沖縄の拳はいつだって、必ず熱い。
日本人初の世界王者は、フライ級の白井義男。
二人目は、やはりフライ級で最初の世界王座を獲得、その後バンタム級でも制覇したファイティング原田。
その後も、フライ級は「伝統の」と冠が付いているように世界王者を輩出したが、バンタム級の牙城は、1968年2月27日に原田が失ってから長らく攻略出来ないまま、時間だけが過ぎ去ってゆきました。
この空白にピリオドを打ったのは六車卓也。1987年3月29日にWBAのピースをピックアップ、約19年ぶりの世界バンタム級のタイトルでした…。
…これが〝史実〟です。
しかし〝事実〟では原田以来の世界バンタム級王座獲得は、六車よりも3年早い1984年4月15日に成し遂げられています。
新垣 諭(しんがき さとし/1964年2月21日 生まれ)。沖縄県糸満市出身。サウスポーのファイター。
沖縄県立沖縄水産高等学校に入学、1981年の高校総体ライトフライ級決勝戦で、玉熊幸人(青森商業:後のレパード玉熊)を破って優勝。
1982年にプロへ転向では、奈良池田ジムが1000万円で契約します。
ジュニアフライ級でプロデビュー。当時、日本で最も影響力のあった協栄ジム所属の渡嘉敷勝男がルペ・マデラとの〝死闘〟という名のタライ回しを繰り返し、JBCも協栄に追従。
奈良池田ジムは米国で発足したばかりのIBF日本に加盟。1983年12月10日、新垣は大阪城ホールでIBFジュニアフライ級王座決定戦に出場。ドディ・ボーイ・ペニャロサと初代王座を争うも、減量苦もあって12ラウンドKO負け。
その後、ドディはフライ級王座も獲得、2階級制覇を達成しています(弟のジェリーもジュニアバンタム級で川島郭志、バンタム級でジョニー・ゴンザレスに勝って2階級制覇)。
1984年4月15日に3階級上のIBFバンタム級王座決定戦でエルマー・マガラーノを8RTKOで下して、念願のタイトル奪取(この試合までマガラーノは7戦3勝2KO7敗2分で4連敗中)。
8月4日には地元・沖縄でホーベス・デラブースを15R判定で破って、初防衛に成功(ちなみにデラブースはこの試合がデビュー戦でこの1戦で引退)。
そして、1985年4月26日、敵地シドニーで6戦全勝6KOのジェフ・フェネックに9RKOで敗れて王座陥落。8ラウンドまでの採点は、フェネックの一歩的な展開で米国人と豪州人の二人が80-72のフルマーク。しかし、日本人ジャッジ風間清(バトルホーク風間)のスコアはなんと80-80、全てのラウンドを10-10のイーブンと採点していました。
初戦から4ヶ月足らずの8月23日にフェネックと再戦、今度は4ラウンドでストップされてしまいます。
それでも、10月27日に川島志伸(WBC世界ジュニアバンタム級王者・川島郭志の兄)を5RKOで下しIBF日本王者に就きました。
1986年、大腿骨が壊死する難病を発症、長いブランクを作ってしまいますが、1989年にカムバック。
1990年1月30日にはIBFインターコンチネンタル・ジュニアバンタム級級王座決定戦でロメオ・オプリサナに12R判定勝ちしますが、これがラストファイト。
王者のままグローブを吊るします。
新垣が優れたボクサーであったことに、疑いようはありません。プロボクシングという歪んだ世界に翻弄されながら、新興IBFという怪しげな団体で日陰のキャリアを戦い続けました。
しかし、新垣のキャリアが本当に日陰ばっかりだったのなら、私たちはとっくの昔に彼のことなど忘れているでしょう。
日本人初の世界王者は、フライ級の白井義男。
二人目は、やはりフライ級で最初の世界王座を獲得、その後バンタム級でも制覇したファイティング原田。
その後も、フライ級は「伝統の」と冠が付いているように世界王者を輩出したが、バンタム級の牙城は、1968年2月27日に原田が失ってから長らく攻略出来ないまま、時間だけが過ぎ去ってゆきました。
この空白にピリオドを打ったのは六車卓也。1987年3月29日にWBAのピースをピックアップ、約19年ぶりの世界バンタム級のタイトルでした…。
…これが〝史実〟です。
しかし〝事実〟では原田以来の世界バンタム級王座獲得は、六車よりも3年早い1984年4月15日に成し遂げられています。
新垣 諭(しんがき さとし/1964年2月21日 生まれ)。沖縄県糸満市出身。サウスポーのファイター。
沖縄県立沖縄水産高等学校に入学、1981年の高校総体ライトフライ級決勝戦で、玉熊幸人(青森商業:後のレパード玉熊)を破って優勝。
1982年にプロへ転向では、奈良池田ジムが1000万円で契約します。
ジュニアフライ級でプロデビュー。当時、日本で最も影響力のあった協栄ジム所属の渡嘉敷勝男がルペ・マデラとの〝死闘〟という名のタライ回しを繰り返し、JBCも協栄に追従。
奈良池田ジムは米国で発足したばかりのIBF日本に加盟。1983年12月10日、新垣は大阪城ホールでIBFジュニアフライ級王座決定戦に出場。ドディ・ボーイ・ペニャロサと初代王座を争うも、減量苦もあって12ラウンドKO負け。
その後、ドディはフライ級王座も獲得、2階級制覇を達成しています(弟のジェリーもジュニアバンタム級で川島郭志、バンタム級でジョニー・ゴンザレスに勝って2階級制覇)。
1984年4月15日に3階級上のIBFバンタム級王座決定戦でエルマー・マガラーノを8RTKOで下して、念願のタイトル奪取(この試合までマガラーノは7戦3勝2KO7敗2分で4連敗中)。
8月4日には地元・沖縄でホーベス・デラブースを15R判定で破って、初防衛に成功(ちなみにデラブースはこの試合がデビュー戦でこの1戦で引退)。
そして、1985年4月26日、敵地シドニーで6戦全勝6KOのジェフ・フェネックに9RKOで敗れて王座陥落。8ラウンドまでの採点は、フェネックの一歩的な展開で米国人と豪州人の二人が80-72のフルマーク。しかし、日本人ジャッジ風間清(バトルホーク風間)のスコアはなんと80-80、全てのラウンドを10-10のイーブンと採点していました。
初戦から4ヶ月足らずの8月23日にフェネックと再戦、今度は4ラウンドでストップされてしまいます。
それでも、10月27日に川島志伸(WBC世界ジュニアバンタム級王者・川島郭志の兄)を5RKOで下しIBF日本王者に就きました。
1986年、大腿骨が壊死する難病を発症、長いブランクを作ってしまいますが、1989年にカムバック。
1990年1月30日にはIBFインターコンチネンタル・ジュニアバンタム級級王座決定戦でロメオ・オプリサナに12R判定勝ちしますが、これがラストファイト。
王者のままグローブを吊るします。
新垣が優れたボクサーであったことに、疑いようはありません。プロボクシングという歪んだ世界に翻弄されながら、新興IBFという怪しげな団体で日陰のキャリアを戦い続けました。
しかし、新垣のキャリアが本当に日陰ばっかりだったのなら、私たちはとっくの昔に彼のことなど忘れているでしょう。
ロイヤル小林はアレクシス・アルゲリョ、エウザビオ・ペドロサ、ウィルフレド・ゴメスと戦うことで、世界のボクシングの伝道師になってくれました。
亀田昭雄は完全敵地シンシナティでアーロン・プライアーからダウンを奪い、日本のボクシングファンは喝采しました。