【月刊陸上競技】日本陸連・福岡県・福岡陸協は3月14日、昨年大会で廃止となった福岡国際マラソンの後継大会「福岡国際マラソン2022」(仮称)を12月4日に開催すると発表した。
衝撃の幕引きから一転、歴史と伝統あるマラソンが継承されることとなった。
福岡国際マラソンは「日本マラソンの父」金栗四三の功績を称え、1947年に前身である「金栗賞朝日マラソン」として熊本で産声を上げた。
その後、開催地を幾度か変更され、1951年に初めて福岡で開催。その後も全国各地で開催されながら、1974年(28回大会)から「福岡国際マラソン」としてコースを変えながら続けられてきた。
その後、開催地を幾度か変更され、1951年に初めて福岡で開催。その後も全国各地で開催されながら、1974年(28回大会)から「福岡国際マラソン」としてコースを変えながら続けられてきた。
世界トップランナーが多く出場し、1970~80年代は「世界一決定戦」の様相を呈すほど盛り上がりを見せてきた。世界陸連の世界遺産とも言える「ヘリテージプラーク」にも選出されている。
ところが、昨年3月に経済面や注目度低下を理由に「継続は困難」と、第75回大会(昨年12月5日開催)を持って幕が下ろされることが決定。惜しむ声が多数聞こえた。
ところが、昨年3月に経済面や注目度低下を理由に「継続は困難」と、第75回大会(昨年12月5日開催)を持って幕が下ろされることが決定。惜しむ声が多数聞こえた。
そうした中で、上記三団体は大会の継続に向けた検討を進め、「大会の価値と歴史を残す方策を模索した結果、新たな運営体制を構築し、九州朝日放送株式会社に放送の主体として加わっていただく形で、後継大会を開催できる運びとなりました」と発表に至った。
日本陸連の尾縣貢会長は「歴史と伝統を引き継ぎながら新たな形で開催できることになり、大変うれしく思います」とコメント。
福岡県の服部誠太郎知事は「福岡の冬の風物詩とまで言われ、定着しているこの大会を開催することで、コロナ禍における閉塞感を吹き飛ばし、県民の皆さんやマラソンファンの方々に元気を届けることが、『スポーツ立県福岡』を目指す本県の役割」とし、「本大会を通じて、これからも世界に羽ばたく陸上競技のトップアスリートがたくさん育っていくことを期待しています」とコメントしている。
福岡県の服部誠太郎知事は「福岡の冬の風物詩とまで言われ、定着しているこの大会を開催することで、コロナ禍における閉塞感を吹き飛ばし、県民の皆さんやマラソンファンの方々に元気を届けることが、『スポーツ立県福岡』を目指す本県の役割」とし、「本大会を通じて、これからも世界に羽ばたく陸上競技のトップアスリートがたくさん育っていくことを期待しています」とコメントしている。
開催は2022年12月4日で、コースはこれまでを踏襲。まずはエリートレベルのランナー約100名を予定している。日本陸連ジャパンマラソンチャンピオンシップ(JMC)シリーズのグレード1として加盟申請するとし、国際大会の代表選考会やパリ五輪MGC出場権獲得対象大会などになる見込み。
三団体は連名で「まずは男子のエリートマラソンとしてこれまでと同等の大会の開催を目指しますが、今後も継続して大会と日本マラソン界のさらなる発展にも努めてまいります」と結んでいる。
▶︎▶︎▶︎1984年ロスアンゼルス五輪まで、男子マラソンは間違いなくメジャー競技でした。
中学校の教室で「昨日の福岡国際マラソンは凄かったな」なんて会話が普通に交わされ、先生も授業の前に「昨日の瀬古を見たか?」と聞いてくる、そんな時代でした。
私はバカだから、メジャーで格好いいからと思い込んで野球部を選んでいました。
体育の持久走ではクラスで1番になったとき、団体競技の野球とは全く違う恍惚を感じました。1500mを5分以上かかって、自分がずっとやってきた野球と種目は違えどレベルが低すぎるのはわかりました。
それでも「俺だけが一番」という快感は、野球にはないものでした。
瀬古利彦は最高にカッコよかった。瀬古は、私のアイドルでした。
福岡国際は、ボクシングでいえばニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン、ラスベガスのシーザース・パレス…いや、それ以上だったかもしれません。
私の頃は2時間27分を切らなければ出場できない国内最高の舞台。
大学時代の思い出に、最後に福岡を走りたかったのですが、マラソンは甘くない。
2時間27分斬りを目指して河口湖マラソンを走りましたが、20㎞過ぎまでは「楽勝やん」なペースでしたが、30㎞手前からは地獄。最後はキロ5分以上かかる七転八倒状態。東京国際の標準記録2時間30分を数秒切ってゴール。
今でも「福岡国際を走りたかった」という思いは未練がましく残っています。
そんな憧れの大会が無くなってしまうというニュースは、悲し過ぎました。いつか復活してほしいと願ってましたが、こんなに早くとは。ご尽力された方々には感謝と尊敬しかありません。
さて、と。
おおよそ35年ぶりにチャレンジ(リベンジ)したろか!
▶︎▶︎▶︎1984年ロスアンゼルス五輪まで、男子マラソンは間違いなくメジャー競技でした。
中学校の教室で「昨日の福岡国際マラソンは凄かったな」なんて会話が普通に交わされ、先生も授業の前に「昨日の瀬古を見たか?」と聞いてくる、そんな時代でした。
私はバカだから、メジャーで格好いいからと思い込んで野球部を選んでいました。
体育の持久走ではクラスで1番になったとき、団体競技の野球とは全く違う恍惚を感じました。1500mを5分以上かかって、自分がずっとやってきた野球と種目は違えどレベルが低すぎるのはわかりました。
それでも「俺だけが一番」という快感は、野球にはないものでした。
瀬古利彦は最高にカッコよかった。瀬古は、私のアイドルでした。
福岡国際は、ボクシングでいえばニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン、ラスベガスのシーザース・パレス…いや、それ以上だったかもしれません。
私の頃は2時間27分を切らなければ出場できない国内最高の舞台。
大学時代の思い出に、最後に福岡を走りたかったのですが、マラソンは甘くない。
2時間27分斬りを目指して河口湖マラソンを走りましたが、20㎞過ぎまでは「楽勝やん」なペースでしたが、30㎞手前からは地獄。最後はキロ5分以上かかる七転八倒状態。東京国際の標準記録2時間30分を数秒切ってゴール。
今でも「福岡国際を走りたかった」という思いは未練がましく残っています。
そんな憧れの大会が無くなってしまうというニュースは、悲し過ぎました。いつか復活してほしいと願ってましたが、こんなに早くとは。ご尽力された方々には感謝と尊敬しかありません。
さて、と。
おおよそ35年ぶりにチャレンジ(リベンジ)したろか!