東京五輪で盛り上がっていた2021年。

継続性の低い刹那の〝国民的英雄〟が続々と生まれるのが五輪の特徴で、このメガイベントでもそうでした。

五輪を中継するテレビ局に勤務する友人と話す機会があり「盛り上がってるなあ」という話をしていると、彼女が「五輪なんか放送しないで大谷翔平の試合をやれっていう声も寄せられている」と
困った顔をしたのです。

「人口1億人超える日本、1人や2人そんな人もいる」と言う私に彼女は「1人や2人なんて数じゃないし、男女、ほぼ全ての年代層。地上波で流すべきという意見も多い」と教えてくれました。

「地上波でやれっていう人の中には、ユニバーサル・アクセス権(国民的関心事が高いものは誰もが自由に簡単に視聴できる権利)を持ち出す人もいる」とこぼす彼女に、私は「大谷翔平は国民的英雄かな?」と聞いてみました。

「国民的英雄?そんなものに定義や規格はある?」。

国民的英雄に定義や規格などありません。

多様化が進み、選択肢が無限に増える時代です。一人一人の頭の中に大好きな「英雄」がいるかもしれませんが、それは「国民的」ではありません。

三笘薫は国民的英雄の規格に届く瞬間最大風速を記録したかもしれません。

東京ドームの大観衆が「ぬーーーー!!!」と声を張り上げたラーズ・ヌートバーもあのときあの空間では国民的英雄でした。

もちろん、三笘もたっちゃんも国民的英雄ではありません。短い時間で賞味期限を迎える商品です。

五輪やサッカーW杯、WBCのような巨大売り場に並べられた賞味期限付きの〝国民的英雄〟はこれからも続々と登場するでしょう。

スポーツの舞台を離れても、バラエティ番組に出たりして、日本中から愛される〝国民的英雄〟にはこれからも事欠きません。

しかし、フィールドを離れると姿を痩せたがらないにもかかわらず、日本中が興味の目をそらさない生物がいるとしたら?

少なくない数の人が「五輪なんて流してる場合か」と声をあげる大谷翔平。彼がユニバーサル・アクセス権の俎上に乗せるほどの個人だとしたら、ユニコーンはもうすでに、21世紀の富裕国では存在しないはずの国民的英雄になっていたのかもしれません。