まって以来といわれたほど勉強ができる一つ上の先輩から「受けてみ」と言われた模試で、先輩よりも順位は下でしたが、大阪地区の上位に入りました。

「2年で数Ⅲが満点ってどうなっとんねん?受験の型に慣れたら、私なんか問題ちゃうやん」と褒められたのが、受験することになったきっかけでした。

共通一次の社会2科目で「世界史」「日本史」を選んだのも先生方に「イレギュラーや」と驚かれましたが「倫理社会」や「地理」などと違って、十分に予備知識があるのがこの2科目だったので、私にとっては当然すぎるレギュラーでした。

タイム誌などの洋雑誌も含めた膨大な読書量で国語や英語、世界史と日本史ですでに大学受験のレベルはゲームオーバー、数学も応募問題が面白かった雑誌で鍛えられ、受験ごときレベルとは違う水準にありました。

この雑誌の応募問題が「数学は暗記」なんて言いかねないバカ受験とは対極にある、ヨハン・クライフみたいな「どれだけ美しい解答を導き出すか」に絶対的価値を置いていて、非常に面白いのです。正解であっても美しくなければ評価されない世界がそこにありました。

受験ファーストの模試などでは報奨金や立派なメダルがもらえましたが、この雑誌の入賞者に送られるのは、お金はなくて質素なオリジナルバインダーだけ。それでも、自分よりも美しい解答を目にしたときは落差の大きいカーブで見逃し三振に打ち取られたような「こいつ、やるな」という清々しいライバル心を楽しめました。

英文和訳のセンスや、数学の美しい解答は受験ではプラスには働きませんから、無駄と言えば無駄なんですが、そこだけは楽しんで取り組めました。

あとは理科の2科目だけ。こんなのは、もうどうにでもなりました。

2次試験は、私の完全Aサイド。

当時の受験英語ではヒアリングなどの実践的な問題は稀れでしたが、もしあったなら映画や洋楽で鍛えられていた私には圧倒的なアドバンテージがあったと思います。

まあ、結局、受験勉強には「くだらないことに時間を浪費してるなあ」という残念な感覚が拭えませんでした。

私に模試を薦めた先輩が「余計なことしたかもなあ」みたいなことを言ったり、映画友達の三井さんからも「つまらん男になったなあ」と言われたのは「〝あの頃の生き方〟とは違っちゃったね」という意味が込められていた気がします。

そういえば…模試や講習の成績優秀者でもらったメダルやトロフィーの類は今でもあちこちから出てくるのですが、数学雑誌から送られたバインダーや、深夜ラジオ・ヤングタウンでハガキがウケると送られるステッカー…母親に捨てられたらしく、一つも見当たりません。

メダル類は重量感があって捨てにくいこともあるのでしょうが、私的にはバインダーやステッカーの方が比較にならないくらいに誇らしかったです。



3月まで住んでいた横浜で受験生に勉強を教えていましたが、何になりたいとかがなくても、自分らしい生き方を優先して進路を決める、そういうこと大切だよということを伝えていましたが、どこまで響いていたのかわかりません。

なんだか自慢話みたいになりましたが、受験しなかったら?というのは今でもときどき思うことです。まあ、受験しなかったらいまの家族はいなかったし、多くの友だちも別の友だちに入れ替わってたはずで、これはこれで良かったんだと思っています。



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はしゃいで生きる青春は 俺にはないと 思ってた。

「転がる石」(石川さゆり)





授業をサボって手当たり次第に本を貪り読み、場末の映画館で古い映画を夜を明かして観て、高校生らしいことといえば、野球や陸上の練習したり試合に出たりはしてましたが、90%以上の高校の先生方からは「他の生徒の邪魔や、消えろ。とっとと自分から退学しろ」とか…かなり酷い言葉も浴びせられました。

たださえ社会不適合者なのに、大人の先生から罵詈雑言を浴びると、ますます学校にいる時間が苦痛になりました。

私が生き返るのは、学校から離れた球場やグラウンドで練習試合や試合をするときです。

そして、もう一つ、野球部や陸上部の仲間も、私をなぜか評価してくれていた残り10%弱の先生も知らない、私が生き返る場所がありました。

学校から40分近く自転車をこぎまくり、10キロ以上は離れた国道沿いの寂れた区画にあった小さな古い映画館です。

そこは、知ってる人のいない隠れ家。見かけのボロさに輪をかけて館内はさらにボロボロで、いくつかのシートはスプリングが壊れてて、迂闊に「よっこらしょ」と腰を下ろすと、ズブズブズブと沈み込むばかりか、折れたスプリングが剣山のように尻を突いて「いてぇーーー!」と悲鳴をあげてしまう〝地雷〟なのでした。

その掘立て小屋みたいな小さな映画館のロビーでは、ずっとラジオが流れていました。

夜の11時になると「ヤングリクエスト」が始まり、国内外の流行曲が聞こえてきました。私の洋楽体験の始まりは、そんな深夜ラジオからです。

1981年にニューヨークで開局したMTVはすでに存在していましたが、民度が低空飛行する阪神エリアでそんなことは知る由もありません。

「転がる石」は石川さゆりデビュー30周年を記念して2002年にリリースされた曲なので、オンボロ名画座のロビーで聞いたわけではありませんが、この歌を聴くと、なぜかあの頃を思い出します。

社会不適合、屈折した毎日を送っていた私は暗い青春時代を送っていた、少なくとも当時はそう思っていました。

ところが、ずーーっと後になって振り返ると、友達は少なく、彼女もいなかったものの、恐ろしく明るくて、キラキラといろんなものが乱反射しまくっていた、間違いなく青春時代でした。

あれは間違いなく、青春でした。



小さな古い名画座には、私も含めて怪しい常連客が巣食っていました。

私も学校からの逃げ場所だと自覚して、当時はけして前向きに大好きではなかった場所なのに、いまではまぶしすぎる青春の記憶になっているなんて、とんでもない人生の不思議です。

「こんな毎日は嫌だ」。

それくらい後ろ向きな気持ちに沈んでいたはずなのに、もしいまあの頃に戻ったら、間違いなくまた、授業をサボって図書室にこもり、つぶれかけの名画座に通うはずです。

絶対に。

でも、もうあの頃に戻れるわけがありません。

高校としては巨大な図書室のあった古い校舎はとっくの昔に取り壊されてしまい、映画館のあった場所には大きな家電量販店が建ってしまいました。

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⬆︎これは新横浜の「ラーメン博物館」。私の行きつけの名画座にあったのも、このタイプの瓶の自販機でしたが、コカ・コーラではなくペプシでした。



映画館では誰も友達がいないと思っていましたが、数人の常連さんとは目で挨拶する関係だったし、中には古い自販機の瓶のコーラや、塩加減に許容範囲を超えたバラツキのある自販機のポップコーンをおごってくれたり、軽い会話を交わす人もいました。

もぎりのおばちゃんは、多めに渡された回数券に「これちゃうで」と言うと「どうせいつも空いてるから、学割や」と、差し戻してくれました。

今思えば、私の周囲の大人はみんな優しかった…大多数の高校の先生方は除いて。

上映する作品はテーマも時代も製作国もてんでバラバラでしたが、今思えば抜群のセンスでした。

「今思えば…」。せつない言葉です。当時は、その魅力に気づいていなかったのですから。

それなのに、彼らのことを社会に馴染めない自分を棚に上げて、粗末な名画座に集う行き場を失った人々だと、あんな大人になりたくないとまで考えていた気もします。若さとは、身勝手でもあります。

ただ、当時は彼らがどういう人なのか全く知らなかったから、冷えたコーラの瓶を後ろからそっと首筋に当ててびっくりさせる三井紀子さんはおそろしく綺麗なお姉さんで、それがまた怪しさを増幅し「この人はヤクザの情婦とかで、非常にやばい人に違いない」と思ってました。

体格が良くて場違いにおしゃれなおっちゃんは、私を見つけたときだけ妙に明るくなって声をかけてきました。私が〝地雷シート〟に座ろうとしてバインッ!と沈み込むと、「そこは一番アカンとこや」と手を叩いて笑われました。このおっちゃんは怪しいとかは通り越して、もう絶対その筋の人でした。

こんな人たちに気に入られるなんて、やっぱり俺はダメ人間なんだ…そんな風に思う一方で、三井さんもその筋さんも、自分に素直に生きてる感じが滲み出ていたのでした。

特に、その筋の人は、私を追いかけ回していたガラの悪い外国学校の不良集団でもこのおっちゃんにはビビるだろうなという、普段は静かに映画を見ているだけでもオーラを発散させていたのです。


もし、あのおっちゃんと再会できたなら…40年ぶりとかのレベルです。

どうやって見つけたのか想像もつかなかったけど、三井さんは、あのおっちゃんを見つけたのです。


私は30代になるかならないかの頃に沖縄出張で仕事先で三井さんと全く偶然に〝再会〟。

そこで初めてお互いの名前やら素性がわかったのでした。もしかしたらあのときも「このレポート、面白いなあ」と予定になかった沖縄行きを決めた三井さんが私を見つけたのかもしれません。

あのときは、これぞ南国なホテルの開放的な会議室で「見ぃつけた。しかし、つまらん大人になってもうたなぁ」。そんなことを言われた記憶があります。

当時、まだ40前の三井さんは沖縄進出を考えるコンビニの大株主の会社の偉いさんに大出世していて、夜の懇親会で私が「まさか、まともな人だったとは。ヤクザの情婦と思ってて申し訳ありませんでした」と正直に言うと、よく冷えた瓶ビールを首筋に当てるのではなく、頭の上からドボドボぶっかけてきたのでした。

驚いたのは同行していた会社の人たちで「こいつが何か粗相しましたか?すみません、すみません!」と大慌て。三井さんの部下たちも気色ばみましたが、三井さんが「この男、とんでもない粗相を働きましたが、二人だけの問題なので気にしないで」と、周囲からますます怪しがられることをのたまうのでした。


そんな、三井さんが名前も素性も知らないあのおっちゃんを見つけたのです。どんな情報通やねん。

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待ち合わせ場所の伊丹空港⬆︎で、先に着いていた三井さんが「ちょっとここで待ってて」と言って「じゃじゃ〜ん!ちょうど卒寿(90歳)になられました〜」と、あのおっちゃんが座った車椅子を押してきて「おっちゃん、覚えてるでしょ、いっつも壊れたシートでひっくり返ってた高校生」と私を指さします。

「三井さん、さすがやなー、おっちゃん見つけ出すなんてCIAでも無理ですよ。しかし、もう少し発見が遅れてたら死んでましたね、おっちゃん」というと、おっちゃんは「40年ぶりに会って最初にそれかいな?CIAもインターポールも全く関係ないわ。真面目な話すると、FBIに調書取られたことはあるけどな」と、それ以上詳しい話は聞きたくないことを口にするのでした。


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パレスチナ解放人民戦線(PFLP)は元日本赤軍の岡本公三容疑者(78歳)がレバノンの首都ベイルート南郊で死亡したと発表しました。

これを受けて、朝日新聞は「岡本公三容疑者がレバノンで死亡 ロッド空港乱射事件の実行犯」、読売新聞は「日本赤軍の岡本公三容疑者がベイルートで死亡、78歳…イスラエルの空港で無差別テロ」と、それぞれデジタル版で〝速報〟。

朝日と読売で岡本公三に対する微妙な温度差が感じられますが、ニュースソースのPFLPのニュアンスは鮮明です。

「ロッド空港の聖戦の英雄たちの不朽の物語 偉大な革命同志であり国際主義の闘士である岡本公三(アフメド・アル=ヤバニ)の死を悼む」とヘッドライン。

「栄光と誇りに満ちた生涯 最果ての極東からパレスチナへ」として「1947年12月7日、熊本県の中流家庭で7人兄弟の末っ子として生まれた」岡本を植物学に精通し、英語、アラビア語、ヘブライ語、中国語、ロシア語を驚くべき短期間で習得「並外れた知性の持ち主」と最大級の賞賛。

岡本がレバノンがアラブ世界で英雄視されているのは1972年5月30日、イスラエル・ロッド空港で銃を乱射、約100人を死傷させた凶悪なテロの実行犯だったからです。

岡本は事件直後にイスラエルに拘束され、終身刑を科せられますが、1985年に捕虜交換で釈放された後はレバノンを拠点に伝説の英雄として生活。

しかし、1997年に今度はレバノンで他のメンバー4人とともに旅券偽造容疑で逮捕され、有罪判決を受けます。2000年に刑期を終え、4人は日本に強制送還、岡本はレバノンへの政治亡命が認められていました。

〝英雄〟追悼の最後の文章は「PFLPは、岡本公三同志の遺志と国際主義闘争の歴史に誓いを立て、エルサレムを首都とするパレスチナ全土、すなわちその川から海までをも解放するまで、正義の剣と旗を掲げ、盟約に忠実であり続けることをあらためて宣言する。 彼の死を、帝国主義とグローバル・シオニズムに立ち向かう国際革命の結束をより強靭にする転換点としようではないか。 偉大な闘士の魂に、そしてすべての自由の闘士に栄光あれ。囚われの身にある者たちに自由を。我々は疑いなく勝利する。」と結ばれています。

極東の何につけ曖昧な島国はアラブの英雄と、ユダヤの恩人(杉原千畝)という真逆のベクトルで動いた人物を生み出した、世界的に非常に理解し難い国、民族でもあります。

苦境に追い込まれた弱者に対して、岡本は一般の生活者が利用する銃の乱射で狂気の義憤を示し、杉原は命のパスポートを発行することで正義を貫きました。

若い大学生を中心に構成されたことから、日本赤軍など過激派と比較されることもあるオウム真理教は、ほとんど共感を呼ぶことなく、小さな隠れ部屋に札束まみれで恐怖に怯えながら隠れていた教祖が逮捕、極刑に処せられました。

一方で、いまなお多くの支援者を集める重信房子は先月出版された「
獄に暮らせば  21年7カ月の獄中日記から」が多くのメディアで〝好意的〟な書評を集めています。

いちご白書をもう一度」を聞くまでもなく、岡本らを産み落とした学生運動の振れ幅は非常に大きく激しいものでした。

オウム真理教の拠点に機動隊が突入したとき、私は「たぶん大丈夫だろう」と思いながらも、一抹の不安に駆られていました。

もし、教祖が正々堂々と姿を現し、十字架でも背負いながら「信者には一切手を出すな!」と自ら投降したら…もちろん、あの卑劣で無様な男がそんな大芝居を打てるわけがありませんでしたが。



私が大学に進学した頃は、もう学生運動はとうの昔に過ぎ去った過去で、全く実態のない残滓のようなサークルがその存在も知られないまま、ひっそりと活動、世の中はバブル景気に踊っていました。





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進学のため上京してから40年以上の歳月が流れ、大阪に「帰る場所」という感覚は全くなくなっていました。

しかし、やはり、高校時代からつながりのある人々が生活しているエリア。まだ3ヶ月ちょっとしか経っていないのに、なんだか面倒なことが多くて…。

社宅を取り巻く環境はともかく、会社は居心地が良いのが救いです。

東京本社では受付ロビーなどに用意している雑誌や新聞の数が悲劇的にリストラされているのですが、さすが大阪です。東京でもTIME誌などは残っていますが、大阪ではいまだに米国のNYタイムスや英国のガーディアン、フランスのル・モンドまでしっかり定期購読しているのです。

いやあ〝治外法権〟万歳です。

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「1日遅れの紙媒体よりも、ネットで見りゃいいじゃん」なんていうのは東京の理屈です。

ネットではそれぞれの新聞の手触りも、サイズや形態が全くわからんのである!!!あと、紙の匂いも違うな。


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社宅に住んだのは初めてではありません。

これまでは、会社の寮や一帯が会社の団地、借り上げマンションでしたが、いずれも会社の同僚もいる住まいでした。

まあ、そのときどきも会社の方々はもちろん、友人知人が来てくれて楽しく過ごしていました。

しかし…50過ぎて家族から離れて単身赴任の社宅住まい、しかもそのエリアが「かっぱ横丁(古本屋街)」至近という私にとって絶好の場所であるばかりでなく、そこが高校時代の友だちにとっても絶好の場所であることに気づくのに必要な時間はほとんどありませんでした…。

しかも…このタイミングでサッカーW杯。誰にも内緒にしていたはずの私の秘密基地はあっけなく陥落。

風呂やら洗濯機を勝手に使われた我が家(社宅ですが)から、暴徒らが去って台風一過、サムライブルーの敗退を少しだけ喜んでいる自分はなんなのか?

この年になって、大学生なノリで集まってくれる友だちが、高校時代にも実はいたこと(例えばサッカー部のやつらなんてほとんど話したこともなく接点がないと思ってたのに)に、向こうは私をケアしてくれてたことを改めて知るのは悪い話ではないのですが…ものすごく失礼な話、私は顔も名前も一致しない同級生を知ってるふりするのに疲れました…。







真面目な話、引っ越そうと考えています。。。。。。。





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大阪には…大阪以外の世界では信じられないモノが常識として存在する。

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先日、ツーサム(2人でラウンド)でゴルフに行ったのだが、そこでの昼食…。


「焼きそば定食」や「お好み焼き定食」である。

阪神エリアしか知らなかった18歳までの私でも、この炭水化物まみれの定食に「おそらく外の世界にはこんな食べ物はない」と、すでに確信していました。

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⬆︎これは、独立した単位で食う物である。



以前、全国区で流行った「そばめし」は、1万歩くらい譲ってまだ理解の余地があるが、焼きそばとお好み焼きを独立したおかずとして白飯を食らうという感覚は、いまだに受け付けることができない。


ツーサムの相手は「騙されたと思って、一回食べてみ」と薦めるのだが、そもそもこの「騙されたと思って、一回食べてみ」という言葉がおかしい。

「騙されたと思って、一回食べてみ」とは、食べたことがないものを食わず嫌いで拒否している可能性がある相手に薦める言葉である。

ところが、このケースではお好み焼きも焼きそばも白飯も、独立した単位では何度も食ったことがあるのである。

そんな私に「騙されたと思って、一回食べてみ」という推奨の仕方は根本的に間違っているのだ。

「単体で食べるのと、ご飯のおかずとして食べるのでは全く違う美味しさの世界が初体験できる」というのならまだ理解ができるが、奴が言ってるのはそうではないのだ。

こんなもんを食っても、完全に想像の範囲内の炭水化物地獄の世界が繰り広げられるだとわかりきっている。

大阪…とにかく恐ろしい魔界である。





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4月から、大阪に転勤。会社までドア・トゥ・ドアで30分足らずの交通至便な社宅住まいです。

そして、このあたりは生まれ育った地域です。

4月、子どもよりも若い後輩たちから連絡を受けて、通っていた阪神地区の高校に久しぶりに訪れました。卒業したのは約40年前、校舎やグランドは当時の外観のままでしたが、中は綺麗にリフォームされて、教室なども廊下と仕切る壁を取っ払って、今風に開放的になっていました。

そして、グラウンド脇にあった野球部と陸上競技部、サッカー部、ラグビー部などの屋外競技の部室群が建て替えられるということで「先輩たちの残したものがあるから、廃棄して良いかどうかを確認して欲しい」というのが主な用事でした。

先輩たちといっても、野球と陸上を兼部していた私と、陸上と柔道の1つ上の先輩の2人だけなんですが、その先輩の残したものはだいたい想像がついたのですが、自分のものは全く心当たりがなく…。

先輩の残したものは、予想通り。高校の最寄駅や校門に掲げられた10以上もある横断幕です。「祝 石川優子さん 柔道 高校総体県大会 優勝」「祝 石川優子さん  陸上競技 高校総体近畿大会 優勝」…。

私(が関わっていた)駅伝の横断幕も一枚だけありました。「祝 阪神高校 対校戦 優勝 陸上競技部 駅伝チーム」。しかし、後輩たちは「これ、去年の秋も使って来年も再来年も使いたいんです」とのことで、処分の対象ではないそうで、確かに年度と大会の数字がバツされて昨年のものに手書きで更新されていました。

「新しいヤツ、作ってもらえよ」と言うと、「先輩たちを乗り越えたのがよくわかるから、新しいのは作らないで、このスタイルにしました」と、ちょっと嬉しいことを言ってくれるのでした。

可愛い後輩たちである。

石川先輩は自分の横断幕を見て「まだ、こんなん現存しとったんなー。このなん、2度と使われることがないから全部廃棄してぇ」。

…ちょっと待てよ?あの横断幕は廃棄対象でないとすると、俺の残しものはないやないか?と思ってると、「先輩のこれ、です」と、①ミルキーの缶と、②模擬試験やら夏期講習で成績優秀者となったときのメダルやトロフィー類。

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在籍高校や名前が思いっきり刻印してるので、ぼかしてスマヌ。


①の缶の中身は、スパイクのピンやピン回し。俺の名前がないのにどうして俺のものだとわかったのは、先輩➡︎先輩の先輩➡︎先輩の先輩の先輩…とたどって「ミルキーの缶はあの人だけ」という仮説が徐々に強化されていったそうです。

全く覚えていませんが、自分のような気がします…。しかし、名前が書かれた栄光の横断幕ならまだしも、こんなもんとっとと捨てろよ、と複雑な気分になっていると、石川のボケがまたどうでもいいことをほざくわけです。

②は、たぶん同輩や後輩から「見せて」と言われて渡したものの一部です。

石川先輩は「なんで?こんなどーでもエエもん、相談せんと捨てたらエエのに?あ?当てつけ?可哀想に後輩からまでバカにされて」と笑い転げるのです。それを聞いて、後輩たちは恐縮しまくりながらも「お2人とお会いしたくて、三島先輩(俺)を呼んだら、石川先輩も来てくれるんじゃないかと思って」と、もっと言い方あるやろ?ということを吐き出して、俺は嫌な気分に…。

じゃあ、俺、いらんかったんやん?石川だけ呼んどけ!!!

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ーーー前置きが長くなりました。

「高校」という限定された空間・舞台の中で石川先輩や後輩たちと交流するのは私にとって問題ないのですが、そうではない場合、いろいろ居心地が悪いというか、気まずいと言うか、なんというか、そういうことってないでしょうか?

例えば、私は…

【家庭】弟と妹は全国レベルの進学校に進学した「学年で2番になった記憶がない」という秀才、私は運動(野球)しか出来ない勉強落ちこぼれ。…それでも「家庭」という空間・舞台の中で両親や弟妹との中で、出来が悪いとはいえ、ポジションがある。なぜか超優秀な弟妹は「兄ちゃんは別格」と、全く根拠のない尊敬を小さい頃から示し続けてくれている。

【高校】勉強だけでなく、ついに野球でも落ちこぼれて不登校。ほんの一部の先生や友だちを除くと、周囲からは「変な奴」「気色悪い奴」「早く学校からいなくなれ」と言われてたツマハジキ者。…卒業してしまうとツマハジキにされた人とは付き合うこともないから〝ほんの一部の人〟との間にポジションがある。

【大学時代】大阪を離れたこともあって「落ちこぼれ」「ツマハジキ者」から完全にリセット。「はしゃいて生きる青春は俺にはないと思ってた」(転がる石:石川さゆり)のにどういうわけだか、女子にもモテる今までにないおかしな状況になった。…「家庭」とも「高校」とも全く違うポジションが出来てしまう。

【社会人時代】「家庭」「高校」「大学」を足して3で割ったようなキャラクター(人格)で見てもらえるようになるが、自分の本質が「家庭」と「高校」にあって、実はそこが一番居心地がいいことに気づく。


ーーー泥酔しながら書いてるので、うまく伝わらないかもしれませんが、私は極端かもしれませんが、誰にでもいろんなキャラクターを使い分けていると思います。

上記では、時系列で区切っていますが、例えば「大学時代」でも「クラスや部活の私」と「家庭教師先の私」では全く違う人格だった気がします。

いろんな人格があるのは誰にでも自然だと思うのですが、不自然なことが起きてしまうことがあります。

つまり「家庭」と「高校」「大学」「社会人」の人格での友だちが同席してしまうケースです。

そんなときは、「俺はどの人格を演じたらいいんだ?!」と、ちょっとしたパニックに陥ってしまいます。

これが、結婚式のようなオフィシャルに均質化された人格が許される時間限定の場面なら良いのですが、そうではないケースもままあります。

4月からの大阪勤務で、そんな不自然なパニックなケースが何度かありました。

今日も、チュニジア戦を観戦したのは個室的な空間のスポーツバーで「家庭」(弟)、「高校」(野球部と陸上部の先輩)、「大学」(他の学校の運動部の友だち=陸上部の先輩と知り合い)、「社会人」(他の大学の運動部の友だちと同級生=陸上部の先輩の知り合い)という絡みあって、こんがらがって、全員知っていてもどこがどうなってるのかわからない乱交状態でした。

誰であっても1対1で飲むなら、その相手仕様の人格で良いのでなんの問題もありませんが、ここまで乱交、混雑してしまうと、例えば東京で知り合い、東京でしか会っていない社会人の友だち相手でも、いつもは話さない完全バージョンの阪神弁で話したりするのです。

言葉の乱交・混雑は誰にでもあるかもしれませんが、人格はどうでしょうか?

「この飲み会、もうアカンて、俺、頭おかしくなるわ」と嘆くと、陸上部の先輩は「コウモリみたいに裏表のある言動繰り返してるから、こうなるんとちゃうの?この二重人格の分裂症男め!」と、汚れたお手拭きをわたにし向かって「シュートーっ!!!」と投げつけ、「それハンド!」と小さく抗議する私を一番よく知る弟が「兄ちゃんは好きなようにしててええよ。別格やから」と、優しく笑うのでした。


すでに、この手の集まりが何度かあって、そのたびに気疲れしています。

思い直すと、ここまでの乱交は経験がありませんでした。



こういうことって、大なり小なり、他の人にもあると思うのですが、どうなんでしょうか…?










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さて、大阪に仮宿を移して3ヶ月。

高校時代まで、東京では「そんなとこは日本にない!」と信じてもらえなかった阪神エリアで、私はまあ喧嘩が弱いくせに暴れてました、今思えば。

4月から転勤で、いま住んでるのは大阪駅にも新大阪駅にも近い交通至便の一軒家(といっても社宅)、阪神エリアも遠くないとこです。東京での生活の方がずっと長くて、関西は「地元」というよりも「出張先」でしたが、しばらく根を下ろすとなると、それはそれなりに高校時代の友人やらから呼び出されたりなんやらで、楽しいやら、なんやら「あー、こういう面倒くさいとこやった」とちょっと辟易したり…。

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ーーー近所の町中華、酢豚定食が700円で「マジか?」というほど絶品なのですが、ここのおばちゃんが4月に高校時代の友人たちと酒飲んでた店にもいて、私を見つけるとあろうことか私たちのテーブルに座って話し始めるのです…東京や横浜では絶対にありえない、余計なおせっかいというか、遠慮がないというか、プライバシーやコンプライアンスの欠落というか、とにかくデリカシーとかエチケットとか、そーゆー繊細な意識が全くない輩が多すぎるのです。


まあ、でも「大阪は嫌い?」と聞かれたら、やっぱり食べ物は絶対的に大阪が大好きです。

ボクシング観戦については、ほとんどが後楽園ホールの私ですが「一番、感動したのは?」と聞かれたら…1997年11月22日、大阪の冬ならではの寒風が突き刺さる夜、あの日の大阪城ホール、それしかありません。

マニー・パッキャオがリーロ・レジャバを、オッズが出ない大番狂せで破った、2001年6月23日のMGMグランド・ガーデンアリーナではありません。1997年11月22日の大阪城ホールです。

周囲の空気、今風に言うなら同調圧力みたいなものには全く反応しない私ですが、後にも先にも、あの夜だけは会場に巻き起こった声を追いかけていました。夢中で、叫んでいました。


ターツヨシ!ターツヨシ!!ターツヨシ!!!





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山口良治が亡くなりました。

私の印象では「泣き虫先生」というより、山口良治は「愛と鉄拳の使う手練れ」でした。

私が彼を知ったときは、すでに運動部の生きる伝説で「スクール⭐︎ウォーズ」は見ていないんです。中学時代は野球に熱中し、高校に入ってからは野球と陸上競技部と掛け持ち、名画座にこもって映画にも取り憑かれていた私はそれなりに忙しく、毎週夜の決まった時間に連続ドラマを観るという余裕はありませんでした。

その影響でしょうか、テレビドラマは今でも全く興味が湧きません。

そんな中高時代を過ごした1980年代、野球を別格にするとラグビーは人気スポーツで、サッカーよりも注目されていました。

Jリーグも野茂英雄のMLBもラグビーW杯も、まだ何も起きていない時代です。

当時、山口良治の教え子の1人、平尾誠二はスポーツファンなら誰でも知っているビッグネーム、もしかしたら今なお「最も有名なラグビー選手」かもしれません。

ラグビーは箱根駅伝を遥かに凌ぐ、最も人気のある大学スポーツでした。

しかし、高校時代にラグビー部からも熱心に勧誘を受けても「ラグビーなんて実業団止まりで、夢がない。最もレベルの高い実業団よりも関東対抗戦グループが人気があるなんて狂ってる」と興味がありませんでした。

それでも、平尾が野球からラグビーに鞍替えした理由を「野球は部員が多くて球拾いとか下積みばかり。ラグビー部を見たら、12~13人程度、先生もとてもいい先生で楽しそうに練習をしていたから」という意見には、心の中で激しく同意していました。

陸上競技と兼部していた私の目に、この二つの部活の決定的に大きな違いは「楽しそうに練習」「正選手でなくても練習(オープン)試合などに出場できる」ということでした。

陸上部と野球部の練習時間が重なるとき、私は野球部と同じグラウンドでの練習は避けて、ロードや不整地を走るファルトレクへと校外に出ました。私の場合ほとんどありませんでしたが、女子部員と談笑したり、スポーツドリンクを飲むのも当たり前という、野球部とは全く別の惑星の光景の中にいる私を見せたくない、それはたいへん申し訳ないと湧き上がる巨大な後ろめたさがあったからです。

それでも、そんなラグビーでも泣き虫先生の愛と拳は唸っていました。

私の時代、中高では野球部の練習の厳しさは他の部活とは一段違うレベルでした。

しかし、顧問の先生や上級生による体罰や、先輩後輩の理不尽な上下関係もありませんでした。中学時代に野球部の顧問、高校時代に陸上部の先輩から、殴られたことはありましたが、いずれも納得できるものでそれを「罰」ではなく、「君にはこうあって欲しい」という評価、願い、私も共有した目標からかけ離れたプレーをしたことへの指導や希望の延長にあったと実感できました。

中学時代の先生はチームの緩みを最も効果的に指導するのに、私が格好の存在だったことが何も言われなくても理解できました。

卒業式のとき、3年生一人一人にしっかり励ましの声をかけた先生が私にだけ短く「ありがとうな」と言ってくれたとき、同輩たちに「こいつだけ、それだけ?!」と大笑いしてましたが、どういう意味なのかは、笑ったチームメイトもわかっていました。

中長距離ブロックが弱くて戦う姿勢を見せないことに不満を持っていた高校の先輩は「野球部の君が戦う姿勢を見せて」と勧誘されて陸上部に入り、彼女からは「1秒でも速く1つでも上の順位を目指すんが、面白いとこやん?1500mでも最初から攻めるの、当たり前やん?順位で次のステージに進む大きな大会なら別やけど」みたいな話をされて、それを受け入れてたのに、大きな試合とは言えない対校戦、私の実力が頭一つ抜けてるレースで、彼女が最も忌み嫌う走りをしてしまったから「何で?どうして?」更衣室に連れ込まれて殴られたのでした。



ーーー殴られた方が納得してたら許されるのか?他の部員が殴られてるのを見たら?その子の親や兄妹が見たら?

野球部では、それが円陣を組んで気勢をあげるのと同じチームを鼓舞する一つの儀式であること、陸上部なら、先輩自ら勧誘して引き入れた私の背信への悲しみだったことがほとんどのチームメイトに理解されていました。

私の家族も「死なない程度によろしく」と笑ったでしょう。

先生も先輩も、私を殴るとき、きっと睨んだ目は潤んでいました。泣き虫先生もそうだったと思います。

もちろん、今の時代、それで済む話ではないのかもしれません。

私も、強豪校で理不尽な罰としての暴力や、憂さ晴らしのための暴力などは犯罪行為で、根絶すべきだと思います。

そんな強豪校から有名な選手に羽ばたいたスターたちが、寮や合宿所で受けた理不尽な暴力を面白おかしく話すのをよく聞きます。バラエティ番組としては許容範囲なのでしょうが、暴力が大きな問題に膨れ上がっている現代で、そこに真摯に向き合うなら、自分が受けた暴力に対する恐怖や悲しみと、おそらく彼らも手を染めたであろう暴力行為を懺悔して伝えることが、非常に重要な社会的メッセージになるはずです。

そんな不条理が罷り通る強豪校(強豪校だけではないかもしれませんが)の寮生活を振り返って、1人残らず全ての元選手たちは「あの頃にだけは戻りたくない」と嫌悪します。

寮も合宿所もなく、強豪校でもありませんでしたが、私が「あの頃に戻りたいか?」と聞かれたら、その気持ちは強烈にあります。私にとってのあの頃、嫌悪する時間、思い出は一つもありませんでした。






話は飛躍するのかもそれませんが、AIなどなければ阿部慎之助の長女投げ飛ばしは、長女の言う「父親との初めての取っ組み合い」で時間が笑話にしてくれたと思います。

そうだとしても、どんな経緯があってもやはり暴力はとにかく絶対的にダメだから、AIがなくて表沙汰にならずに家族で解決して笑話になっても、そんな事実があったのなら児童相談所なり警察が介入すべきだと思いますか?

時間が経った未来に、長女が「父親に投げ飛ばされた」と笑い話をしても、「それは全く笑えない話。今からでも父親は罪を認めて謝罪して、しかるべきペナルティを課せられるべき」と、あなたは考えますか?

かくいう私は、後輩や子どもに手を挙げたことは一度もありません。おそらく、その最大の理由は…山口良治や、野球の顧問の先生、陸上部の先輩のような愛情が欠落していたからです。



勉強を教えてた子に一度だけ、確信的に酷い言葉を浴びせたことがありましたが、それはここで書くには、まだまだ自分の中で消化しきれてない気がしますが。









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当たり前ですが、昭和の時代に〝昭和〟などという言葉はなく、当たり前ですがその時代は「昭和」が最先端でした。

天皇の在位期間でくくられる年号で時代を語ることに、どこまで意味があるのかわかりません。実際、「明治」「昭和」という時代には定型化の輪郭が見えますが、「平成」の輪郭は見えているでしょうか?

「令和」は次の年号が深まったときに定型化されているようには思えません。〝いま〟の令和は、次の年号から迎える未来の中で、平成と同じように埋もれてゆくだけかもしれません。

そして、定型化された「明治」と「昭和」も、次に続く時代の目線では「時代遅れで頑固」という非常に近似した輪郭を持っていました。

「遠くになりにけり」時代を「時代遅れで頑固」と振り返るのは当然なのかもしれませんが、平成や令和がそんなふうに見られる未来はない気もします。

そして、この「時代遅れで頑固」は、「明治」においては畏怖も含めたポジティブに、「昭和」においては軽蔑も混ざったネガティブにとらえられることが多いと感じます。

村田兆治の「昭和生まれの明治男」は、畏怖を込めたポジティブな表現でした。

そして、阿部慎之助に向けられていた「ド昭和」という言葉は、時代遅れの軽蔑が多分に含まれているように聞こえます。



ーーーーー長女が児童相談所へ連絡したのは、友だちにこぼす愚痴ような気分だったのかもしれませんが、DVにおいて児相や警察は加害者は保身、被害者は恐怖にために嘘をつく最悪のケースを想定して、法廷とは違う「疑わしきはクロ」で両者を離すことを優先して動きます。

今回の「現行犯逮捕」は警察が暴行現場を押さえたはずはなく、父親が「児相から報告のあったのは事実か?」と警察が読み上げるのを聞いて「事実です」と答えての逮捕だったのでしょう。

仲の良い親子関係であっても、父親がカッとなって手を出してしまった、そして有名人の娘もまたカッとなってしまい時間帯もあって生成AIに相談して教えられた児相に電話。児相が「深刻な状況だと判断しましたので、警察に通報する」と伝えるわけはなく(被害者が報復を恐れて「警察はやめて」と言いかねない)、事態は誰もが望まない最悪の形で一気に進んでしまったのでしょう。

父は娘を庇い、娘は父を慮る。結局のところ、被害者がどこにも存在しない奇妙で異様な事件。

昭和の時代なら、母親が「お酒を飲んで娘に手を挙げるなんて、父親失格。謝って」「お父さんがどれほど大変な仕事をしてるのか、あなたはよくわかってたじゃない。あんな口答えしちゃいけません」と両成敗で収まっていたかもしれません。





本当の加害者がいるとしたら、それは生成AIだというのはおかしいでしょうか?

有名人の家庭でなければ時間が笑い話にしてしまうことでしょう。18歳の少女が「大好きなお父さんのキャリアを自分がダメにしてしまった」と苦しみながら、一生を過ごさなければならないとしたら、今の社会って何なのですか?彼女はそれほど重大な過ちを犯したのですか?

あるいは、こんな悲劇を引き起こす可能性を孕む、未完成の恐ろしい凶器を野放しにしている社会が悪い、そういったら言い過ぎでしょうか?

犯行はChatGPTによるもの。そういうと、あまりのも阿部親娘を擁護しすぎでしょうか?


もちろん、そんな決着をこの狭量な時代が認めるわけはなく、凶悪な加害者などいなかった家族が、凶悪事件に巻き込まれたレベルで引き返すことのできない大きな不幸に見舞われたのだとしたら、やりきれない思いにひたすら悲しいです。




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