フシ穴の眼 〜スポーツ疾風怒濤編〜

      Hope Lights Our Way / 希望の道を、つなごう。

カテゴリ: リング誌から

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権威のないもの。勝手な妄想。ふざけたお遊び。

そんなものが、ずっと大好きでした。

だから、Pound for Pound なんて大好物です。

ところが、このP4Pがいつの間にか日本の一部メディアの間では「権威がある」ものになっています。

「リング誌のPFP1位になったら国民栄誉賞」とか思っちゃう、幻覚ちゃんたちです。

そんな幻覚ちゃんはリング誌を見たことも触ったこともなく、これまで日本人がランクされたかどうかもPFPを知ってから後追いで知る、あるいは未だに知らない、延髄で思考する恐るべき人々です。

そんな幻覚ちゃんは、FIGHTER OF THE YEARもよく知りません。下手したらFIGHT OF THE YEARの方が上と思ってるかもしれません。

当然、シュガー・レイ・ロビンソン トロフィーですら知りません。

プロボクサーにとって最高の勲章はPFP1位で、次が2位、その次は3位。そんなふうに真剣に信じているのが幻覚ちゃんです。

しかし、2年前のPFP1位もあやふや…。権威はどこへ行ったのやら。

このブログでも、リング誌の年間PFP(数年前に経営難の誌面リストラから廃止)ともいえるBEST FIGHTER POLL をたびたび紹介していますが「これ意味無いよね?リング誌の経営難が直接の原因かもしれないけど、意味がないからやめたんでは?」というツッコミも入ると思いました。しかし、結構すんなり受け入れていただきました…。

「だからバンタム級はすごいのだ!」という現在進行中のシリーズも「欧米では馬鹿にされるどころか無視されている超軽量級を舐めんなよ!」という意図でしたが、もしかしたら「バンタムは空気階級」という事実を知らない人もいるかもしれません。

もはや、面白いステージに突入してるので、Mythical (妄想)Rankingと呼ばれるPFPと並ぶもう一つの妄想についても、是非とも権威あるものと思い込んで一直線に突き進んで欲しいと思います!

PFP=Mythical Rankingと並ぶ、もう一つの意味の無いMythical (妄想)のお遊び、それがMythical Matchupです。

このブログでは何度も紹介してますが、時代を超えたボクサーが戦ったとして、その勝敗を予想する、考え方はPFPと同じ、妄想遊戯です。

今回はリング誌のDOUG FISCHERが毎週金曜日にアップする DOUGIE’S FRIDAY MAILBAG から2試合をピックアップ。


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Tyson-Liston★
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これは似た者同士の激突。瞬間最大風速、過大評価の爆発力の対決です。

マイク・タイソンはモハメド・アリが退場したリングで、有象無象のヘビー級をことごとく撃破。「強い相手と戦っていない」という批判にも「強い相手がいないから。いたら弱い相手と同じように序盤で粉砕する」という信者がはびこった80年代の伝説。

リング誌のBEST FIGHTER POLL(年間PFP)でも1位に輝きましたが、今ではリング誌の黒歴史。存命PFPなどですら、タイソンを10以内に挙げる識者はいません。

それを言い出すと。エイドリアン・ブローナーがリング誌やESPNのPFPの末席を汚したこともありましたっけ。

一方のソニー・リストンは、まさにタイソンの雛形。弱い相手に滅法強く、強い相手には情けなく敗れる。

このMythical Matchupの焦点は、どちらがビビるか?です。まあ、気持ちの弱さでは二人とも最強クラスですが、タイソンでしょうね。恐怖に噛みつくかもしれません。

もちろん、1ラウンドが強いタイソンの攻撃にリストンが怯むとゲームオーバー。

似た者同士の対決、素晴らしいMythical Matchupです。これまでも数多くのMythical Matchupを戦い、タイソン無敗時代はリストン劣勢でしたが、時代が進むとリストン勝利が逆転しています。

さて、ダグの見解は…。

「リストンの全盛期は、1958年後半〜1960年代初頭。つまり、ヘビー級タイトルを獲得する(1962年9月:vsフロイド・パターソン)前だったと考えている」。

「その当時のリストンなら、アイアン・マイクの序盤の猛攻に耐えながら、クロスレンジから徐々に反撃、中盤には長いジャブも使って、Bプランを持たないタイソンを追い詰め、後半には80年代の人気者を完全に崩壊させただろう」。

「結果は僅差のユナニマス・デジションか後半ストップでリストン」。

「YouTubeでタイソンとリストンのドリームマッチのビデオゲーム・シミュレーションが公開されたが、そこではタイソンが判定勝ち。まあ、絶対戦うことが無いのだから、楽しいお遊びだね」。



私の予想はタイソンの序盤KOです。しかし、試合がもつれると心身ともに弱くなるタイソンです。リストンが中盤まで大きなダメージを負わずにクルーズできたなら、やはり痛烈にタイソンをノックアウトするでしょう。

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伝説の第1戦。舞台はカナダ、モントリオールのオリンピックスタジアム。公用語が英仏のカナダですが、このチケットはフラ語ですね。

Duran-Valero★

これは…もうどう考えてもミスマッチ。

口を半開きにして、顎まで突き出して、引きの遅いパンチを繰り出すベネズエラの狂人は、デュランの技術の前にひとたまりもなかったでしょう。

タイソン同様に弱い相手には滅法強いバレロは、タイソンと違い、ついに一度も強い相手と戦うことがありませんでした。


ダグも「テクニックで上回るデュランが一方的に攻め立てて、中盤から終盤にかけてストップ。この試合が現実になるなら、気の弱い方は見てはいけません」。



そうですね、私も単なる虐殺にしかならないと思います。

しかし、あの口を開けて突き出した顎にデュランの強打がヒットしたら、そこで失神、ゲームオーバーの目もあります。


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Mythical Rankingに飽きたら、次はMythical Matchupです。

「リング誌のミシカル・マッチアップで井上尚弥がエデル・ジョフレを2ラウンドでKOした。これはとんでもないこと、国民栄誉賞」です。

それゆけ、幻覚ちゃん!
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DAIMOND IN THE ROUGH〜覚醒前〜

デトロイトで生まれた才能が、ニューヨーク・ハーレムで花開く。
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1920年、ジョージア州の農村から一人の若者が建設現場で働くために、デトロイトにやって来た。

数ヶ月後、その妻レイラと二人の娘も彼と合流した。

1921年3月3日、三番目の子供が産まれた。今度は男の子だった。

父親の名前を継いでウォーカー・スミス・ジュニアと名付けられた。この美しい漆黒の肌を持つ赤ん坊が何者なのか、そのとき誰も知る由がなかった。

1928年、レイラはなけなしの貯金を崩して、7歳のウォーカーJr.にボクシングを習わせた。

しかし…運命の歯車は…まだ動き出さなかった。

のちに多くのメディアから質問を受ける当時の指導者は「11歳のウォーカーJr.を覚えている。友達とふざけ合ってばかりだったから、叱り飛ばしてジムから叩き出したんだ」と回想しています。

「当時はボクシングの才能があるとは思えなかった」と言いながらも、そんな子はどこにでもいるのに、どうして彼だけを覚えているのか?と聞かれると、こう答えました。

「リズム感が抜群に良かった。ザワっとする感覚はあったけど、そのときはもの凄いリズム感を持っていても、優れたボクサーになれるわけじゃないと決めつけていたのかもしれない」。

「そう、あのとき、何かが背筋にザワっと走ったんだ。あんな感覚は後にも先にもあの一度きりだった。だから今でも覚えてるんだ」。

ブリュースター・レクリエーションセンターでボクシングを教えていた指導者の名前は、エディ・ファッチといった。

レイラは夫の家庭内暴力と度重なる浮気に、離婚する。子供たちをジョージアの母親に預けて、デトロイトに戻り、スタトラー・ホテルのメイドとして働き、子供たちとまた一緒に暮らすために、少ない給金から少しずつ貯金した。

1932年、レイラはニューヨークへの引っ越しを決める。

そのとき、運命の歯車が、ガタンと音を立てて動き出した。

ヘルズキッチン地区に小さなアパートを借り、母親は働き詰めた。貧しくても幸せな生活が始まった。

アパートの表通りにはニューヨークのシンボル、タイムズスクエアがあった。

夜、劇の幕間にシアターから出て来た観客は、歩道でダンスを踊る子供たちに小銭を投げて囃し立てていた。

超一流のミュージカルを観てきた目の肥えた観客にとって暇つぶしでしかなかったが、目を見張るほど飛び抜けて優れたリズム感を持つ、ダンスの上手い黒人の子供が一人だけいた。

ウォーカー・スミスJr.だった。

1933年、家族はハーレムに居を移す。

ウォーカーJr.は中学で学校をドロップアウト、路上でモノを売って働いた。

そこは、1930年代のニューヨークのダウンタウンだ。このまま、闇の谷底に落ちてゆくには打って付けの場所をウォーカーJr.は彷徨っていたが、彼はすでに命綱をしっかり握っていた。

その命綱は7歳から始めたボクシングだった。
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The Best of Sports Illustrated〜1954−1995
創刊から約40年の米国スポーツの歴史を総覧した一冊。ボクシング全盛期の1950年代、最も高い評価を得たのがシュガー・レイ・ロビンソン。写真は世界ミドル級王座に4度返り咲いたロビンソン。

写真右でバットを構えているのは、この年、44本塁打を放って初タイトルを獲ったハンク・アーロン、当時23歳でした。この時代、ボクシングは疑う余地のないメジャースポーツでした。


ニューヨークでウォーカーJr.を指導したのはジョージ・ゲインフォードだ。ジムはハーレムのセーラム・メソジスト教会の地下にあった。

「最初はボクシングの才能があるようには見えなかった」。ゲインフォードも、ファッチ同様にそれが途轍もない宝石の原石だと気づくことは出来なかった。

「ただ、おかしなことを言う子だった。こんなパンチを打ったら、相手はどう動く?この動きは意味がないように見えるけど、そのあとこの動きにつなげたら?」。

「リズミカルにしなやかに四肢を動かしながら、ボクシングに興じていたのを思い出す。チェスをするように自分の動きと相手の動きを何手も先まで読んでいくんだ」。


あらゆる伝説の類がそうであるようにシュガー・レイ・ロビンソンの物語も、細かいエピソードには諸説入り乱れ、特にこの頃はその年代も曖昧だっりする。

次に紹介するスポーツ史上最も有名なエピソードも、それが何年何月何日のアマチュアトーナメントの大会だったのかも定かではない。

ただ、場所はニューヨークのキングストン。正選手出なかったウォーカーJr.は粗末なパイプ椅子に座って観客席から試合を見ていた。

運命の歯車が大きく連動しながら、ボクシングの歴史に最初の悪戯を刻印したのだ。

フライ級の選手が試合時間が迫っても姿を現さないのだ。スミスは「僕が出る」とゲインフォードに申し出ますが「(アマチュアアスレティック・ユニオン=A AUの)ライセンスカードを持っていないから出れない」と却下されてしまいます。

しつこく頼み込むウォーカーJr.にゲインフォードは一考を思い付きます。

持ち歩いているAAUカードの束をトランプのようにシャッフルして一枚のカードを抜き出した。

「ちょうどいい。こいつはしばらくジムに来ていない幽霊部員だ」。

カードを渡すとゲインフォードは小声で囁いた。

「いいか、この試合が終わるまでお前の名前はレイ・ロビンソンだ」。

このエピソードもゲインフォードとウォーカーJr.は本当だと主張しているものの、他に〝証人〟はいない。

事実じゃないと疑う理由もないはずだから、ゲインフォードを知る多くの人は「彼は杓子定規の真面目人間。そんな遊び心でルールを犯すわけがない」と口を揃えるのです。

ゲインフォードもまた戸惑っていました。

「どうしてあんなことをしてしまったのか、自分でもわからない。ただあのときは熱にうなされたように、やってしまった。あんな軽はずみなことをしたのは、生涯あれっきりだ」。

その試合をウォーカーJr.は美しく戦いユナニマス・デジションで勝利を収めた。

1試合限定の「レイ・ロビンソン」だったが、勝ったために次の試合もその名を使わなければならなくなった。

1週間後、キングストンに戻った「レイ・ロビンソン」は、さらに美しく戦い勝利を収めた。

誰だ?あのスタイリッシュなボクサーは?

レイ・ロビンソン?これが本当に2戦目か?

レイ・ロビンソンは次にどの大会に出るんだ?


このとき、ウォーカー・スミスJr.は少なくともリングの上では本名に戻る機会を永遠に失ってしまった。

1939年1月5日、18歳のウォーカー・スミスJr.、いやレイ・ロビンソンはニューヨーク・ウォータータウンで強豪ドム・パーフェティからも特別に美しい勝利を収めた。

That's a Sweet Fighter you've got there.


ウォータータウン・デイリータイムズ紙のジャック・ケース記者は「なんて美しく戦うボクサーだ!」とゲインフォードを祝福した。

ここからが重要な話だが、やはり諸説入り乱れている。

その3つの単語はゲインフォードの口から発せられたとも、近くに座っていた女性が感嘆してもらした言葉とも、ケース記者が表現したとも言われています。

いずれにしても、このときレイ・ロビンソンが初めて冠をつけたのです。


Sweet as Sugar


The following day, Case’s article in the Watertown Daily Times referenced “Sugar Ray Robinson.” A legend had been born. 
 翌日、ウォータータウン・デイリー・タイムズ紙に掲載されたケースの記事には「シュガー・レイ・ロビンソン」と書かれていた。

伝説が生まれたのである。

後年、ゲインフォードは「私は史上最も偉大なトレーナーだ」と自慢した。「シュガー・レイ・ロビンソンを育てたのは私だ」と。

「ジョージ、君は何百人ものファイターを育ててきたのに、なぜ他のみんなはシュガー・レイのように優秀ではなかったのか?」。

そう問い詰められると、ゲインフォードは「私が最初に見つけたんだ!」と主張を変えた。

おそらく、最初に見つけたのはエディ・ファッチだ。

「あなたがもし11歳のウォーカーJr.とコンビを組んでいたら、一体全体どんなボクサーが生まれていたんでしょうか?」。

生涯何度も聞かれた質問にファッチの答えはいつも短く素気のないものでした。

「本物の才能は育てるもんじゃない。生まれてくるもんだ」。

シュガー・レイ・ロビンソンの正確なアマチュア成績、これもまた諸説が入り乱れています。

多くの伝記やBoxRec"では「85戦全勝勝69KO・RSC、69のKOのうち40が1ラウンドで試合を終わらせた」という〝最強説〟をとっています。

しかし、ウォーカー・スミスJr.時代に3敗はしている、という説が有力です。

ただし、当時はニューヨークがボクシングのメッカであり、ニューヨーク・ゴールデングローブのタイトルは現在のプロのアルファベット団体のタイトルはもちろん、五輪の金メダルよりも注目と尊敬を集める栄光でした。

ロビンソンはその世界の中心で、1939年から40年のわずか2年間でフェザー級とライト級のチャンピオンに輝いているのです。

1940年9月19日、ニューヨーク州アスレチック・コミッションにプロ・ボクサー・ライセンスを申請した書類が残っている。

▶︎生年月日:1921年3月3日。年齢、19歳。

▶︎住所:ニューヨーク市西116丁目215番地。

▶︎前職:タップダンサー。

▶︎本名:ウォーカー・スミスJr.。

▶︎リングネーム: レイ・ロビンソン。

申請書のサインには 「レイモンド・ロビンソン 」と署名されている。

10月4日、マディソン・スクエア・ガーデンでプロデビュー。ジョー・エチェバリアを2ラウンドでノックアウトした。

その4日後の夜、ジョージア州サバンナで行われたカードでも2ラウンドTKOで勝利した。



伝説の幕が開き、栄光への疾走が始まった。
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「シュガー・レイ・ロビンソン」には、多くの謎が憑き纏います。

その最大の原因は、今なお誰もがその名を知っているのに、リアルタイムで見た人がほとんどいない、という一点に尽きます。

ジョー小泉をして「どの時代に生まれたかったか?やはりシュガー・レイ・ロビンソンをこの目で見たかった」と言わしめるのですから、その存在感は圧倒的です。

特に日本では試合が中継されることなく、80年代に世界のボクシングと出会った私に代表されるように、知ったときはすでに伝説だったということです。

モハメド・アリやシュガー・レイ・レナードが全面的に崇拝するほどのボクサーが、いかにヘビー級の時代とはいえ人気面でロッキー・マルシアノの後塵を拝するなんてことがあるのか?

シュガー・レイ・ロビンソンは、後付けの伝説ではないか? 
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しかし、現実には「米国で飛び抜けて高い評価を得ているシュガー・レイ・ロビンソン」は、日本のメディアは「右に倣え」で、日本の指導者も積極的にテキストとして受け入れていました。
 
カザフスタンのゲンナディ・ゴロフキンも「ボクシングを始めたきっかけはシュガー・レイ・ロビンソンの伝記を読んで」というように、史上最高のグレートが「米国限定」「後付け」というのはおそらく誤りです。

米国ボクシング、いいえボクシングそのものを語るとき、近代ボクシングの技術体系を完成させたシュガー・レイ・ロビンソンが何者なのか?どこから来てどこに辿り着いたのか?パウンド・フォー・パウンドとは何なのか?は、ボクシングファンにとって、どうしても知りたい、宿命のテーマです。


ひたすら続きます。
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Forewordシュガー・レイ・レナードによる序文
 

シュガー・レイ・ロビンソンに初めて会ったのはラスベガスだった。

無条件に尊敬していたしていたアイドルに、実際に会えたんだ。

とにかく興奮した。ああ、これがシュガー・レイ・ロビンソンなのか、と。

彼は素晴らしいオーラをまとった人物で、単なるボクサー以上の存在だった。

モハメド・アリのように、ボクシングや人生を超えた存在だった。
彼の試合のテープやドキュメンタリー番組を何度も見ていたが、シュガー・レイはいつも存在感があった。

優れたアスリートや偉大なチャンピオンには、それが確かに伝わってくる存在感がある。

彼の全ての試合を見たけど、勝ったという事実だけでなく、どうやって勝ったのかということが重要で、彼はとにかく美しかった。
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Was there pressure to carry the name Sugar Ray?(その名を継ぐということ)

私は楽観的で自信に満ち溢れていて、彼が成し遂げたことに少しでも近づきたいと思っていたので、むしろそれを発奮材料にしていた。

偉大な名前を継ぐことに否定的な人がいたかどうかすぐには思い出せないけど、否定的な意見もあったかもしれない。

それでも、プロデビューして10~15戦目にラスベガスでシュガー・レイに会ったとき、私は「ミスター・ロビンソン、あなたの名前を使っていますが、気分を悪くしてないでしょうか?」と聞いたんだ。

彼は「どうして気分を悪くなんかするものか。私の名前を継いだ君を見てきた。君は素晴らしいボクサーだ、誇りに思う」と答えてくれた。

とても嬉しくて、すぐに「ありがとうございます!」とお礼したよ。

Passing of the Torch.

あのとき、彼が私を受け入れてくれたことで、私は彼からトーチを引き継いだ気分になった。とても重要で、大きな責任の伴うトーチであることを理解していたから、誇らしさと緊張で身震いしたのを思い出す。

私は彼を尊敬していた。彼も私を目にかけてくれていた。

「準備が大切だ。レイ、いつも完全な準備しておけ!」と、よくアドバイスしてくれてた。
 
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リングを降りると、ステージや表彰台に立っているかのようにいつも美しく着飾っていた。

シュガー・レイ・ロビンソンはいつでもとびきりにお洒落な人だった。

それが彼の存在感を高めていました。

彼はバーやクリーニング店、衣料品店など、ニューヨークのハーレムで少しずつ手を広げて、様々なビジネスを展開していた。

彼の、リングの中と外での成功に刺激され、自分ももっと最高になるために、もっと頑張ろうと思った。

ボクサーはエンターテイナーでなければならない、そんな考え方も彼から学んだ。

シュガー・レイが試合をするとき、彼のパンチは、エンターテインメントと興奮を生み出していました。

ボロパンチにしろ、ボディショットにしろ、彼のパンチは速くて、アクセントが効いていて、リズミカルで、見ているだけで楽しい気分にさせてくれた。

だから、みんなシュガー・レイ・ロビンソンの真似をしたんだ。まさに時代の先端を走っていた。


私はプロで40試合、シュガー・レイは200試合以上を戦った。

彼の試合数の多さには、いまさらながら驚くしかない。

彼は偉大なファイターであり、偉大なチャンピオンであるべきだった。彼こそがチャンピオンだった。

そして、シュガー・レイは試合に負けると、より強い強い気持ちで再戦に臨んでいました。

私はロベルト・デュランに負けたことで、多くのことを学んだ。

デュランは、ボクシングの精神面、心理面が肉体と同じくらい重要であることを教えてくれた。

敗北から立ち上がることで真のチャンピオンになったシュガー・レイ・ロビンソンは、私にとって偉大な見本だった。

The Greatest Fighter Ever(シュガー・レイは史上最高のファイターか?)

疑う余地などどこにもない、明らかに史上最高のファイターだ。

彼は万能のファイター、ボクサーの完成形だった。

史上最高なんて、所詮は人が決める主観的なものだと思ってる人がいるかもしれない。しかし、それは大間違いだ。

モハメド・アリが多くの人にとって“The Greatest”であるのは、やってのけた業績からだ。シュガー・レイはリングの中のスタイルがとにかく最高だった。

私に言えるのは、二人と知り合えたことを幸せだったということ、それだけだ。

シュガー・レイ・ロビンソンの試合を見たことがないファンには、まず見て欲しい。

いつも美しく、ときに凶暴で、ときに力に満ち溢れ、どんなときも鋼鉄の精神で戦う姿、彼こそがチャンピオンだった。

彼こそが理想的なチャンピオンだった。

彼のことを一言で表すことなんて到底出来ない。それでもあえて一言で表現するなら“special"、他に並ぶ者などない特別な存在だった。 
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リング誌7月号はシュガー・レイ・ロビンソン特集。

日本では正確な情報が少ない、神秘のベールに包まれたパウンド・フォー・パウンドの〝語源〟であるグレート中のグレート。

4団体17階級時代を迎えて、各メディアがPFPランキングを発表しています。どのPFP1位も妄想を根拠にしたお笑い草であることは、メディアはもちろんファンもよくわかっています。

しかし、SRRが全時代PFPキングであることは、多くのメディアと米国をはじめ世界中のファンが妄想ではなく事実として認識しています。

SRRが活躍した1950年代はヘビー級の時代、ロッキー・マルシアノがボクシング、いやアメリカンスポーツの顔でした。

ロビンソンは専門家と一部のマニアから絶対的な評価を得ていたとはいえ、ニューヨークの月見草でしたが、当時は米国ボクシングの黄金時代。
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SRRは、どこから来たのか?

どの時点で、ロビンソンはパウンド・フォー・パウンドになったのか?

マフィアの影響力が色濃く残ってたアメリカで、ロビンソンはどうやって折り合いをつけたのか?

そして、SRRは本当に全時代を通じて最強なのか?
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日曜日だというのに、大学でお仕事。

また、東北で地震がありました。東京も嫌な揺れ方でした。

天災を抑えることなど誰もできませんが、不運に見舞われた人を救うのは政治家のお仕事です。しっかりお仕事しましょう。

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リング誌は月間最高選手を毎月発表しています。
6月号で選ばれたのはジュニアバンタム級最強を賭けて8年8ヶ月ぶりの再戦を戦ったファン・フランシスコ・エストラーダとローマン・ゴンザレスの2人。

昨年の年間最高選手にもテオフィモ・ロペスとタイソン・フューリーの2人を選手したリング誌ですが「年間」の方はフューリーの単独で良かったと感じています。

しかし、エストラーダとロマゴンの「月間」は納得です。さすがリング誌です。

「ダウンシーンや、どちらかが決定的に傷つくこともなかったが、あれほどハイレベルな打撃戦はまず見られない」。

その通り、技術もハートもハイレベルなこれぞボクシングの試合でした。
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判定が読み上げられ、敗北したロマゴンはもちろん、勝ったエストラーダも会心の笑顔を見せることができませんでしたが、この試合の勝者は明らかです。

生で目撃した約2500人の観衆が最高の勝者、テレビで観戦できた世界中のボクシングファンも勝者でした。

今年の年間最高選手賞も、この2人で良いかもしれません。
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2015年5月2日、6年越しの交渉の末についに実現した「メイウェザーvsパッキャオ」。

興行規模だけが史上最大だった、つまり最もコスパの悪い、要は史上最悪の期待外れのメガファイトでした。
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それでも、試合前はそんなことはわかりっこありません。
 
チケット代は、MGMの売り出し価格で約30万円が最安値でしたが、手に入るなら見に行こうと思ってました。

しかし、私が買おうとしたときにはその席はソールドアウト、転売価格は100万円に迫っていました。

それでも、とんでもない名勝負になったら後悔すると、妻に土下座してでも…、とまで迷いましたが、さすがに100万円はありえません、思いとどまって大正解でした。

大金をドブに捨てる危機は回避しましたが、あの試合を見た後の喪失感は深過ぎました。

リング誌の定期購読をやめて、大量のバックナンバーも古本屋にでも売ろうと思いました。

それでも「これでお別れ」と過去のリング誌を読み返してると、まだ子供が小さくてリング誌を噛み破いた号など、当時のいろんな思い出も一緒に蘇り、そして何よりもかなり鋭く面白い記事が多いことに改めて感動しました。

もはや、リング誌を捨てるなんて考えは霧散、それどころか愛おしくてたまらなくなりました。

当時、慢性的な経営難から毎年ページ減を強いられていたリング誌は、2015年から月刊体制まで破綻、年9回発行の変則季刊誌になっていました。

64ページまで薄くなったリング誌。

その背表紙にプリントされた「RING MAGAZINE」の文字も窮屈そうで、今までこんなに楽しませてくれた雑誌の定期購読をこのタイミングで切るのも憚られました。

そして、リング誌のプリントバージョンの廃刊までが噂に上がっていましたが「だったら廃刊まで見届けてやろう」と思い直したのです。

その後、親会社のゴールデンボーイ・プロモーションズの経営も傾きますが、新たな出資者からのサポートで2019年から月刊誌として復活。ページ数も80まで戻しました。

今では、しばらく定期購読から離れていた英国ボクシングニューズ(BN)誌も取り始め、1ヶ月にリング誌1回、BN誌4〜5回が届けられる生活を送っています。

しかし…。

パンデミックの影響もあり、両誌とも試合展望や結果の総括、それに伴う歴史的な考察などの記事が少なくなり、過去のグレートの特集など懐古調の色彩が濃くなっていることに少し飽きてしまったのかもしれません。

いつもならどんなに疲れていても、届いたその日に封を開けていたBN誌でしたが、仕事が超繁忙ということもあり、封を開けないうちに次の号が到着ということが何度かありました。

仕事が忙しいというのはウソですね、どんなに忙しくても、本当に好きなら寝る間も惜しんですぐ読みたいはずですから。

仕事に余裕がある時期でも、さらっと目を通すつもりが夢中で読み込んでしまい睡眠不足、なんてことがリング誌とBN誌が同時に届いた日なんかはよくありました。

封も開けずに次の号着荷というのは如何なものか?と思い立ち、今月で切れるBN誌の定期購読は更新しませんでした。

ロンドンから白いビニール袋にパックされたBN誌は、4月からもう届かない。

そう思うと少し寂しい気もしますが、月刊のリング誌と違って、週刊のBN誌は結構なペースでかさばっていきます。

今のところ、リング誌の定期購読をやめるつもりはありませんが、面白い試合が見たいです。


6月は日本と世界のエースがリングに上がる予定。

もしかしたら中谷正義vsワシル・ロマチェンコも6月26日が有力と言いますから、日本のボクシングファン、スポーツファンにとってはオリンピック開幕前にでっかい楽しみが出来ました。

梅雨空を粉砕するようなファイトを期待します!
 

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Many words can be used to describe Marvelous Marvin Hagler. Versatile. Durable. Rugged. Skilled. Proud. But one word best defines who he was inside the gym and inside the ring, and to everyone who knew and loved him: Marvelous.
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マーベラス・マービン・ハグラーは、数多くの言葉で形容されてきました。

臨機応変で引き出しが多い。

恐ろしいほど我慢強い。

野生的で荒々しい。 

それなのに高度の技術を使いこなす。

誰よりも誇り高い。




しかし、彼はたった一つの言葉で表現できます。

練習でも試合でも、すべての人から尊敬された彼は、ただひたすらにMarvelous だったのです。
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先ほどアップされたリング誌電子版「ROMAN GONZALEZ AND THE TITLE-REIGN KINGS OF BOXING」(ロマゴンと世界戦最多経験王者)を短観も交えてご紹介。

6日後、ジュニアバンタム級のリング誌タイトルも加えた団体統一戦のリングに上がるローマン・ゴンザレスにとって、これが19度目の世界タイトルマッチ。
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これまでの18戦は16勝10KO2敗。フライ級時代にPFPキングにも君臨したチョコラティトは、殿堂入り確実、史上最高の軽量級の一人です。

世界戦登場回数、現役では19回(井岡一翔:17勝10KO2敗/ノニト・ドネア:15勝10KO4敗/マルコ・フック13勝5KO5敗)が最多。

…おいおい、19連続防衛ゲンナディ・ゴロフキンを忘れるな!

GGGはカネロ・アルバレスに敗れたあとセルゲイ・デレビャンチェンコとの決定戦に辛勝してIBFを奪還、去年12月にカミル・シェルメタを粉砕して防衛に成功してるから、世界戦21試合のはず。

しかし、このブログでもたびたびご紹介しているように世界的には「同一団体が同一階級に複数王者を乱立させた場合は上位王者一人しか認めない」のが通例です。

リング誌も「The Ring recognizes only the absolute WBA champion.」の姿勢です。「同一階級に王者は一人」。当たり前に正しい考え方です。

そこには「上位王者(WBAスーパー)が存在するならセカンド王者(レギュラー)は認めないという〝ルール〟が存在します。これも当たり前に映りますが、GGGはこの〝ルール〟の犠牲者です。

GGGとの対戦をあからさまに回避し続けたフェリックス・シュトルムがスーパー王者として並立していた間の世界戦が、ごっそり間引かれているのです。

そのため、リング誌などではGGGの世界戦成績は〝わずか〟13試合、11勝9KO1敗1分にとどまってしまうのです。

日本では、井上尚弥の世界戦は15戦で全勝13KOと考えられていますが、リング誌ではジェイミー・マクドネルとファン・カルロス・パヤノの2試合が「WBAスーパー王者が存在していた」ために間引かれて、GGGと同数の13戦全勝11KOとカウントされてしまっています。

GGGのケースは特に理不尽な思いが強いですが、仕方がありません。「シュトルムは逃げてたから上位王者とは認めない」というのは正義の考え方ですが、そこにあるのはどうにでもデッチあげることができる「無法」であり「法治」ではありません。

この「法治」の考え方では…そうです。村田諒太はまだ世界戦を1試合も戦っていないことになるのです。

井岡が「19」で現役最多を走る「世界戦出場回数ランキング」。

過去を紐解くと当たり前ながら、とんでもない怪物が現れます。

歴代最多はフリオ・セサール・チャベスの37戦(31勝21KO4敗2分)。

2位以下はバーナード・ホプキンス(36戦=26勝13KO6敗2分)、オマール・ナルバエス(32戦=28勝12KO3敗1分)、オスカー・デラホーヤ(29戦=24勝17KO5敗)、バージル・ヒル(29戦=24勝7KO5敗)、ウラジミル・クリチコ(29戦=25勝19KO4敗)、マルコ・アントニオ・バレラ(29戦=25勝14KO4敗)、マニー・パッキャオ(28戦=22勝12KO4敗2分)と続きます。

パッキャオの28戦は少ない気がしますが、これは「セカンドタイトルはノーカウント」という理由だけではありません。パックマンのこの数字には「非世界戦」のメガファイトをいくつも戦った極めて現代的なボクサーの特質が表れています。

※同数の場合は先に達成した選手が上位にランキングされています。


井岡にならぶ19度目の世界戦に臨むロマゴン。この二人の激突はあるのでしょうか?あるとすると、そのときには「二人合わせて世界戦40度」という、大看板が掲げられそうです。



▶︎今回の契約条項に盛り込まれていたのは「21日前計量」と「7日前計量」。

昨日の「7日前」では「119ポンド以内」が求められています。

昨日のウェイ・インは、ロマゴンが118.2ポンド、エストラーダ118ポンド。両者とも〝一発クリア〟。 

121ポンド以内が求められる「21日前」も、ロマゴン120.6、エストラーダ120と両者とも順調にウェイトコントロールが進んでいます。

このまま最高の状態で激突してください! 
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リング誌のDOUGIE’S FRIDAY MAILBAG (PETERED-OUT PUNCHERS, #P4P TROLLING, LIGHTWEIGHTS)からの拙訳です。

こういう記事はESPNなどでも、度々掲載されています。このブログでも紹介していますが…。

この場末のブログは口の悪い酔っ払いの暴言ならぬ暴文ですから、誤解されてる方も多いでしょうが、私はボクサーの味方です


軽量級の需要が絶望的に無い米国市場に打って出る、しかも、そこではすでにウエルター級やミドル級などの人気階級が支持されていてる。さらに、その市場は半世紀以上も凋落傾向を辿っている。

市場が拡大基調なら、まだかすかなミクロン・チャンスがあるかもしれません。

しかし、こんな危険しかない没落市場に外国人が勝負を賭けるとしたら、マニー・パッキャオや村田諒太のように人気階級に乗り込むしかありません。

あるいは、中途半端なカネではなく、ナジーム・ハメドを支援したイエメンやサウジアラビアのように5000万ドルレベルの放映権料をESPNに支払えば、在りし日のHBOがニューヨークで展開したように大々的に宣伝してふさわしい会場を用意してくれます。

西岡の「MGMメイン」の失態は、ある意味でカネの出し方が中途半端だったのです。「狭い宴会場」「マイナーテレビ」「ファイトマネー100万ドル」だから、浅ましいと嘲笑されたのです。

実は「ファイトマネー100万ドル」はどうでも良いのです。いや、むしろ無かった方が良かった。5万ドルとかの方が「それでもラスベガスで戦いたいんだ」という清廉な挑戦をアピールできました。

帝拳や大橋会長がこれ見よがしにありえない金額を、米国側が用意したかのように発表するから、ますます嘘くさくなるんです。井上も、大橋会長がカリフォルニア州アスレティックコミッションの発表数字の倍以上の金額を言っちゃうからダメなんです(マロニー戦は一切出してません、賢明です)。

長谷川穂積の「ジミー・レノンJr.の自腹来日」も同じ根っこです。

ハメドのように50億円出してれば「大会場」「HBOのワールドチャンピオンシップボクシング」が用意されます。この時点で「すげー」とファイトマネーはどうでもよくなります。

ちっちゃい会場で、しょぼいテレビで「100万ドル」だから誰もが「?????」となるんです。

それでも能面を被れだの、着物を羽織れだの、日本刀を振り回して入場しろなど、ハメドにしたような要求を突き付けてくるでしょう。

ハメドの場合、当時の中東には戦うリングがありませんでした。そして〝アラブ発揚〟の意義もありました。

しかし、西岡利晃や井上尚弥には、ラスベガスなんか比較にならない軽量級では世界最大の舞台が日本で用意できます。

。。。。。。ラスベガスに何しに行くんですか?
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2019年2月号と9月号で2度も井上を単独カバーしてくれたリング誌。その後、WBSSで優勝して、PFPでも2位に推してくれたのに、3度目はいつでしょうか?

前置きが長くなりました。。。。

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井上尚弥はクラスを上げながらも世界のトップ選手を相手に勝つだけでなく、驚くべきことにことごとく粉砕して見せた。私たちが目の前にしているのは、もう一人のロマゴンだ。

しかし…ロマゴンと全く同じように、不幸なことに米国では誰も彼のことを知らない。そして、不幸なことにこれからも彼は無視され続けるだろう。日本以外のマーケットで、フェザー級以下のクラスが注目されることなど、まずありえないのだ。

もちろん、井上も米国のリングに上がっているが、騒いでいるのは日本だけ。米国ではハードコアな一部のマニア以外は、井上には興味はない、というかそもそも知らない。

井上は、昨年10月にESPNデビューを果たしたが、一般的なボクシングファンに名前を知られるにはまだまだ多くの時間も、演出効果も求められる。

昨年、このパンデミックがなければ、井上はもう1試合米国で戦っていたはずだ。

井上を“overlooked stepchild.”(見落とされた義理の子供、つまり「誰それ?」)と無視する前に、あと少しだけトップランクとESPNは待つべきかもしれない。


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「あと少し待つ」というのは、日本が大騒ぎしてくれて「ハメド級の放映権料を待つ」ということでしょうか。

こういう記事は、フィリピンやプエルトリコのネットニュースの重箱の隅まで突きまくるTHE ANSERなどの〝大本営〟は見てないふりをするのでしょうが…。

こういう記事もしっかり伝えないと、おかしな信者を増幅させるだけで、それが結局、西岡がラスベガスの話が出来ないという不憫で悲惨な結果につながるのです。

井上の100万ドル、あれは西岡の「MGMメイン」同様、本当の金額でしょうが 、どっから出てきたのかは明らかです。マッチポンプです。

書きかけの話で「ハメド式はダメなのか?」みたいなテーマがあったはずですが、私はそれでも良いと思います。

理想は「パッキャオ式」ですが、あれはビジネスモデルではなく、ただの奇蹟です。 

井上は、西岡のような中途半端な形でなく「ハメド式 」の札束で頬を叩く押し売りでセールスすべきです。そんなカネがないというなら、トップランクとは手を切るべきです。
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