土曜日午前中、大阪で一仕事終えて、病床の友達Oを見舞いに。

緊急事態宣言下ではままならなかったお見舞いですが、高校時代の皆んなも集まり同窓会モードになりました。

10代の頃の記憶は鮮明に覚えていると思いこみがちですが、忘れていることはすっかり抜け落ちています。

高校3年生になって初めて受けた模擬試験で全国的にも高い順位だったことに戸惑いながらも、すぐに2度目の模試も受けることになり、受験勉強の底の浅さを完全に見切った私はトップ10に。

その後も、受けるたびに模試を主催したいろんな予備校から賞金やらメダル、盾をもらったのですが、お金をもらったのはハッキリ覚えているものの、メダルや盾は全く記憶にありませんでした。

高校時代の私は「メダルや盾を見せて」という友達にあげてたというのですが、それも全く覚えてません。

賞金はハイエナのような先輩にタカられた記憶はあるものの、メダルや賞状は全く覚えがないのです。

友達Oも、そんなメダルをあげた一人でした。

彼は特別学級だったりして複雑な立場で、私は授業にも出ず、図書館に引きこもることが多かった問題児。

彼はときどき、図書館にいる私を訪ねて来ていましたが、どんな会話を交わしたのか思い出せませんが、そんななんてことない会話の中で彼にメダルをあげたというのです。

それを彼は「俺の友達にはすごい奴がいる」と、ずっと大切にしてくれていたというのです。

自分の中では真っ先に忘れてしまうことでも、他の人はしっかり覚えてくれていることがあります。

模試の話でいうと、大学に入ってから「あの〇〇君か?」と名前を出されて聞かれたことを覚えています。

模試の順位は大体いつも同じようなメンツでしたが、東京勢、超進学校が圧倒的に強い中で私はかなり異質だったようですが、正直、受験勉強の底の浅さ・くだらなさには辟易していたからでしょう、あらためてメダルを見せられても、何も思い出せません。

メダルの裏面に自分の名前が刻印されているのを、不思議に感じていました。

友達らに「お前は化粧箱を開けてメダルを見たり取り出すこともしないで人にあげてた」と言われて、よくそんなことを覚えてるなあと感心する一方で、そうだとしたらそりゃ記憶にないわ、です。
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ボクシングの試合について書こうと思っていましたのに脇道逸れまくり。自慢話はこの辺にして。

すべての試合を残念ながら録画でみました。。。


【田中恒成vs石田匠】

石田は、アルファベット団体によくいる雑魚ランカーよりもはるかに強いのは誰もが分かっていました。

それでも、多くの人は格の違いを見せて田中が勝つと見ていましたが、結論は「格は同じ」。

田中のスタイルは、相手の良さを引き出すプロレス型ボクシング。その卓越したスピードとテクニックは相手の良さを殺すこともできる、という楽観的な見方が瓦解した試合でした。

田中は、ズルいボクシングが出来ない。

これは褒め言葉なんかじゃありません。

東海の天才はまだ26歳、17戦しか戦っていませんが、私たちは彼の限界を見てしまったのかもしれません。

田中の試合は面白いから、大好きなんですが…もっともっとズルく戦え!



【亀田和毅vsヨンフレス・パレホ】

和毅は個体としては全く面白さのないボクサー。田中恒成とは真逆です。

女子ボクシングの観戦基準「アクションの多さ」に焦点を合わせるとまだ見れるとはいえ、それにしても非力さは目に余ります。ファイター型なのにパンチがない…悲劇(喜劇?)的な選手です。

とはいえ、世界トップレベルのスピードとテクニックを駆使するペチペチパンチャーは、怖さはなくても誰に取ってもやりにくい相手です。

「右拳を痛めた」のは見ていてもわかりましたが、それがなければKOしていたか?となるとそれはわかりません。世界レベルでは、底抜けに非力です。

41試合のキャリアを重ねた30歳が「面白い試合ができない」スタイルを変えることは不可能です。

そして、彼は不運にも日本ボクシング史上最も嫌われた蛇蝎一家の一人です。

「亀田」の〝汚名〟を払拭し、純粋な脚光を浴びる手段は一つしかありません。

ムロジョン・アフマダリエフとの大勝負です。

たとえ勝てなくても、そこで勇気を見せることができたなら。

嫌われ者一家の中で、ほとんど責任がない三男が贖罪に値する試合を見せることができたなら。

「亀田」の暴走と迷走の物語は美しい結末を迎えることになりますが…。