大好きな野球をやめるためにプロに行く。
全く無名のまま高校時代を終えた掛布雅之は、自分の実力がわかっていました。
それでも、それなのに、野球が大好きだという思いを抑えきれませんでした。
プロで全身全霊を打ち込んで、それでもダメなら野球をやめることができる。それしか、この思いを断ち切ることはできない。
掛布は、野球に対する思いを〝介錯〟してもらいたかったのです。
その〝死に場所〟として、最もレベルの高いプロは格好の舞台でした。
当たって砕けるのにこれ以上の舞台はありません。ここで介錯してもらえたなら、もう何の未練も残さず、ひとカケラの未練も残さず、「野球をやめる」という目的を完遂することができるのですから。
もちろん、大好きな野球です。
むざむざ砕けるつもりなど、さらさらありませんでした。最後の瞬間まで、全身全霊で野球に打ち込み、思い切り悪あがきをしてやるつもりでした。
伝説とは〝素晴らしき虚構〟のモザイクです。
掛布が入団時に与えられた背番号は「31」。「長嶋(3)と王(1)を足したような偉大な選手になって欲しい」という想いが込められたーーーなんていう都市伝説は事実ではありません。
コネでドラフト6位に潜り込んだ無名の高校生にそんな大それた夢が託されるわけもなく、退団した外国人ウィリー・カークランドが付けていた背番号を回されたというのが事実でした。
二軍から這い上がる。そう決意していましたが野球の女神は掛布の一途な思いに惚れ込んでしまったようです。
「速い球を投げる、ホームランを打つ、足が速い、というのは持って生まれた素質。でも、守備は練習で上達する」。そんなことが今以上に信じられていた時代です。
身長170㎝に満たない全く無名の高校生の使い道があるとしたら、内野の守備固めです。
キャンプから厳しい守備練習に明け暮れてフィールディングに磨きをかけた掛布は、一軍選手の故障や出遅れなどから、掛布は三塁と遊撃でオープン戦出場の機会を得ます。
高卒1年目の三塁と遊撃。村上宗隆や根尾昂を見るまでもなく、プロの壁がどれほど高いかを知るのに、これほど格好のポジションはありません。
実際に、開幕段階で掛布の守備は「猛練習で捕球とスローイングは安定していたけど、守備範囲は狭くプロの水準には達していなかった」と見られていました。つまり、守備固めでは使えないレベルだったのです。
それなのに、一軍に帯同してオープン戦に出場、見事に開幕一軍を勝ち獲るのです。
コネ入団で掛布を推した安藤統男がこの年から一軍内野守備コーチに就き「あいつの守備には華がある」と周囲に宣伝したことも影響したのかもしれません。
非常に興味深いことが二つあります。
一つは、掛布の父親と仲が良かった安藤の言葉に、金田正泰監督やコーチ陣も異論を唱えていないということ。掛布の守備を見た誰もが「一軍レベルではないが、華がある」と感じてしまうのでした。
そして、二つ目は無名の高卒ルーキーには全く期待していなかった打撃で、オープン戦ながら18打数8安打と傑出した数字を残していたことでした。
シーズン開幕後も掛布に期待されていたのは守備。
試合前の練習、特に練習時間が短いビジター、掛布は打席に立つことがほとんど許されず、1時間ひたすらノックを受け続けました。
練習が終わったとき、ユニフォームは泥だらけ。「取り立てて上手くない高卒ルーキーを一軍に帯同させて試合前にノックの嵐を降らせる…タイガースは何を考えているんだ?」。
相手チームからも送られる奇異な視線は、シーズンが進むにつれて徐々に変わっていきます。「あの31番の守備、上手くはないけどよく見ると変な空気がある」「いや、すごいスピードで上達してる」。
掛布のライバルはドラフト1位指名された中央大学の佐野仙好。野球への思いをプロで介錯してもらいたい、その強烈な思いに「佐野に負けたくない」というライバル心も点火されました。
ルーキーイヤーの掛布は、出場83試合で打率2割3厘、3本塁打16打点。そして、期待された三塁守備は華があるだけでなく、プロでも十分なレベルに到達していました。
そして、2年目のシーズン。新監督に就任した吉田義男は「守備から固める」と方針を打ち出し「守備はじっくり見ないとわからない」と語りながらも、掛布については「技術的にはまだまだやけど、なにか面白いですな、あの子」と、変な空気、つまりオーラを感じ取っていました。
それは、ファンも同じ。1年前は名前も知らなかった高卒ルーキーの守備に酔い、そしてプロの専門家が見抜けなかった打撃にまでオーラを感じ取っていたのです。
打席に入る雰囲気、一つひとつの所作、それはオーラと表現するだけでは何かが足りませんでした。
妙な色気があったのです。
誰がどう見ても美男子の類ではない掛布が若い女性の嬌声を集める「なにわの七不思議」は、実際に掛布の打席を1度見れば誰でも理解できたはずです。
当時の主砲、田淵幸一のようにドラ1で最初から期待通りの輝きを放ったわけではありませんでしたが、掛布はプロ入り前こそ全く無名だったものの、やはり最初から輝きを放っていたのです。
2年目は出場106試合、2割4分6厘、11本塁打29打点。1年目を上回り、佐野とのポジション争いにも勝ち、球宴後「サード掛布」は不動のレギュラーになりました。
この頃、阪神タイガースは今のようなレベルの人気球団ではありませんでした。プロ野球といえば読売という時代です。
「大阪では読売ファンは肩身が狭い」というのは大嘘で、タイガースと読売は半々と言い切って良い、読売は阪急や南海よりもはるかに人気がありました。
ジャイアンツのパジャマを着て寝ていた清原和博は決してレアな子供ではなかったのです。
そして、1985年に完成する、今に続くタイガース人気は単体では成立しない、つまり読売ジャイアンツのカウンターカルチャーとしてのムーブメントでした。
札幌や仙台、名古屋、広島、博多…日本のどの大都市も東京に迎合する中で、牙を剥き出しにする大阪の気質は特別な存在です。
ジャイアンツに直接牙を剥くことができる、唯一の関西球団が特殊な人気を醸成させてゆくのは自然の成り行きでした。
大阪人が東京に向ける憧憬や嫉妬や憎悪を、差し障りのない形で思い切り表現できる、そのお神輿が阪神タイガースなのです。
そして、その対立構造はチームとしてだけでなく、「村山実vs長嶋茂雄」「江夏豊vs王貞治」「田淵幸一vs堀内恒夫」という個の戦いでも受け継がれてきました。
国民的英雄だったON、特に長嶋は熱狂的なトラキチ、アンチ読売でも好きなファンは多く、堀内のインパクトも強烈とは言い難いものでした。
そして、ジャイアンツの憎たらしい超エリートを、タイガースの這い上がりの4番が打ち崩す。そんな絵に描いたような東西対決が、これ以上ない形で実現します。
掛布と同じ1955年5月生まれの江川卓は、動画や記録が正確に残る時代になってからの近代野球において、最も伝説にあふれた投手でしょう。
「高校時代が一番速かった」「明らかにボールが打者の手元でホップする」「中腰に構える(打席からもその雰囲気は察知できる)捕手の高めのボール球をプロの打者が振る」…。
あらゆるスポーツで初めて「怪物」と呼ばれたのが江川でした。
松坂大輔は「平成の」、佐々木朗希は「令和の」の枕詞を付けなければなりませんから、江川は〝怪物の永久欠番〟と言えるでしょう。
「江川なんて、そりゃ誰でも知ってましたよ。高校野球の関係者だけじゃない、日本中の誰もが知ってましたよ。高校野球の関係者でも知らなかった僕とは全く違う、同い年だけど雲の上の人」と掛布は笑いますが、江川もまた高校時代から掛布を知っていました。
千葉の習志野と栃木の作新学院、関東の強豪校は練習試合で交流がありました。江川は打者・掛布を「雰囲気がある」と意識していましたが、江川が投げる前に死球を受けて掛布が交代するなど、対戦の縁がありませんでした。
初対決はプロになってから、1979年7月7日、後楽園球場。
両者の立場は、高校時代から考えられないほど逆転していました。
江川は日本スポーツ史上最悪のヒールに貶められてのルーキーイヤー、6年目の掛布は前年に3割1分8厘、32本塁打、102打点と阪神の主砲ではなく球界を代表するスラッガーに成長していたのです。
前年のオールスターゲームで3打席連続ホームランを放った掛布に、江川は「あの掛布が」という思いと「やっぱり」という思いで見ていました。
初対決は、二人にとって悔いの残る苦いものになります。
掛布が初球のカーブを振り抜くと、ライトスタンドに突き刺さるホームラン。
のちに江川は「タイムスリップできるなら、捕手のサインに首を振ってストレートを投げたい」と、後悔を語っています。
「どうしてあんなカーブを投げてしまったのだろう」。
一方で、ホームランを放った掛布もまた「高校時代に江川のストレートを見ていたらトラウマになっていたかもしれない」と思っていたほどのストレートを待たなかったことに後悔していました。
「どうしてあんなカーブを打ってしまったんだろう」。
そして、江川が「わかっていても絶対に打たれない」と絶対の自信を持っていたインハイのストレートだけを、掛布は狙い続けるようになります。
掛布は「アイコンタクトでここでインハイ行くからな、とはっきり伝えてくる」と、江川との勝負を振り返っています。
打者が待ち構えているボールをアイコンタクトで教えて投げ込む。どう考えても投手不利で、それ以前にチームの勝利を優先しない、スポーツの原理原則を無視したエゴ丸出しの行為です。
勝利だけを希求する大谷翔平ら、現代のアスリートには想像できないかもしれません。
しかし、掛布vs江川がストレートにだけこだわる〝勝負〟ではなく、勝利優先のゲームであったなら、ファンはあそこまで熱狂したでしょうか?
ファンを楽しませることがプロスポーツで最優先すべき原理原則だとしたら…。
掛布と江川はやはり最高級のプロフェッショナルだったのです。
全く無名のまま高校時代を終えた掛布雅之は、自分の実力がわかっていました。
それでも、それなのに、野球が大好きだという思いを抑えきれませんでした。
プロで全身全霊を打ち込んで、それでもダメなら野球をやめることができる。それしか、この思いを断ち切ることはできない。
掛布は、野球に対する思いを〝介錯〟してもらいたかったのです。
その〝死に場所〟として、最もレベルの高いプロは格好の舞台でした。
当たって砕けるのにこれ以上の舞台はありません。ここで介錯してもらえたなら、もう何の未練も残さず、ひとカケラの未練も残さず、「野球をやめる」という目的を完遂することができるのですから。
もちろん、大好きな野球です。
むざむざ砕けるつもりなど、さらさらありませんでした。最後の瞬間まで、全身全霊で野球に打ち込み、思い切り悪あがきをしてやるつもりでした。
伝説とは〝素晴らしき虚構〟のモザイクです。
掛布が入団時に与えられた背番号は「31」。「長嶋(3)と王(1)を足したような偉大な選手になって欲しい」という想いが込められたーーーなんていう都市伝説は事実ではありません。
コネでドラフト6位に潜り込んだ無名の高校生にそんな大それた夢が託されるわけもなく、退団した外国人ウィリー・カークランドが付けていた背番号を回されたというのが事実でした。
二軍から這い上がる。そう決意していましたが野球の女神は掛布の一途な思いに惚れ込んでしまったようです。
「速い球を投げる、ホームランを打つ、足が速い、というのは持って生まれた素質。でも、守備は練習で上達する」。そんなことが今以上に信じられていた時代です。
身長170㎝に満たない全く無名の高校生の使い道があるとしたら、内野の守備固めです。
キャンプから厳しい守備練習に明け暮れてフィールディングに磨きをかけた掛布は、一軍選手の故障や出遅れなどから、掛布は三塁と遊撃でオープン戦出場の機会を得ます。
高卒1年目の三塁と遊撃。村上宗隆や根尾昂を見るまでもなく、プロの壁がどれほど高いかを知るのに、これほど格好のポジションはありません。
実際に、開幕段階で掛布の守備は「猛練習で捕球とスローイングは安定していたけど、守備範囲は狭くプロの水準には達していなかった」と見られていました。つまり、守備固めでは使えないレベルだったのです。
それなのに、一軍に帯同してオープン戦に出場、見事に開幕一軍を勝ち獲るのです。
コネ入団で掛布を推した安藤統男がこの年から一軍内野守備コーチに就き「あいつの守備には華がある」と周囲に宣伝したことも影響したのかもしれません。
非常に興味深いことが二つあります。
一つは、掛布の父親と仲が良かった安藤の言葉に、金田正泰監督やコーチ陣も異論を唱えていないということ。掛布の守備を見た誰もが「一軍レベルではないが、華がある」と感じてしまうのでした。
そして、二つ目は無名の高卒ルーキーには全く期待していなかった打撃で、オープン戦ながら18打数8安打と傑出した数字を残していたことでした。
シーズン開幕後も掛布に期待されていたのは守備。
試合前の練習、特に練習時間が短いビジター、掛布は打席に立つことがほとんど許されず、1時間ひたすらノックを受け続けました。
練習が終わったとき、ユニフォームは泥だらけ。「取り立てて上手くない高卒ルーキーを一軍に帯同させて試合前にノックの嵐を降らせる…タイガースは何を考えているんだ?」。
相手チームからも送られる奇異な視線は、シーズンが進むにつれて徐々に変わっていきます。「あの31番の守備、上手くはないけどよく見ると変な空気がある」「いや、すごいスピードで上達してる」。
掛布のライバルはドラフト1位指名された中央大学の佐野仙好。野球への思いをプロで介錯してもらいたい、その強烈な思いに「佐野に負けたくない」というライバル心も点火されました。
ルーキーイヤーの掛布は、出場83試合で打率2割3厘、3本塁打16打点。そして、期待された三塁守備は華があるだけでなく、プロでも十分なレベルに到達していました。
そして、2年目のシーズン。新監督に就任した吉田義男は「守備から固める」と方針を打ち出し「守備はじっくり見ないとわからない」と語りながらも、掛布については「技術的にはまだまだやけど、なにか面白いですな、あの子」と、変な空気、つまりオーラを感じ取っていました。
それは、ファンも同じ。1年前は名前も知らなかった高卒ルーキーの守備に酔い、そしてプロの専門家が見抜けなかった打撃にまでオーラを感じ取っていたのです。
打席に入る雰囲気、一つひとつの所作、それはオーラと表現するだけでは何かが足りませんでした。
妙な色気があったのです。
誰がどう見ても美男子の類ではない掛布が若い女性の嬌声を集める「なにわの七不思議」は、実際に掛布の打席を1度見れば誰でも理解できたはずです。
当時の主砲、田淵幸一のようにドラ1で最初から期待通りの輝きを放ったわけではありませんでしたが、掛布はプロ入り前こそ全く無名だったものの、やはり最初から輝きを放っていたのです。
2年目は出場106試合、2割4分6厘、11本塁打29打点。1年目を上回り、佐野とのポジション争いにも勝ち、球宴後「サード掛布」は不動のレギュラーになりました。
この頃、阪神タイガースは今のようなレベルの人気球団ではありませんでした。プロ野球といえば読売という時代です。
「大阪では読売ファンは肩身が狭い」というのは大嘘で、タイガースと読売は半々と言い切って良い、読売は阪急や南海よりもはるかに人気がありました。
ジャイアンツのパジャマを着て寝ていた清原和博は決してレアな子供ではなかったのです。
そして、1985年に完成する、今に続くタイガース人気は単体では成立しない、つまり読売ジャイアンツのカウンターカルチャーとしてのムーブメントでした。
札幌や仙台、名古屋、広島、博多…日本のどの大都市も東京に迎合する中で、牙を剥き出しにする大阪の気質は特別な存在です。
ジャイアンツに直接牙を剥くことができる、唯一の関西球団が特殊な人気を醸成させてゆくのは自然の成り行きでした。
大阪人が東京に向ける憧憬や嫉妬や憎悪を、差し障りのない形で思い切り表現できる、そのお神輿が阪神タイガースなのです。
そして、その対立構造はチームとしてだけでなく、「村山実vs長嶋茂雄」「江夏豊vs王貞治」「田淵幸一vs堀内恒夫」という個の戦いでも受け継がれてきました。
国民的英雄だったON、特に長嶋は熱狂的なトラキチ、アンチ読売でも好きなファンは多く、堀内のインパクトも強烈とは言い難いものでした。
そして、ジャイアンツの憎たらしい超エリートを、タイガースの這い上がりの4番が打ち崩す。そんな絵に描いたような東西対決が、これ以上ない形で実現します。
掛布と同じ1955年5月生まれの江川卓は、動画や記録が正確に残る時代になってからの近代野球において、最も伝説にあふれた投手でしょう。
「高校時代が一番速かった」「明らかにボールが打者の手元でホップする」「中腰に構える(打席からもその雰囲気は察知できる)捕手の高めのボール球をプロの打者が振る」…。
あらゆるスポーツで初めて「怪物」と呼ばれたのが江川でした。
松坂大輔は「平成の」、佐々木朗希は「令和の」の枕詞を付けなければなりませんから、江川は〝怪物の永久欠番〟と言えるでしょう。
「江川なんて、そりゃ誰でも知ってましたよ。高校野球の関係者だけじゃない、日本中の誰もが知ってましたよ。高校野球の関係者でも知らなかった僕とは全く違う、同い年だけど雲の上の人」と掛布は笑いますが、江川もまた高校時代から掛布を知っていました。
千葉の習志野と栃木の作新学院、関東の強豪校は練習試合で交流がありました。江川は打者・掛布を「雰囲気がある」と意識していましたが、江川が投げる前に死球を受けて掛布が交代するなど、対戦の縁がありませんでした。
初対決はプロになってから、1979年7月7日、後楽園球場。
両者の立場は、高校時代から考えられないほど逆転していました。
江川は日本スポーツ史上最悪のヒールに貶められてのルーキーイヤー、6年目の掛布は前年に3割1分8厘、32本塁打、102打点と阪神の主砲ではなく球界を代表するスラッガーに成長していたのです。
前年のオールスターゲームで3打席連続ホームランを放った掛布に、江川は「あの掛布が」という思いと「やっぱり」という思いで見ていました。
初対決は、二人にとって悔いの残る苦いものになります。
掛布が初球のカーブを振り抜くと、ライトスタンドに突き刺さるホームラン。
のちに江川は「タイムスリップできるなら、捕手のサインに首を振ってストレートを投げたい」と、後悔を語っています。
「どうしてあんなカーブを投げてしまったのだろう」。
一方で、ホームランを放った掛布もまた「高校時代に江川のストレートを見ていたらトラウマになっていたかもしれない」と思っていたほどのストレートを待たなかったことに後悔していました。
「どうしてあんなカーブを打ってしまったんだろう」。
そして、江川が「わかっていても絶対に打たれない」と絶対の自信を持っていたインハイのストレートだけを、掛布は狙い続けるようになります。
掛布は「アイコンタクトでここでインハイ行くからな、とはっきり伝えてくる」と、江川との勝負を振り返っています。
打者が待ち構えているボールをアイコンタクトで教えて投げ込む。どう考えても投手不利で、それ以前にチームの勝利を優先しない、スポーツの原理原則を無視したエゴ丸出しの行為です。
勝利だけを希求する大谷翔平ら、現代のアスリートには想像できないかもしれません。
しかし、掛布vs江川がストレートにだけこだわる〝勝負〟ではなく、勝利優先のゲームであったなら、ファンはあそこまで熱狂したでしょうか?
ファンを楽しませることがプロスポーツで最優先すべき原理原則だとしたら…。
掛布と江川はやはり最高級のプロフェッショナルだったのです。