山崎照朝が亡くなりました。
最初にその人を知ったのは「力石徹のモデル」ということ。
矢吹丈やホセ・メンドーサのモデルについても、あれこれ言われていましたから、力石徹のモデルの「1人」くらいの認識でした。

しかし、実際に写真を見たときの衝撃は、いまでも忘れません。
さらに、後楽園ホールでそのお姿を拝見したときにいたっては…。
漫画やアニメ、二次元、ちばてつやがペンと墨汁で描いた架空の人物が、ありえないことに、間違いなくすぐそこで動いていたのです。
1969年に直接打撃制ルールによる公式試合「第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会」で初代チャンピオンになります。
力石徹の生き写し。
生きる伝説が、その実力と名声を要領よく使えば…つまり、自分流の空手道場、格闘技道場をオープンする、力石徹のアイコンを看板に使う…。きっと、大儲けできたでしょう。
しかし、彼はそんなことには一切、手を出しませんでした。
絶対の競技者に見える山崎が、格闘技の記者になったことも意外でした。
伝説の人、というのは、えてして世間離れした、融通の効かない(誰もそこを求めませんが)ところがありがちですが、山崎照朝にはそんな雰囲気が全く感じられませんでした。
スポーツ新聞社で、新人社員にも「山崎です」と自分から先に挨拶したといわれています。
めっぽう強いのに、柔和で腰が低い。
女子プロレスのコーチにも気さくに応じる懐の広さと、旺盛な好奇心。
キックボクシング全盛の時代。再三の誘いを断り、プロになることを拒んだその精神の根底には「スポーツ」ではなく「道」の血が流れていたのかもしれません。
最初にその人を知ったのは「力石徹のモデル」ということ。
矢吹丈やホセ・メンドーサのモデルについても、あれこれ言われていましたから、力石徹のモデルの「1人」くらいの認識でした。

しかし、実際に写真を見たときの衝撃は、いまでも忘れません。
さらに、後楽園ホールでそのお姿を拝見したときにいたっては…。
漫画やアニメ、二次元、ちばてつやがペンと墨汁で描いた架空の人物が、ありえないことに、間違いなくすぐそこで動いていたのです。
1969年に直接打撃制ルールによる公式試合「第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会」で初代チャンピオンになります。
力石徹の生き写し。
生きる伝説が、その実力と名声を要領よく使えば…つまり、自分流の空手道場、格闘技道場をオープンする、力石徹のアイコンを看板に使う…。きっと、大儲けできたでしょう。
しかし、彼はそんなことには一切、手を出しませんでした。
絶対の競技者に見える山崎が、格闘技の記者になったことも意外でした。
伝説の人、というのは、えてして世間離れした、融通の効かない(誰もそこを求めませんが)ところがありがちですが、山崎照朝にはそんな雰囲気が全く感じられませんでした。
スポーツ新聞社で、新人社員にも「山崎です」と自分から先に挨拶したといわれています。
めっぽう強いのに、柔和で腰が低い。
女子プロレスのコーチにも気さくに応じる懐の広さと、旺盛な好奇心。
キックボクシング全盛の時代。再三の誘いを断り、プロになることを拒んだその精神の根底には「スポーツ」ではなく「道」の血が流れていたのかもしれません。
コメント
コメント一覧 (4)
どんなに外見装っても、
強力な権力者の後ろ盾がついても
生き様だけは嘘をつけない。
だから師の真似事はやらなかった。
利害関係しかないの大きな組織も創らない。
フシ穴の眼
が
しました
フシ穴の眼
が
しました
大きな空手団体を設立せず、
後に師に筋を通し 逆真空手の看板 を背負い
空手を教えていきました。
あくまで奉仕に近いものであり、
この先はわかりません、
顔面攻撃禁止の大会でも
実践を想定した構え
武道と云いつつお金儲け中心のコリアン団体より、
武より、人、己の道を進んだ空手家より孤高の人
おつかれさまでした。
フシ穴の眼
が
しました