例えば。

「冷やし中華専門店」は存在が許されるのだろうか?

あるいは、一つのメニューとして「冷やし中華」は通年メニューとして許されるのだろうか?


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夏場がシーズンのアイスが「雪見だいふく」という季節のクロスカウンターを放ち、「ハーゲンダッツ」によって通年化したように、冷やし中華も革命を起こせるのだろうか?


この考察には、もちろん「地球温暖化」など大きなテーマも包含して考えられるべきで、決して軽いテーマではない。

「冷やし中華はじめました」と告知して、いつの間にか終わってる、そんなニッチな食べ物にすぎない冷やし中華は、鏡餅と同じ一瞬の刹那を生きるセミのような存在のままで良いのか?

考えてみれば、一瞬の刹那とはいえ鏡餅は1年の始まりを告げるという大きな責任と役割を担っている。

そればかりか、鏡餅は冷やし中華のようにいつの間にかフェイドアウトしている蜃気楼のような存在ではなく、鏡開きというグランドフィナーレまで用意されている。

冷やし中華と、鏡餅を同じ季節の食べ物でくくって比較しようものなら、あちこちから「格が違うんじゃ!一緒にするな!」「冷やし中華がなくなっても誰も困らないが、鏡餅は日本人の精神的支柱」なんじゃ!」と怒号が巻き起こるだろう。

確かに、冷やし中華には格がない気がしてきた。…いや、冷やし中華ごときに格などあり得ない。ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない。

天皇家には間違いなく鏡餅は飾られるだろうが、あの人たちはもしかいたら冷やし中華を食べたことがないかもしれない。それどころか、冷やし中華の存在すら知らない可能性まである!

そして、日本人の精神的支柱の鏡餅に対して、冷やし中華はその名称に「中華」を内包してしまっている。右翼から「中国におもねる売国奴の食い物」と罵倒されるかもしれない。

それなのに、おそらく中国大陸のどこを探しても冷やし中華はない。だとしたら「冷やし中華は売国奴」という罵詈雑言は、なんという冤罪的な誹謗中傷なのだろうか?

こんな冤罪が許されるわけがない!

さらに、冷やし中華がなくなっても誰も困らない、という根本的な真実からも目を背けることができない。

「那須川天心vsアンジェロ・レオ」のようなビッグ・イフで、来年から政府が秘密裏に「冷やし中華廃止令」を施行したとして、何人の日本人がそれに気づくだろうか?

「あれ?今年、冷やし中華って見ないね?」なんて会話が秋口になってようやく語られる…そんな寒気のする未来が待ち構えているのではないか?



俺が、俺の人生が冷やし中華にオーバーラップして悲しくなってきた。

絶対、負けないからな!今に見てろよ!絶対、天下取ったるからな!専門店も出すぞ!