「米国永住権をかけて戦い続けるレイムンド・ベルトラン」「ウラジミール・クリチコがアンソニー・ジョシュアを向こうに回して最後の挑戦」「親を喪ってすぐに試合に臨んだルーク・キャンベルとリー・セルビー」「大地震の被害者救援のために母国メキシコを慰問するカネロ・アルバレス」…

数多の候補を抑えて、リング誌の「2017 MOST INSPIRATIONAL 賞 (最も感動的なボクサー)」に輝いたのは、シーサケット・ソールンビサイでした。
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リング誌4月号「THE89thANNUAL RING AWARDS」特集


シーサケットは、バンコクの貧困エリアでゴミ収集の仕事をしながら糊口を凌いでいました。

最高に幸せな時間は、生ゴミの中に見つけた牛肉や鮭の小さな小さな断片を火を通して貪り食う夜でした。まともにコメを口に出来ることなど、夢の中に出てくるだけの、そんな生活でした。

一緒にバンコクに出てきた婚約者のケイは、押し潰されそうな生活に疲れ果てて、何度もシーサケットの元を去りましたが、何度もよりを戻します。

〝I told her that one day I would make it and one day my hard work pay off and I would become someone…〟

いつか、君を幸せにしてみせるから。いつかこの努力がきっと報われる日が来るから。いつか必ず何かを成し遂げてみせるから…。


「仕方がなかった。私はケイに何もしてあげられなかったんだから。私には、カネも食べ物も何一つとしてなかったんだ。それでも愛し合っていた。毎日食べ物の心配をしながら生きていた、そればかり考えていた。一生懸命働いたけど、暮らしは全く良くならない、それでもいつか必ず報われると信じて頑張ってきた」。

シーサケットがどん底の時代を振り返るとき、敬虔な仏教国の国民らしく、静かに微笑みながら話します。シーサケットとケイには何の責任も無いことなのに、貧困を恥ずかしいことのように語る表情を見るとき、その声を聞くとき、私たちは自分の方が恥ずかしくなります。

シーサケットはムエタイの選手でしたが、バンコクでは無名の田舎者に試合のチャンスは与えられません。日本のエリートボクサーから咬ませ犬の声がかかったら、やったこともない国際式ボクシングのリングでも喜んで上がりました。

ボコボコに殴られ、内出血した両目と、腫れ上がった顔面で帰国するシーサケットを、ケイは空港ロビーで迎えると試合結果も聞かずに抱きしめました。いつも、二人は空港で抱き合いながら互いに謝りました。

「ごめん、また負けちゃったよ」

「私こそ、ごめんなさい、生活のためにあなたにこんなことをさせて」

空港ロビーでみすぼらしい服装のやせ細った若い男女が、男は傷だらけの顔面を腫れ上がらせて、女は泣きじゃくって抱き合う光景は、行き交う裕福な人々から奇異の視線や、ときには嘲笑も浴びました。

日本で殴り倒されると数百ドルが手に入りましたが、日々の生活や積み重なった借金の返済に消えてしまいました。

2009年3月17日、八重樫東の咬ませ犬としてプロデビュー、その後も二人の日本人の踏み台にされ、プロ5戦目までの星勘定は1勝3敗1分。

そんなシーサケットが、8年後もボクサーを続けているだけでも奇跡なのに、どんな日本のエリートボクサーも触ることもできないほどの栄光を掴み取ってしまうなんて。

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2017年3月18日、ちょうど8年前の八重樫戦と全く同じでした。エリートボクサーの咬ませ犬扱いで急に外国のリングから声がかかりました。準備期間は2ヶ月、十分なコンディションは作れませんでした。

そして、やはりあのときと同じように空港に帰って来て、あのときと同じようにケイが迎えに来ているはずでしたが…その姿はどこにも見つかりません。

シーサケットはケイが乗せられた巨大なリムジンに迎えられ、タイ王宮でプラユット・チャンオチャ首相からその偉業を賞賛されるのですが、8年前にはそんなことなど世界一の仏教国でも〝仏様でもご存知あるまい〟でした。

あの8年前と違ったことは、5つもありました。

一つ目は、日本ではなくマジソン・スクエア・ガーデンで戦って、ニューヨークからの帰国便であったということ。

二つ目は、空港で浴びたのは奇異の視線でも嘲笑でもなく、母国に誕生した英雄の姿を一目拝もうと集まった大観衆の尊敬と絶賛だったということ。

三つ目は、ケイは到着ロビーではなく空港に横付けされた国賓用リムジンの革張りシートにドレスを着て待っていたということ。

四つ目は、バンコクのダウンタウンまで二人で手をつないで帰ることが出来ずに、タイ国軍に護衛されながら全ての信号が青になった幹線道路を通って王宮まで行かなければならなかったこと。

そして、五つ目は…とんでもない相手に勝った凱旋帰国だったということ。


「タイの誇りを世界に示すことができました」と報告するシーサケットに、チャンオチャ首相は「引退後の彼には然るべきポストを与え、家族の生活を最高レベルで保証する」と約束しました。 

ゴミを漁って食べ物を探していた若者が命の限り努力して、国民的ヒーローの座に駆け上がったのです。

「ゴミを漁って食べ物が見つかったら大喜びしていた。仕事にありつけたらそれだけで嬉しかった。全部ついこの間のことのようです。実際に、そんな昔の話じゃないです。貧しい生活は苦しかったけど、謙虚で、足るを知る、不要な贅沢をしない生き方が身につきます。そして、いつも本物の希望の光が見えているのです」。

「ボクシングが大好きで、このスポーツに全てを捧げてきましたが、グレートの仲間入りをしようだなんて思ってもいませんでした。大好きなボクシングを続けられたらいいなって、それだけ思って頑張って来たら、大きなチャンスが訪れたんです」。

そして、9月の再戦で決定的な内容でローマン・ゴンザレスを返り討ちにしたシーサケットは、空港でタイ国王の出迎えを受けました。かの国で、これ以上の名誉はありえません。

今回、ケイは空港で出迎えます。シーサケットは、夢に向かって走り続けたパートナーの前にひざまづきます。空港に居合わせた人々は、英雄のプロポーズを眼の前で見ることが出来た興奮と幸運に、祝福の声を二人に送ります。

空港でケイが大泣きするのは、この二人のルーティンです。

「あなたを空港で迎えるのは何度目でしょう?そのたびにあなたの顔から傷が消えて綺麗になっていく。本当にボクシングをして来たの?」。

「傷だらけでも、傷ひとつなくても、やっぱり泣いちゃうんだね。君を泣かせないようにするには、どんな顔で帰って来たらいいのか教えておくれ」。

ボクシングのリングは修羅の場所です。シーサケットの行く手には、さらなる強敵と、さらなる報酬が用意されるでしょう。それがアメリカと日本のリングの決定的な違いです。

ハッピーエンドはアメリカのリングには、まずありえません。ボクサーの夢も野望も食い物にするのがアメリカのリングです。

それでも、シーサケットはついに夢を掴みとりました。

これから、いくつの壁を乗り越えられるかは誰にもわかりません。そう、仏様でもご存知あるまい、なのです。