11月14日に予定されていた平岡アンディの世界挑戦が、卑劣なガーボンタ・デービスの愚かな犯罪行為によって消滅してしまいました。
デービスへの怒りもありますが、それ以上に人気階級のタイトルマッチですら、スポーツとしてのボクシングを愚弄するジェイク・ポールとデービスの茶番劇のアンダーカードにすぎないこと、茶番劇のキャンセルで吹っ飛んでしまうほどの軽さであることに、米国ボクシングへのやりきれない幻滅を抑えることが出来ません。
さて。
今を遡ること33年の1992年6月23日、国技館。
ユーリ・アルバチャコフが挑戦したWBCフライ級王者ムアンチャイ・キティカセムは、特別なファイターでした。
日本で「伝統のフライ級」と呼ばれるように、日本で好き勝手できる軽量級の中でも112ポンドは日本人に馴染み深いクラスでした。
馴染み深い…言い換えると、フライ級は全く特別ではないクラスなのです。
それなのに、ムアンチャイが何故、特別なのか?
簡単な話です。
強かったからです。
日本のホープやエース級の選手の視界に、ムアンチャイは決して入ることはありませんでした。
今でも、あの井上尚弥ですら、最初のタイトルはドニー・ニエテスを回避、階級最弱評価のアドリアン・エルナンデスを選んだように、期待の日本人選手が明らかに強いファイターに挑むことは稀有です。
今から33年前、そんなムアンチャイに敢然と立ち向かったのがユーリでした。
いや、その言い方は正しくありません。王者でありながらムアンチャイがユーリに挑む、そんな構図だったのです。
軽量級離れした強烈な右を打ち下ろすユーリと、好戦的なムアンチャイの激突。
スペクタクルな試合になることが約束された、ボクシングファンが涎を垂れ流す試合でした。
そして、期待通りのバトルが繰り広げられたのです。
しかし、伝統のフライで傑出したファイターが聖地・後楽園ホールで戦うというのに、あの興行のメインイベントのリングに上がったのはミッキー・ロークという俳優でした。
1995年4月1日、ネバダ州バッファロービルズ・スターアリーナ。
あの頃、リカルド・ロペスはすでにリカルド・ロペス、つまり完璧なボクシングを体現するフィニートでした。
3年前の1992年、後楽園ホール。フィニートは最強の挑戦者を迎えていました。
台湾史上初の世帯王者を目指していた、林明佳です。
「リンはノーチャンスではない」と言われていましたが、つまりはそういことでした。誰もがノーチャンスと思っていたから、この試合はそう見られていたのです。
林は負けるだろうが、意地も見せるはずだ。そんなふうに思っていましたが、結末はストロー級ではあり得ないワンパンチKOでした。
林は日本のジム所属、ジムの名前を取ってロッキー・リンのリングネームでデビューから7戦目で日本ストロー級王者、そのまま14戦全勝の勢いに乗ってロペスに挑んだのでした。
興行を仕切った本田明彦は「ここまで強かったか」とため息をつき、あの試合を最後に、日本のジムも選手も誰1人としてロペスと戦うことはありませんでした。
フィニートはムアンチャイ以上に、特別なファイターでした。
日本のボクシングファンに「最も完成されたボクサーは誰か?」と聞けば、ロペスは間違いなくトップ3に挙げられるでしょう。
しかし、米国では信じられないほど酷い扱いでした。
軽量級を蔑ろにするお国柄というだけでなく、メキシカンが溺愛する打撃戦上等のスタイルからかけ離れたフィニートは日陰を歩き続けます。
話を1995年4月1日のネバダ州バッファロービルズ・スターアリーナに戻します。
あろうことが、ロペスは女子ボクサー(クリスティー・マーティン)の前座に押しやられてしまうのでした。
もちろん、マディソン・スクエア・ガーデンをフルハウスにするケイティ・テイラーやアマンダ・セラノら女子ボクサーのトップは、井上尚弥ら外国人の軽量級選手とは比較にならない人気があります。
あり得ませんが、もし井上陣営が「ラスベガスのTモバイル・アリーナの次はニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンだ!」とまた変なことをやってしまうと、さらに悲惨な興行事故を起こしてしまうでしょう。
マーティンはトロント国際映画祭で大きな話題を呼んだ伝記映画が米国で今週末に封切りされるように、ただの女子ボクサーではありませんでした。
彼女は、ミッキー・ロークと同列に語るべきではないでしょう。
それでも…。やはり、当時のやり切れなさは痛恨でした。
ロペスを挑発しながら対戦が実現しなかったウンベルト・ゴンザレスや、大橋秀行とも対戦交渉があったマイケル・カルバハルにしても、ゴンザレスと激突して、やっと100万ドル。
ボクシングマガジンの記事で彼らの報酬の低さに何度も愕然としたものです。
くたばれ、茶番劇。まだまだ続きます。
デービスへの怒りもありますが、それ以上に人気階級のタイトルマッチですら、スポーツとしてのボクシングを愚弄するジェイク・ポールとデービスの茶番劇のアンダーカードにすぎないこと、茶番劇のキャンセルで吹っ飛んでしまうほどの軽さであることに、米国ボクシングへのやりきれない幻滅を抑えることが出来ません。
さて。
今を遡ること33年の1992年6月23日、国技館。
ユーリ・アルバチャコフが挑戦したWBCフライ級王者ムアンチャイ・キティカセムは、特別なファイターでした。
日本で「伝統のフライ級」と呼ばれるように、日本で好き勝手できる軽量級の中でも112ポンドは日本人に馴染み深いクラスでした。
馴染み深い…言い換えると、フライ級は全く特別ではないクラスなのです。
それなのに、ムアンチャイが何故、特別なのか?
簡単な話です。
強かったからです。
日本のホープやエース級の選手の視界に、ムアンチャイは決して入ることはありませんでした。
今でも、あの井上尚弥ですら、最初のタイトルはドニー・ニエテスを回避、階級最弱評価のアドリアン・エルナンデスを選んだように、期待の日本人選手が明らかに強いファイターに挑むことは稀有です。
今から33年前、そんなムアンチャイに敢然と立ち向かったのがユーリでした。
いや、その言い方は正しくありません。王者でありながらムアンチャイがユーリに挑む、そんな構図だったのです。
軽量級離れした強烈な右を打ち下ろすユーリと、好戦的なムアンチャイの激突。
スペクタクルな試合になることが約束された、ボクシングファンが涎を垂れ流す試合でした。
そして、期待通りのバトルが繰り広げられたのです。
しかし、伝統のフライで傑出したファイターが聖地・後楽園ホールで戦うというのに、あの興行のメインイベントのリングに上がったのはミッキー・ロークという俳優でした。
1995年4月1日、ネバダ州バッファロービルズ・スターアリーナ。
あの頃、リカルド・ロペスはすでにリカルド・ロペス、つまり完璧なボクシングを体現するフィニートでした。
3年前の1992年、後楽園ホール。フィニートは最強の挑戦者を迎えていました。
台湾史上初の世帯王者を目指していた、林明佳です。
「リンはノーチャンスではない」と言われていましたが、つまりはそういことでした。誰もがノーチャンスと思っていたから、この試合はそう見られていたのです。
林は負けるだろうが、意地も見せるはずだ。そんなふうに思っていましたが、結末はストロー級ではあり得ないワンパンチKOでした。
林は日本のジム所属、ジムの名前を取ってロッキー・リンのリングネームでデビューから7戦目で日本ストロー級王者、そのまま14戦全勝の勢いに乗ってロペスに挑んだのでした。
興行を仕切った本田明彦は「ここまで強かったか」とため息をつき、あの試合を最後に、日本のジムも選手も誰1人としてロペスと戦うことはありませんでした。
フィニートはムアンチャイ以上に、特別なファイターでした。
日本のボクシングファンに「最も完成されたボクサーは誰か?」と聞けば、ロペスは間違いなくトップ3に挙げられるでしょう。
しかし、米国では信じられないほど酷い扱いでした。
軽量級を蔑ろにするお国柄というだけでなく、メキシカンが溺愛する打撃戦上等のスタイルからかけ離れたフィニートは日陰を歩き続けます。
話を1995年4月1日のネバダ州バッファロービルズ・スターアリーナに戻します。
あろうことが、ロペスは女子ボクサー(クリスティー・マーティン)の前座に押しやられてしまうのでした。
もちろん、マディソン・スクエア・ガーデンをフルハウスにするケイティ・テイラーやアマンダ・セラノら女子ボクサーのトップは、井上尚弥ら外国人の軽量級選手とは比較にならない人気があります。
あり得ませんが、もし井上陣営が「ラスベガスのTモバイル・アリーナの次はニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンだ!」とまた変なことをやってしまうと、さらに悲惨な興行事故を起こしてしまうでしょう。
マーティンはトロント国際映画祭で大きな話題を呼んだ伝記映画が米国で今週末に封切りされるように、ただの女子ボクサーではありませんでした。
彼女は、ミッキー・ロークと同列に語るべきではないでしょう。
それでも…。やはり、当時のやり切れなさは痛恨でした。
ロペスを挑発しながら対戦が実現しなかったウンベルト・ゴンザレスや、大橋秀行とも対戦交渉があったマイケル・カルバハルにしても、ゴンザレスと激突して、やっと100万ドル。
ボクシングマガジンの記事で彼らの報酬の低さに何度も愕然としたものです。
くたばれ、茶番劇。まだまだ続きます。
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