スポーツの根源は「公平性」です。
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もちろん、あらゆるスポーツの世界にも政治や経済は巨大な影響力をもって食い込んでいます。

プロボクシングにおいては、世界タイトルマッチと銘打っているにもかかわらず、村田諒太や井上尚弥、井岡一翔は、この極東の島国から一歩も出ずに、なぜか世界王者が呼びつけられます。本来なら、王者のターフに乗り込むのが常道なはずですが。

一方で、木村翔や村中優らは、本来なら井上らが戦うべきビッグネームのホームリングに、咬ませ犬として引きずり上げられています。

全ては、スポーツの世界にはあってはならない政治や経済の力学が作用した結果です。

政治や経済、世俗のしがらみから超越して、全身全霊を賭けて磨き抜いた純粋な才能だけで 勝負を決する、…それが、理想のスポーツです。

しかし、そんな理想の純情が、学生スポーツですらありえないという減滅の事実を、わが国のスポーツファンは突きつけられたばかりです。

私は匿名の卑怯者なので、しかも大体が、酔っ払って書いてしまうので、きっと正常な方の感情を逆なでする表現も多々あると思います。 

こんな便所の落書きに、ご意見を求めるなんて、とんでもない無礼だとはわかっていますが、これから書きつらねる、私見偏見独断に「それは違う!」と訂正していただければ、本当にありがたいです。



今夜はスポーツの根本である「公平性」について、です。
 
この根源・根本を意図的に揺るがすドーピングや、あからさまなラフプレーが厳しく糾弾されるのは当然です。

ファンの間でもカオサイ・ギャラクシーの肘や、アンドレ・ウォードのローブローを〝高度な裏ワザ〟と評価する傾向まであります。サッカーの「マラドーナの神の手」も完全に武勇伝です。

ボクシングの話にフォーカスします。 

特に相手の急所を意図的に攻撃するボクシングにおいては、本来なら最もこの公平性に厳格であるべきなのですが、現実にはドーピングは野放し、ビデオ検証が必要なはずの肘打ちやローブローについてもレフリーの〝初見〟が覆ることはまずありません。

そして、ボクシングなどにおける階級制は、まさに公平性を追求したシステムです。あらゆる格闘技は、無差別級オンリーで出発しました。

そして、小さな名人が大きな凡人に駆逐される理不尽を解消するために、軽量級(ライト)が誕生し、さらに中間級(ミドル)が設けられました。

その原始3階級は、オリジナル8階級に分化し、現在では17階級までに増殖しています。

プロボクシングにおける不公平は「前日計量からのリバウンド」と、「スター選手へのあからさまな優遇」の2点に集約されます。

この二つの不公平は、「ルールの不備(盲点)」と 「貧富の差」と言い換えることが出来ます。

ここからは、私見偏見独断です。

「リバウンド特性(速やかな消化・栄養吸収能力)」の不公平はルールの不備が原因であり、解消する方向で取り組むべきです。

「消化・栄養吸収能力はアスリートの重要な実力の一つ」であるのは否定しません、その通りです。

高橋尚子が、1日1万キロカロリーを超える常人離れした練習量をこなせたのは、それだけのエネルギーを食べることができた胃袋をなくして語れません。しかし、高橋尚子のそれはルールを利用したものではありません。彼女の胃袋は、ルールで縛ることなど出来ません。

しかし、現在のボクシングにおけるリバウンド特性は、明らかにルールの不備・盲点を突いてアドバンテージを獲得できる種類のものです。

完全無欠のルールなどありえませんから、そのルールに適応したアスリートが優れたアスリートであるのは間違いありませんが、そのルールを修正することで不公平が改善できるのであれば、そうするべきです。

ルール改正によって解消できる不公平は、断じてなくすべきです。そのルールが間違っているのですから。ボクシングの「前日計量一発」 は明らかに欠陥ルールです。
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では、「スター選手への優遇」「貧富の差」から生じる不平等についてはどうでしょうか? 

東大生のほとんどは富裕層の家庭から出ています。スラム出身でグランドスラムを制したテニスプレイヤーは存在しません。幼少期にプールに通う余裕のない家庭から金メダリストのスイマーは生まれません。

先日の私のブログでもご指摘いただいた「費用のかかる高地トレーニングなどで養成された強力な血液はWADAも見逃さざるをえない〝富める者のドーピング〟である」という意見は、世界中で多く語られていますが、はたしてそうでしょうか?

20歳の頃から人気者のカネロ・アルバレスは、トレーニングや疲労回復の機器で数億円の設備を持っています。

テニスのトッププレイヤーの多くは、テニスコートを持つ裕福な家庭に育っています。

テニスや五輪競技はまだマシかもしれません。少なくとも、実際の勝負の舞台では平等ですから。

プロボクシングの場合は、勝負の舞台は富裕国のリングです。そして当たり前ですが富裕国のボクサーに有利な判定が下されることが珍しくありません。

ルール改正で解消できる不公平は根絶すべきです。しかし貧富の差から生じる不公平は、どうすべきなのでしょうか?

以下極論です。

超極貧で少年期に十分なトレーニングも栄養摂取もできなかったマニー・パッキャオには、何かしらの優遇措置が必要なのでしょうか。

政治的な不利益を被る可能性が想定されるゲンナディ・ゴロフキンには、カネロ戦ではあらかじめ3ポイントを付加するようなボーナスを与えるのが正しいのでしょうか?



貧富の差から生じる不公平は解決できません。 そして、ボクシングファンの多くは残酷なことに、それを受け入れているはずです。

ただ、このスポーツには救いがあります。

サッカーや水泳やテニスや、多くのスポーツは上質の、つまり上品な技術が売り物です。

ボクシングも同じですが、このスポーツのファンはそれだけでは満足しません。上品な技術よりも、もっと高潔なスポーツの本質を求めているのです。