清潔なタオルとワセリン、水、エンスウェル、カットマンの道具箱に入っているのはそれだけ。道具箱といっても、それは100均で売ってるようなバケツです。

それにも関わらず、彼らの技術に大きな差が生じてしまうのは、なぜでしょうか?

リング誌が「The Mysterious Art(神秘の芸術)」と表現したカットマンの職人芸。

優れたカットマンの顔も持つルディ・エルナンデスは「There are no real secret (秘密なんて何もない)」と笑い飛ばします。

I guess it's more complicated to describe it than to just do it. (ただし、やってることは至極簡単なんだけど、それを誰かに伝えたり教えるのはかなり難しい)。 

ルディがそう言う時点で、この仕事が「至極簡単」 なわけがないと、ど素人でもはっきりわかります。

「タオルとワセリン、水、エンスウェルの四つの道具を使うが、タオルにはガーゼやさまざまな形態のものが含まれ、水は液体と固体(氷嚢)、もしかしたらその中間的なものまで使い分ける」。

優れたカットマンは、この四つの道具を間違いのない順序と、使い方でファイターの血と汗と涙を拭き取ってやるのです。

Maybe not the last. There's no crying in boxing.

ああ、最後の「涙」は取り消します。リングの中で流れるのは血と汗だけ。そこでは、涙なんて流している余裕などあるわけがないのですから。

トレーナーが兼ねることもあるカットマンですが、ほとんど専業で有名なカットマンももちろん存在します。

ジェイコブ〝Stich〟デュランはボクシング、MMAの世界で30年以上もカットマンの世界で最も高い評価を得ている一人です。

昨年大晦日に議論を呼ぶ判定になった「井岡一翔vsジョシュア・フランコ」のジュニアバンタム級団体統一戦、バッティングを警戒した井岡陣営が呼び寄せたのが旧知の〝Stich〟デュランでした。

https://fushiananome.blog.jp/archives/23695007.html

https://fushiananome.blog.jp/archives/10573738.html

〝Stich〟デュランが特徴的なのは海藻から取った繊維をコーティングした特殊なガーゼを使うこと。

これは通常のガーゼよりもはるかに柔らかく「素早く血を吸収し、内出血や凝固するのを防ぐ。カサブタになる前の状態の血の塊が一番神経を使う。全て取り除くと血が噴き出すのだから」。

この特殊なガーゼは他のカットマンに言わせると「柔らかすぎて力加減がわからなくなるから、使えない」という代物。誰でも使いこなせるわけではありません。



また、〝Stich〟デュランはもちろん、ほとんど全てのカットマンの必需品が「エンスウェル」です。

氷水で十分に冷やしたエンスウェルは、腫れた〝患部〟に直接当てて使います。

ボクシングをはじめ、MMAなど他の格闘技でもお馴染みのエンスウェルですが、その歴史、原型は意外と古く、20世紀初頭には、冷やした50セント硬貨やツナ缶などで氷嚢よりも効率的に腫れを散らし、内出血を抑えていたと伝えられています。

しかし、それは全く一般的でなく、ほんの一部のトレーナーが実験的に使っていただけでした。


では、いつを境にエンスウェルは爆発的に広まったのか?いつから、ボクシングファンなら誰でも知っているカットマンのツールになったのか?

この種の話では極めて珍しい事象ですが〝そのとき〟は「いつ」「どこで」「何があって」世界中に知られるようになったのかが、ハッキリ分かっているのです。



1981年9月16日、ネバダ州ラスベガス。シーザースパレス特設リングで行われたメガファイト。

エンスウェルがデビューしたのは、世界中が注目していた、この試合の第5ラウンド終了時のことでした。

そうです。ウェルター級のUndisputed championship、完全統一戦。WBC王者シュガー・レイ・レナードとWBA王者トーマス・ハーンズとの、今なお「史上最高試合」と語り継がれている、あの名勝負です。


レナードの参謀、アンジェロ・ダンディは友人で熱狂的なボクシングファンだったマイケル・サビア医師から「これがエンスウェルだ」(つまりサビアが名付け親)と、数ヶ月前に紹介されていました。

「氷水か氷嚢の中で十分に冷やして使うんだ」と薦めるサビアに、ダンディは「面白い!」と歓迎しましたが「打たれないし腫れにくいレナードには必要ないな」とも語っていました。

稀代の名参謀が、ハーンズ戦で氷袋の間にお守り代りにエンスウェルを挟んでいたのを思い出したのは、第5ラウンド終了時にコーナーに戻ったレナードの左瞼が大きく腫れているのを見たときでした。

「このまま終盤までもつれると、レナードの左目は完全にシャッターを下ろしてしまう」。

史上最高の名勝負、そのラウンドインタバルに登場した銀色の金属片に世界中のボクシング関係者とメディア、ファンがザワつきます。

「ダンディが持っている、あの金属は何だ?!」

もちろん、それはレナードも同じことでしたが、見たこともない金属片を〝患部〟に押し付けられても「これはなんだ!」と拒みませんでした。

ダンディが「これは知り合いの医師から紹介された腫れどめ金具だ」と教えたのは、エンスウェルの処方を終えた、第6ラウンドのゴングが鳴る直前のことでした。

リングの中ではあれほど狡猾で疑い深いシュガー・レイ・レナードが、コーナーではダンディに全幅の信頼を寄せていたのです。

カットマンの一番大事な仕事とは、そういうことなのです。

そのあと、8度のインタバル全てで、ダンディはエンスウェルを使いました。

あそこで、レナードが「そんな見たこともない小さな金属を当てないで、いつものように氷嚢だけで冷やしてくれ!」と拒否していたら、腫れがもっと酷くなって、終盤には左目の視界が完全に奪われていたでしょう。

あるいは、ダンディを少しでも疑う気持ちが芽生えて、レナードの集中力が分散していたら、あの感動的なグランドフィナーレは訪れることなく、歴史が変わっていたかもしれません。

そして、もし、あの試合でレナードが目を腫らさなければ、エンスウェルは世界にお披露目される大きな機会を失っていたことになります。

あるいは、ダンディがもっと腫れやすい別の無名選手に先に使っていたら、あれほど大きな注目を集めなかったはずです。

いずれにしても、あの日あのとき、あの試合、あの展開でなければ、エンスウェルが世界に広く知られるのが大幅に遅れていたのは、間違いありません。


今ではその呼び名も形状もさまざまなバリエーションを持つようになったエンスウェル。小さなアイロンのようにハンドル付きのものが主流になり、より冷温をより長く内包できる構造に進化しています。

そして、何よりも、優秀な職人カットマンという神秘的な世界に、画期的な技術革新をもたらし、レナードのように腫れを抑えることで大きなチャンスをものにする、数えきれないファイターを生み出してきました。

もちろん、このエンスウェルですら未熟なカットマンが使い方を誤ると、傷口を広げたり、内出血を酷くする〝凶器〟に早変わりするのですが…。



…エンスウェル話で脱線気味になりましたが、カットマンのお話は、まだまだ続きます。