1992年5月11日、私は後楽園ホールのリングサイド席にいました。

メインイベントは東洋太平洋ライト級タイトルマッチ。

王者の大友巌はこれが6度目の防衛戦。5度連続防衛しているとはいえ、その内容は2勝3分。2つの勝利は一つがKOでしたが、もう一つはスプリットデジション。

けして安定した政権とは言えませんでしたが、6度目の防衛戦が絶望的な目で見られてたのは全く別の理由からでした。

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大友の前に立ち塞がった挑戦者が、グッシー・ナザロフだったからです。

試合後、ジムの大川寛会長が「3回までという(大友との)約束だったが、これが最後と思ってラストまでやらせた」と公言したように、大友は王者にもかかわらず、陣営までが序盤で粉砕されると覚悟したリングでした。

当時、大友の戦績は22勝19KO4敗5分。まだ28歳の若さでしたが、典型的な激闘型ファイターで肉体的ダメージの蓄積が深かっただけでなく、ライト級という世界戦を組むのが非常に難しいクラスであったこともモチベーションをキープするのに苦労したはずです。

当時はすでに4団体時代でしたが、JBCが認めていたのはWBAとWBCの2団体のみ。

ライト級タイトル挑戦には、今以上にカネもコネも莫大なコストがかかる時代でした。

当時、すでに「ボクシング人気は落ちた」と嘆かれていました。1970年代までの「世界王者>>>プロ野球のトップ選手」という絶対の不等式はもはや絶対ではなくなり「6回戦でも食うだけなら食っていける」なんて時代からファイトマネーの保証は据え置かれたまま…世界王者になっても読売ジャイアンツのレギュラー選手よりもはるかに無名…。

それでも、全体市場は沈下一方でも、辰吉丈一郎や畑山隆則、亀田興毅、長谷川穂積、西岡利晃、井岡一翔、井上尚弥と間歇的にヒーローが生まれてきました。

また、ボクシングファンに支持される世界とは無縁でも大友巌のような後楽園ホールのヒーローたちは水道橋にマニアックな熱気をもたらしてくれました。

そして…。後楽園ホールのヒーローたちはいつの間にか絶滅してしまいます。

後楽園ホールを熱くした拳を、大友巌から縦横無尽に辿っていきます。