フシ穴の眼 〜スポーツ疾風怒濤編〜

      Hope Lights Our Way / 希望の道を、つなごう。

カテゴリ: 世界最強の男

DAIMOND IN THE ROUGH〜覚醒前〜

デトロイトで生まれた才能が、ニューヨーク・ハーレムで花開く。
diamond-title-770x1007


1920年、ジョージア州の農村から一人の若者が建設現場で働くために、デトロイトにやって来た。

数ヶ月後、その妻レイラと二人の娘も彼と合流した。

1921年3月3日、三番目の子供が産まれた。今度は男の子だった。

父親の名前を継いでウォーカー・スミス・ジュニアと名付けられた。この美しい漆黒の肌を持つ赤ん坊が何者なのか、そのとき誰も知る由がなかった。

1928年、レイラはなけなしの貯金を崩して、7歳のウォーカーJr.にボクシングを習わせた。

しかし…運命の歯車は…まだ動き出さなかった。

のちに多くのメディアから質問を受ける当時の指導者は「11歳のウォーカーJr.を覚えている。友達とふざけ合ってばかりだったから、叱り飛ばしてジムから叩き出したんだ」と回想しています。

「当時はボクシングの才能があるとは思えなかった」と言いながらも、そんな子はどこにでもいるのに、どうして彼だけを覚えているのか?と聞かれると、こう答えました。

「リズム感が抜群に良かった。ザワっとする感覚はあったけど、そのときはもの凄いリズム感を持っていても、優れたボクサーになれるわけじゃないと決めつけていたのかもしれない」。

「そう、あのとき、何かが背筋にザワっと走ったんだ。あんな感覚は後にも先にもあの一度きりだった。だから今でも覚えてるんだ」。

ブリュースター・レクリエーションセンターでボクシングを教えていた指導者の名前は、エディ・ファッチといった。

レイラは夫の家庭内暴力と度重なる浮気に、離婚する。子供たちをジョージアの母親に預けて、デトロイトに戻り、スタトラー・ホテルのメイドとして働き、子供たちとまた一緒に暮らすために、少ない給金から少しずつ貯金した。

1932年、レイラはニューヨークへの引っ越しを決める。

そのとき、運命の歯車が、ガタンと音を立てて動き出した。

ヘルズキッチン地区に小さなアパートを借り、母親は働き詰めた。貧しくても幸せな生活が始まった。

アパートの表通りにはニューヨークのシンボル、タイムズスクエアがあった。

夜、劇の幕間にシアターから出て来た観客は、歩道でダンスを踊る子供たちに小銭を投げて囃し立てていた。

超一流のミュージカルを観てきた目の肥えた観客にとって暇つぶしでしかなかったが、目を見張るほど飛び抜けて優れたリズム感を持つ、ダンスの上手い黒人の子供が一人だけいた。

ウォーカー・スミスJr.だった。

1933年、家族はハーレムに居を移す。

ウォーカーJr.は中学で学校をドロップアウト、路上でモノを売って働いた。

そこは、1930年代のニューヨークのダウンタウンだ。このまま、闇の谷底に落ちてゆくには打って付けの場所をウォーカーJr.は彷徨っていたが、彼はすでに命綱をしっかり握っていた。

その命綱は7歳から始めたボクシングだった。
IMG_5554 (1)
The Best of Sports Illustrated〜1954−1995
創刊から約40年の米国スポーツの歴史を総覧した一冊。ボクシング全盛期の1950年代、最も高い評価を得たのがシュガー・レイ・ロビンソン。写真は世界ミドル級王座に4度返り咲いたロビンソン。

写真右でバットを構えているのは、この年、44本塁打を放って初タイトルを獲ったハンク・アーロン、当時23歳でした。この時代、ボクシングは疑う余地のないメジャースポーツでした。


ニューヨークでウォーカーJr.を指導したのはジョージ・ゲインフォードだ。ジムはハーレムのセーラム・メソジスト教会の地下にあった。

「最初はボクシングの才能があるようには見えなかった」。ゲインフォードも、ファッチ同様にそれが途轍もない宝石の原石だと気づくことは出来なかった。

「ただ、おかしなことを言う子だった。こんなパンチを打ったら、相手はどう動く?この動きは意味がないように見えるけど、そのあとこの動きにつなげたら?」。

「リズミカルにしなやかに四肢を動かしながら、ボクシングに興じていたのを思い出す。チェスをするように自分の動きと相手の動きを何手も先まで読んでいくんだ」。


あらゆる伝説の類がそうであるようにシュガー・レイ・ロビンソンの物語も、細かいエピソードには諸説入り乱れ、特にこの頃はその年代も曖昧だっりする。

次に紹介するスポーツ史上最も有名なエピソードも、それが何年何月何日のアマチュアトーナメントの大会だったのかも定かではない。

ただ、場所はニューヨークのキングストン。正選手出なかったウォーカーJr.は粗末なパイプ椅子に座って観客席から試合を見ていた。

運命の歯車が大きく連動しながら、ボクシングの歴史に最初の悪戯を刻印したのだ。

フライ級の選手が試合時間が迫っても姿を現さないのだ。スミスは「僕が出る」とゲインフォードに申し出ますが「(アマチュアアスレティック・ユニオン=A AUの)ライセンスカードを持っていないから出れない」と却下されてしまいます。

しつこく頼み込むウォーカーJr.にゲインフォードは一考を思い付きます。

持ち歩いているAAUカードの束をトランプのようにシャッフルして一枚のカードを抜き出した。

「ちょうどいい。こいつはしばらくジムに来ていない幽霊部員だ」。

カードを渡すとゲインフォードは小声で囁いた。

「いいか、この試合が終わるまでお前の名前はレイ・ロビンソンだ」。

このエピソードもゲインフォードとウォーカーJr.は本当だと主張しているものの、他に〝証人〟はいない。

事実じゃないと疑う理由もないはずだから、ゲインフォードを知る多くの人は「彼は杓子定規の真面目人間。そんな遊び心でルールを犯すわけがない」と口を揃えるのです。

ゲインフォードもまた戸惑っていました。

「どうしてあんなことをしてしまったのか、自分でもわからない。ただあのときは熱にうなされたように、やってしまった。あんな軽はずみなことをしたのは、生涯あれっきりだ」。

その試合をウォーカーJr.は美しく戦いユナニマス・デジションで勝利を収めた。

1試合限定の「レイ・ロビンソン」だったが、勝ったために次の試合もその名を使わなければならなくなった。

1週間後、キングストンに戻った「レイ・ロビンソン」は、さらに美しく戦い勝利を収めた。

誰だ?あのスタイリッシュなボクサーは?

レイ・ロビンソン?これが本当に2戦目か?

レイ・ロビンソンは次にどの大会に出るんだ?


このとき、ウォーカー・スミスJr.は少なくともリングの上では本名に戻る機会を永遠に失ってしまった。

1939年1月5日、18歳のウォーカー・スミスJr.、いやレイ・ロビンソンはニューヨーク・ウォータータウンで強豪ドム・パーフェティからも特別に美しい勝利を収めた。

That's a Sweet Fighter you've got there.


ウォータータウン・デイリータイムズ紙のジャック・ケース記者は「なんて美しく戦うボクサーだ!」とゲインフォードを祝福した。

ここからが重要な話だが、やはり諸説入り乱れている。

その3つの単語はゲインフォードの口から発せられたとも、近くに座っていた女性が感嘆してもらした言葉とも、ケース記者が表現したとも言われています。

いずれにしても、このときレイ・ロビンソンが初めて冠をつけたのです。


Sweet as Sugar


The following day, Case’s article in the Watertown Daily Times referenced “Sugar Ray Robinson.” A legend had been born. 
 翌日、ウォータータウン・デイリー・タイムズ紙に掲載されたケースの記事には「シュガー・レイ・ロビンソン」と書かれていた。

伝説が生まれたのである。

後年、ゲインフォードは「私は史上最も偉大なトレーナーだ」と自慢した。「シュガー・レイ・ロビンソンを育てたのは私だ」と。

「ジョージ、君は何百人ものファイターを育ててきたのに、なぜ他のみんなはシュガー・レイのように優秀ではなかったのか?」。

そう問い詰められると、ゲインフォードは「私が最初に見つけたんだ!」と主張を変えた。

おそらく、最初に見つけたのはエディ・ファッチだ。

「あなたがもし11歳のウォーカーJr.とコンビを組んでいたら、一体全体どんなボクサーが生まれていたんでしょうか?」。

生涯何度も聞かれた質問にファッチの答えはいつも短く素気のないものでした。

「本物の才能は育てるもんじゃない。生まれてくるもんだ」。

シュガー・レイ・ロビンソンの正確なアマチュア成績、これもまた諸説が入り乱れています。

多くの伝記やBoxRec"では「85戦全勝勝69KO・RSC、69のKOのうち40が1ラウンドで試合を終わらせた」という〝最強説〟をとっています。

しかし、ウォーカー・スミスJr.時代に3敗はしている、という説が有力です。

ただし、当時はニューヨークがボクシングのメッカであり、ニューヨーク・ゴールデングローブのタイトルは現在のプロのアルファベット団体のタイトルはもちろん、五輪の金メダルよりも注目と尊敬を集める栄光でした。

ロビンソンはその世界の中心で、1939年から40年のわずか2年間でフェザー級とライト級のチャンピオンに輝いているのです。

1940年9月19日、ニューヨーク州アスレチック・コミッションにプロ・ボクサー・ライセンスを申請した書類が残っている。

▶︎生年月日:1921年3月3日。年齢、19歳。

▶︎住所:ニューヨーク市西116丁目215番地。

▶︎前職:タップダンサー。

▶︎本名:ウォーカー・スミスJr.。

▶︎リングネーム: レイ・ロビンソン。

申請書のサインには 「レイモンド・ロビンソン 」と署名されている。

10月4日、マディソン・スクエア・ガーデンでプロデビュー。ジョー・エチェバリアを2ラウンドでノックアウトした。

その4日後の夜、ジョージア州サバンナで行われたカードでも2ラウンドTKOで勝利した。



伝説の幕が開き、栄光への疾走が始まった。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

「シュガー・レイ・ロビンソン」には、多くの謎が憑き纏います。

その最大の原因は、今なお誰もがその名を知っているのに、リアルタイムで見た人がほとんどいない、という一点に尽きます。

ジョー小泉をして「どの時代に生まれたかったか?やはりシュガー・レイ・ロビンソンをこの目で見たかった」と言わしめるのですから、その存在感は圧倒的です。

特に日本では試合が中継されることなく、80年代に世界のボクシングと出会った私に代表されるように、知ったときはすでに伝説だったということです。

モハメド・アリやシュガー・レイ・レナードが全面的に崇拝するほどのボクサーが、いかにヘビー級の時代とはいえ人気面でロッキー・マルシアノの後塵を拝するなんてことがあるのか?

シュガー・レイ・ロビンソンは、後付けの伝説ではないか? 
IMG_5553
IMG_5552
しかし、現実には「米国で飛び抜けて高い評価を得ているシュガー・レイ・ロビンソン」は、日本のメディアは「右に倣え」で、日本の指導者も積極的にテキストとして受け入れていました。
 
カザフスタンのゲンナディ・ゴロフキンも「ボクシングを始めたきっかけはシュガー・レイ・ロビンソンの伝記を読んで」というように、史上最高のグレートが「米国限定」「後付け」というのはおそらく誤りです。

米国ボクシング、いいえボクシングそのものを語るとき、近代ボクシングの技術体系を完成させたシュガー・レイ・ロビンソンが何者なのか?どこから来てどこに辿り着いたのか?パウンド・フォー・パウンドとは何なのか?は、ボクシングファンにとって、どうしても知りたい、宿命のテーマです。


ひたすら続きます。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


Forewordシュガー・レイ・レナードによる序文
 

シュガー・レイ・ロビンソンに初めて会ったのはラスベガスだった。

無条件に尊敬していたしていたアイドルに、実際に会えたんだ。

とにかく興奮した。ああ、これがシュガー・レイ・ロビンソンなのか、と。

彼は素晴らしいオーラをまとった人物で、単なるボクサー以上の存在だった。

モハメド・アリのように、ボクシングや人生を超えた存在だった。
彼の試合のテープやドキュメンタリー番組を何度も見ていたが、シュガー・レイはいつも存在感があった。

優れたアスリートや偉大なチャンピオンには、それが確かに伝わってくる存在感がある。

彼の全ての試合を見たけど、勝ったという事実だけでなく、どうやって勝ったのかということが重要で、彼はとにかく美しかった。
contents-ringside-srr-srl-770x481


Was there pressure to carry the name Sugar Ray?(その名を継ぐということ)

私は楽観的で自信に満ち溢れていて、彼が成し遂げたことに少しでも近づきたいと思っていたので、むしろそれを発奮材料にしていた。

偉大な名前を継ぐことに否定的な人がいたかどうかすぐには思い出せないけど、否定的な意見もあったかもしれない。

それでも、プロデビューして10~15戦目にラスベガスでシュガー・レイに会ったとき、私は「ミスター・ロビンソン、あなたの名前を使っていますが、気分を悪くしてないでしょうか?」と聞いたんだ。

彼は「どうして気分を悪くなんかするものか。私の名前を継いだ君を見てきた。君は素晴らしいボクサーだ、誇りに思う」と答えてくれた。

とても嬉しくて、すぐに「ありがとうございます!」とお礼したよ。

Passing of the Torch.

あのとき、彼が私を受け入れてくれたことで、私は彼からトーチを引き継いだ気分になった。とても重要で、大きな責任の伴うトーチであることを理解していたから、誇らしさと緊張で身震いしたのを思い出す。

私は彼を尊敬していた。彼も私を目にかけてくれていた。

「準備が大切だ。レイ、いつも完全な準備しておけ!」と、よくアドバイスしてくれてた。
 
SRR-in-his-Harlem-office-marked


リングを降りると、ステージや表彰台に立っているかのようにいつも美しく着飾っていた。

シュガー・レイ・ロビンソンはいつでもとびきりにお洒落な人だった。

それが彼の存在感を高めていました。

彼はバーやクリーニング店、衣料品店など、ニューヨークのハーレムで少しずつ手を広げて、様々なビジネスを展開していた。

彼の、リングの中と外での成功に刺激され、自分ももっと最高になるために、もっと頑張ろうと思った。

ボクサーはエンターテイナーでなければならない、そんな考え方も彼から学んだ。

シュガー・レイが試合をするとき、彼のパンチは、エンターテインメントと興奮を生み出していました。

ボロパンチにしろ、ボディショットにしろ、彼のパンチは速くて、アクセントが効いていて、リズミカルで、見ているだけで楽しい気分にさせてくれた。

だから、みんなシュガー・レイ・ロビンソンの真似をしたんだ。まさに時代の先端を走っていた。


私はプロで40試合、シュガー・レイは200試合以上を戦った。

彼の試合数の多さには、いまさらながら驚くしかない。

彼は偉大なファイターであり、偉大なチャンピオンであるべきだった。彼こそがチャンピオンだった。

そして、シュガー・レイは試合に負けると、より強い強い気持ちで再戦に臨んでいました。

私はロベルト・デュランに負けたことで、多くのことを学んだ。

デュランは、ボクシングの精神面、心理面が肉体と同じくらい重要であることを教えてくれた。

敗北から立ち上がることで真のチャンピオンになったシュガー・レイ・ロビンソンは、私にとって偉大な見本だった。

The Greatest Fighter Ever(シュガー・レイは史上最高のファイターか?)

疑う余地などどこにもない、明らかに史上最高のファイターだ。

彼は万能のファイター、ボクサーの完成形だった。

史上最高なんて、所詮は人が決める主観的なものだと思ってる人がいるかもしれない。しかし、それは大間違いだ。

モハメド・アリが多くの人にとって“The Greatest”であるのは、やってのけた業績からだ。シュガー・レイはリングの中のスタイルがとにかく最高だった。

私に言えるのは、二人と知り合えたことを幸せだったということ、それだけだ。

シュガー・レイ・ロビンソンの試合を見たことがないファンには、まず見て欲しい。

いつも美しく、ときに凶暴で、ときに力に満ち溢れ、どんなときも鋼鉄の精神で戦う姿、彼こそがチャンピオンだった。

彼こそが理想的なチャンピオンだった。

彼のことを一言で表すことなんて到底出来ない。それでもあえて一言で表現するなら“special"、他に並ぶ者などない特別な存在だった。 
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

リング誌7月号はシュガー・レイ・ロビンソン特集。

日本では正確な情報が少ない、神秘のベールに包まれたパウンド・フォー・パウンドの〝語源〟であるグレート中のグレート。

4団体17階級時代を迎えて、各メディアがPFPランキングを発表しています。どのPFP1位も妄想を根拠にしたお笑い草であることは、メディアはもちろんファンもよくわかっています。

しかし、SRRが全時代PFPキングであることは、多くのメディアと米国をはじめ世界中のファンが妄想ではなく事実として認識しています。

SRRが活躍した1950年代はヘビー級の時代、ロッキー・マルシアノがボクシング、いやアメリカンスポーツの顔でした。

ロビンソンは専門家と一部のマニアから絶対的な評価を得ていたとはいえ、ニューヨークの月見草でしたが、当時は米国ボクシングの黄金時代。
july-2021-cover-308x432
SRRは、どこから来たのか?

どの時点で、ロビンソンはパウンド・フォー・パウンドになったのか?

マフィアの影響力が色濃く残ってたアメリカで、ロビンソンはどうやって折り合いをつけたのか?

そして、SRRは本当に全時代を通じて最強なのか?
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

マニー・パッキャオのつぶやきから。

スクリーンショット 2021-05-01 10.11.29
https://twitter.com/MannyPacquiao/status/1386904212311732226/photo/1

20 years ago all I wanted was a chance. A chance to prove myself on a big stage and make my dreams come true. Always prepare hard so that when the opportunity comes, you are ready!

20年前、とにかく大きなチャンスが欲しかった。 大舞台で自分が何者であるかを天下に知らしめ、夢を叶えるチャンスが欲しかったんだ。そんなチャンスがやって来たときに戸惑わないように、常に厳しいトレーニングを重ねて準備するんだ、そいつがいつ舞い込んでも良いように!



スクリーンショット 2021-05-01 10.08.46
My routine before and after each fight.  Without God, I am nothing. 

試合前と試合後、私はコーナーポストの前で神に祈りを捧げる。神が私をここに導いてくれたから。神がいなければ今の私は存在しないから。 
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

「日本」国内と「世界」海外の、評価が大きく食い違うことはどんな分野でもあります。

腹の中に含むだけで、1ミリも声には出せないことが、世の中にはたくさんあります。「それは事実かもしれないけどあからさまにしなくてもいいんじゃないか」ということも多々あります。

「王貞治の本塁打世界記録なんて日本記録に過ぎない」。事実です。どう考えても「世界記録」ではありません。

「王貞治」を認めるなら韓国などのリーグで打ち立てられた記録も「世界記録」として認めるべきですが、その種の報道は日本では一切ありません。

しかし、2021年の日本のスポーツファンで「王貞治の世界記録は欺瞞」とムキになる馬鹿はいないでしょう。

「王貞治」は、44年という歳月と、野茂英雄やイチローらが米国にクサビを打ち込むことで、清廉に蒸留され「真実」であることが理解されています。

この馬鹿ブログでは、引き続き、「事実」を踏まえて「真実」を伝えたいと思います。
IMG_5508
=本文とは関係ありません=歌舞伎座タワーの屋上ガーデン。銀座と築地のど真ん中というのに、いつもガラガラで、今日も一人でオンライン会議をしていました。

そして、いきなり大上段の問題。

Q:以下にあげた21世紀のレジェンドを米国での認知度・評価の順番に並べ替えなさい。
IMG_2346
   
   ①高橋尚子(国民栄誉賞)
   ②イチロー(国民栄誉賞*3=実質)
   ③松井秀喜(国民栄誉賞)
   ④井上尚弥(リング誌:年間最高試合賞)
   ⑤松山英樹(内閣総理大臣顕彰)

まず「米国で」なんていっても「米国のマラソンやボクシングのマニアなら答えはひとつ」とかいうのはナシ。

また、米国は良い意味でも悪い意味でも、国民の興味関心は日本人には想像できないほど多様です。

「米国ではボクシングはマイナー」。これはまぎれもない事実で、その傾向は今後も一層加速します。

しかし「米国ではサッカーはマイナー」か?これは答えのないイジワル問題です。

まず女子サッカーは準メジャー。女子に押されてる男子サッカーも西海岸では一概にマイナーとは決め付けられません。

そんな、価値の多様化がハンパじゃない米国ですが、それを踏まえてのクエスチョン。


【答え合わせ】

①から⑤は時系列に並んでいますが、先に答えを言っちゃうと⑤が1位です。報道量が桁違いです。

2位争いは②③ですが、ど田舎球団のスーパースターと、ヤンキースのワールドシリーズMVP。トータルの報道量、メディアや雑誌のカバー数でいうと②ですが、③は天下のヤンキースで最後のワールドシリーズMVP。

ニューヨーク・ヤンキースの要職に就いている③。シアトルなら②は伝説でしょう。ということで、同率2位。

残る①と④は、どちらも超がいくつも付くコアなマニアが支持するカルトスター。

米国の軽量級ファンが「WBSSや井岡一翔の試合が見たい!」と渇望するように、米国のマラソンファンは「日本では五輪マラソンがスタート・ゴールまでフル中継されるの?羨ましすぎる!」と嘆いていました。

しかし、彼らはマニアもマニア、まず滅多にお目にかかれない人種です。

ちなみに、シドニー2000の時代と違って北京2008からはネット配信などでマラソンもフル中継で観れますが、日本のように地上波ではありません。

ジョギング大国の米国ですが、マラソントップへの関心は嘘みたいに低いのが現状です。

日本では①のピーク(シドニー2000)>>>>>>>>>>>④のピーク(WBSS決勝)ですが、米国では④>>>①と逆転します。米国ではどっちが無名か?のレベルの争いですから、どちらも全く無名で比較できないも正解です。

「五輪マラソン優勝者が無名なわけないやろー!」とか「PFP2位でリング誌単独カバーしてるから有名やろー!」というのでは、米国を全くわかっていません。

サッカー女子代表が米国ではメジャー、ということはライバルのなでしこジャパンもそこそこ有名か?となると、そうじゃないんです。

価値観がしんじられないほど多様で、地域やコミュニティーによって複雑にまだら模様…。ただし、マラソンや軽量級ボクシングがメジャーな地域やコミュニティーは存在しません。

ここまで書いてきて、私が米国を全面的に好きになれない理由が、政治や経済で横暴すぎるからではなく、私が大好きな軽量級やマラソンの面白さを理解できない馬鹿国家だからだと、あらためてわかりました。

とはいえ、サッカーやラグビーもそうですが、奴らが本意気になるととんでもない強敵になります。 

あの変態国家で軽量級やマラソンがメジャースポーツになったら…。

「昔はフライ級やバンタム級なんて普通に日本人が世界王者になって当たり前に日本で世界戦してたのに…」「ケニアやエチオピアの人の方がまだ奥ゆかしかった…」というエゲツない世界に引きずり込まれそうです。 
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

カーテンを閉めて寝るのを忘れてしまい、朝日に起こされてしまうことが年に何回かあります。
今の時期だと、朝日が強く差し込むのは6時前後、起きるには早過ぎます。

カーテンを閉めて二度寝するのがほとんどですが、目覚めがスッキリしたときはそのままベッドから出て、酔っ払いにはまずありえない贅沢な時間を散歩ついでに近所の焼きたてパン屋さんでモーニングを摂ったりします。

そんなことは、年1回あるかないか、ですが。

しかし、今日はそんな日でした。

ゆっくり新聞読みながらテレビのニュースも見て、パン屋が開く頃合いに出かけましたが、顔見知りの小学生四人組と遭遇。

奴らは今日は掃除して昼前に下校、明日からゴールデンウィークだそうです。

「会社に行くのー?」

「ちゃんと働けよー」

「明日は家にいるのかー?」

「前にあげたお酒はもう全部飲んだかー?」

ステイホームで退屈した奴らはいつも以上にカラんできます。

知らない人に見られたら、小学生から「ちゃんと働け」「あげた酒、飲んだか?」と口撃されてている私はめっちゃ怪しいおっさんに映ってるだろうな、と思うと、本当にまずい奴らに遭ってしまいました。

大人と子供の最大の違いは、朝のテンションです。

朝からとにかく、声がデカい。矢継ぎ早にくだらないことを大声で浴びせてくる。

オスカー・デラホーヤはマニー・パッキャオ戦について「6人の敵と戦っているようだった」と表現しましたが、今朝の私は〝よう〟ではなく、まさに四人の敵に不意打ちされた格好でした。

「早く学校行け」とシッシッしても「8時までに行けばいいから余裕なんですー、残念でしたー」「あげたお酒、飲んだのかって聞いんだよー」と奴らは私の周囲を旋回しながら、波状攻撃を続けます。

この状態でパン屋に入ると、こいつらも乱入してきて大変な騒ぎになると諦めた私は「明日から遠くへ出張だからゴールデンウィークはいない。今から出張の準備するから。ちゃんと掃除しろよ」と嘘をついて家に戻りました。

「逃げるなー!」という声を浴びながらも、危険な時間帯だからスクールゾーンを迂回してパン屋を目指すべきでした。仕切り直す気も失せてしまいむした。

しかし、小学生はなんで朝からあのテンションなんだ?

大人なら、こっちが少し嫌そうな素振りを見せたら気を遣うものですが、奴らにそんな態度を見せたら余計につけ上がってくるだけ。

宿題教えて全然できないときは「お前、脳みそにシワ2本くらいしかないやろ?」と言っても、小さな声で「そんなことない」と否定するのが精一杯のくせに。

これからは、平日朝はスクールゾーンを避ける、運良くパン屋でモーニングにありつけても、奴らに見つかりやすいテラス席には座らない、ことを肝に銘じよう。

まあ、でもテラス席で見つかるのが最悪パターンと考えると、今回はまだマシだったのかもしれません。

それにしても、テラス席には座らない、なんで命を狙われてるヤクザの幹部じゃないんだから…。

image
夏の風が吹いています。

雲一つない晴天。

気持ちの良い夏の到来です。

開会式まで、あと84日。東京駅前は閑散としています。

image
IMG_4964

前置きがながくなりましたが、今朝の新聞記事に触発されて、ジャッキー・ロビンソンについてです。



社会人になって米国勤務になった友人たちは、人種差別についてほぼ同じ内容のことを、例外なく口にします。

「1年間留学してもほとんど感じなかったけど、1週間住めば、自分がマイノリティーであることを思い知らされる」。

日本では想像も出来なかった、多くの他者から自分に突き刺さってくる攻撃的な感覚。

私は1ヶ月滞在したこともあるけど、そんな感覚は一度も経験していない、と言うとやはり例外なく笑われます。

ホテル住まいで仕事関係だけの付き合いじゃ分からないよ、と。

子供たちは1年留学組ですが、私と同じでやはりあからさまに差別された経験はないと言います。

ただ、もちろん留学や仕事と、そこに住むのは全く違います。

お客さんやお得意先ならOKでも、隣人としては絶対にNGなのでしょう。

もしかしたら、その心理は日本人の中にもしっかり潜んでいるものかもしれません。

 

米国ではジャッキー・ロビンソンがシンボルの一つですが、ボクシングのリングでは同じくらいか、おそらくはロビンソン以上に差別と戦い勝利したグレートが存在します。

しかし…。

ロビンソン以前に白人を侮蔑する行為を見せつけたジャック・ジョンソンは何故殺されなかったのか?

ムスリムに改宗し、公民権運動の旗頭となったモハメド・アリは、どうしてCIAに暗殺されなかったのか?

小さなアジア人、マニー・パッキャオをどうして米国のボクシングファンは両手を挙げて抱きしめたのか?

それは、メジャースポーツとマイナースポーツの差だけではありません。 


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

リング誌6月号、電子版がアップされました。

もちろん、マーベラス・マービンの大特集です。

まだ、髪の毛があるハグラー。毛があっても強そうです。↓
hagler-early-years-title-770x769
HAGLER’S ARDUOUS RISE THROUGH THE AMATEUR AND PROFESSIONAL RANKS WAS PRECEDED BY A CHANGE OF SCENERY AND A FORTUITOUS UNION WITH THE PETRONELLI BROTHERS

アマチュアでもプロでも強靭さを見せつけたハグラーがリングに上がるとき、いつもペトロネリ兄弟 と一緒だった。


Serendipity is where chance becomes good fortune.

セレンディピティとは、元々イタリア語で「偶然」が「幸運」に変わるという意味だ。

イタリアに縁もゆかりもない15歳のマービン・ナサニエル・ハグラーはニュージャージー州ニューアークから母親と兄弟とマサチューセッツ州ブロックトンに引っ越した。

引っ越した、なんて言葉を使うと彼らは苦笑いするだろう。貧困と暴力が限界を超えて渦巻いていたニューアークは、家族で生き残るには逃げるしかなかったのだ。

この引っ越し、いや生きるための逃亡で、Serendipityのサイコロを投げていたなんて、内向的な15歳の黒人少年が気付くはずもなかった。

人間不信の少年が心を許せるのは、家族だけだった。自分に懐いてくれる鳩にも愛情を感じたが、それ以外の世界は、全部が敵だった。

家族を支えるために働きづくめの少年は、通勤で前を通るボクシングジムに惹きつけられた。

理由なんて、そのときも後になっても、わからない。とにかく古くて立て付けが悪くて、暗くて、ジメジメしたボクシングジムが、どういうわけだか、少年の目にはまぶしく輝いて見えたのだ。

本人がどんなに考えても理由が説明できない、こんなことを、Serendipityと呼ぶ以外に、何か表現のしようがあるか?


人間不信の黒人少年が一番信じることができないのは、当たり前だが白人だ。大人の白人兄弟なんて、自分に危害を加えようとしてる凶悪な猛獣にしか見えなかった…そのはずだった。

白人から受けた酷い仕打ち、恐怖の思いは少年の心に生々しく刻みつけられていた。

それなのに。

グッディとパット、ペトロネリ兄弟と初めて会ったとき、少年が感じたのは恐怖ではなく、不思議な親しみだけだった。

あの時の少年が、そう感じる白人兄弟は、この地球上で、ペトロネリ兄弟しかいなかっただろう。

こんな偶然をSerendipityと呼ぶ以外に、どう語れば良いのか?



ありえない偶然が、いくつも重なる、そんなことが世の中にはある。滅多にないことだけど。



そういえば、英語で偶然は chance だ。チャンス、そう、絶好の機会だ。そんな偶然のチャンスが、大きな幸運、 good fortuneに化ける。

将来に希望を見出せない15歳の黒人少年が、なぜか薄暗いボクシングジムに引き寄せられ、恐怖に慄くしかなかったはずの白人兄弟に説明不可能の、温かい親しみを感じる。 

しかも、そんな奇跡が起きたのが、裏切りと欲望しかないはずのボクシングという世界だというのだから、もはや偶然ではなく神の配剤だったのかもしれない。

そして、裏切りと欲望しかない腐った世界で、ハグラーとペトロネリ兄弟は生涯の忠誠を互いに貫いた。ボクシングを知らない人に説明するなら、こんなことは絶対にありえないことなのだ。


これ以上に、美しい物語が他にあるだろうか?


Serendipity is where chance becomes good fortune. セレンディピティとは「偶然」が「幸運」に変わるという意味だ。

残念ながら英語には、それを一言で表現する言葉を持つていなかった。


S
erendipity…。


しかし、本当に偶然だったのだろうか?

多分、それは偶然なんかじゃなく、必然だった。

ハグラーとペトロネリ兄弟は、出会うべくして出会ったのだ。

ハグラーはペトロネリ兄弟と会うために、ニューアークからブロックトンを目指したのだ。

ペトロネリ兄弟はハグラーを待つために、かの地でボクシングジムを開いたのだ。



そして、運命のサイコロは、さらに転がってゆく。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

マニー・パッキャオとフロイド・メイウェザー、マルコ・アントニオ・バレラ、エリック・モラレス、ファン・マヌエル・マルケス。

モハメド・アリとジョー・フレイジャー、ジョージ・フォアマン、ケン・ノートン。

ボクシングの物語が魅惑のクライマックスを迎える絶対必要条件は、ライバルの存在です。

パッキャオとメイウェザーがなにゆえ、あそこまで大きなイベントに膨れ上がったのか?もちろん、理由は一つではありません。しかし、二人のライバル関係があまりにも色鮮やかだったことが最大の理由です。

〝今は亡き〟リング誌の「BEST FIGHTER POLL」(年間PFP投票)で2005年から2014年までの10年間にも渡り、PFPトップを分け合ってきた二人が激突したのです。

これほどまでに凄まじいライバル関係は、ボクシング180年のヒストリーブックのどのページを探しても見つかりません。 
IMG_0708
プライドと勇気の火花を散らしたFOUR KINGSに比べて、こいつら↑ときたら…。

しかし、パッキャオとメイウェザーは〝たった二人〟きりでした。

さらに、その激突は一度きり。

そして、何よりも二人は全盛期を過ぎてリングの上では証明するものは無くなっていました。

2015年の二人にとって、リングは新たなレガシーを築く神聖な場所ではなく、金儲けのための市場に過ぎませんでした。




しかし。

7年間という密度の濃い時間で、PFPキングを奪い合った四人、つまりプライムタイムの四人がラウンドロビン(総当たり)でプライドを賭けて戦った…そんな夢のような時間があったことを、憶えているでしょうか?


1980年:ロベルト・デュラン。

1981年:トーマス・ハーンズ、。

1982年:シュガー・レイ・レナード。

1983年〜86年:マーベラス・マービン・ハグラー。
BeFunky-collage-770x443

もし、あの当時を知らない人がいたとしたら…?

1980年から86年までの、この簡素なPFP年表をもう一度見て下さい。

最初の3年間をデュランとハーンズ、レナードが獲り、残りの4年間をハグラーがスイープした「7年戦争」です。


先駆けた3人のPFPキングが、そのあと4年連続PFPキングのハグラーに次々と挑んでいったのです。

このスペクタクルが、どれほど強烈な磁力で世界中のボクシングファンを惹きつけたことか。


当時を知らない人でも、私のこんな下手くそで短い文章でも、あの7年間がボクシングファンにとって狂喜乱舞の時間であったことは簡単に想像できるでしょう。

パッキャオとメイウェザーが2人じゃなく4人もいて、何よりも全盛期に総当たりで激突していったのです。

あんなのを見てしまって「世界のボクシングの熱狂的ファンになってはいけない」「(学校図書館が定期購入していた)リング誌も(当時はボクシング情報満載だった)スポイラ誌も貪り読んではいけない」なんて言われたなら「死ね」と宣告されたのと同じです。


そんな、絢爛豪華な時代が、確かにあったのです。 

そして、そんな世界のど真ん中に屹立していたのが、マーベラス・マービン・ハグラーだったのです。 
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

※THE GREAT TRIUMPH なんて言葉は多分ありませんが、雰囲気が伝われば。。。


さて!松山英樹のメジャー制覇です!!!

野球やサッカーとは違う「ゴルフ」という少し特別なスポーツだけに、一昨年のラグビーW杯のような「日本列島を熱くさせた」というよりも「ゴルフファンが悲願達成に泣いた」という方が近い大偉業でした。

そうはいっても、私はゴルフはしても、熱心に観戦することがない微妙なファンですが、松山がやってのけたことがどれほどとんでもない偉業かはよくわかります。
スクリーンショット 2021-04-12 23.09.35
https://www.bbc.com/sport/av/golf/56711510
679ea330-9b2f-11eb-97fa-3347b192bde0
AUGUSTA, GEORGIA - APRIL 11: Hideki Matsuyama of Japan poses with his caddie, Shota Hayafuji, and the Masters Trophy during the Green Jacket Ceremony after winning the Masters at Augusta National Golf Club on April 11, 2021 in Augusta, Georgia. (Photo by Kevin C. Cox/Getty Images)
 
ケーブルテレビで毎日見てるCNNやBBCのスポーツコーナーでも、例外なくトップニュースです。スポーツ専門チャンネルのESPNではもちろん総合トップです。

テニスと並んで欧米で最も高い人気を誇るゴルフで、4大メジャーの一つを制したのです。

優勝賞金207万ドル(約2億2700万円)という〝安さ〟も、テニス同様にこのスポーツの「品格」を感じます。

1934年に第1回大会が開催、招待資格を持つ世界中の名手(マスター)が一堂に会して覇を競うことから、39年から「マスターズ」と銘打たれた。あらゆるスポーツの中で最も格式が高く、最も紳士的…。

世界に爪痕を残す日本人が現れたとき、必ず〝説明書〟が発行されます。それは〝大偉業〟には付き物の〝保証書〟と言い換えた方がわかりやすいでしょう。

80年代、この保証書を最初に手にしたのが岡本綾子でした。

米国のメディアが「自動車、ゴジラを上回る日本の最も強力な輸出品」という報道を保証書に「米国が評価してるから本物だ!」と、岡本は一段高いステージのアスリートと尊敬されましたのです。

そして、90年代には野茂英雄が太平洋を渡り、中田英寿が大西洋を越えます。
image
日本人が世界と戦い、打ち勝つ、その姿にファンは熱狂してきました。

そこでは、日本人が格闘した相手がいかに難攻不落の強敵なのかの説明書と保証書が求められました。


日本史上最大のスポーツヒーローは長嶋茂雄でしょうが、彼には説明書や保証書の類は不要でした。


長嶋が1958年にデビューしてから62年の歳月が過ぎゆきました。この間、私たちスポーツファンは成熟して博識になったのでしょうか?

それとも、説明書や保証書を確認してからでないと熱狂できない頭でっかちで面倒な大人になっただけなのでしょうか?


「世界の〝メジャー〟に爪痕を残した日本人」。

その歴史を「私たちは観戦スポーツとどう向き合ってきたか」と並行しながら考えて行きます。



それにしても、松山英樹!天晴れ!にも程があります!!!

厳しいパンデミックの最中で、そしてこれは言っちゃいけないんですが、米国でアジア人への暴力行為が続く中でアジアの偉大なパフォーマンスを、あのオーガスタで見せつけてくれた!!!天晴れ!!!!!ありがとう!!!!!!
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ