江戸幕府が欧米列強と結んだ安政五か国条約(安政5年=1858年にアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国それぞれと結んだ不平等条約)。

この条約によって築地に外国人居留地が開発されましたが、その面影は現在、ほとんど残されていません。

いつか、書きかけだった築地のお話です。
IMG_6452
異国情緒溢れる築地…。その名残は「居留地通り」という名前に、なんとか往時が想像できる程度です。

それでも、微かに漂っている残り香を感じることができる場所はあります。
IMG_6439
↑聖路加国際病院の敷地内に建っているのは、初代院長のルドルフ・B・トライスラーの名前を冠したトライスラー記念館という趣のある洋館。
IMG_6443
IMG_6444
IMG_6445
この洋館もかつての国際的な築地の姿を伝えてくれています。

それにしても、とても銀座至近のロケーションとは思えません。写真に写ってない所には結構人はいるのですか…。

さらに慶應や、立教、青山学院、明治学院、女子学院などのお洒落な学校の「発祥の碑」がそこかしこに見つけることもできます。

築地は日本屈指のお洒落で、アカデミックな街だったのです。
IMG_6429
IMG_6431
IMG_6433
IMG_6432
きっと、性格と頭の悪いお金持ちの子女が通っていたのでしょう…。

こんなこと言ってるから「昔、慶應の女の子にフラれてから八つ当たり的にいつまでも慶應を憎んでいるみたい」と根も葉もない噂を立てられてしまうのです、わし…。

そして、トライスラー記念館からすぐのところにあるのが、明治41年、1908年創立の明石小学校。
IMG_6442
公立(中央区立)とは思えない、なんだかお洒落な校舎です。

そしてその一角に、ガス灯がすっくと立っています。さらにガス灯の足元には、赤煉瓦が!!!
IMG_6436
IMG_6438
律儀なイギリス積みの赤煉瓦です。

関東大震災まで、銀座の街を彩った赤煉瓦通りの遺構です。

横浜や神戸、長崎の外国人居留地では商館が中心だったのに対して、築地は外国公使館・領事館が多く、宣教師や医師、教師などの知識人が多く住んでいたそうです。

学校や教会が多いのは、そんな理由からでしょう。

不平等条約を起点とした外国人居留地は明治32年に廃止されます。

横浜、神戸など大きな港町は現代に至るまで異国情緒漂う街の空気を残してている一方、築地のイメージは異国情緒はどんどん希薄化、築地市場や本願寺など一気に「和」に振れてゆくのでした。