先日、新年のご挨拶に行ったのは、高校時代に引きこもっていた小さな映画館で知り合った方でした。

映画館があった場所は関西、阪神地区です。

それから、二人とも東京に出て来て、横浜に住んで、歩こうと思えば歩いてでもいける距離でした。

邂逅した場所が東京、横浜ではなく青森の寒村や離島とは違いますから、偶然と呼ぶには同じような事例が数え切れないほどあるでしょう。

ただ、今の自分の人格を形成する栄養素の一つになった作品を貪り見た映画館は、当たり前の話、静かに映画を見るためだけの場所で知人などが出来るわけもない空間です。

高校生の私が平日の昼間っから入り浸っているのは、不思議に見えたかもしれません。しかし、高校生かどうかは見た目だけではわからなかったでしょうし、高校生だとわかっても映画館で見知らぬ人に興味本位で声をかけるなんて、まずありえません。

それなのに、数人の年配の方から声をかけられ、コーラやポッポコーンをおごってもらったりしてました。

「あんまり面白くなかったな」とか映画の感想を短く問いかけてくる、長々と話した記憶はありません。

そんな中でも、コーラではなくビールの小瓶を飲ませてくれたおっさんと、どう見ても場違いな綺麗なお姉さんとは、映画の感想をほんの少し踏み込んで話したことがある、ちょっとした友だちでした。

特に、お姉さんの方は映画館という場所柄、耳元で囁くように話しかけてくるので、顔がものすごく近くて「本当にきれいなひとだな」とドキドキしていたのを思い出します。

といっても、そのおっさんも、お姉さん(のちに三井ひとみさん=仮名=だと判明)も、名前すら知りませんでした。

先日お邪魔したのは、その元お姉さんご夫婦のお家でした。

一晩中、いろんな話をした中で「どうして僕に声をかけたんですか?」と聞くと「かわいい顔してたから気になった」と冗談を言ってから「映画館の前でガラの悪い高校生集団から『〇〇高校の奴、中にいないか?』と聞かれたから」と、めっちゃ思い当たることを告げられたのでした。

高校生集団の一人の顔はアザがついて目が充血してた、明らかに喧嘩傷を負っていたそうです。

そんな怪我させる喧嘩をした記憶は無いのですが、絶対に無い!とは言い切れない高校生活を送っていました。

「不良が喧嘩で負けた復讐に仲間を連れて探し回る高校生が場末の映画館で『勝手にしやがれ』を観てるなんて、そら気になるわ」。

喧嘩した記憶は思い出せませんが「勝手にしやがれ」を観たあとに、三井さんから声をかけられたのははっきり覚えています。

綺麗なお姉さんが「原題のフランス語『À bout de souffle』って、どういう意味かわかる?」と耳元で囁いてきたんです。女子とまともに話したことがない引きこもり男子高校生には刺激的すぎました。

そして「〇〇高校なん?」と聞かれて、びっくりしたのも覚えています。「違います」と即答しました。そのときは、三井さんが警察の人で補導されるのかともチラッと思いました。

あのとき、私が映画館に入るのが少し遅れて奴らと大乱闘になってたら、もしかしたら何か運命が大きく変わっていたかもしれません。

三井さんは彼らに「そんな高校生、見かけたことないわ。それにここヤバいとこなんわかっとるよね?ここでイキがっとったら、もっと大怪我するよ」と、暴力団の縄張りをほのめかして、軽く脅してくれたそうです。

実際に、瓶ビールのおっさんはそういう関係から足を洗った人だそうでした。

「え?いっつもヤクザ映画やギャング映画見てたあのおっちゃんが?ヤクザがヤクザ映画大好き???」。戸惑う私に三井さんは「世の中、あんたが思うほど複雑ちゃうねんで。それにヤクザやなくて元ヤクザな」と、ご自宅の居間なのに、あの頃と同じように囁くのでした。

前置きが長くなりました。

三井さんと一晩中お話したなかで、すこし触れた運命やら偶然について、です。

それは運命なのか偶然なのか?もし、あのとき予定調和に物事が進んでいたなら?…そんなお話は、スポーツの世界では、特にあからさまに浮き彫りになります。

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◉もし、エンリケ・サンチェスが予定通りにIBFジュニアフェザー級王者リーロ・レジャバに挑戦していれば、マニー・パッキャオの運命は間違いなく変わっていました。

あの試合は急遽の代打出場だっただけでなく、オスカー・デラホーヤのメガファイトのセミファイナル、PPVにも組み込まれた、当時最も注目度の高いイベントでした。

単純に米国で名前を挙げるのが遅れただけでなく、名前そのものを売る大きな機会が失われたのです。もしかしたら、メキシコのスーパースターとの激闘も形が変わるだけでなく、そもそもなかったかもしれません。


◉所属ジム会長のパワハラから矢尾板貞夫が世界戦直前に引退していなければ…。

急遽白羽の矢が立てられたファイティング原田の当時史上最年少の世界王座獲得はありませんでした。

矢尾板が負けていれば、白井義男が陥落してからの大空位時代は8年では終わらず、トンネルはさらに長く続いたでしょう。

また、矢尾板が勝っていれば、原田の台頭は大きく遅れ、日本ボクシング史はその形を大きく変えていたはずです。


◉東京1964でバスター・マシスが故障しなければ、ジョー・フレイジャーはリングに上がらず補欠のまま米国に帰っていました。

マシスとの因縁だけでなく、モハメド・アリとの史上最高のトリオロジーも別の形になったかもしれません。あるいは、トリオロジーには発展していなかったかもしれません。


◉楢崎正剛は史上初の「公式戦100完封」を記録するなど、歴代最高のゴールキーパーにも推される名選手ですが、彼もまた〝パッキャオ〟でした。

当時、Jリーグで最も有名なGKだった森敦彦が審判に暴言を吐いて出場停止処分を下されなければ、楢崎のデビューは何年も遅れていたかもしれません。


◉二岡智宏のスキャンダルがなければ坂本勇人は遊撃手ではなく、二塁手として球界を代表するスターになっていたはずです。もし、二塁手なら今とは全く違う選手像になっていたのは間違いありません。

そして、そのアナザーワールド。果たして、坂本は優秀な二塁手に成長していたでしょうか?


◉日本ハム球団が大谷翔平に二刀流の条件を提示していなければ、米国は5年も早くShow-Timeを目撃することになっていました。

とっくの昔に、本塁打王やサイ・ヤング賞を獲ってたかもしれません。また、そうでなかったかもしれません。

たった一つ確かなことは、ベーブ・ルースを呼び覚ます二刀流の活躍はなかった、ということです。