カテゴリ: 壁を越える人々

戦後最大のヒーローは誰か?

北海道から沖縄まで画一的な価値感を共有する日本の場合、この答えは簡単に3人に絞ることが出来ます。

力道山か、長嶋茂雄か、大谷翔平か。

価値観が多様化した21世紀に出現した大谷翔平、引退後も圧倒的な存在感を見せつけた長嶋茂雄は特別な国民的英雄ですが、この二人でも国民を狂乱させた瞬間最大風速で見ると、力道山には及ばないでしょう。

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1950年代に米国をサーキットした力道山は、飛び抜けて敏感なアンテナであの国のエンタテインメントが日本にも遅れて到来することを予見していました。「プロレスは日本でも熱狂的に受け入れられる」という確信は、簡単に現実となります。

そして、彼は米国の人々がプロレスのリングだけに熱狂していたわけではないことも正確に理解していました。

それは「リングの中で最も尊敬されるているのはプロレスラーではなく、ボクシングの世界ヘビー級チャンピオンである」ということです。

1952年5月19日、後楽園球場で世界フライ級王者となった白井義男の熱狂を、プロレスブームを巻き起こす寸前だった力道山がどう見ていたのかはわかりません。

しかし、米国で黄金時代を迎えていたボクシングは「ヘビー級こそ(ある意味でヘビー級〝だけ〟)がボクシング」というのは厳然たる事実でした。

力道山は、おそらく米国修行・サーキットで「白井義男」の名前を聞いたことすらなかったかもしれません。

もちろん、ビジネスに長けたプロレスラー力道山が日本で「本当に尊敬されているのはボクシングの世界ヘビー級チャンピオン」などと口にすることはありませんでした。

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マークシティ裏の坂を登りきったところにあった宮殿の跡地には、ヒューマックス渋谷ビルが立っています。


それでも、軽量級が中心のボクシングをはるかに上回る巨大なプロレスブームを巻き起こし、巨万の財を築いた力道山はナイトクラブや不動産業、レジャー施設などを手掛ける実業家としての顔を見せはじめる中で、日本のプロレスのリングで米国人を倒すのではなく、米国で本当に認められる格闘技の頂点を目指します。

1961年に竣工した渋谷の街一帯を睥睨するリキ・パレスは文字通りの宮殿で、プロレスの常設リング(ボクシングやプロレスの常設のハコは先進国では極めて異例)だけでなくボーリング場やビリヤード場、レストラン、サウナなども内包していました。

さらに、この宮殿でボクシング専門のリキジムも開設、ボクシング界に参入するのです。

当時から外部の刺激に対して過剰なアレルギー反応を起こす閉鎖的な日本ボクシング・コミッション(JBC)と全国のジムで構成される日本ボクシング協会は、力道山の参入にさまざまな制限を加えますが、リキジムはなんとか協会の加盟を認められます。

力道山の夢は「米国で尊敬される世界ヘビー級チャンピオンの養成」であり、目先の軽量級に拘泥する矮小な日本ボクシング界とは見ている方向が全く違いました。

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1962年、力道山がハワイ巡業に出向いたときに、ちょうど10歳年上のボクシングのトレーナーと出会います。エディ・タウンゼントJr.(1914年〜1988年:享年73歳)です。

このとき、力道山は38歳。48歳のエディは当時の感覚ではすでに「老トレーナー」の域に入っていたかもしれませんが、力道山はエディを「日本人の世界ヘビー級チャンピオンを育てて欲しい」とリキジムに招聘します。

エディは、Townsend was born to an American father and a Japanese mother in Honolulu, Hawaii. (米国人の父と日本人の母との間にハワイ・ホノルルで生まれた)とBoxRecやWikipediaなどに記載されていますが、ボクシング・マガジン1988年3月号の「エディさん逝く 愛弟子・井岡弘樹〝勝利の夜〟」によると「父エドワードは日米混血のハーフ、母のヒデコは日系移民2世」とありますから、日本人75%/米国人25%のクオーターになります。

おそらく、正しいのは後者でしょう。



力道山は1963年に赤坂のナイトクラブ・ニューラテンクォーターで暴力団員に腹部を刺されたことで死亡してしまい、二人の関係はわずか1年で終わってしまいますがそのエピソードは豊富です。

リキジムを初めて見学したエディは、怒りを爆発させます。

相撲部屋スタイルの竹刀で選手を叩いて指導しているのを見て「リングで叩かれて、ジムに帰って来てまた叩かれる?!何考えてるの!私はハートのラブで選手を育てる!」と力道山のやり方に断固反対し、最後はあの力道山が折れたというのは最も有名な逸話です。


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若き?(すでに50歳オーバーの)エディと藤猛。


ハワイ時代から旧知の藤猛がリキジムを偶然訪れ、エディは世界ジュニアウエルター級チャンピオンに育て上げました。

しかし、リキジムは強力なオーナー力道山を失って自然消滅。「ジプシー」と呼ばれたエディの流浪のトレーナー人生が始まります。

それから…海老原博幸、柴田国明、ガッツ石松、友利正、井岡弘樹。強烈な個性を放つチャンピオンを育て上げ、赤井英和とカシアス内藤というチャンピオン以上の魅力を放つファイターもリングに送り込みました。


https://www.tiktok.com/@alain.delon731/video/7660241904428272914

#緑の日々 #PV #オフコース #小田和正 作詞作曲 #清水仁 主演 高樹沙耶 富樫要 松尾一彦 大間ジロー
エディ・タウンゼント
昭和 ヒット曲 名曲 JPOP ニューミュージック


しかし、力道山と約束した「米国からも尊敬される世界ヘビー級チャンピオン」にはアプローチすることすらできないまま、名匠がカンバスに絵筆を振るった最後の作品は、力道山が全く知らない未来に作られたクラス、約47.6kgのストロー級の井岡弘樹になりました。

「ヘビー級の夢」を託されたエディが育てた最重量のチャンピオンは、皮肉なことに最初に手がけた藤猛だったのです。


もし、力道山が生きていれば「世界ヘビー級チャンピオン」の夢はもっと現実に近づけたかもしれません。



これほど日本人の体格が向上したというのに「世界ヘビー級チャンピオン」など夢に見ることすらなく、日本が好き勝手できるライト(軽量)級未満の層が薄く競技レベルも低い超軽量級ゾーンで、PFPのような弱者救済ランキングに注目しているのが現代の〝日本ボクシング黄金時代〟の実態です。

藤猛や柴田、石松のような米国で関心が持たれる階級ですら、もはや憧れの領域。

リキジムの時代よりもボクシングの世界だけが、日本人の体格がどんどん貧弱になっているという、あまりにも悲しすぎる惨状です。

井上尚弥を見る眼がある人がいたなら「今は複数階級制覇の時代だから、無理矢理にでもジュニアフライ級からタイトルを拾っていこう」ではなく、プロテストを受けたジュニアフェザー級をも飛び越えてフェザー級以上の体を作りあげ「誰もやったことがない冒険をしてみるか?成功したらカネには困らないが、孤独だ。日本のリングには重要な試合ほど上がれない。ラスベガスかニューヨーク、ロンドンで最強のビッグネームばかりと戦うことになる」と、ホンモノのT-モバイルアリーナを目指していたかもしれません。

ただ、アマチュア時代の井上を見抜く人などどこにもいませんでした。大橋秀行と真吾は論外、本人すらも。

それは、デビューから咬ませ犬を用意したことからも明らかです(井上信者は「強い相手としかやらない契約」なのにそんなわけないと言い張るでしょうが)。

もちろん、彼らは「レベルの高いフェザー級デビューなんてさせてたら潰されてしまって、PFP1位の尚弥はなかった」というかもしれませんが…。

マニー・パッキャオの不認知階級から人気階級への殴り込み、大谷翔平の絶対不可能と言われた二刀流への挑戦… ボクシングに限らず、スポーツが孕む究極のカタルシスはハイリスク・ハイリターンです。



来月でエディさん生誕92年。天国に招かれて18年。まだ生きていてくれていてもおかしくない年齢です。




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ずっと気になっていたことがあります。

「力道山を探せ」です。

リング誌がまだ「NEWS of the Mat World 」(プロレスコーナー)を内包していた時代。リング誌でも「力道山が大きく取り上げられた」という伝説があります。

日本で2006年に公開された「力道山」(サイダスFNH/日本配給ソニー・ピクチャーズ/上映時間149分)などでも「アメリカは力道山で大騒ぎ」的な描写⬇︎をしています。

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「西岡利晃のMGM」「井上尚弥のT−モバイル」と同じ、力道山側が仕掛けたかなり無理のあるプロパガンダだと考えていましたが、米国でどんなふうに受け止められていたのか、リング誌の記事ではどういう扱いだったのかは分からずじまいでした。

私は大学進学以降、社会人になってからも米国でも多くの友人知人、先生と知り合う幸運に恵まれましたが、「米国で力道山を知った」人に会ったことは一度もありません。

私の狭い交友範囲の中で判断すると「力道山が米国プロレスシーンでセンセーションを巻き起こした」というのは、おそらく事実ではありません。

ただ「リング誌リング誌でどういう扱いだったのか」については、はっきりわかる日がついに訪れました。

まさか、こんな日が来るとは…オイルマネー、恐るべし。



そして、これは、私も認めて謝らなければなりません。米国ほどではありませんが、サウジの友達、仕事関係の人もいます。

まあ、嫌な奴が本当に多いけど…こんなん言っちゃいけないけど知り合いいる人はわかるはず、日本人と知り合いになるサウジのやつら、仕事関係のサウジのやつらときたら…信じられない大金持ちばかりです。

「サウジのスポーツ進出はスポーツウォッシング」という批判に対して、私の友達の砂漠っ子(50歳過ぎ)は悲しい目をして「日本は自国民を虐げることは絶対にないのか?」「アメリカはもっと酷いことをしてるのにスポーツウォッシングなんてしないよね?」と聞いてきました。

「王家が絶対にやってはいけないことをやった(やっている)のはみんなわかってるけど、どんな国でもそこに体制があるわけで、体制を維持するためには体制に不都合な相手には悪い反応もする、むしろそうではない体制なんてあるだろうか?」。




「リング誌でどういう扱いだったのか」。それがわかるとしたら、神保町あたりの古本屋で高額なリング誌のバックナンバーを買い揃えるしかないと諦めていたのに…。

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El destino es Caracas〜行き着く先はカラカス

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2010年3月25日、エドウィン・バレロは病院に乱入すると、ストレッチャーに横たわって救急病室に運ばれようとしていた妻のカロリーナに「警察に話したら殺す」と威嚇した。

拳を振り上げるバレロを看護婦たちは必死で止めた。

妻は肺が破裂、肋骨がほとんど折られる重傷を負っていただけでなく、銃で撃たれた痕まであった。カロリーナはバレロを見ると恐怖で泣き叫んだ。

「彼は何もしていない。私が悪いの、私が階段から転がり落ちてしまったの」。

駆けつけた警官はバレロを病院関係者への脅迫容疑で現行犯逮捕した。バレロは警官の前ではおとなしく、協力的だった。

バレロに殴られて大怪我を負っていた母親も「階段から落ちた」と主張したため、バレロは釈放される。

裁判所でもおとなしかったバレロは、指示された通りに薬物とアルコール依存の治療のために6ヶ月のリハビリに入るが、無抵抗で弱いものを痛めつける快感に取り憑かれた悪魔は部屋を抜け出して、妻を捕まえた。

4月18日、カラボボ州バレンシアのホテルでバレロは妻を殴り殺した。ホテルから通報を受けた警察はバレロを殺人罪で逮捕、警察署内の牢屋で留置した。

そこで、バレロはスウェットパンツを紐状にして首吊り自殺、28年の生涯を自ら閉じた。




エドウィン・アントニオ・バレロ・ビバスは1981年12月3日、メリダ州の州都メリダに生まれた。

メリダは学園都市で、治安は良い方だ…といっても、これはベネズエラ基準の話だ。世界基準では、ベネズエラに治安の良い町など存在しない。

そこで、バレロは生まれた。




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ベネズエラ・ボリバル共和国(Bolivarian Republic of Venezuela)

ベネズエラ。

ボクシングや野球ファンにとって身近な国です。

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以下、過去記事の再掲になって恐縮ですが、個人的には米国があんな強行に出るとは想像していませんでした。

これが許されるのなら、何が許されないのか?


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どこの国で生まれるか?それが幸せを決める大前提です。

これは、ボクサーはもちろん、どんな人間にでも言えることです。

混迷が深まるベネズエラから、今月に入ってまた狂気のニュースが届いています。

5月4日にマドゥーロ大統領が会見し「米国の支援を受けたグアイド国会議長が軍事クーデターを企てたが、治安部隊が犯行グループを拘束、失敗に終わった」と発表したのです。

埋蔵量世界一といわれる石油大国ベネズエラですが、中国とロシアの支援を受けて独裁を続けるマドゥーロ大統領の政権下で国民生活は窮乏を極めています。

さらに、米国の支援を受けたグアイド議長が昨年から「暫定大統領」を名乗り、ボクシング界も真っ青な分裂状態が続いています。

中露が支援するマドゥーロvs米国支援のグアイド。身勝手な大国の代理戦争で割りを食うのは、いつも戦場にされた国土に住む一般市民です。

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マドゥーロ大統領の「米国が首謀者」という批判に対して、ポンペイオ国務長官は「関与していない。なぜなら我々が関与していたら違う結果(暗殺成功)になっていたからだ」とマフィアのような発言で応酬。


国務長官が口にする言葉じゃありません。怖いです。

グアイド議長も関与を否定していますが、拘束された犯行グループはグアイド議長が署名した「殺害契約書」をテレビカメラに映し(そんな書類を持ってクーデターの現場に赴くか?という疑問はありますが)、彼らが所属する軍事コンサルタント会社の代表も「(暗殺の代金は)グアイドが政権奪取後に石油の売却で2億ドル(約200億円)で合意していた」と語り、グアイドと交わした電話の会話も公開。

軍事コンサルタント会社というとわかりにくいのですが、要は元軍人など戦闘のエキスパートを戦地に向かわせる傭兵派遣会社です。

この会社は世界50カ国で〝警備業務〟にあたる業界大手の一つだそうです。

クーデター計画が存在したことは間違いありません。

しかし、拘束メンバーの装備は米国が関与したとは考えられえないお粗末なものでした。

金銭面で細かい合意に至らない段階で、グアイド陣営が見切り発車で計画に乗り出したーーそれが、杜撰なクーデターの実態だったようです。

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この杜撰な暗殺計画にCIAが関与していたのかどうかはわかりません。

マドゥーロを「CIAはこの程度か」と油断させる〝ブラフ〟だったのかもしれません。マドゥーロにこの作戦を内通したスパイを送り込んだストーリーの伏線だったかもしれません。

それにしても…CIAが中南米の国を転覆させたのは何ヶ国目でしょうか。

最も有名なのはチリ。

そういえば「戒厳令下チリ潜入記」はノーベル賞作家のG.ガルシア=マルケスの著作。

当時のチリと現在のベネズエラの、私たち西側が受け止める〝正義度〟には大きな隔たりがありますが、米国の蛮行がいまだに変わらないことに戦慄してしまいます。


それにしても…。こんなことが許されていいのか?





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今年10月のロンドン映画祭で、英国で最も有名なイスラム教アスリートの1人をテーマにした映画がプレミア上映されました。

「(米国ボクシング映画の代表作)ロッキーへの英国の答えだ」とヘッドラインされた「GIANT」。

伝説のトレーナー、ブレンダン・イングルと90年代に旋風を巻き起こしたナジーム・ハメドの絆を軸に繰り広げられるボクシング映画だそうです。

監督・脚本を手がけたインディのローワン・エイサーレは14歳で「ロッキー」を見て心を震わせ、現実のリングでもNazmania(ハメドの熱狂的なファン)になりました。

さらに、シルベスター・スタローンも製作に関わるなど話題性十分。

ハメドの成功の物語に終わらず、たった一度の敗北で神聖な快進撃から転落する姿も映されるようですが、どこまで事実と真実から離れずに作れるか?は難しい素材です。

エイサーレは「彼は普通のボクサーが成し遂げることを超えた業績を残したが、それは悲劇だった。なぜなら、彼ならもっと大きなことを成し遂げることが出来たはずだから」と静かに語ります。

ブレンダンの薫陶を受けた〝後輩〟アミール・カーンも「ムスリムのアスリートとしてナズは傑出した存在なんだ。見ればわかる。彼こそ人を惹きつける天才だ」と興奮しています。

「ある日、ジムにスペシャルオーダーの青いBMWが横付けされてた。あのデビッド・ベッカムがナズに会いに来たんだよ。ベッカムだぜ。あのベッカムを待たせるのが、ナズなんだ」(カーン)。


https://fushiananome.blog.jp/archives/9524016.html
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さんちょう

2025/12/24 12:30

ロイは強い相手に勝ってないではなくて、ロイが強すぎたからが正しいのではと思います。

元記事: CANELO vs BUD 〜クロフォードが明白に勝利を収めたら?{⑪}〜手の平を返された人々。 (編集)




戦闘機Fighter

2025/12/24 00:01

ジョーンズは神業見せてた頃のトニーに時期尚早気味に挑んだり、ベンに勝つ事が前提でマクラレン戦内定していたり決して強敵避ける姿勢では無かった。


マクラレンの事故を見てからはかなり慎重になったようですが……

ハメドも一階級下とは言え実力派王者(プロボクシング界だけの不思議なワード)と評価されてたブヤニ・ブングやバスケスを圧倒しての統一王者で実績は十分あった。モンソンやハグラーだって下から上げて来た有名選手への勝利で伝説固めしてた感じですし。

ジョーンズはミハエルゾウスキー、ハメドはマルケスと対戦しなかった事プラス敗北でそれまでの実績まで否定的にされた感じです。


元記事: CANELO vs BUD 〜クロフォードが明白に勝利を収めたら?{⑪}〜手の平を返された人々。 (編集)

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リング誌のBEST FIGHTER POLL(年間PFP)でロイ・ジョーンズは…

1995年 1位
1996年 1位
1997年 2位
1998年 1位
1999年 1位
2000年 3位
2001年 2位
2002年 1位
2003年 1位

2004年 圏外

9年連続トップ3。といっても3位は一度だけ、2位も2度だけ、残りの6年は1位。

途轍もないPFP評価です。途轍もない…。

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El destino es Caracas

「すべての道はローマに通ず」に類似したことわざにも勘違いされるが、そうではない。

いまの退廃したローマはカラカスに似てもいなくはないが、かつて世界最高の都市だったローマと、悪徳の縦糸と毒薬の横糸で編まれたカラカスとでは全く異なる。

El destino es Caracas をもし和訳するなら「行き着く先はカラカス」。

もちろん、ことわざなんて幅広い意味を持つ。

日本のスポーツファンなら誰よりも尊敬している、そう大谷翔平よりも尊敬を集める野茂英雄が登った最後のマウンドがリーガ・ベネソラーナ・デ・ベイスボル・プロフェシオナル(ベネズエラ・ウィンターリーグ)だった。

El destino es Caracas 〜行き着く先はカラカス。






2009年9月24日、バレロが母親と姉妹をその拳で殴ったとして家庭内暴力容疑で逮捕された。

このあとアメリカの戻ったプロボクサーは、飲酒運転でも逮捕される。

この2つの事件から、米国の各州コミションはライセンス発行を保留してしまう。

2009年11月14日にはラスベガスのMGMグランド・ガーデンアリーナで行われるFIRE POWER(マニー・パッキャオ vs. ミゲール・コット)のアンダーカードとしてウンベルト・ソトとの対戦が予定されていたが、度重なる犯罪歴からそもそも渡航ビザが発給されなかった。

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バレロのキャリアは貧弱な対戦相手で占められていたが、その中ならソトは飛び抜けたビッグネーム。

それよりもなによりも、当時の世界で最も注目を集めるパッキャオのメガファイトの前座に登場することによる訴求効果は、無名のバレロをカジュアルなボクシングファンにもその名を知らしめる大チャンスだった。

バレロはソトを相手にしても「やや有利」と見られていたが、トップランクとしてはどちらに転んでも良いカードだった。

パッキャオの弟ボビーをKOしているソトに、数字モンスターのバレロ。2人は、パッキャオの対戦相手としてリザーブするスペックを持っていた。

もし、あのときMGMグランド・ガーデンアリーナの花舞台に上がっていたら?

怒涛の攻撃力はあるものの、口は開きっぱなし、顎も上がりっぱなしでパンチはテレフォンのバレロは老獪なソトにあっさり攻略されていたかもしれない。

しかし、先に強打を当ててタフなメキシカンをノックアウトしていたかもしれない。




もう、いまとなっては全てが、虚しいイフだ。




El destino es Caracas

〜行き着く先はカラカス。

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a todo cerdo le llega su San Martín


すべての豚に聖マルティヌの祭日がやって来る。



ベネズエラでもよく知られるスペインの古いことわざだ。

祭りの日、豚は屠殺される。良い悪いを超えて人は報われる、裁かれるということで、仏教でいう「因果応報」に近い意味を持つ。

そういえば、ベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領はキリスト教徒でありながらヒンドゥー教のサイ・ババを信奉、輪廻転生も信じているという。だったら、彼には「因果応報」もよく理解できるはずだ。


日本時間の昨夜、あらためて強力な提携関係を確認したこの2人にはどんな因果応報が待っているのだろうか?

もちろん「a todo cerdo le llega su San Martín〜その日がやって来る」のは、彼ら側だけの話ではない。


彼らと対立するドナルド・トランプも、そして…。




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ノーベル平和賞に選ばれたベネズエラ野党指導者マリア・コリナ・マチャドが、オスロで開催される授賞式に出席することは不可能だと思われていた。

シモン・ボリバル空港からオスロ空港への直行便がなく、あったとしても飛行距離は赤道半径6378.1 kmを優に超える8330km、とんでもない遠さだから…というわけでは、もちろんない。

昨年の大統領選の結果に異議を唱えたとして政府から捜査対象とされ、カラカス郊外に潜伏してるマチャドが公の場に姿を表すと逮捕拘束されるのは間違いなかった。

ノーベル賞の授賞式。それは公の中でも最たる公で、そこでマチャドが世界に発言することはマドゥロ大統領にとって絶対に許せない忌々しいことだった。

国外に出れば「逃亡犯」になると脅されていただけでなく、国内外で数えきれないほどの殺害予告まで受けていたマチャドが生きて国外に脱出できるとは誰も思っていなかったのだ。 

ベネズエラ軍はマチャドが国外に出る航路と空路、そして沿岸部の警戒を最も厳しいレベルで実施。そして、主要な空港、港湾だけでなく、小さな町の海岸から小型ボートを使って脱出することも想定していた。

「蟻一匹も漏らさない」。

しかし、マチャドが脱出できる方法が一つだけあった。

米国の強力なサポートだ。

マチャドにとって、つまりは〝米国側〟にとって、英雄的な大脱出を演出、マチャドがオスロ入りするのは最高のシナリオだった。

男性に変装したマチャドは〝支援者〟が偽装した通行証明書で10箇所以上の検問を通過、田舎町の海岸から粗末な木造船で母国を離れる。

その海岸線は軍が警戒戦を敷いていたが〝奇跡〟が起こる。

警戒していたのはベネズエラ軍だけではなかったのだ。



〝偶然〟なことに…ここ数ヶ月、つまり新米派のマチャドのノーベル賞が決定した頃合いから、密輸される麻薬を乗せた船舶への攻撃を加速させていた米軍もまた、ベネズエラの沿岸部に細心の注意を払っていたのだ。

米軍機はそれが当然かのように、ベネズエラの領空を飛び交っていた。

マチャドが乗った小さな木造船にどれだけの麻薬が積めるのかはわからないが、米軍が攻撃する〝大物サイズ〟ではない。

粗末に見えた木造船だったが、沿岸からのベネズエラ軍の砲撃を受けてもビクともしなかった。

ベネズエラ軍が追撃を諦めたのは、木造船が見かけとは全く違う装甲を持つことに気づいたからではない。

ウォール・ストリート・ジャーナルなど複数のメディアが報じているように「少なくとも2機の米海軍F-18戦闘機がベネズエラ湾を旋回していた」からだ。

ベネズエラ軍は、F -18が木造船を麻薬戦とみなして爆撃するとはこれっぽっちも考えていなかった。

あの木造船にさらなる攻撃を加えたら、フル装備の米国戦闘機は木造船ではなく、彼らのいる沿岸を容赦なく空爆してきただろう。

マチャドは「麻薬船とみられて米軍に攻撃されないよう、事前に調整していた」と話しているが、事前の調整がそれだけだったとは信じ難い。

カラカスにいる彼女から「どの海岸から、どこを目指すのか」を米国に知らせ、攻撃しないように伝えたというのも眉唾だ。

盗聴され、海岸にたどり着くまでに襲撃される可能性もある、あまりにも危険で…〝不自然〟な行為だ。

最も〝自然〟な筋書きは、彼女の脱出ルートの全てをお誂えしたのは米国だということ。

米軍機の攻撃に怯えながら(頼もしく思いながら?)、木造船は野球ファンにはお馴染みのオランダ領キュラソー島に着く。そこには米国の支援者が手配した専用機が待機していた。

粗末な木造(に見せかけた?)船ではなく、それはオスロまで直行できる立派な航空機だった。さらに、やはり最新鋭の米軍機が寄り添うようにスタンバイしていた。

〝奇跡〟と〝偶然〟と〝不自然〟が織りなした、決死の脱出劇は、もしかしたら今回の受賞者の中で最も安全な旅だったのかもしれない。

マドゥロは、軍事クーデターで政権を握ったウーゴ・チャベスの右腕だった。チャベスが癌で亡くなると、2013年の選挙でマドゥロが当選。中国とロシアとの親密な関係を深めながら独裁色を強めていく。



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ーーーそのプロボクサーの胸に彫られていたのは、ベネズエラ国旗とチャベス大統領。

全戦全勝オールノックアウトの記録を更新中ながら、軽量級のベネズエラ人であるがゆえ米国のボクシングファンからほとんど関心を払われなかったエドウィン・バレロだ。



Mainstream fans will get their first look at Edwin Valero when he meets Antonio DeMarco on Saturday.

カジュアルなボクシングファンは、土曜日に初めて彼を目にすることになるだろう。〜ESPN



2010年2月6日、メキシコ・モンテレーでの興行はショータイムでもオンエアされたが、けして大きなイベントではなく、視聴者数も伸びなかった。それでも、バレロにとっては〝カルト〟から抜け出る一歩になるかもしれない重要な1戦だった。

試合は公開採点を聞いたデマルコが10ラウンド開始ゴングに応じず。消化不良のTKO勝利だったがパーフェクトレコードは27戦全勝27KOまで伸びた。


メインストリームのボクシングファンにもエドウィン・バレロの名前が知られる、その入り口近くまで来たというのに、28歳のベネズエラ人はこの試合を最後にリングに上がることはなかった。

この試合の71日後、彼は拘置施設の独房で自殺。

エドウィン・バレロもまた「a todo cerdo le llega su San Martín」の報いを受けた1人だったのだ。






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The Japanese hit a home run to the moon!!!

あの日本人が月まで届くホームランを打ちやがった!!!


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アメリカが驚くようなロケットを作って、アメリカが想像すらできなかった遠い惑星まで飛んでゆくーーー。


月はすでにアメリカが人間を送り込んだ星ですから「想像すらできなかった遠い惑星」ではありません。

また「月まで届く」はアメリカでよく聞く慣用句です。そんなふうに絶賛されたスラッガーを紹介していたら夜が更けてしまいます。

そもそも、人間ごときがチャンドラーのメープル製バットで打った打球が成層圏を突き破って月まで届くわけがありません。


それでも…大谷翔平は何から何まで狂っています。

NPBとMLBでは、パワーが試される打撃で救いようのないレベルの差があります。

日本では外国人並みに打球を飛ばした松井秀喜でも、MLBのシーズンベストは31本。この記録は鈴木誠也によって32本に更新されます。誠也のNPBベストはMLB挑戦前のシーズンで放った38本でしたから、絶望的な隔たりはありません。

しかし、その年の誠也の打率は.317、出塁率.433。今季、32本塁打をマークした誠也の打率はあろうことか.245、出塁率は.326に過ぎませんでした。

日本で最も恐れられた誠也でしたが、アメリカでは普通に勝負されるスラッガーの1人に埋没してしまうのです。

日本でも年々成長して、適応能力の高さを見せつけた誠也ほどの才能でも、多くを犠牲にしなければMLBでは生き残れないのです。

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ところが…。

みんな忘れていますが、日米で「ありえない」とパニックを巻き起こしていた頃の大谷は、実に可愛いユニコーンでした。

日本ではベストシーズンでもたったの22本しかホームランを打てなかった貧弱で中途半端な打者が、怪物ランドに乗り込むと、毎年50本以上打っても誰も驚かなくなっているのです。

二刀流が「絶対、無理」と決めつけられていた最大の根拠は、異なる二つの才能を発揮する難しさだけではなく、規定打席と規定投球回数を同時クリアすることが人間の限界を超えていると考えられていたからです。

日本で出来たことがレベルの高いアメリカでは許されない、それが当たり前なのに、大谷はあろうことか日本で出来なかったことをアメリカで可能にしているのです。

もし、野茂英雄が存在しなかったら…大谷が野茂以来2人目※のメジャーリーガーだったなら…「日本の倍以上ホームランが打てるメジャーってレベルが低いな。村上宗隆なら100本以上打つな」なんていう予想が溢れていたかもしれません。

野茂が切り拓いた道を多くの日本人プレイヤーが挑んでくれたおかげで「村上様が100本打つ」なんて素っ頓狂なことは誰1人口にしません。

野茂はアメリカの輪郭戦を、正確にはっきりと示してくれもしたのです。


私たちは今、まさにあのアメリカが想像すら出来なかったロケットを見ているのかもしれません。


もう一回戦争してアメリカに勝つことでしかこの従属から逃れられないと思っていたことも、もしかしたら違うんじゃないか、と思えるようになりました。

昔むかし、私は死球を受けたとき、それが故意に思えたとき、投手を睨みつけてしまいました。これは、普通のことです。甲子園ではみんな抑制していますが。

今季のパドレス戦。大谷が報復死球を受けて、仲間たちがベンチを飛び出そうとしたのを、大谷本人が「出てくるな」と手の平を挙げて止めました。

NPBでも同じシーンを見たことがあります。そのときは、松井秀喜でした。

この2人は激しいタイトル争いの最中で、全く対照的な選択をしたことがありました。

2002年の松井秀喜は三冠王に向けて、福留孝介と首位打者を争いデッドヒートを繰り広げていました。

2021年の大谷翔平は、ゲレーロJr.とペレスの三つ巴で本塁打王を激しく争っていました。

松井に対して「三冠王を獲るために相手がノーマークのセーフティーバントで打率を稼げ」という意見も数多く聞かれましたが、彼は最後まで自分のバッティングを貫き、首位打者は福留に譲りました。

大谷はプレーオフ進出にわずかな望みが残る中、チームの勝利を優先して送りバントをしました。張本勲は「ホームラン王争いをしてるんだから、バントなんてしてほしくないね」と苦々しく言いましたが、それは、ファン共通の意見でもありました。

松井はバントをせず、大谷はバントをしました。

一見すると対照的ですが、ふたりとも自分のタイトル、目先のタイトルに全く興味を示さなかったという点で見事に一致しています。




きょう、プロとアマチュアが共同で野球振興を進める「全日本野球サミット」が初開催されました。

サミット終了後にソフトバンク球団会長の王貞治氏は報道陣の取材に応じ、ドジャースで歴史的な活躍を続ける大谷翔平投手について「まさかあんな選手が出てくるとは思わなかったよね。米国の中で野球やる人は出てくるんだけど、トップで米国人をひれ伏させるような選手が出てくるとは思ってなかったですよ」と、最大級の賛辞を送りました。

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そして、米国の野球界からは「社会的影響力を少しずつ失っている、No.1スポーツとは呼べなくなった野球から、他のメジャースポーツの歴史的なスーパースターと比較される選手が現代に出現したことを誇りに思う」という喜びの声も聞こえてきます。



「もう一回戦争を起こして勝つ」「アメリカには作れないロケットを作って、アメリカが届かない遠い惑星まで行く」ーーーアメリカをパワーでねじ伏せる。アメリカが想像もできなかった発想で、彼らの度肝を抜くという「絶対無理」は、実はもう別の形でひっくり返され、完遂されているのかもしれません。







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力道山がハワイでプロレスラーになるために厳しい修行をしていた1952年、ボクシングというリアルのリングで日本人のUndisputed champion が誕生しました。

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偉大な白井義男です。 

テレビ視聴率が100%に迫ったというのは、当時のチャンネル数が少なかったせいもありますが、後楽園球場や大阪球場で何度も戦ったという事実からは、白井の人気がどれほどのものだったのかを容易に想像させてくれます。

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白井は地球上で8人しか存在しかない世界チャンピオンの一人だったのです。

しかし、世界的には今以上にヘビー級への人気が集中していた時代。

地球儀の上での白井は極東の島国で熱狂的に愛された国民的英雄でしたが、その枠を突き破る存在ではありませんでした(とはいえ、島国からその枠を突き破るなど不可能です)。



◾️Cace②野茂英雄

アメリカにその名を轟かすには、アメリカで暴れなければならない。

それはゴジラでも、生身の人間でも全く同じことです。

王貞治は756号のホームラン世界記録を打ち立て、日本中を熱狂させましたが、アメリカにその名が轟くことはありませんでした。

王と同じ時期にリングの上で大活躍した具志堅用高も、当時ではウィルフレド・ゴメスの連続防衛記録を追いかけてる〝世界の具志堅〟でした。

しかし、8人しかいなかったはずの世界チャンピオンは26人にまで膨れ上がり、ジュニアフライ級というクラスからも、具志堅がアメリカで興味を持たれることはありませんでした。



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1995年、日本スポーツ界に燦然と輝く偉大な冒険野郎が太平洋を渡りました。

日本プロ野球はNo.1の人気スポーツの座を不動のものにしていましたが、そこに来る外国人選手はMLBで使い物にならなくなったポンコツか、MLBに上がることも出来ないプレイヤーでした。

そんな彼らでも日本では圧倒的なパワーと技量を見せつけ、大暴れするのです。

日本のスポーツファンは、野茂英雄が「怪物ランドに乗り込んだ」ことに戦慄したのです。

そこにあったのは大きな期待と興奮だけではありませんでした。

遡ることちょうど10年、1985年にやはり野茂が太平洋を渡ったときよりも10歳年上、36歳の江夏豊がメジャーリーグに挑戦しました。

江夏がマイナーリーグのサバイバルレースに生き残って行く姿に、僕らは誰もが熱くなりました。

僕らが熱くなったのは、失礼ながら36歳の江夏がメジャーで大活躍する未来にワクワクしたのではありません。

〝元〟日本最高の投手が最後の死に場所にメジャーを選んだ、その凄まじいプライドに感動したからでした。  

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しかし。

まだ26歳の野茂英雄の場合は違いました。

全盛期の日本最高の投手がメジャーに乗り込む…それは、日本のプロ野球ファンが最後通告を聞くことになるかもしれないという、恐怖でもありました。

もしも、あの野茂が通用しなければ、日本人は誰も通用しない…そんな現実は見たくない、だったらむしろ野茂だけは行かないで欲しい。

他の投手がメッタ打ちにあっても「日本には野茂がいるんだぜ」と強がれますが、野茂が全く通用しないなんてことになったら、そんな最後の言い訳すら踏みつぶされてしまうのですから。

古田敦也は「アマチュア時代に野茂を全く打てなかった打者がメジャーで大活躍してる。普通に通用する」と断言してくれても、やはり恐怖は拭えませんでした。

もちろん、野茂は死に場所を探していたのではなく、どこでこの花を咲かせたろか、と腕を撫していのでしょうが。

「絶対に無理」という悲観的なファン、広岡達郎に代表される「通用するわけがない。泣いて帰ってきたときに、日本の球団は野茂を受け入れてはいけない」という多数派の予想は、気持ち良く簡単にひっくり返されました。

野茂は米国でNOMOマニア、日本でトルネード旋風を巻き起こしました。

野茂は、勇気一つで空を飛びきったイカロスでした。

そこには、今では当たり前のNPBでは想像も出来ない高額の契約への驚きや羨望はありませんでした。

それどころか、野茂は近鉄時代の1億4000万円の年俸から、わずか10万ドル(当時のレートで980万円)で太平洋を渡ったのでした。



日本のトップ、特に投手はMLBでも十分通用する。

野茂が切り拓いた道を、後輩たちが高額契約で迎えられるーーー現代まで続く億万長者街道を、野茂はたったの10万ドルで切り開いたのでした。



〝野茂〟から一年前の1994年にはJリーグのスーパースター三浦知良が、当時世界最高峰のリーグだったセリエAに移籍、サッカーでも日本人が世界の最高峰を意識するようになりました。

野茂が怪物たちと互角以上に戦う中で、1998年には中田英寿もセリエAのペルージャへ移籍、開幕戦で2ゴールを蹴り込み、名門ユベントスのゴールネットと日本列島を揺るがしました。

「カズでも遠い」と諦めかけた世界を、中田ヒデがグッと引き寄せてくれた瞬間でした。

そして、ローマへの移籍を果たしたヒデが、地元の英雄トッティのオーバーラップの中で外国人選手の憂き目を味わうことになります。

それでも、野茂と中田は、日本人が世界のメジャースポーツで通用することを証明してくれました。


2001年にはイチローがMLBで首位打者とMVPを獲り、遂にアメリカに勝ってみせました。

しかし「象ではない蠅だ」とヒガまれたように、イチローはパワーの国をパワーでねじ伏せたわけではありませんでした。

ワールドシリーズには進出できず、同時代にバリー・ボンズがいたイチローは精密で丈夫な〝トランジスタラジオ〟でした。

松井秀喜はニューヨーク・ヤンキースという米国スポーツ界でも飛び抜けたビッグクラブをワールド・チャンピオンに導く大活躍を見せましたが、レギュラーシーズンで本塁打王を獲ったことは一度もなく、それどころかその争いに加わったことすらありませんでした。

それでも!

アメリカのナショナル・パスタイム(国民的娯楽)、そして日本人が最も愛するスポーツ、野球でイチローはリーディングヒッターに2度も輝き、松井は最高峰で最も特別なチームで最も高い場所に進出、MVPに選ばれたのです。



パワーの国をパワーでねじ伏せる。怪物ランドの怪物たちの度肝を抜く…それは「アメリカのメジャーでリアルに通用する」という宿願を遥かに超越した夢想でした。

アメリカが驚くようなロケットを作って、アメリカが想像すらできなかった遠い惑星まで飛んでゆくーーーそんなことは日本人だけでなく、地球上の誰にも不可能に思えました。



ーーーそして、ものすごく勝手な言い回しになってしまいますが、奥ゆかしく謙虚な私たち日本人はそこまで想像もしていなかったというか、もっと失礼な表現をすると、Beat USA!!!にそんな途轍もない次元まで求めていませんでした。








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