リング誌5月号「ラリー・ホームズ特集」。

またまた懐古特集です。

昨年6月号から1年間12冊でも、これで6つの号がシュガー・レイ・ロビンソンなどの懐古特集(2021年6月号の「マービン・ハグラー追悼特集」は除く)。

もっと「現役選手」にスポットを当てる「今」を取り上げるべきですが、後ろばかり振り返るのは衰退するスポーツの典型的な兆候です。

表紙と特集に取り上げられたのは、ハグラーも合わせた7回以外ではカネロ・アルバレスが2回、(エロール・スペンスJr戦を控えた)マニー・パッキャオが1回、タイソン・フューリーvsオレクサンダー・ウシクなど夢のマッチアップが1回、100周年記念が1回。

リング誌としても商売です。売れる表紙、売れる内容にしたいのは当然です。パッキャオが引退して、これからはますますカネロと懐古基調に傾いていくのでしょう。
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さて、気を取り直して5月号の記事「And Then There Were Three 〜 ベルトまみれの世界はここから始まった。」から、私見も交えて拙訳。

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▶︎▶︎▶︎1983年6月1日、ラリー・ホームズがUSBA International(後のIBF)初代世界ヘビー級王者に認定された〝事件〟は今日の世界王者大量生産時代に連なるエポックだった。

「世界王者は世界に一人」という常識を信奉するボクシング純粋主義者にとっては残念なことだが、現在はThe Four-belt Era=4ベルト時代。

フランチャイズ、ダイアモンド、スーパー、レギュラー、暫定、休養と世界チャンピオンがいくつも存在し、一つの階級で世界王者が団体と同じ数の4人に絞られる稀少なシーンを目撃できるは、ファンにとって幸運だ。

それでも、ボクシングのビジネスとファンの大部分にとって“Undisputed” (議論する余地のない=他の誰にも王者を名乗らせない=完全統一王者)という概念は特別な価値を持ち続けている。

2022年、The Four-belt EraにおけるUndisputed Championの定義は、IBF、WBA、WBC、WBOの主要4団体の最上位ベルトを保持していること。

カネロ・アルバレス、ジョシュ・テイラー、ジェシカ・マッカスキル、ケイティ・テイラーは、Undisputed Champion、議論する余地のない文句なしの王者だ。

彼らは全てのベルトをコンプリートした。彼らは他の〝議論する余地のある〟世界王者とは一線を画している。

しかし、Undisputed Championになるために、これほど多くのベルトが必要な時代はなかった。

ボクシングのタイトルが分断されていたのは、今に始まったことではない。しかし、かつては、世界王者についてもっとコンセンサスがあった。

モハメド・アリは、その前兆だった。アリは最初の王座在位中に2度、WBAの王座を剥奪された。

リング誌は、1967年以降、アリがボクシング界から追放されたにもかかわらず、アリを認め続けた。タイトルを失うのはリングの中で挑戦者に敗れたときか、王者が引退を宣言したときだけであるべきだからだ。

しかし、WBAはジミー・エリスを、ニューヨーク州はジョー・フレージャーを王者と認定した。

今日のようなボクシングのタイトル分裂、世界王者が複数存在する異様な光景は、60年代ですでに始まっていたのだ。

1963年に誕生したWBCは、独自のチャンピオンとランキングを擁し、WBAから徐々に分離、1970年代にはThe 2-belt Eraが完全に定着してしまった。

レオン・スピンクスは、1978年2月にモハメド・アリから大番狂わせでタイトルを奪う。アリは、1977年の挑戦者決定戦でジミー・ヤングに勝利したケン・ノートンとの対戦を無視して、スピンクスとのダイレクトリマッチを選ぶ。

WBCはノートンを王座と認定、ここにリングの中の戦いではなく、書類上の手続きで王座に就く「ペーパーチャンピオン」が誕生する。

ホームズはノートンに勝ってWBC王者になるが、スピンクスが本当の王者であることは広く認められていた。

アリは再戦でスピンクスから王座を奪還し、ホームズはWBC王座を5回防衛してリング誌ランキングで1位となった。そして3度目の防衛戦で、ホームズはリング誌ヘビー級王者の座を獲得する。

リング誌は1980年6月号で、ホームズをチャンピオンに推したが、それは6度目の防衛戦となった1980年3月31日に行われたリロイ・ジョーンズ戦ではなく、同じ日にマイク・ウィーバーがジョン・テートをノックアウトし、WBA王座を獲得した結果を受けてのものだ。

ホームズは、WBCのベルトの3度目の防衛戦(1979年6月22日)でウィーバーにTKO勝利を収めていた。

リング誌には「この6月号をもって、ラリー・ホームズをヘビー級世界王者として認める」と明記された。

それは、彼がWBC王者だからではなく、前年6月22日に現WBA王者のマイク・ウィーバーに勝利していたから。タイトルはリングの中での勝敗だけで決められるものだ。
 
その後、1980年にホームズは元王者であるアリを破り、本物のトーチを引き継ぐことになる。

WBAとWBCのベルトを統一することはなかったが、ホームズはWBCの傘下でタイトル防衛回数を増やし続け、1982年のゲイリー・クーニー戦では史上最高のファイトマネーを手に入れた。

1983年以前は、WBAとWBCだけが承認団体だった。

ホームズは自由とカネを求め、指名挑戦者グレグ・ペイジとの試合を先延ばし、1983年末にはIBFの王者承認を受け入れる。

ボクシングの看板である世界ヘビー級王者を迎え入たIBFは無視できない存在になった。

1983年9月、ホームズはスコット・フランクと16度目の防衛戦を5ラウンドで片付け、これが最後のWBCタイトルマッチとなった。

そして、ローリスク・ハイリターンのマービス・フレイジャーを17度目の防衛戦の相手に選ぶ。

フレイジャー戦の1週間前、WBCはラスベガスで年次総会を開催、そこでホームズ対フレイジャー戦が行われることになっていた。

WBCのシド・ロジッチ副会長は「ペイジとの指名試合を受けずにフレイジャーと戦ったら、タイトルを剥奪する」とホームズに警告した。

そこには、ドン・キングの思惑も絡んでした。

キングとWBCは、缶詰の中で密着しているオイルサーディンよりも深く繋がっていた。

ホームズがラスベガスに到着すると、WBCのホセ・スライマン会長が面会を求め、義理と恩義について講釈をたれた。

「WBCが私にしてくれたこと?なぜ私は感謝しないのか?ホセ、私がWBCのためにしたことはどうなんだ?私はWBCに残り、チャンピオンであり続けた?私で大儲けしたWBCは私に何をしてくれたんだ?」と聞くホームズに、ホセは独特の痴呆症のような表情で「大儲け?大儲けってなんのことだ?」と、オスカーを受賞するような演技を見せて部屋から出て行った。

フレイジャー戦はWBCのベルトをかけずに行われ、ホームズはフレイジャーを1回でストップし、リング誌王座の防衛に成功。

スポーツ・イラストレイテッド誌でパット・パットナムは「WBCのスライマン会長が、ホームズのWBC王座の17度目の防衛戦とは認めないと決めたことで、試合の魅力は半減した」とレポートした。
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WBCだけではなく、WBAも自らの体内から分離独立したUSBA-Iを潰しにかかっていた。

しかし、権謀術数ならUSBA-Iも負けてはいない。WBA下部組織の印象が残る団体名をIBFに改称、ミドル級のUndisputed Championマービン・ハグラーも承認。

ビッグネームを世界王者に承認することで、その存在を強引にでも認めさせる手法は、のちのWBOも誠実に見習うことになる。 

さらに、ライトヘビー級のUndisputed Championマイケル・スピンクス、ドナルド・カリー、アーロン・プライアーをIBF王者に承認。テーブルの下で、ビッグネームに対戦相手を選ぶ自由や、何よりも老舗団体を裏切る代償にふさわしい大金が渡されていたのは簡単に想像できる。

1984年11月9日、史上初めて3ベルト時代のヘビー級タイトルマッチが行われた。ホームズはジェームズ・"ボンクラッシャー"・スミスを12ラウンドでTKO、IBFベルトの初防衛に成功した。

この試合をプロモートしたのは「WBCと一蓮托生」と誓っていたはずのキングだった。彼は、缶詰から抜け出したのだ。

何というわかりやすい、何というボクシングらしい出来事か。

「IBFを受け入れると世界王者が3人いる世界を認めることになる」。メディアの常識と正義への意識が長続きしないのは、太陽が東から昇って西に沈むよりも確実なことだ。

メディアはすぐに考えを改めた。「世界王者はすでに2人いる。3人になったところで何が変わる?2人も3人も一緒じゃないか」。

世界王者の大量生産時代が始まった。ベルトを製作する金属や皮革業者の売上は何百倍にも増大しただろう。

儲かったのは承認団体と、ベルト業者だけだ。

ボクシングの社会的地位は地に堕ち、かつて8人しかいなかった世界王者の名前を覚えることが今では、円周率100桁を暗記するよりも遥かに難しい時代になっている。

どんどん頭が悪くなっているボクシングファンに、円周率100桁以上の暗記なんて出来っこない。

それにしても。こんな喜劇的なスポーツが他にあるだろうか?