The time a fighter with a losing record became boxing world champion
負け越しボクサーが世界チャンピオンになるとき。
英国ボクシングニューズ(BN)誌から、日本のボクシングファンなら馴染みのある名前が満載のお話です。

ボクシングの世界は無敗よりもドラマティックなことに溢れている…。
シュガー・レイ・ロビンソンの生涯成績は174勝109KO19敗6分。モハメド・アリは56勝37KO5敗。マニー・パッキャオは62勝39KO8敗2分。
その数字からは、彼らがどれほど特別なボクサーだったのかは全く読み取ることができません。
しかし、ボクシングのレガシーは「誰に勝ったのか?」だけで決まります。
無敗のまま引退した、高い勝率と高いKO率のまま引退した…他のスポーツなら賞賛される数字を並べても、ボクシングの世界ではそれでどうした?と笑われるだけです。
また、シュガー・レイやアリ、パッキャオの戦績が色褪せて見えるのは、引退間際に負けが混んでいるというほとんど全てのボクサーに共通する事象を抱えているからでもあります。
世界チャンピオンになるとき。挑戦者たちは連勝の勢いに乗っていたり、キャリアの中で心身ともにピークにあるのが常識です。
ところが…。

前置きが長くなりました。
フランシスコ・キロスのお話です。
元世界チャンピオンのドミニカ人が33歳でグローブを吊るしたとき、その戦績は11勝5KO13敗1分(原文では15敗)。
キャリア終盤で負けが混めば、元世界チャンピオンでもそういう数字にはなるだろうーーーいえいえ、そうではありません。
キロスは近代ボクシング150年の歴史でもたった1人だけという記録の持ち主。
負け越しボクサーが世界チャンピオンになった、という稀有なケースの主人公なのです。
キロスが母国ドミニカでキャリアをスタートさせたのは20歳のとき。
首都サントドミンゴで6連勝、世界ランク入りを狙ってコロンビアとプエルトリコを転戦するも、当時プロ4戦の経験しかなかったシュガー・ベビー・ロハスに敗れるなど壁にぶち当たります。
ロハスはのちにサントス・ラシアルを破ってWBCジュニアバンタム級タイトルを獲得、ヒルベルト・ローマンに敗れて陥落。
ジュニアバンタムのWBCストラップは渡辺二郎から奪ったローマンがラシアルにまさかのTKO負け。そのラシアルに勝利したロハスからローマンが奪冠する、日本のファンも身近に感じるタイトルでした。
キロスはドミニカに帰ってフライ級のナショナルタイトルに挑戦するも、ラモン・アントニオ・ネリに3ラウンドKO負け。
※BN誌によると「Upon his return, Quiroz challenged eventual WBA world title challenger Ramon Antonio Nery two times in the same week for the Dominican Republic flyweight title and was knocked out for the first and second time in his career.(のちにWBAタイトルに挑戦するラモン・アントニオ・ネリのドミニカ・フライ級王座に1週間で2度挑戦するも2試合ともKO負け)」とありますが、BoxRecでは1982年3月1日に行われた1試合のみしか記載がありません。
デビューから6連勝のあと、一つの無効試合を挟んで10連敗(BoxRecでは8連敗ですがBN誌や他の文献を見ると10連敗が正しいと思われます)。
連敗のトンネルを3勝1分で抜けると、サプライズとしか表現できない話がWBAからもたらされました。
WBAジュニアフライ級王者ルペ・マデラへの挑戦です。
ルペ・マデラ。渡嘉敷勝男の現役時代を知るファンで、彼の名前を忘れた人はいないでしょう。
日本ボクシングを協栄ジムが代表していた忌まわしい時代の不憫な犠牲者が、マデラでした。
不可解な判定に翻弄された渡嘉敷との4試合で、ようやくタイトルを掴んだマデラの初防衛戦に選ばれたのがキロスだったのです。
1984年5月19日、ベネズエラの〝麗しの太陽の地〟マラカイボのリングに上がったキロス。この時点での戦績は8勝10敗1分、なんと負け越しボクサーが世界タイトルマッチのリングに上がりました。
キロスは完全アンダードッグでしたが、ジュニアバンタム級で戦ってきた体格は小さなマデラを悩ませます。
ドミニカ人挑戦者は長距離の左右を槍のように突き刺して、ゲームを支配。
迎えた第9ラウンド。キロスのタイミングが合っていた左アッパーがクリーンヒット、ワンツーをフォローすると王者がついにダウン!
必死に立ちあがろうとするメキシコ人でしたが、主審はカウントを終えて立ち上がった元王者を抱きしめました。
負け越しボクサーが世界チャンピオンになった、史上初の瞬間です。
新王者のキロスは9勝10敗1分。負け越しの世界王者でもありました。
キロスは初防衛戦を2ラウンドKOでクリア、戦績はついに10勝10敗1分のイーブンに戻します。しかし、2度目の防衛戦でジョーイ・オリボに敗れてタイトルを手放してしまいます。
そして…米国史上初のジュニアフライ級王者になったオリボは、韓国のリングに引っ張り上げられ、のちの殿堂入りファイター柳明佑にタイトルを開け渡すのでした。
キロスはオリボ戦から5連敗、33歳で引退を決意します。
その2年後、ナイトクラブでマフィアの乱闘事件に巻き込まれたキロスは悲劇の死を遂げてしまいます。
まだ35歳の若さでした。
負け越しボクサーが世界タイトルマッチに…明確な規定は存在しませんが、どの団体も負け越しボクサーをタイトルマッチに組み込むことには極めて消極的で、よほど特殊な条件が揃わなければキロスのレアケースは再現不可能です。
最も近似するサンプルは、1勝1敗の五分の戦績でWBOフェザー級王者決定戦に挑みゲイリー・ラッセルJr.に勝利したワシル・ロマチェンコでしょう。特殊な条件がいくつも重なったロマでも、イーブンの成績。
フランシスコ・キロスの奇妙な大番狂せは、なんでもありのボクシング界でも再現不可能な記録です。
負け越しボクサーが世界チャンピオンになるとき。
英国ボクシングニューズ(BN)誌から、日本のボクシングファンなら馴染みのある名前が満載のお話です。

ボクシングの世界は無敗よりもドラマティックなことに溢れている…。
シュガー・レイ・ロビンソンの生涯成績は174勝109KO19敗6分。モハメド・アリは56勝37KO5敗。マニー・パッキャオは62勝39KO8敗2分。
その数字からは、彼らがどれほど特別なボクサーだったのかは全く読み取ることができません。
しかし、ボクシングのレガシーは「誰に勝ったのか?」だけで決まります。
無敗のまま引退した、高い勝率と高いKO率のまま引退した…他のスポーツなら賞賛される数字を並べても、ボクシングの世界ではそれでどうした?と笑われるだけです。
また、シュガー・レイやアリ、パッキャオの戦績が色褪せて見えるのは、引退間際に負けが混んでいるというほとんど全てのボクサーに共通する事象を抱えているからでもあります。
世界チャンピオンになるとき。挑戦者たちは連勝の勢いに乗っていたり、キャリアの中で心身ともにピークにあるのが常識です。
ところが…。

前置きが長くなりました。
フランシスコ・キロスのお話です。
元世界チャンピオンのドミニカ人が33歳でグローブを吊るしたとき、その戦績は11勝5KO13敗1分(原文では15敗)。
キャリア終盤で負けが混めば、元世界チャンピオンでもそういう数字にはなるだろうーーーいえいえ、そうではありません。
キロスは近代ボクシング150年の歴史でもたった1人だけという記録の持ち主。
負け越しボクサーが世界チャンピオンになった、という稀有なケースの主人公なのです。
キロスが母国ドミニカでキャリアをスタートさせたのは20歳のとき。
首都サントドミンゴで6連勝、世界ランク入りを狙ってコロンビアとプエルトリコを転戦するも、当時プロ4戦の経験しかなかったシュガー・ベビー・ロハスに敗れるなど壁にぶち当たります。
ロハスはのちにサントス・ラシアルを破ってWBCジュニアバンタム級タイトルを獲得、ヒルベルト・ローマンに敗れて陥落。
ジュニアバンタムのWBCストラップは渡辺二郎から奪ったローマンがラシアルにまさかのTKO負け。そのラシアルに勝利したロハスからローマンが奪冠する、日本のファンも身近に感じるタイトルでした。
キロスはドミニカに帰ってフライ級のナショナルタイトルに挑戦するも、ラモン・アントニオ・ネリに3ラウンドKO負け。
※BN誌によると「Upon his return, Quiroz challenged eventual WBA world title challenger Ramon Antonio Nery two times in the same week for the Dominican Republic flyweight title and was knocked out for the first and second time in his career.(のちにWBAタイトルに挑戦するラモン・アントニオ・ネリのドミニカ・フライ級王座に1週間で2度挑戦するも2試合ともKO負け)」とありますが、BoxRecでは1982年3月1日に行われた1試合のみしか記載がありません。
デビューから6連勝のあと、一つの無効試合を挟んで10連敗(BoxRecでは8連敗ですがBN誌や他の文献を見ると10連敗が正しいと思われます)。
連敗のトンネルを3勝1分で抜けると、サプライズとしか表現できない話がWBAからもたらされました。
WBAジュニアフライ級王者ルペ・マデラへの挑戦です。
ルペ・マデラ。渡嘉敷勝男の現役時代を知るファンで、彼の名前を忘れた人はいないでしょう。
日本ボクシングを協栄ジムが代表していた忌まわしい時代の不憫な犠牲者が、マデラでした。
不可解な判定に翻弄された渡嘉敷との4試合で、ようやくタイトルを掴んだマデラの初防衛戦に選ばれたのがキロスだったのです。
1984年5月19日、ベネズエラの〝麗しの太陽の地〟マラカイボのリングに上がったキロス。この時点での戦績は8勝10敗1分、なんと負け越しボクサーが世界タイトルマッチのリングに上がりました。
キロスは完全アンダードッグでしたが、ジュニアバンタム級で戦ってきた体格は小さなマデラを悩ませます。
ドミニカ人挑戦者は長距離の左右を槍のように突き刺して、ゲームを支配。
迎えた第9ラウンド。キロスのタイミングが合っていた左アッパーがクリーンヒット、ワンツーをフォローすると王者がついにダウン!
必死に立ちあがろうとするメキシコ人でしたが、主審はカウントを終えて立ち上がった元王者を抱きしめました。
負け越しボクサーが世界チャンピオンになった、史上初の瞬間です。
新王者のキロスは9勝10敗1分。負け越しの世界王者でもありました。
キロスは初防衛戦を2ラウンドKOでクリア、戦績はついに10勝10敗1分のイーブンに戻します。しかし、2度目の防衛戦でジョーイ・オリボに敗れてタイトルを手放してしまいます。
そして…米国史上初のジュニアフライ級王者になったオリボは、韓国のリングに引っ張り上げられ、のちの殿堂入りファイター柳明佑にタイトルを開け渡すのでした。
キロスはオリボ戦から5連敗、33歳で引退を決意します。
その2年後、ナイトクラブでマフィアの乱闘事件に巻き込まれたキロスは悲劇の死を遂げてしまいます。
まだ35歳の若さでした。
負け越しボクサーが世界タイトルマッチに…明確な規定は存在しませんが、どの団体も負け越しボクサーをタイトルマッチに組み込むことには極めて消極的で、よほど特殊な条件が揃わなければキロスのレアケースは再現不可能です。
最も近似するサンプルは、1勝1敗の五分の戦績でWBOフェザー級王者決定戦に挑みゲイリー・ラッセルJr.に勝利したワシル・ロマチェンコでしょう。特殊な条件がいくつも重なったロマでも、イーブンの成績。
フランシスコ・キロスの奇妙な大番狂せは、なんでもありのボクシング界でも再現不可能な記録です。
コメント