カテゴリ: プロボクシングが好きなのである。

WBAバンタム級タイトルが揺れています。

6月13日にアントニオ・バルガスを屠って王座に就いたばかりのバム・ロドリゲスが、6月30日のランキングでスーパー王者に昇格。スーパー王者の設定で空位となったセカンド王者の決定戦を増田陸と比嘉大吾が7月20日に争い、増田が競り勝ちました。

そして、7月31日、WBAはランキングを更新、バンタム級の休養王者・堤聖也を1位へ降格。休養王者からタイトル剥奪したことで「休養王者でもうかうか休んでられない」という倒錯ワールドを見事に現出させました。


次に何が起きるのか?堤の降格で空位となった休養王者決定戦をオーダーするなら、呆れるのを通り越してもはやマンマミーア!の世界です。

そして、WBA /WBOジュニアフライ級王者レネ・サンティアゴが予定されていた吉良大弥との防衛戦について「ヒジの負傷でスケジュールが後ろ倒しになるが、今年中には対戦可能」とWBAに報告していたにもかかわらず、休養王者に降格されてしまいます。

さらに、9月2日に吉良とカルロス・カニサレスで暫定では無くレギュラー王者決定戦を組んだことに、サンティアゴは弁護士を通して正式に異議申し立てしました。

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【あしたはあの日】。今回は、2021年8月25日です。

あしたでちょうど5年前となるこの日、WBAのヒルベルト・メンドサ会長が「選手ファーストの考えから多くのチャンスを与えたいとタイトルを増やしてきたが、ファンの意見も反映させることが大切」と、11人の暫定王者のタイトルを剥奪、王者よりも上に聞こえるゴールド王者も廃止する」と、発表しました。

まさか、選手のことを第一に考えていたとは…さすが思慮深い人です、メンドサ。

これまでも「タイトル削減、世界チャンピオンは17人が理想」と繰り返し主張していたWBAですが、ここまでの大鉈を振るったのは初めて。

それでも、世界中のボクシングファンとメディアが「絶対ウソやん」と冷ややかに受け止めたものです。

17階級にまで膨れ上がったクラスに最大で40人を超える〝世界チャンピオン〟を設けていたWBAに対するファンとメディアの非難は大きく、メンドサは〝とりあえずは改心の姿勢を見せる必要〟に迫られていました。

そうです、これはあくまで、ほとぼりが冷めるまでの〝とりあえず〟。

認定料を生業とする認定団体は、あくまで「タイトル・メーカー」。ここは忘れてはいけません。

認定団体に「タイトルを増やすな」というのは、トヨタ自動車に「これ以上、車を作るな」と言うのと同じです。

認定料の源泉である階級とタイトルを増やそうとするのは、彼らにとって極めて自然な営みなのです。そこを非難しても、彼らには何も響きません。

「無意味に細分化された軽量級にメスを入れ、ジュニア階級を廃止、8階級に戻す」とド正論を展開しているズッファ・ボクシングにしても、その後ろ盾となっているサウジアラビア総合娯楽庁とその機関誌The Ring がオレクサンデル・ウシクvsリコ・バーホーベンを事実上プロモートしたように、エンタメ路線を受け入れています。

プロボクシングの統括団体は英国ボクシング管理委員会やネバダ州アスレティック・コミッション、日本ボクシングコミッションなどのローカル団体。

そして、(自称)世界タイトルを認定する認定団体もローカル色が濃厚な組織です。米国のNBAから発展したWBAはパナマシティに本部を持ち、ベネスエラ人による家族経営。メキシコ人に機会を与えるべくWBAから分離独立したWBC、米国への復権を目指してやはりWBAから独立したIBF、やはりWBAから独立したWBOもボクシング大国でありながらその恩恵を十分に受けていないプエルトリコが拠点。

すでに、WBOレベルの勢力になっているIBOが4大メジャー(マイナースポーツの認定団体にメジャーというのもこれまた倒錯です)に続く団体と認められないのは「いくらなんでもこれ以上はタイトルを増やせない」という意識と、「WBAから分離独立」という血筋がないからとされています。

WBAと対立して分離独立した新団体は、ある程度認めざるを得ないという理屈です。

WBAとしては「〝暖簾分け〟した覚えはない!」でしょうが。

「昔はWBCはまともだった」「IBFやWBOはまだマシ」…そんな根本から間違っている意見もときどき耳にしますが、どれもが「タイトル・メーカー」を生業としていることに変わりはありません。

IBFやWBOは後発で勢力も弱いため、大きな声をあげにくいだけで、彼らも「タイトル・メーカー」であることに何ら変わりはありません。










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ボクシングを題材にした小説、漫画、音楽、映画は名作にあふれています。

その中でも「一瞬の夏」(沢木耕太郎:1981年 新潮社)はノンフィクションという〝フィルター〟を通して〝創作〟された特別な名作です。

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沢木耕太郎は、ボクシングファンではない読者も抱える(非ボクシングファンの方が圧倒的に多いでしょう)人気作家ですが、多くの人はこの作品を通して彼の存在を知りました。

そして、沢木が題材にしたモハメド・アリやジョージ・フォアマン、マイク・タイソン、輪島功一…彼らを、ボクシングファンの私は沢木作品の登場人物としてよりも、プロボクサーとして見てきました。

しかし、カシアス内藤はアリや輪島と同じリアルタイムで知らないプロボクサーですが、世界タイトルマッチの舞台で眩しすぎる輝きを放つことが出来なかったという点で、アリや輪島とは全く違います。

リング上のパフォーマンスで語られることが圧倒的に少ない、沢木の作品の中の登場人物としての色彩が濃厚なキャラクターなのです。



Wednesday, 22 August 1979 
Munhwa Gymnasium
Seoul, South Korea

commission:Korea Boxing Commission
inspector:Jung Kyoo Yang

vacant OPBF Middle -weight

1位:朴鐘八 vs  2位:カシアス内藤

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【あしたはあの日】。今から47年前の「あした」、1979年8月22日は、一瞬の夏が通り過ぎた日でした。

灼熱のソウル・文化体育館でカシアス内藤が朴鐘八と空位のOPBFミドル級王座を争い、2ラウンドで失神KO負けに散ったとき、内藤のコーナーにいた沢木は当たり前の話、まだ「一瞬の夏」を生み出していません。

そこに立ち、そこで倒されたのは、沢木作品の登場人物ではなく、生身のカシアス内藤でした。


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リング誌やボクシング・マガジンなど過去の紙媒体のスポーツ雑誌を紹介してきたこのシリーズですが、それは私の手元に保存されているものに限定されてきました。

ところが、リング誌のアーカイブが無料開放されて「100年前のリング誌、1926年9月号を振り返る」なんて、とんでもないことまで出来ちゃうことになりました。

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「リング誌のアーカイブが無料開放」ということは、自分の本棚から取り出して紹介する必要はない、つまり誰もが閲覧できるということです。

紙の手触りや匂いなどは伝えることができませんが、本物の雑誌をPDFにしたものですから広告や活字は当時のまま。

だから、こんな広告⬇︎まで拝めるわけです。

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六連発のリボルバー(回転式ピストル)。35ドルがディスカウントで8ドル99セントに…。このほかにも別のリボルバーの広告もあり、あの国では100年前から当たり前に銃を購入できたことが実感できます。



リング誌本体に話を戻すと、カバーを飾ったのは1930年に世界ライトヘビー級チャンピオンとなるマキシー・ローゼンブルーム。このときはまだチャンピオンではありませんでしたが「バトリング・レビンスキー以来のライトヘビー級最強」と、非常に高い評価を与えています。

いまでは完全に死語となった「無冠の帝王」です。

1923年のデビューから1939年の16年のキャリアで272戦207勝39敗26分。年間平均17試合をこなしてきた計算です。そしてKOはわずか19。Slapsie Maxie(平手打ち)の異名をとったローゼンブルームは、最盛期には激しい判定勝負を毎週のように繰り広げていました。

当時、認定団体はNBAの1団体時代でしたが、NYSAC(ニューヨーク州アスレティック・コミッション)も世界タイトルを認定。認定団体の対立とは構図が異なり、ファンやメディアのUndisputed Championへの欲求も強く〝統一戦〟は頻繁に行われていました。

あのエデル・ジョフレもNBAを獲ったあとに、英国ボクシング管理委員会など欧州勢力が世界王者としたジョニー・コードウェルをKOしてUndisputed Championになりました。現代ではあちこちにアルファベット団体がわいていますが、Undisputed Championとは「他の誰にも王者を名乗らせない」というわかりやすさが具現化できた古き良き時代です。

そして、わずか40ページのリング誌はまだプロレスとの〝合体〟前でボクシング専門。すでにリング誌チャンピオンは存在していましたが、ランキングは発表されていません。もちろん、約70年後の1990年に企画されるPFPなど影も形もありません。PFPなど意味がない、まさに良き時代でした。



観戦スポーツは競馬とプロボクシングがメジャー…というよりも、この二つが突出した存在だった時代です。






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日本のプロボクシングは野球と同じく米国を目指して、そこに追いつけ追い越せと坂道を登ってきました。しかし、そこにはいくつもの影が折り重なってきました。

米国で注目されるヘビー級チャンピオンは1人も生み出すことができず、注目が集まる人気階級でタイトルを獲得したのも、カネロ・アルバレスやゲンナジー・ゴロフキンらが割拠していたミドル級で村田諒太がWBAストラップを獲得しただけ。

発育の悪い発展途上国の選手がほとんどという恩恵も受けて、選手層や競技レベルが低く、専業ボクサーも少ない軽量級では大きな成果を収め続けていますが、そこは関心が低い欧米の死角です。



そして、米国に追いつけ追い越せの影には人気階級で成果を残せないというだけでなく、敗戦国ならではの悲哀もにじんでいます。



ーーー在日米軍兵士の父と日本人の母の間に生まれ、プロボクサーになった男たち。駐留期間を終えると、母親に連絡先も告げずに帰国する兵士たち…。

1961年1月生まれのこの男も、父親を知りません。父親は彼が生まれる2ヶ月前に帰国、行方知らず。米国黒人と日本人のハーフといっても、見た目は完全に黒人。剃り上げたスキンヘッドに口髭、その出立ちは同時代に米国で大活躍していたマービン・ハグラーとそっくり。母親に育てられたというのもハグラーと同じ。

ただ…ハグラーと似ていたのは、見た目と家庭環境だけ。打たれ弱く、勝ったり負けたり、ファイターとしては似ても似つきませんでした。

大和田正春は、1979年7月のデビューから2連敗。

咬ませ犬扱いで完全敵地の大阪のリングに引っ張り上げられた赤井英和との伝説の一戦でシンデレラ・マンになったのも束の間、次の試合から2試合連続KO負け。

ジュニアライト級でデビューした肉体は5階級上のミドル級になっていましたが、グラスジョーはますます深刻なものになっていました。

ところが、日本ミドル級王者の無限川坂とのノンタイトル戦でまさかの番狂せ。連敗を止めて戦績を10勝9KO10敗1分の五分に戻し、再戦は7年間のキャリア初のタイトルマッチとなりました。

「あした」が、ちょうど30年前となる1986年8月11日、後楽園ホール。

グラスジョーを自覚している大和田は初戦でKO勝ちしているにもかかわらず、アウトボクシングで慎重にポイントをピックアップ、ユナニマスデジションで念願のチャンピオンベルトを腰に巻きました。



このタイトルを全てKOで4度防衛すると「ニューヨークで世界タイトルマッチを戦って父親と会いたい」という夢を賭けて、1987年9月6日にOPBF王者ポーリー・パシレロンに挑戦。

結果は、早すぎるストップとはいえ7ラウンドTKO負け。

もし、大和田が当時売り出し中の大和武士のような日本人なら、パシレロンのホームであるインドネシアまで遠征することはなかったかもしれません。あるいはミドル級ではなく、軽量級なら世界挑戦のチャンスに恵まれたかもしれません。

ハグラーへの挑戦という壮大な夢、そのはるか手前で挫折した大和田はまだ26歳の若さでしたが、これで引退と多くのファンが考えましたが…。

1987年12月14日、彼はまたしても脇役のポジションを受け入れて、日本タイトルを賭けて大和武士を挑戦者に迎えます。

結果は、大和田の第5ラウンドKO勝ち。

https://fushiananome.blog.jp/archives/22291849.html


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大和田正春、赤井英和、大和武士。この三人が出演した「どついたるねん」(阪本順治)が公開されたのは「大和田vs大和」から、わずか1年あまりあとのこと。

なんというスピード、なんという生々しさでしょうか。

今見返しても、そんな鮮度がビシビシ伝わってくるのもあの作品の魅力でしょう。





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日本でも世界でもキックボクサーがボクシングのリングで躍動しています。

しかし、この〝非常事態〟はタイ王国に限っては歴史的に当たり前の日常であり続けています。

辰吉丈一郎のキャリア最高傑作で名脇役を演じたシリモンコン・ナコントンパークビューもまた、そんな元キックボクサーでした。

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ムエタイジムの実家に生まれたシリモンコンは1993年、15歳でWVC(世界ムエタイ評議会)のタイトルマッチを手がけるランシットスタジアムでミニフライ(105ポンド)級チャンピオンになると、タイの資産家から熱心な支援を受けて16歳で国際式に転向。

設立されたばかりのマイナー団体WBU(2004年に消滅)のジュニアバンタム級とバンタム級のストラップをつかみます。

そして「あした」がちょうど30年前となる1996年8月10日にホセ・ルイス・ブエノとWBCバンタム級の暫定王者決定戦を争いました。舞台はシリモンコンのホーム、タイ・ピサヌロークの県営サッカー場。

この時のリングネームは、ムエタイ時代のシリモンコン・シンマナサックのままでした。

帝拳がプロモートに甘噛みする中南米の強豪ブエノは川島郭志や文成吉とクロスゲームを繰り広げたテクニシャンでしたが、抜群の格闘技センスとフィジカルを持つ19歳の前に第5ラウンドで失神KO負け。

モーションが小さく、重い大砲のような左ジャブ。そして、この日も試合を決めた破壊的な右。この攻撃力を全面に打ち出せば、もっと大きな成果を残したはずでしたが、その火力とは似つかわしくないKO率は、無理やり倒しに行かないスタイルに起因していました。

あれから30年が経ちましたが、天才はまだ49歳。

私生活でも波瀾万丈のシリモンコンは今月1日にクルーザー級10回戦で7戦全勝7KOのヌルベク・バリスホノフ(キルギスタン)をバンコクに迎え、デビューからの連続KOはストップさせたものの、SDで敗退。

昨年からヘビー級でリングに上がるシリモンコンにとってクルーザー級は、辰吉戦を思い出させるような減量苦とも戦っていたのかもしれません。

それにしても、あの大阪城ホールのドラマから29年。49歳になってもまだ戦っているという驚き、ヘビー級まで階級を上げたという驚き、そしてまだアジアレベルの実力はキープしているという驚き…。

日本のリングに呼べばボクシングファンの間で大きな話題を呼ぶでしょうが、但馬ミツロでは悲惨な結果しか思い浮かびません。







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高校野球、盛り上がってます。その温度はやはり、地元である近畿圏の方が高いように感じられます。

なぜか野球がない高校総体の陸上競技も面白かった。

競技レベルに関係なく楽しめるのはスポーツの持つ大きな魅力でしょう。MLBや五輪の超人パフォーマンスに驚くだけでなく、若さ剥き出しで緊張に飲み込まれそうになる高校生の姿に感情移入してしまうのは、それなりに年齢を重ねたおかげかもしれません。

高校時代の私は、同年代の選手が活躍する眩しさを直視するにはあまりにも幼稚でひねくれていました。





青森山田、野球をよく知っています。見事な逃げ切りでした。

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さて、宮城県の高野連で「補殺」「刺す」「犠打」といった〝物騒な〟野球用語を見直す検討委員会を設置したそうです。


「くだらなすぎて何も言えない。そんなことよりどうやって野球人口を増やすかとか、もっと他に考えるべきことがあるでしょう」(江本孟紀)というのが多数意見です。

一方で、海の向こうのNFLではロングパスを指すBomb(爆弾)や、クォーターバックを急襲するBlitz(電撃戦)といった戦争を連想させるMilitary metaphor=ミリタリー・メタファー(比喩表現)を自粛。

戦闘を仮想するeスポーツ(対戦型ゲーム)の大会でもkill(殺害)という言葉を排除する流れが決定的になっているそうです。

宮城県高野連では、日常的に「殺」や「死」「刺」という過激な言葉を繰り返し使うことで、子供たちの意識のハードルが下がってしまうという心理的なリスクを配慮したということですが、これはどうなんでしょうか?

さらに「DeadやSacrificeなど表音文字の英語に比べて、死球や犠牲という言葉は、表意文字である漢字は生々しさが突出している」ということですが、正気か?です。

Deadなんて「死」そのもので、Sacrificeに至っては「生贄」の意味も多分に含んでいます。「生贄バント」という表現なら微妙ですが、「犠打」は全く問題ないでしょう。

とはいえ…ここまで世知辛い世の中になってしまいました。

私のように「死球」「盗塁死」という言葉から、子どもたちの「死」や「盗」への意識が軽くなってしまうなんて、そんなバカなことがあるかッ!ボケッが!!なんて口にしてしまうと、言葉狩り、魔女狩りの格好の標的にされそうです。

そのうち、選手が死球や盗塁死、刺殺なんて言葉を使おうもんなら、その高校は1年間の公式戦出場停止とかになるかもしれません。高校球児は気をつけろ!…球児だけじゃないな、全体責任とか言い出しそうだからその高校の生徒たち、関係者も注意徹底しなければなりません。


サッカーでも延長Sudden Death(サドンデス)方式がVゴール、ゴールデンゴールに差し替えられたことがありました。

言葉狩り、実に面白いなあ。こんなことを真剣に考えてるんだもんなあ。


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翻って、我らがボクシングです!!!

選手の渾名で、バーナード・ホプキンスらのExecutioner(死刑執行人)や、より具体的なマニー・パッキャオのMexecutioner(メキシコ人死刑執行人)にDestroyer(ぶっ壊し屋)、ガーボンタ・デービスらのTank(戦車)、Bomber(爆撃戦闘機)はジョー・ルイスのBrown Bomberにデオンティ・ワイルダーのBronze Bomberなどなど、大きな爆発力を持つTNT火薬も定番中の定番です。

ジャック・デンプシーのManassa Mauler(マナッサの人殺し)のMauler、ヘンリー・アームストロングのHomicide Hank(殺人ハンク)のHomicide なんかもよく見る言葉です。

虐殺を意味するSlaughterやMassacre、Annihilate(殲滅)、Demolish(粉砕)、Destroy(破壊)なんて言葉も一方的な試合の記事で、当たり前に目にする基礎単語。

物騒な言葉や、ミリタリー・メタファーのオンパレードです!

そして、インタバルになるとなぜかリングに腰を振って現れる露出度満点のセクシーなラウンドガール…。

ボクシングなんかを見たり読んだりしていると、殺人や残虐な暴力、戦争に対する意識の防波堤が完全に決壊、殺人鬼や強盗犯を大量生産してしまうんです、きっと。マイナースポーツで幸いでしたわ。



プロボクシングに世界的な統括団体が無くて本当に良かった、マイナースポーツで良かったなんて感じることはまずありませんが、メジャースポーツがどんどん世知辛くなっていくのを目の当たりにすると、そんな思いにも駆られてしまいます。

プロボクシングの統括団体が宮城県高野連でなくて本当に良かった!

ヘンリー・アームストロングはHomicide Hank(殺人ハンク)ではなく、Playful Hank(わんぱくハンク)とかに書き換えられるとこでした。



女子高生たちも直射日光にあたって火傷するほど熱くなった管楽器なんて捨てて、もっと涼しい格好で、ジュリアナ扇子でもヒラヒラさせて応援するのもありですな…なんて、春先に会社の酒席で酔っ払ってると「それ、公式の場では絶対に言わないでくださいね、冗談抜きで」と思いっきりクギを刺されたのでした…。それくらいエエやろ、許容範囲やろ、普通?





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「あした」は「あの日」。

Saturday, 2 August 1980 - Riverfront Coliseum
Cincinnati, Ohio, USA

commission:Ohio Athletic Commission 

promoter:Harold Smith (M.A.P.S.)

46年前のあした(現地時間1980年8月2日)、アーロン・プライアーがWBAジュニアウエルター級王者アントニオ・セルバンテスを4ラウンドで粉砕、タイトルホルダーとなりました。

ライト級で世界挑戦の機会を伺っていたプライアーでしたが、ウエルター級王者のシュガー・レイ・レナードのトレーナー、アンジェロ・ダンディをして「戦いたくない相手」と言わしめたように、ビッグネームからことごとく敬遠されてしまいます。

やっとつかんだチャンスは、当時は人気階級とは言い難いジュニアウエルター級。それでも、コロンビア人の王者は専門家やマニアから高い評価を集めるセルバンテス。

34歳になった正真正銘の実力者セルバンテスを相手に、とにかく前評判が高い24歳の挑戦者がどんな戦い方をするのか?

挑戦者の地元シンシナティのリバーフロント・スタジアムにはスペクタクルを期待して1万人の観客が詰めかけました。

初回から獰猛に攻撃を仕掛ける挑戦者に、ロープ際に下がった王者が右のカウンターでダウンを奪います。プライアーが〝得意とするフラッシュダウン〟。すぐに跳ね起きた挑戦者は何事もなかったかのように、攻撃再開。


第2ラウンド開始ゴングがなると、駆け足で王者のコーナーへ詰め寄ります。丁寧なボクシングでチェスゲームに持ち込みたい王者ですが、挑戦者の暴風雨のような攻撃はそれを許してくれません。

プライアーを野獣と表現するのは間違いではありませんが、言葉足らずです。彼は軽妙なステップを踏み、緩急をつけたパンチを上下に打ち分ける、冷徹で狡猾な野獣でした。

迎えた第4ラウンド、プライアーは攻撃のアクセルをさらに踏み込みます。コーナーに詰まった王者に〝機銃掃射〟。のちに殿堂入りする王者が崩れ落ちました。

大観衆が期待した以上のスペクタクル。

しかし、これで「スター誕生」とはなりません。プライアーは人気の薄いジュニア階級の王者になっただけで、ビッグネームは相変わらず彼との対戦を敬遠、対立王者も統一には全く関心を示しませんでした。

このまま「名前のある相手とはやってないが、本当に強かった」と日陰のまま、プライアーのキャリアは終わると思われていましたが…



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月に一度くらいの頻度で、米国の雑誌類が私の通う(重度の不登校でしたが…)図書館に届けられていました。

お気に入りは簡易な英語で書かれた、THE RING MAGAZINE Sports Illustrated でした。

座布団2枚を重ねたくらいのボリュームがある、雑誌を包んだ茶色い包装紙は厚くて固く、ハサミを入れるのは指が痛くなるほどかなりの力が要りました。図書館の一番大きなテーブルの上でジョギッ、ジョギッ、ジョギッ…と包装紙を切っていくと、雑誌がスルスル〜ッと床まで落ちて、床でも1メートルくらい滑走するのもありました。

最も滑走しやすいのは、表紙・裏表紙が薄くてツルツルのスポーツ・イラストレイテッド誌でした。当時のスポイラは、タイム誌やニューズウィーク誌などと同じ週刊。ESPNは開局して間もなく、スポイラは米国で圧倒的な存在感を持つスポーツメディアでした。


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スポイラの没落から現在は提携関係はないようです。


このスポイラと提携して、文藝春秋から1980年に創刊されたのがSports Graphic Number誌でした。高校図書館にこの雑誌はなかったのですが、リクエストするとすぐに定期購読してくれました。

良い意味での、昭和な話。私にとっては、最高に素晴らしい環境でした。

ナンバー誌が取りあげたのは、日本のプロ野球や競馬、ラグビーなどで、せっかくスポイラと提携しているのに世界(米国)スポーツを大々的に取り上げることはほぼありませんでした。

しかし、世界のプロボクシングは大々的に特集されました。


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第1回のGOD BLESS THE 〝RING〟はマービン・ハグラーvsトーマス・ハーンズを中心に特集。


その中心的特集「GOD BLESS THE 〝RING〟」はシリーズ化され、そのときどきの米国リングシーンを伝えてくれたのでした。

オスカー・デラホーヤやフロイド・メイウェザー、マニー・パッキャオ、カネロ・アルバレスのメガファイトが詳細に語られ、彼らが表紙を飾るようなものですが、21世紀になってからは「世界のボクシング」を伝える特集は途絶えてしまします。

GOD BLESS THE 〝RING〟は米国ボクシングのスターシステムや、軽量級がそれとは無縁の人気のない〝別競技〟であることも思い知らされました。

GOD BLESS THE 〝RING〟
は5回のシリーズで終わり、Number誌から世界のボクシングを知るパイプを見失ったこともあり、ボクシングファンは「軽量級でもラスベガスでメインでPPVでファイトマネー20億円、井上尚弥は日本ではもう見ることができない」と幻覚してしまうようになります。

このGOD BLESS THE 〝RING〟がスポイラの特集をほぼ丸ごとパクった(もちろん提携してるので盗作ではありません)内容でした。

二つの雑誌を並べて読んだり、スポイラでよく解釈できない文章があったらナンバーで答え合わせする、さらにリング誌でも同じ試合についての解説を読む…それは、私の貧弱極まる英語力にとって凄まじいアクセルになり、最初はチンプンカンプンだったタイム誌など他の雑誌も読めるようになりました。

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チャンドラーはPFPでも中位までランキングされる実力者でしたが、日本のリングに引っ張り上げられるなどその待遇、人気は無惨なものでした。人気階級でなければ相手にされない、それが欧米のボクシングの残酷な現実です。



GOD BLESS THE 〝RING〟は日本の多くのボクシングファンにとっても「海の向こうに日本が好き勝手している軽量級とは全く別のボクシングがある」ことを教えてくれました。

ラスベガスやニューヨークの大会場を軽量級の試合がメインでフルハウスにする、ボクシングビジネスを肥大化させたクローズドサーキットが軽量級でも展開されるーーーそんなことは一切ない、起こり得ないことも GOD BLESS THE 〝RING〟が問答無用に教えてくれたのです。






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いまから40年前、1986年のリング誌3月号です。

表紙は FIGHTER OF THE YEAR 1985 を同時受賞したマービン・ハグラーとドン・カリー。二人が選出されたので FIGHTERS OF THE YEAR になっています。

ちなみに、全米ボクシング記者協会(BWAA)のFIGHTER OF THE YEAR(Sugar Ray Robinson Award)はハグラーが単独受賞。

リング誌が複数受賞(1934年=トニー・カンゾネリ&バーニー・ロス/1972年=モハメド・アリ&カルロス・モンソン/1981年=シュガー・レイ・レナード&サルバドール・サンチェス/1985年=ハグラー&カリー/2020年=タイソン・フューリー&テオフィモ・ロペス)を好む傾向があるのに対して、BWAAは1975年のアリvsジョー・フレイジャーと1976年のモントリオール五輪チームの2回のみ。


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1990年からスタートするPFPランキングは、当たり前ですがまだ存在せず。

リング誌ランキングもスーパーミドル級、ジュニアバンタム級、ジュニアフライ級、ストロー級は設定されず、13階級でした。

日本でこのランキングに入ったのは渡辺二郎、ただ一人だけ。ジュニアバンタム級WBC王者ながら1位評価を受けています。リング誌王者はジェフ・チャンドラーからWBA王座を奪ったリチャード・サンドバル(米国)。2位にWBAジュニアバンタム級のカオサイ・ギャラクシー。

WBCのミゲール〝ハッピー〟ロラが3位。IBFのジェフ・フェネックが9位でしたから、ジュニアバンタム級の二郎とカオサイはかなり贔屓目に見られていた感もあります。

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団体間の確執が深かったため、ヘビー級やミドル級、ウエルター級の人気階級を除いて、統一戦が事実上御法度だった時代にUndisputed Champion(議論する余地のない王者=他の誰にも王者を名乗らせない王者)を渇望し、実現させた二郎は日本ボクシング史上で最も先進的な思考回路を持つファイターでした。

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この当時はウイスキーやビールはもちろん、現在では見ることのできないタバコの広告も目立ちました。

これ⬆︎は表4(裏表紙)。

ビールの広告は、テカテとコロナのメキシカン、その前はバドワーザーやクアーズと、銘柄からもその時代を窺えたものでした。

サウジに買収されてからは酒類に関してはイスラム圏なのでNGなのは理解できますが、米国やメキシコのエバーラストやナイキ、レイジェスなどの広告も消えてしまいました。




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私の手元にある紙媒体を愛でるのが、このシリーズのテーマでした。

リング誌でいうと、1980年代に高校や大学の図書館で手に取ったリング誌は、私のものではないので手元にはありません。

それ以前のリング誌も、図書館にバックナンバーがあるものは読んだことがありましたが、1922年の創刊号は見たこともありませんでしたし、最も古いものでも1960年代のリング誌だったはずです。

それ以前のリング誌を拝める、それも1号漏らさず、1ページ逃さず読める日が来るなんて



今から100年前。THE RING MAGAZINE 1926年3月号。全40ページ。

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表紙はウエルター級の世界ランカー、ジョー・ダンディー

「EARNS TITULAR OPPORTUNITY(タイトル挑戦権を獲得)」。

当時の世界王者ミッキー・ウォーカーへの挑戦が内定したダンディーは、メリーランド州ボルチモアのヒーローでした。

この号では、ウォーカーがトミー・ミリガンとの試合で提示された3万ドルのファイトマネーを拒否したニュースを取り上げ、プロボクサーのファイトマネーについての記事もありました。

ウエルター級15回戦で3万ドル。ヘビー級ならいくらもらっていたことか…。「ジャック・デンプシーはベーブ・ルースよりもはるかに大きな収入と栄光を手にしていた」という20年代。今では全く想像もつきません。

1926年(大正15年)の3万ドル…3万ドルは現代でも450万円…100年前なら…。




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