フシ穴の眼 〜スポーツ疾風怒濤編〜

      Hope Lights Our Way / 希望の道を、つなごう。

カテゴリ: プロボクシングが好きなのである。

野球やボクシング、80年代に米国のトップスポーツに惹き込まれた私にとって、運動能力の才能に最も恵まれた人種は黒人でした。

黒人でしかあり得ませんでした。

ロサンゼルス1984で、100mを9秒99で制したカール・ルイスは日本人にとっては最も遠く離れたアスリートでしたが、14年後に伊藤浩司が10秒00をマーク。

1984バージョンのルイスに、日本人が肉薄したのです。

黒人と日本人の差は才能の問題などではなく、時間の問題だったのです。

もちろん、アフリカから劣悪な船旅で生きてアメリカ大陸の土を踏んだ彼らの祖先が強烈な生命力を持っていたことは間違いありません。

アフリカで積み込まれた黒人の半数以上が船上で死ぬことも珍しくなかった過酷な船旅、その最も長い航路の終着点の一つがジャマイカという事実も、迫真の説得力があります。

そんな黒人奴隷は強い男女を〝交配〟させて、より強い個体を産み続けてきたのです。

長い船旅で生き残り、さらに強い男女から生まれた彼らと、島国の中で安寧としていた日本人とは元々の生物的に種類が違うという見方は、私は断固否定しますが信じ込んでる人もいるでしょう。

そんな、負け犬根性が染み付いてるのは日本人だけでなく、米国の白人たちも同じでした。

今、日本人横綱を希求するよりも切実に、彼らはホワイト・ホープの出現を渇望していたのです。

それは、ヘビー級において、より顕著でした。というよりもホワイト・ホープはヘビー級でこそその登場が待たれていたのです。

それが、今やウェルター級やミドル級でスター性のある黒人が絶滅、ヘビー級に至っては米国白人どころか、黒人ですら門前払いの厳冬の時代。

今や、ブラックホープが待たれる時代になってしまいましたが、今回のテーマはホワイトホープです。

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白人ヘビー級王者のクライマックスは1950年代に活躍したロッキー・マルシアノ。

白人の夢が完全に握りつぶされた時代ではありませんでしたが、ホワイトホープの理想像がロッキー・バルボアという架空の人物の名前を持ち出すまでもなく、マルシアノであることは明らかです。

マルシアノ以降、白人ヘビー級王者になったのは、南アフリカのゲリー・コーツィー

最後の白人ヘビー級王者はトミー・モリソン。1993年6月7日、ジョージ・フォアマンに12R判定で勝利し、WBO世界ヘビー級タイトルを獲得。

そして、多くの人が「ホワイトホープ」と聞いて真っ先に思い浮かべるのはジェリー・クーニーではないでしょうか?





生涯戦績28勝24KO3敗。

負けたのはラリー・ホームズ、マイケル・スピンクス、ジョージ・フォアマン。最強の黒人ヘビー級でした。

引退試合となったフォアマン戦は1990年1月15日、当時の〝メッカ〟ニュージャージー州アトランティックシティのコンベンションセンターが舞台でした。

2ラウンドでホワイトホープを豪快に沈めたフォアマンは、マイク・タイソン戦を猛アピール。

このときは、フォアマンがどこまで戻っているのか、誰もわかっていませんでした。

ドン・キングはフォアマンに500万ドルの報酬を提示していましたが「安すぎる」と拒否。

フォアマンをプロモートするボブ・アラムも「タイソンにとっても大きな試合。全財産をつぎ込め」と挑発。

多くのファンは「宇宙人でもタイソンには勝てない」と信じていましたが、クーニーのトレーナー、ギル・クランシーは「タイソンはジャバーが苦手。フォアマンのジャブは41歳の速さ、強さではない、というよりも年齢関係なく世界最強。タイソンでまだまだ儲けたいキングは応じるべきでない」と警告していました。

「不倶戴天の敵、キングと一緒に興行を打てるのか?」と聞かれたアラムは「シュガー・レイ・レナードとロベルト・デュランの初戦を実現させたのはドンと私だ」と答えます。

のちに、タイソンとフォアマンと戦ったイベンダー・ホリフィールドも「どちらが勝つか?」と聞かれて「タイソンはフォアマンのパワージャブとプレッシャーにパニックを起こす。タイソンを下がらせるのは簡単だった、あのレノックス・ルイスでも後退させたが、フォアマンは無理だった」と、タイソンの敗北を予想していました。

タイソンvsフォアマン。実現していたら、何が起きていたでしょうか?


しかし、1ヶ月も経たない2月11日、タイソンは東京ドームでフォアマンよりも数段落ちるジャバーの餌食になってしまい、その後もフォアマン戦を回避し続けるのでした。
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ボクシングマガジン、1986年4月号です。定価650円。

表紙はアレクシス・アルゲリョ。

「アルゲリョが連続KO」「ミニフライ級初代王者は小野」「ハッピー・ロラ、バスケス降しV1」「中近東初の世界戦、ソットが勝利」「ファイトマネー総額40億円のヘビー級統一トーナメント」…そんなトピックスが並びます。

今夜、取り上げるのは「ホープ杉谷、KOで王座を奪取」。

この試合が私にとっての、後楽園ホール初体験でした。 

杉谷満というと、最近では「北海道日本ハムファイターズのムードメーカー杉谷拳士のお父さん」かもしれません。

昔は強打の日本フェザー級チャンピオンだったのです。
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1986年2月25日、後楽園ホール。日本フェザー級タイトルマッチ。

王者は27歳のチバ・アルレドンド。兄リカルド、弟レネが世界王者のボクシング一家のメキシカン。21歳の杉谷も、兄の実が元日本ジュニアウェルター級王者。

世界が期待される杉谷にとっては、リトマス紙となる一戦でした。

杉谷は17勝11KO1敗、唯一の黒星は全日本新人王決定戦で六車卓也にSDで落としたもの。

アルレドンドは7勝6KO3敗、底の見えた荒いボクサーでした。

アイドル的な人気を博した飯泉健二の壁になったのも印象深いスラッガーでした。

優位に試合を進めていた杉谷が、8ラウンドに強烈な右ストレートをさくれるさせて試合を終わらせます。

フェザー級、126ポンド(57.15㎏)は日本人にとって決して重いウェイトではありません。しかし、当時も今も難関階級です。

杉谷が日本王者になった、このときの王者はWBAがエウセビオ・ペドロサの20連続防衛を阻んだアイルランドのスター、バリー・マクギガン。

WBCはアズマー・ネルソンでした。

ネルソンやマクギガンと日本人が戦う…想像しただけでゾクゾクしました。

世界挑戦は1989年3月26日、川崎市民体育館。

WBA王者のアントニオ・エスパラゴサは「超A級チャンピオンではない」という見立て通りでしたが…杉谷は勇敢に戦い、10ラウンドで力尽きてしまいました。
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今夜はボクマガではなく、Number誌。

このシリーズはボクマガへの哀悼と、紙媒体への偏愛を叩きつけるのがテーマですので、あしからず。

今やサッカーやメジャーリーグの海外最高峰に大きく舵をとって、ボクシングが取り上がられることはほとんどなくなってしまったNumber誌。

しかし、1980年創刊のこの雑誌は最初から「世界志向」で、海外ボクシングを特集するシリーズを展開するなど〝紙のWOWOW〟でした。

野茂英雄や中田英寿の登場によって「本物の世界」が明らかになり、ボクシングの軽量級は米国など先進国ではメジャーではないどころかマイナーですらない無関心な存在であること、世界戦のほとんどが日本開催という違和感にスポーツファンが気付いてしまう中で、徐々に取り上げられることが少なくなってしまいました。

それでも、今から11年前の創刊30周年記念で発行されたNumber-PLUSは「ボクシング完全讀本 拳の記憶」た。

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具志堅用高の「120%、沖縄のために戦った」。

〝元祖〟刺青ボクサー・大嶋宏成の「過去への復讐」。

徳山昌守の「在日世界王者、技巧派の証明」。

辰吉丈一郎の「父ちゃんが笑われるのはイヤや」。

井岡一翔の「父と叔父とのトライアングル」。

亀田興毅の「不変の針路」。

…他にも坂本博之やエディ・タウンゼント、高橋直人らの人間像に迫る面白い記事がてんこ盛り。

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ここで取り上げるのは2年後の2013年に発行された「拳の記憶Ⅱ」から。

「マニー・パッキャオ『戦慄の拳』〜無名時代、日本に暮らす2人のボクサーと拳を交えていた…」。

パッキャオに惨敗したことで人生が変わった2人。〝

激レアさん〟にも登場、すっかり「パッキャオと戦った人」が定着した寺尾新。

そして、このブログでも度々登場している千里馬哲虎。

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1998年5月18日、後楽園ホール。私事ながらこの試合を見ました。もちろん、パッキャオが何者かなんて知る由もありませんでしたが。

寺尾はパッキャオの左ストレートについて「ありえない距離からガーンと。安全地帯にいたつもりが。あれっ…って」。「同じ体重の人間とは思えなかった。あらゆる角度から飛んでくるから対応できない。急所じゃないところに当たっても倒れますよ」。

「最初のダウンはバッティング。運もなかったのでは?こうしておけば、という後悔は?」と聞かれた寺尾は「ありません。殺されると思った」。

絶対に勝てない相手を体感してしまった寺尾は、頭を丸刈りにし、コンビニエンスストアでサントリー角瓶を買って水割りにして飲みました。

「酒を飲んで泣いた。心が折られた。

それでも、パッキャオが米国で何度も大番狂わせを起こし、センセーションを巻き起こすうちに何かが吹っ切れます。

引退し、貧困な時期でも「こっちは缶ジュースを買うのに迷ってるのに、パッキャオはジュース工場をいくつも建てられるくらい差がついた。でも、あの夜、確かに俺とパッキャオは戦ったんです。人生って面白いですよね」と笑っていたそうです。

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そして、2001年2月24日、フィリピン・アンティポロシティー。パッキャオの保持するWBCインターナショナル・ジュニアフェザー級王座に挑戦したのは千里馬哲虎、本名は康哲虎。神戸育ちの在日コリアンです。

この4ヶ月後に、IBF王者リーロ・レジャバの対戦者が直前キャンセル。パッキャオは急遽MGMグランドガーデンアリーナに呼ばれるのですが、それはまた別の話。

千里馬は「対戦前にビデオを見て勝てないとわかった。それでも自分に負けないという目標を立てた」。

3日前に現地入りして最初に驚いたのはパッキャオの人気ぶりで、挑戦者でも地元の名士への挨拶回りや、ファンへのサイン会に駆り出されたそうです。

「選手生活のサインの9割はフィリピンでしました」。

試合は「パンチの角度が全く読めなかった。ガードは硬いわけじゃないけど、足の動きが速くてこれも全く読めない」。

それでも「パッキャオと試合ができて、心を強くするという目標は達成できた」「テレビでいい試合を見ると嬉しいじゃないですか。会場で見たらもっと嬉しい。実はリングの上ならもっと嬉しいんです。こんな強い奴と、自分だけが戦えてるんですから。痛いのさえ我慢したらいいんですから」。

ファイトマネーは2000米ドル、100ドル紙幣20枚を受け取りました。銀行で両替すると1枚、検査器にはじかれたそうです。

偽札でした。

寺尾と千里馬は、ボクサーとして大切な一戦をパッキャオが相手だったために失ってしまいました。

もし、パッキャオと戦っていなければ、2人のボクシングキャリアはおそらくもっと輝いていたかもしれません。

勝負事に「負けて良かった」なんてことは絶対にありません。いいえ、そんなことは、あってはいけません。

それでも、しかし…。

寺尾と千里馬の人生を考えると…。私は正直、悔しいほど、ものすごく羨ましいと妬んでしまうのです。
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今夜はボクシングマガジン1980年12月号「展望・話題の一戦 ゴメスはサンチェスに勝てるか」(ジョー小泉)から。

現代では、単独で大きな興行が成立しない米国の軽量級にとって、一番の晴れ舞台は人気階級のメガファイト、そのアンダーカードに付録されること。

そんなことが何度も何度も繰り返される中で、米国での軽量級の地位は泥沼的に沈下し続けています。

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そんな中で、井上尚弥が描いたラスベガスの夢は悲惨な形で完全否定されてしまいます。

ジョンリール・カシメロに「ラスベガスに憧れてるからという理由だけで、全く問題にならないほど大きなイベントになる日本でやらないなんて、井上は結構な身分だ」と揶揄され、ノニト・ドネアをして「井上戦を米国でやるのは金銭的に無意味」と言わしめた事実は、無知蒙昧な井上信者ですら受け入れざらを得ませんでした。

それでも、80年代までは「人気階級の付録が最高の舞台」ではない、誇り高きビッグファイトが存在したのです。

Friday 21, August 1981
  
Caesars Palace, Sports Pavilion, Las Vegas
commission Nevada Athletic Commission
promoterDon King

inspectorRay Tennison

WBC世界フェザー級タイトルマッチ15回戦



WBCバンタム級王者カルロス・サラテvsWBA同級王者アルフォンソ・サモラ(1977年4月23日カリフォルニア州イングルウッド フォーラム 120ポンド契約ノンタイトル10回戦=サラテの4回TKO勝ち/このときサラテ:24歳 50戦全勝48KOーサモラ28戦全勝28KO)と、WBCジュニアフェザー級王者ゴメスvsWBCバンタム級王者サラテ(1978年10月28日プエルトリコ サンファン ロデルト・クレメンテコロシアム=ゴメスの5ラウンドKO勝ち/ゴメス22歳 25戦全勝25KO1分ーサラテ26歳 54戦全勝53KO)に続く、KOモンスターの最終章。

減量苦にあえぐ〝バズーカ〟ゴメスはWBCフェザー級王者ダニー・ロペスとの対戦を熱望していました。

WBA王者は安定感を増すエウセビオ・ペドロサでしたが、人気が出にくいパナマ人というだけでなく、サモラにいいところなくノックアウトされるなど、3つの敗北は全て脆さを曝け出したKO負け。

カネと名誉を求めるゴメスにとってペドロサは眼中になく、世界評価が高く8度の防衛戦を全てKOで片付けている人気者〝リトルレッド〟ロペスに絞られていました。

しかし、80年2月2日、ロペスは無名のメキシカンに13ラウンドでTKO負け、番狂わせで9度目の防衛に失敗してしまいます。

ラリー・ホームズ、ロベルト・デュラン、そしてゴメスを抱え、この世の春を謳歌していたドン・キングは人気者の敗退に「ロペスとなら軽量級史上最大のファイトになったのに」と歯噛みして悔しがります。

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後世から振り返ると、その時代の専門家はいつもフシ穴だらけです。

サンチェスの絶妙のフットワーク、当て勘という言葉で片付けるにはあまりにも理詰めのコンビネーション、そして信じられないスタミナ、見た目に派手なスピードやパワーがないだけで、どこからどう見ても最強のフェザーでした。

ジョー小泉も「サンチェスはやりにくい相手」としながらも「ゴメスの楽勝を予想する人が多い」「強打者ロペスよりも危険は少ない」と見ていました。

多くの専門家もまた「サンチェスを〝ビセンテ・サルディバルの再来〟と呼ぶのは過大評価」「ゴメスにはサンチェスの若さもやりやすいだろう」と楽観していました。

シーザースパレス・スポーツパビリオンのリングに上がったとき、ゴメスは24歳、サンチェスは22歳。

単純な年齢差は、たったの二つしかありませんでした。

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そして、大人のボクシングを見せたのは、2歳年下のサンチェス。

オープニングラウンドからゴメスがプレスをかけますが、サンチェスは冷静に応戦。ロープに追い込まれたサンチェスが、左フックでダウンを奪います。

ニュートラルコーナーでゴメスのダメージを冷徹に見つめるサンチェス。その落ち着きぶりは、22歳には到底思えませんでした。

ゴメスは2ラウンドからさらに激しく打ち合いを仕掛けますが、サンチェスは全く応じず、焦るプエルトリカンを徐々に削っていきます。

消耗するゴメスと、ラウンドを重ねても全く息が上がらない驚異のサンチェス。

両目を腫れ上がらせ、肩で息をながらも必死で抵抗するゴメスを、冷たく見つめるサンチェスは口を閉じたままの鼻呼吸。



第8ラウンド、ゴメスをロープに詰めたサンチェスは「ここが勝負どころ」と一気に畳み掛けます。

ロープから逃れられないゴメスは崩れ落ちるようにダウン。何とか立ち上がったゴメスを救ったのは、カルロス・パディラ主審でした。

ダニー・ロペス、ルーベン・カスティージョ、ファン・ラポルテ、ゴメス…。

そして、サンチェスの拳に打ち砕かれた最後のグレートは、あのアズマー・ネルソン。

ガーナのプロフェッサーが素晴らしい世界王者になればなるほど、サンチェスの凄みはより輝きを放つことになりました。

ネルソンと同じく、サンチェスの強さを伝道したのがフェリックス・トリニダード父。

世界王者になる前のサンチェスに5ラウンドでストップされたトリニダード父は「ボクシングはスピードやパワーではない。タイミングのスポーツだと痛感した。それにしても惚れ惚れするような左フックだった」と、痛烈な敗北経験を息子にフィードバックしてゆくのでした。




サンチェスvsゴメス。

あれから41度目の8月21日が、もう直ぐまたやって来ます。
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今回は特定の1冊を離れて、一人のスター選手の生き様を振り返ります。

とはいえ、まだ引退していませんから、振り返るには早すぎます。

辰吉丈一郎、52歳。

最後にJBC公認の試合に出場したのは2003年9月26日ですから、もう19年前のことになります。

JBC非公認の試合でもタイで戦った2008年3月8日からでも14年間、男は戦いの舞台に上がっていません。 

それなのに、未だに「現役」で「世界王者」を目指すとほざいているのです。

アホです。

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日本ボクシングの黄金期が1960年代であったことは、当時を全く知らない私でも数多くの先輩方や活字などからよくわかっています。

そんな黄金時代から四半世紀以上も経って現れた辰吉は、現代の村田諒太や井上尚弥も及ばない強烈なオーラをまとっていた、いや過去形はいけませんね、オーラをまとっている異質のヒーローでした。

そして、日本列島を熱狂させたという点では劣っていても、その妖しいオーラはファイティング原田にもなかった特別な種類のものだったかもしれません。

デビュー前から専門誌が辰吉を大きく取り上げ、異例の特集記事を組みました。

「大阪帝拳でデビューを待つ天才少年がいる」「六車卓也とのWBAバンタム級王者決定戦に出場することアサエル・モランをスパーで圧倒した」「ファイティング原田を超える逸材」…。

そして、世界王者になるとそのフィーバーはさらに加速しました。

村田諒太がミドル級で世界王者になっても、井上尚弥がWBSSで優勝しても、辰吉のような注目を集めることは出来ませんでした。

「辰吉の時代からボクシングの社会的存在感が下落しているだけ」かもしれませんが、ビクトル・ラバナレスの乱打戦に巻き込まれて初防衛戦に散ると、Number誌までが特別増刊号を発行し「Never give up」と熱いエールを送ります。

「テレビ視聴率」という視点ではファイティング原田の足元にも及ばす、後年の亀田興毅の後塵を拝する有様で、日本列島での関心度・注目度はNo.1とは到底言えませんでした。

しかし「メディアやファン」の視点、もっと詳しくいうと「メディアやファンの期待」「メディアやファンの思い入れ」では村田や井上は比べるべくもなく、私の知らない原田にも迫るボルテージを響かせていたかもしれません。

大言壮語を吐き、負けたら引退と公言していた天才少年は、世界初防衛戦で痛恨の挫折を味わい、眼疾と敗北に抗いながら、ジェットコースターのような波乱のキャリアを七転八倒してゆきます。

同じようにビッグマウスが破綻した亀田興毅が、キャリアを深めるにつれ汚濁の色彩を濃厚にしていったのに対して、辰吉の人気は衰えず、ある意味で澄み切っていきました。

圧倒的有利と見られた薬師寺保栄との団体内統一戦に敗れて「辰吉神話に終焉」(ボクシングマガジン特別増刊号)と、メディアとファンが諦めても、辰吉はボクシングにしがみつき、その姿はファンの共感を呼び起こします。

薬師寺戦ではNumber誌が戦前でも特別号を発行するなど、メディアとファンの関心は沸騰していました。

かつて「日本のボクシングファンが見たことがない景色を見せてくれる」と期待され〝世界の夢〟を託された天才少年は、敗北を重ねる中で〝浪花節〟を伝導する不器用な青年になります。

それは、しかし…。彼はけして「落ちぶれた」といいう目で見られることはなく、私たちは一人の男の生き様、航海を見せてもらっている、山岳小説を読んでいるような気分になっていたのでした。

この航海に、再び歓喜の瞬間が訪れることはない…誰もがそう覚悟しながら物語を読み進めていたのです。

そして。

ドン・キングが「(人気階級の)ライト級で活躍するスターになれる」と太鼓判を押した無敗の王者シリモンコン・ナコントンパークビューへの挑戦が決まったとき、ここで物語が終わるんだと誰もが確信し、覚悟しました。

辰吉に人生を重ねたのは、無名の日々で格闘する私たちだけではありません。

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これまでもプライベートで何度も観戦に訪れていた、のちに世界史上最高の一番打者となる野球選手は、これまで一度もしなかったことをしてしまいます。

「今日、応援に行きます」と電話したのです。

「大事な試合前の集中を損なうようなことはしたくなかったから、夕方になるまで迷ったけど伝えないわけにはいかないと感じた」。

世界史上最も多くのヒットを打つことになる男もまた、辰吉の中に自分を投影していたのかもしれません。

「会場の雰囲気がものすごくて鳥肌が立った。鳥肌が立つなんてめったにない。試合が終わったのが分かると、膝がガクガク震えていた。そんなことは後にも先にも初めて」。

それはあの会場にいた、ほとんどの観衆も同じでした。

大阪城ホールからの帰り道、物語の最終章を見届けるために、私は仕事を休んで駆けつけたというのに。

ライトアップされた美しい大阪城を眺めながら「まだ続くんかいな、辰吉はめんどくさい男やなぁ」と、喜びを噛み締めました。

あの会場にイチローがいたことを知ったのは、スポーツニュースで試合後の控室に短い祝福の言葉を伝えに入るのを見たときでした。



1997年11月22日、あの日からもう四半世紀が経とうとしています。

それなのに、辰吉丈一郎はまだ現役です。

それにしても、なんと、めんどくさい男なんでしょうか。
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「ボクマガ青春情熱物語」とタイトルしながらも、今回は「ワールド・ボクシング」です。

「ワールド・ボクシング」は、現在の「ボクシング・ビート」のルーツ。

1968年1月創刊のボクシング・プロレス専門誌「ゴング」から1982年年4月にボクシング部門が独立、「ワールド・ボクシング」として創刊されました。

出版・発売元は日本スポーツ出版社(NSP)。


経営難から2004年6月号から制作をMACC出版へ移行、それでも2006年9月発売の10月号で休刊を余儀なくされてしまいます。

2006年11月号から「ボクシング・ワールド」として再出発。しかし、売り上げは伸びず、2009年6月号を最後にまたも休刊に追い込まれます。

2009年7月には「ボクシング・ビート」8月号として復活、現在に至っています。

「ビート」の系譜は波乱万丈でしたが、実質的な休刊時期はほとんどなく、ゾンビのようにすぐに蘇って書店に並び続けてきました。

そんなタフな血が流れる「ビート」の源流「ワールド・ボクシング」は多くの名物企画・連載に彩られてきました。

佐瀬稔の「感情的ボクシング論」、ジョー小泉の「リング誌だより」、三浦勝夫の「ラテン・リングスコープ」、具志堅用高の「ボクシング教室」…。

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寺内大吉の「大吉リング説法」も、そんな名物連載の一つ。

寺内は作家、スポーツライターで、リングサイドでボクシングの解説や非公式の採点もしていました。

本業は浄土宗の僧侶で、名僧の格言などを織り交ぜ、ワーボク誌面で説法を繰り広げていました。

ご紹介するのは昭和60年(1985年)9月号の「大吉リング説法」。渡辺二郎のフットワークに焦点を絞った説法の概略、一部わかりやすいように加筆しています。


*****宮本武蔵や柳生宗矩をはじめ名だたる武芸者に「剣禅一如」を説き、江戸剣法の基礎を作った禅僧・沢庵和尚の言葉「水を踏むこと地の如し、地を踏むこと水の如し」は、武術におけるフットワークをずばり言い当てたもの。

水を踏むとは足裏で水面を掴むように、滑らかに動くこと。直線的、硬直的ではないスリ足の動きだ。

ぼくは、ソウルの金喆鎬戦から渡辺二郎のフットワークにその片鱗を見てきた。絶妙の距離を保って、敵の裏側へ、からめ手へとポジションを転じていく動きは、西洋の科学的なリズムではなく、東洋の自然の旋律に他ならない。

渡辺は日本拳法から無意識にこの旋律を体得したのだろうが、こんな芸当は拳法をやったからと言って誰にでもできるものではない。

そもそも、拳法とボクシングは異なる。あの位置取りは、天才だからできるものである。*****



まさに、吉川英治の「宮本武蔵」の世界観、最強論です。

寺内は2008年9月6日に遷化(高僧が亡くなること)してしまいました。

もし、現代に生きていたら井岡一翔のボクシングを「これぞまさしく禅である」と喝破していたかもしれません。
 
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紙媒体からボクシングを振り返る。

今夜は、今からちょうど30年前。ボクシングマガジン1992年8月号からです。 

巻頭カラーページは「右一閃。歴史は創られたーユーリ、プロの頂点へ到達」。

1992年6月23日、ユーリ・アルバチャコフ(当時の登録名はユーリ海老原)が両国国技館でWBCフライ級王者ムアンチャイ・キティカセムを8ラウンド2分59秒で沈めて、旧ソ連初の世界チャンピオンになりました。 

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強いチャンピオンは日本にはまず、来ません。正確には、日本側が呼びません。わざわざ、負け戦をする必要がないからです。

ムアンチャイはそんな「強いチャンピオン」の典型でした。

マイケル・カルバハルと死闘を演じたムアンチャイを失神KOしてタイトルを奪うと、再戦は敵地バンコクでもストップ勝ち。

ウーゴ・ソトのボディを一刀両断した強烈なパンチ。

ピューマ渡久地との舌戦・試合前の乱闘と、ワンサイドゲーム。 

日本のジム所属のフライ級ファイターで、史上最高は誰か?

大場政夫かユーリの二択ですが、これは甲乙つけ難い。

大場をリアルタイムで知らない、ユーリの試合は2度見ている私にとってはシベリア連邦管区からやって来たアジア系ロシア人のユーリを推します。

この二人が戦うとなれば、強烈極まる右ストレートの応酬、KO必死のとんでもないスペクタクルになったはずです。

この試合は旧ソ連のボクサーが初めて世界王者に就いたエポックになっただけでなく、日本は21年ぶりに史上最多タイの5人(ユーリ/井岡弘樹/鬼塚勝也/辰吉丈一郎/平仲明信)の世界王者を抱える〝黄金期〟を迎えます。

あのエドウィン・ロサリオを1ラウンドで粉砕してWBAジュニアウェルター級のストラップを奪った平仲のライバル王者はフリオ・セサール・チャベス。

ロサリオ戦でもリングサイドに陣取ったドン・キングが主導権を握っていたクラスだけに、夢のカードが実現していたかもしれません。

この号の平仲への質問企画でもファンから「チャベスと戦って欲しい」という声が数多く寄せられていました。

まさか、初防衛戦でオーバーワークがたたり、モーリス・イーストに負けるとは…。誰も予想だにしていませんでした。

辰吉と鬼塚という2大スターが牽引していた時代でしたが、ユーリのイベントでは深い闇もさらけ出してしまいます。

「どんなに実力があっても外国人は人気が出ない」という理由から「ユーリvsムアンチャイ」という世界軽量級最高のカードはメインイベントではなかったのです。

メインに登場したのは俳優のミッキー・ローク。現代につながる茶番劇の先駆けの一つでした。

あまりにもお粗末な実力からカリフォルニア州や英国のコミッションはロークのライセンス交付申請を却下、特に英国は「限度を超えてスキルがないボクサーは危険。そして、ボクシングは茶番劇ではない」と断固たる態度を見せました。

試合前から国技館の観客席には若い女性やカップルが目立ち、集客には一定の効果を上げたとはいえ、JBCも「質の悪い外国人選手をリングにあげるべきではない」と、興行側の協栄ジムを注意。

高級な寿司やフランス料理のフルコースの後に残飯を出すような愚劣極まるイベントに、当時のボクシングファンも不快感を募らせていました。

とはいえ…。

責任、最も責めを負うべきはロークでも協栄でもなく、一見さんお断りな空気を醸し出し「ユーリの凄さがわからんのか」としたり顔するファンにあったのかもしれません。
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井上尚弥がリング誌PFP1位になって初めてのTHE RING MAGAZINE は、この9月号です。

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RATINGS(ランキング)のページは、報知新聞とスポーツの紙面を重ねて、モンスターの〝戴冠〟を歓迎。

リング誌を手に取る希少な米国のボクシングファンの目には、かなりエキゾチックに映るでしょう。

彼らは漢字はもちろん、ひらがな・カタカナへの興味は想像以上です。


日本のボクシング専門誌の話なのに、いきなり本題から外れてしまいました。

しかも、最新のリング誌となれば、テーマの「昔のボクマガなど日本の専門誌の思い出」の方向から、真逆です。

結局、泥酔オヤジは和洋折衷、温故知新でリング誌やらも巻き込んで、あちこち徘徊してゆきます。
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もうすぐ8月15日。

その日は終戦記念日などではなく、私が人生で初めて迎える「ボクシングマガジンが発売されない発行日」です。

初めてボクマガを手にしたのは、中学校の図書館だったかもしれません。

他のスポーツ月刊誌が国内のアマチュアやプロに焦点を当てていたのに対して、ボクマガの巻頭カラーページでは当たり前のように世界のビッグファイトがレポートされていました。

ベースボールマガジンやサッカーマガジンではMLBや欧州リーグは〝脇役〟でしたが、ボクマガではシュガー・レイ・レナードやマービン・ハグラー、ロベルト・デュラン、トーマス・ハーンズ、マイク・タイソンらは堂々の主役、それがとにかく斬新でした。

悲しいかな、今月からボクマガ最新号は書店の棚に並びません。

ベースボールマガジン社が発行しているだけに、簡単には休刊・廃刊にはならないと楽観していましたが、それゆえに簡単に切られたという側面もありそうです。

残された専門誌は何度か休刊を経験している〝永遠の経営難〟のボクシングビート。

「ボクマガとビート、どっちを買おうか」と悩むことのなくなった寂しい夏に、ビートの定期購読を始めました。

ボクマガ、ビートだけでなく、ボクワーやワーボク、ゴングやナンバーなどなど、紙媒体を引っ張り出して、青春と情熱を焦がしたレポートを振り返ってゆきます。


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2022年8月号。
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来月からこうして並べることも、出来なくなってしまうのだなぁ…。

おっちゃんは寂しいよ…。 
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