不可解なスコアカードが生まれる最も大きな原因は、どのラウンドも無理矢理に「10-9」で振り分ける悪しき慣習が定着してしまったからです。

「バルデスvsコンセイサン」で117-110と採点してしまったステファン・ブレアも、二つの過ちを犯してしまったと反省、まず最初に挙げたのが「not to score 10-10 in 2 rounds I felt there was not a clear winner, (明白な差が無いと感じたにもかかわらず2つのラウンドで10−10を付けなかった)」ということでした。

世界中のどのコミッションでも「各ラウンドは独立した単位で判定する」のが基準です。

各ラウンドをバラで考える、というそれ自体が試合の全体像から離れてしまう採点につながるようにも思えますが、すぐに改定されるとは思えないここには触れないでおきましょう。

議論を呼ぶ判定の原因は「ジャッジに10-10を付ける勇気が無い」「10-9の幅が大き過ぎる」という2点に集約されます。

今回の「バルデスvsコンセイサン」は、その典型でした。

ざっくりいうと「明白に5ラウンドを抑えたコンセイサンを、微妙な7ラウンドを拾ったバルデスが上回った」展開です。

そして「各ラウンドは独立した単位(試合)として採点する」とするなら、ドロー試合と同程度の割合で10-10のスコアが出現するはずです。

しかし、そうはなっていません。ドローのラウンドは滅多に見ることができません。

ホセ・スライマン会長(当時)は「微妙なラウンドを振り分けるのがジャッジの仕事。10−10の乱発は実際の試合とは異なる結果を導いてしまう」と今聞くと「はぁ?」という声明を出しました。

安易に10−10、10−9を付けるのは、どちらもおかしな結果を招きます。

現在、ジャッジに「10−10」を付けることを逡巡させているのは、一度このスコアリングをしてしまうと以降のラウンドでより接近した内容になると10−10とつけざるをえない、結果10−10だらけのスコアになる危険を孕んでいるということです。

それが、早いラウンド、例えば1ラウンドで付ける勇気のあるジャッジは、ほとんどいません。

しかし、全く互角だと判断したら何ラウンド目であろうが10−10を付けるべきなのです。10−10だらけのスコア、それが試合の実態を反映しているのなら結構なことです。

例え、それで120−120のドローになったとしても。

「安易に10−10を付ける」のと「安易に10−9を付ける」のは、ジャッジが無能さを映す鏡のようなもので、同根です。

暗愚なホセ・スライマンが「10−9」を奨励したのは「シュガー・レイ・レナードvsロベルト・デュラン第1戦」(1980年7月20日)の採点を受けたものでした。
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この試合の採点は、Raymond Baldeyrou 144-146/Harry Gibbs 144-145/Angelo Poletti 147-148 。2点差が1人、1点差が2人のペーパー上は接戦でした。

デュラン勝利は妥当でしたが、人気者がタイトルを失ったことに納得できない(というポーズを人気者に訴求する)スライマンは「10−10のスコアが多すぎた」と、それぞれ5ラウンド、4ラウンド、そして10ラウンドをイーブンとしたジャッジを批判。

この試合が一つの契機となり、10−9スコアが支配的になります。

本来なら10−10とすべきラウンドが、無能なジャッジが頭の中でサイコロを転がすようにどちらかに振ってしまうようになりました。

そして、無能なジャッジが最も恐れるのは、自分の無能さがばれることです。明らかな「Aサイドにポイントを振れば無難」と考えるのは、無能として自然な思考回路です。

こうした〝10−9支配〟は「ボクシングは10−9を付けなければ ならない」と勘違いしているファンも生み出している有様です。

「浅いラウンドで10−10は付けられない」なんて言うのは「俺、無能」と表明してるのと同じです。