1986年7月12日。

39年前のリングは、今とは大きく様相が違っていました。

3年前に創設されたIBFは人気階級のスター選手を取り込んで存在感を増していたとはいえ、3団体時代はまだ夜明け前。

ストロー級とスーパーミドル級はまだセットされていない、全15階級。

そして〝上位タイトル〟など無く、〝地域タイトル〟も、東洋太平洋(OPBF)や欧州(EBU)など文字通り地域を代表するものに限定されていました。

そう、そう、マイク・タイソンが巧みなマーケティングで、自分よりも軽くて弱い相手を次々と粉砕していた時期でもあります。

世界はWBAとWBCの2団体に分裂していましたが、現在のようなデタラメ・ランキングではなく両者のランキングはほとんどオーバーラップしていました。

とはいえ、対立王者をランキングから外すのがデフォルトになって、デタラメの道に大きく舵を切った、そんな時代の〝ある日〟が1986年7月12日でした。

WBAジュニアヘビー級タイトルマッチ15回戦。

そう、世界タイトルマッチも当時はまだ15ラウンド制。このクラスは当時、WBAがジュニアヘビー、WBCがクルーザー級と呼び、リミットも現在の200ポンド(90.72kg)ではなく190ポンド(86.18kg)でした。

チャンピオンは33歳のドワイト・ムハマド・カウイ。挑戦者は10歳若い23歳のイベンダー・ホリフィールド

170㎝もない低身長でライトヘビー級からクルーザー級で、そしてヘビー級までクルーズした異形の怪人カウイ

強盗罪で懲役刑を科せられたカウイは監獄でボクシングを覚え、Bサイドのキャリアを疾走したカウイは、2004年にFirst Ballotでの殿堂入り。



カウイを自分が犯した過ちを猛省して正しい道を歩み、引退後はボクシングを教えるだけでなく、過去の自分のように人生を踏み外しそうな危うい人々を助け続けました。

史上最高のライトヘビー級戦と言われるマイケル・スピンクス戦で主審をつとめたラリー・ハザード(のちのニュージャージー州ボクシング・コミッショナー)は、カウイを「人生をやり直したパーフェクト・サンプル」と表現しています。

「ニュージャージーのアルコールとドラッグのリハビリ施設The Light House で、患者たちに自分のために酒と薬物をやめなさいとカウンセリングしていた。彼の言葉を聞けばそれがカウンセリングではないことに、すぐ気づくだろう。彼は愛を説いていたのだ」。

He was a perfect example of someone who makes their mind up that they’re gonna walk the straight path. 




このブログでも度々登場する、ドワイト・ムハマド・カウイ。

体重制のボクシングを語るときに欠かせない、170㎝に満たない体躯で重量級を暴れ回ったノコギリ怪人のお話をするときが来てしまいました。