日本のプロボクシングは野球と同じく米国を目指して、そこに追いつけ追い越せと坂道を登ってきました。しかし、そこにはいくつもの影が折り重なってきました。

米国で注目されるヘビー級チャンピオンは1人も生み出すことができず、注目が集まる人気階級でタイトルを獲得したのも、カネロ・アルバレスやゲンナジー・ゴロフキンらが割拠していたミドル級で村田諒太がWBAストラップを獲得しただけ。

発育の悪い発展途上国の選手がほとんどという恩恵も受けて、選手層や競技レベルが低く、専業ボクサーも少ない軽量級では大きな成果を収め続けていますが、そこは関心が低い欧米の死角です。



そして、米国に追いつけ追い越せの影には人気階級で成果を残せないというだけでなく、敗戦国ならではの悲哀もにじんでいます。



ーーー在日米軍兵士の父と日本人の母の間に生まれ、プロボクサーになった男たち。駐留期間を終えると、母親に連絡先も告げずに帰国する兵士たち…。

1961年1月生まれのこの男も、父親を知りません。父親は彼が生まれる2ヶ月前に帰国、行方知らず。米国黒人と日本人のハーフといっても、見た目は完全に黒人。剃り上げたスキンヘッドに口髭、その出立ちは同時代に米国で大活躍していたマービン・ハグラーとそっくり。母親に育てられたというのもハグラーと同じ。

ただ…ハグラーと似ていたのは、見た目と家庭環境だけ。打たれ弱く、勝ったり負けたり、ファイターとしては似ても似つきませんでした。

大和田正春は、1979年7月のデビューから2連敗。

咬ませ犬扱いで完全敵地の大阪のリングに引っ張り上げられた赤井英和との伝説の一戦でシンデレラ・マンになったのも束の間、次の試合から2試合連続KO負け。

ジュニアライト級でデビューした肉体は5階級上のミドル級になっていましたが、グラスジョーはますます深刻なものになっていました。

ところが、日本ミドル級王者の無限川坂とのノンタイトル戦でまさかの番狂せ。連敗を止めて戦績を10勝9KO10敗1分の五分に戻し、再戦は7年間のキャリア初のタイトルマッチとなりました。

「あした」が、ちょうど30年前となる1986年8月11日、後楽園ホール。

グラスジョーを自覚している大和田は初戦でKO勝ちしているにもかかわらず、アウトボクシングで慎重にポイントをピックアップ、ユナニマスデジションで念願のチャンピオンベルトを腰に巻きました。



このタイトルを全てKOで4度防衛すると「ニューヨークで世界タイトルマッチを戦って父親と会いたい」という夢を賭けて、1987年9月6日にOPBF王者ポーリー・パシレロンに挑戦。

結果は、早すぎるストップとはいえ7ラウンドTKO負け。

もし、大和田が当時売り出し中の大和武士のような日本人なら、パシレロンのホームであるインドネシアまで遠征することはなかったかもしれません。あるいはミドル級ではなく、軽量級なら世界挑戦のチャンスに恵まれたかもしれません。

ハグラーへの挑戦という壮大な夢、そのはるか手前で挫折した大和田はまだ26歳の若さでしたが、これで引退と多くのファンが考えましたが…。

1987年12月14日、彼はまたしても脇役のポジションを受け入れて、日本タイトルを賭けて大和武士を挑戦者に迎えます。

結果は、大和田の第5ラウンドKO勝ち。

https://fushiananome.blog.jp/archives/22291849.html


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大和田正春、赤井英和、大和武士。この三人が出演した「どついたるねん」(阪本順治)が公開されたのは「大和田vs大和」から、わずか1年あまりあとのこと。

なんというスピード、なんという生々しさでしょうか。

今見返しても、そんな鮮度がビシビシ伝わってくるのもあの作品の魅力でしょう。