「記録は破られるためにある」。その通りです。

打ち立てられた新記録は、次の記録を生み出す強烈な動機付けとなり、理想的な素晴らしい新陳代謝が繰り返されます。

その一方で、アンタッチャブル、長い間書き換えられることのない、他の追随を許さない記録も確かに存在します。アンタッチャブルの記録には、大きく分けて①実際に文句無しの偉大な記録、②特異な環境・事情で生み出された記録、③競技レベルの低迷・低下によって更新されずに残る記録、の3種類があります。

「①実際に文句無しの偉大な記録」というのは現実にはほとんどありません。2009年ベルリン世界陸上でウサイン・ボルトが叩き出した100m9秒58は、そんな稀有な例の一つです。

女子100mの世界記録は1988年に10秒49で走り抜けたフローレンス・ジョイナーで、こちらも歴代2位以下に圧倒的な差をつけて30年以上も破られていないアンタッチャブルですが、この記録は「②特異な環境・事情で生み出された記録」で語るべきかもしれません。

そして「②得意な環境・事情で生み出された記録」にはいろいろなケースが考えられますが、①とは全く性格が違うものです。1968年メキシコ五輪の走り幅跳びで金メダルに輝いたボブ・ビーモンが跳んだ8m90㎝は、当時の世界記録を何と55㎝も更新、今なお世界歴代2位にランクされていますが「文句無しの偉大な記録」とは認められていません。公認限界の2mの追い風に乗ったこと、そして何より標高2400mと空気の薄い抵抗の低いピッチを走り跳んだからです。

1988年ソウル五輪でベン・ジョンソンが記録した9秒79は驚異的なタイムと、ライバルのカール・ルイスをまったく寄せ付けなかったことで世界に大きな衝撃を与えましたがドーピングで失格。ジョンソンの記録は抹消されましたが、検査をすり抜けて今も公認されている「悪魔の世界記録」があるかもしれないという疑惑の霧は晴れていません。旧東ドイツ選手や、中国の馬軍団の記録はドーピングによるものと多くの人が考えていますが、今から血液検査を行うわけにもいきません。

悪魔の記録もまた、特異な環境・事情から生み出された忌まわしい数字です。

そして3つ目が「競技レベルの低迷・低下によって更新されずに残る記録」です。プロスポーツはもちろん、アマチュアスポーツでも商業化が一気に進み、人気スポーツとそうでないスポーツの格差は大きく広がっています。前述のビーモンの8m90は、1991年東京世界陸上でマイク・パウエルによって更新されましたが、その後四半世紀以上も更新されていません。パウエルの記録は平地で出した大記録ですが、偉大な記録だからアンタッチャブルとは言い切れないでしょう。ソ連崩壊で社会主義国が総崩れになったことでも、スポーツにおける商業主義は加速、陸上競技という枠組の中でも人気のある100mなどトラック種目と、人気の無いフィールド種目の差は広がり、競技レベルの低迷を招いてしまっています。

【伊東浩司が1998年に10秒00で走り9秒台のドアノブに手をかけましたが、その扉は20年が経とうとする現在も開くことが出来ていません。「最強ランナーの法則」より】

さて、本題です。

日本では陸上競技はメジャースポーツとは言い切れませんが、100mやマラソンに限れば、野球やサッカーと比較しなければ十分注目されたスポーツです。

ところが、この恵まれた環境にあるはずの男子100mとマラソンで、15年以上も日本記録が更新されていないのです。