パイオニアを超えることは難しい。もしかしたら、それは不可能なのかもしれません。
「パイオニア」とは何か?
私はそれを「最初の一歩を踏み出した人」とは限らない、と考えています。
「あんなとこに行ったら死ぬぞ」「日本人がそこに行けるわけがない」「お前がやろうとしていることは絶対に無理、不可能」。
そんな忠告を無視して、荒野に向かった人こそがパイオニアです。
その意味では、沢村栄治や王貞治とやってることは同じでも、大谷翔平は間違いなくパイオニアです。

都電荒川線。93年の1930年に全線開通していたので、この軌道を白井義男も見ていたのかもしれません。
例えば、野茂英雄は紛うことなきパイオニアですが、村上雅則はパイオニアではありません。
もちろん、村上雅則が日本スポーツ史に名前を刻む偉人であることに1ミクロンの異論もありません。
村上雅則は、南海ホークスからサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の四軍(1A)に野球留学させてもらったのであり、それは南海が入団の条件として付随させた「ご褒美」でした。
戦前から戦後にかけてプロボクサーとして活躍した白井義男の時代。
世界チャンピオンが世界にたった8人しかいなかった時代。
下の画像は、白井が世界チャンピオンになった1952年5月19日時点での世界チャンピオンたちです。

ボクシングファンでも耳慣れないのは、バンタム級のビック・タウィールくらいでしょうか。
白井と同じように、1950年代初めの南アフリカでタウィールが〝国民的英雄〟(こんなカッコで括らなければならないのがもどかしいですが、当時の南アは最悪の国家でした)であることは巨大スタジアムに数万人の観客を集めたことからも疑いようがありません。
「ダイナマイト」「白いヘンリー・アームストロング」など多くの異名を持つことでも知られる、バンタム級のグレートです。
残る6階級のチャンピオンについては、ここで語る必要はないでしょう。
そして、1954年2月18日時点での、世界チャンピオンは以下の通り。

ヘビー級:ロッキー・マルシアノ
ライトヘビー級:アーチー・ムーア
ミドル級:カール〝ボボ〟オルソン
ウェルター級:キッド・ギャビラン
ライト級:ジミー・カーター
フェザー級:サンディ・サドラー
バンタム級:ジミー・カラザース
フライ級:白井義男
やはり馴染みが薄いのはバンタム級のジミー・カラザースでしょう。シドニー生まれのオージー、カラザースは、敵地ヨハネスブルグでタウィールを初回KOしてタイトルを奪取した強打者。
やはり、豪州の巨大スタジアムに数万人の大観衆を集めた英雄でした。
1954年、Undisputed titleを3度防衛して無敗のまま引退(19戦全勝11KO)しましたが、7年後にカムバック、32歳の元王者は6試合を戦いますが2勝4敗で再びリングを去ります。
地球上に8つの階級、8人のチャピオンしかいなかった時代。「日本人が世界チャンピオンになれるわけがない」というのは常識でした。
ボクシングは世界統括団体が存在せず、地域の統括団体・コミッションが試合を統括する仕組みは今も昔も変わりません。
白井義男を世界に挑戦させるために、日本のコミッションが立ち上げられたのです。
JBCもまた、このときから歴史と格式を醸成させ、世界の軽量級をリードするパワーハウスに成長するのでしたが…。
JBCも老害と因習の沼に沈んでいくのでした。
白井義男は今では信じられないエピソードに彩られていますが、ボクシングに熱中するきっかけもまた、現代では想像もできないおとぎ話です。
小学6年生のときに、夏祭りでカンガルーとのボクシングに負けたことからボクシングに大きな動機づけがなされたというのです。
当時のお祭りで動物が余興に登場するのは珍しいことではなく、カンガルーと人間とのボクシングも「子持ちのカンガルーは、たまに腹の袋から子どもがちょいちょい顔を出す可愛らしさを見せていた」「ライオンやトラの猛獣使いは、長いムチを振るって平均台を渡らせた」…。
無茶苦茶である。何がどうなっていたのか?
カンガルーボクシングで大事故は起きなかったのか?ライオンやトラは逃げ出したりしたことが一度もなかったのか?


都電荒川線「三ノ輪駅」は昭和レトロの小さなテーマパークでした。
いずれにしても、この町のどこかに小学生の白井がカンガルーと戦った祭りの会場があったはずです。
いや、過去形で語るのは、まだ早い。
昔のことって言っても、90年やそこらの最近の話じゃねぇか。
今もまだ、その会場が残っているかもしれません。
「パイオニア」とは何か?
私はそれを「最初の一歩を踏み出した人」とは限らない、と考えています。
「あんなとこに行ったら死ぬぞ」「日本人がそこに行けるわけがない」「お前がやろうとしていることは絶対に無理、不可能」。
そんな忠告を無視して、荒野に向かった人こそがパイオニアです。
その意味では、沢村栄治や王貞治とやってることは同じでも、大谷翔平は間違いなくパイオニアです。

都電荒川線。93年の1930年に全線開通していたので、この軌道を白井義男も見ていたのかもしれません。
例えば、野茂英雄は紛うことなきパイオニアですが、村上雅則はパイオニアではありません。
もちろん、村上雅則が日本スポーツ史に名前を刻む偉人であることに1ミクロンの異論もありません。
村上雅則は、南海ホークスからサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の四軍(1A)に野球留学させてもらったのであり、それは南海が入団の条件として付随させた「ご褒美」でした。
戦前から戦後にかけてプロボクサーとして活躍した白井義男の時代。
世界チャンピオンが世界にたった8人しかいなかった時代。
下の画像は、白井が世界チャンピオンになった1952年5月19日時点での世界チャンピオンたちです。

ボクシングファンでも耳慣れないのは、バンタム級のビック・タウィールくらいでしょうか。
白井と同じように、1950年代初めの南アフリカでタウィールが〝国民的英雄〟(こんなカッコで括らなければならないのがもどかしいですが、当時の南アは最悪の国家でした)であることは巨大スタジアムに数万人の観客を集めたことからも疑いようがありません。
「ダイナマイト」「白いヘンリー・アームストロング」など多くの異名を持つことでも知られる、バンタム級のグレートです。
残る6階級のチャンピオンについては、ここで語る必要はないでしょう。
そして、1954年2月18日時点での、世界チャンピオンは以下の通り。

ヘビー級:ロッキー・マルシアノ
ライトヘビー級:アーチー・ムーア
ミドル級:カール〝ボボ〟オルソン
ウェルター級:キッド・ギャビラン
ライト級:ジミー・カーター
フェザー級:サンディ・サドラー
バンタム級:ジミー・カラザース
フライ級:白井義男
やはり馴染みが薄いのはバンタム級のジミー・カラザースでしょう。シドニー生まれのオージー、カラザースは、敵地ヨハネスブルグでタウィールを初回KOしてタイトルを奪取した強打者。
やはり、豪州の巨大スタジアムに数万人の大観衆を集めた英雄でした。
1954年、Undisputed titleを3度防衛して無敗のまま引退(19戦全勝11KO)しましたが、7年後にカムバック、32歳の元王者は6試合を戦いますが2勝4敗で再びリングを去ります。
地球上に8つの階級、8人のチャピオンしかいなかった時代。「日本人が世界チャンピオンになれるわけがない」というのは常識でした。
ボクシングは世界統括団体が存在せず、地域の統括団体・コミッションが試合を統括する仕組みは今も昔も変わりません。
白井義男を世界に挑戦させるために、日本のコミッションが立ち上げられたのです。
JBCもまた、このときから歴史と格式を醸成させ、世界の軽量級をリードするパワーハウスに成長するのでしたが…。
JBCも老害と因習の沼に沈んでいくのでした。
白井義男は今では信じられないエピソードに彩られていますが、ボクシングに熱中するきっかけもまた、現代では想像もできないおとぎ話です。
小学6年生のときに、夏祭りでカンガルーとのボクシングに負けたことからボクシングに大きな動機づけがなされたというのです。
当時のお祭りで動物が余興に登場するのは珍しいことではなく、カンガルーと人間とのボクシングも「子持ちのカンガルーは、たまに腹の袋から子どもがちょいちょい顔を出す可愛らしさを見せていた」「ライオンやトラの猛獣使いは、長いムチを振るって平均台を渡らせた」…。
無茶苦茶である。何がどうなっていたのか?
カンガルーボクシングで大事故は起きなかったのか?ライオンやトラは逃げ出したりしたことが一度もなかったのか?


都電荒川線「三ノ輪駅」は昭和レトロの小さなテーマパークでした。
いずれにしても、この町のどこかに小学生の白井がカンガルーと戦った祭りの会場があったはずです。
いや、過去形で語るのは、まだ早い。
昔のことって言っても、90年やそこらの最近の話じゃねぇか。
今もまだ、その会場が残っているかもしれません。