ボクシングは非常にグローバルで、非常にローカルなスポーツです。

地球上の全てのエリアで行われていますが、その成り立ちや見方は、エリアや国によって大きく違います。

サッカーはそれぞれの国にリーグがありますが、W杯や欧州リーグという究極にして共通の目標があります。

ボクシングの場合「リーグ」はその国で人気のある階級でしょうか。これは、その国に住む人間のサイズと大きな関係があります。

例えば、日本やアジアで人気のあるフライ級やバンタム級は、欧米ではまず見向きもされません。

アジアでスーパーヘビー、ライトヘビー、クルーザーが見向きもされないのと同じことです。

世界共通に人気があるのは、やはりヘビー級。

かつての輝きは失っているとはいえ、アジアの国から史上初の世界ヘビー級王者が出現すると、その国はもちろん日本でも大きなニュースとして報道されるでしょう。

また、米国で標準体型よりも小さいウェルター級の人気が高いことも例外的です。
nov21-cover-308x432
これはシュガー・レイ・レナードらによってスピードとパワーが高次元で結晶するボクシングの魅力が最も層の厚いクラス、つまりファンが惹きつけられる強烈なライバル関係が構築しやすいウェルターやミドル級から発信され続けているからです。

ヘビー級を中心に地球が回っていたレナード以前は、ウェルター級やミドル級が史上最大の興行規模を記録するなんてことは考えられませんでした。

それでも、関心が低く、層も薄い軽量級ではライバル関係だけでは注目されません。

しかし「マイケル・カルバハルvsウンベルト・ゴンザレス」「レオ・サンタクルスvsアブネル・マレス」「サンタクルスvsカール・フランプトン」などに代表されるように〝五輪メダリスト〟〝メキシコ〟〝英国・アイルランド〟などのスパイスが絶妙にブレンドされると、人気階級には及びませんが100万ドルファイターが突発的に誕生します。

ジュニアフェザー以下の超軽量級ではウェルターやミドル級、ヘビー級で見られるメガファイト「PPVイベントで1000万ドル以上の報酬」は、歴史上一度の例もないばかりか、常識的にありえません。

フェザー級まで視野を広げるとナジーム・ハメドがマルコ・アントニオ・バレラ戦でHBOのPPVに乗り、歩合報酬も含めて850万ドルを稼ぎ出しました。

しかし、HBOが寵愛を受けていたイエメン王朝などアラブ諸国から多額の放映権料(米国での試合の累計で約8000万ドル)を受け取っていたことを考えると、バンタム級の井上尚弥が「100万ドル」(ネバダ州アスレティックコミッションなどの発表ではなく大橋秀行会長の談話)の報酬を得ているのと同じ〝マッチポンプ〟です。

〝150年に一度の天才〟大橋会長と一部のファンは「米国で注目されているから、たくさんお金もらってるから凄いんです」「大谷翔平とおなじく米国で大人気なんです」という、フェイクを流しフェイクを信じる暗愚な信者に見えてしまいます。


井上本人は現地の空気から「(米国の観客は目が肥えてる?という質問に)いや、騒いでるだけです。大声で騒いでるだけです」となんとなく分かってるのは救いですが。

あの超格安の席料でも人が入らず、その辺を歩いてる人にグッズも渡して無料で入れていたのかもしれません。

当たり前ですが、米国で人気があるから面白い、ファイトマネーが高いから面白い、なんて理屈は全く成り立ちません。

ライバルがひしめくウェルター級は、負けないボクシングに徹する傾向が強く、期待はずれの内容が増えています。

ヘビー級もプロモーターの関係からメガファイトの成立にはいつも紆余曲折。

面白いかどうかは「ファイトマネーが天文学的数字になる」「上半期のESPNで視聴者数2位」とかそんなのどうでもいいんです。「150年に1人の天才」が勝手にほざいてたらいいんです。

大谷翔平の人気は、そんなどうでもいい瑣末なこととは離れて熱狂されています。

ジョンリール・カシメロの過去最高報酬は7万5000ドル。ジュニアフライ級王者当時は1万ドル以下のときもありました。日本でアルバイトしてた方がマシなくらいです。そして、フィリピンですら無名の時代が続きました。

しかし、カシメロのボクシングは間違いなく面白い(あのキューバ人との1戦は事故)。

凄いかどうか、面白いかどうかと「米国で人気がある」「天文学的ファイトマネー」は全く関係がありません。



〜井上のバンタム級が最も輝いていた70年代。

その主役はメキシカン、そのグレートの中でもカルロス・サラテは極彩色の輝きを放っていました。

リング誌11月号「GREATEST HITS: CARLOS ZARATE The all-time great Mexican wreaked havoc during a bantamweight golden era」(カルロス・サラテ:名勝負数え唄 バンタム級黄金時代に躍動したメキシコ史上最高のボクサー)から拙訳です。
 
GH-zarate-title-770x514

バンタム級史上最強選手、史上最高のノックアウト・アーチスト、メキシコの史上最最高のファイター…そんな議論は、カルロス・サラテ抜きで語ることはできない。

70戦のキャリアで喫した4つの敗北は、ウィルフレド・ゴメス、ルペ・ピントール、37歳で戦ったジェフ・フェネック、ダニエル・サラゴサ。

残りの66試合は66勝、そのうちKOは、なんと63を数える。途中9年間のブランクがあるにもかかわらず、66勝63KO4敗。

そんなキャリアを送った軽量級ファイターがいただなんて、信じられるか?

ボクシングは数字で語るスポーツではないが、これはボクシングファンの記憶に残る名勝負を繰り広げたエリートの数字。チェリーピック(雑魚狩り)で集めた66勝63KOではないのだ。


ザラテは1951年5月23日にメキシコシティで生まれ、幼少期はラモス・ミラン地区とテピート地区を行き来しながら過ごした。

「私のボクシング技術はラモス・ミランで身につけた。メキシコでも非常に治安の悪いエリアだ」。


末っ子のカルロスは小さい頃から乱暴者で、16歳のときにボクシングを始めた。アマチュアのキャリアをスタートするのは18歳になってから。

その才能は最初から別格だった。

アマチュアで33勝3敗、30回のKOを記録。

身長5フィート8インチ(173㎝)のザラテは、バンタム級としては異例の体格だったが、それ以上に語り継がれているのがパンチの重さだった。

1970年2月にプロに転向したザラテは、1974年秋にアメリカでも試合を行っている。

1976年にタイトルを獲得したときの星勘定は、39勝38KO。

カリフォルニア州イングルウッドのフォーラムに集まった17,000人以上の大観衆の前で、WBC王者ロドルフォ・マルティネス相手に3-1のオッズの通りに、優勢に試合を進め9ラウンドで終わらせた。

そして、3度の防衛をいずれのノックアウトで片付けたザラテは、ライバル王者WBAのアルフォンソ・ザモラとの決戦の舞台に上がる。


1977年4月23日。会場はもちろん、カリフォルニア州イングルウッドのフォーラム。


◆当時を私は知る由もありませんが、この試合がいかに大きな試合であったかは、のちにいろんな人の声や書籍から何度も思い知らされます。そして、このイングルウッドのフォーラムがメキシコボクシングに大輪の花を咲かせる種や土になることも。◆


このとき26歳のサラテは45戦全勝44KO、対する23歳のサモラは29戦全勝29KO。

当時のWBAとWBCは「お主もなかなかの悪じゃのう」という「同じ穴の狢」を自覚していない、単純で深い敵対関係にあった。

それでも、この対決が実現したのは両陣営に、WBAとWBC以上の憎悪が渦巻いていたこと、そしてこの試合をノンタイトルの120ポンドのキャッチウェイトで行うことで妥協点を見出したからだった。

2人はメキシコの伝説、クーヨ・エルナンデス門下で世界王者になった。

Non-title bout – the famous “Battle of the Z-Boys.

ZarateとZamora、若い2人はZ-Boys の愛称で国民的英雄なっていたが、サモラは金銭面を巡る確執でクーヨと袂を分かち、両者は「裏切り者の守銭奴」「奴隷契約を強いる金の亡者」と違いを罵り合い、憎悪の沼は深くなる一方。

そこで、リングの上での〝決着戦〟が用意されたのだったから、戦前からファンも巻き込んでオーバーヒート。試合直前には会場の変圧器が故障、爆音を響かせてフォーラムの天井を焦がす事故が起きた。

人気はミュンヘン五輪銀メダリストのサモラが優っていたが、勝敗予想は真っ二つ。

「この試合には複雑な感情がいくつも絡み合っていた。タイトルがかかっていなかったのが残念だった」とサラテは振り返るものの、ファイトマネーは「通常の10万ドルに、契約書に明記されない10万ドルが上積みされた。モチベーションが跳ね上がったよ」。

◆サモラの報酬は10万ドル、サラテの報酬と合わせても30万ドル。現在とは為替相場が違い、メキシコと日本の貨幣価値はもっと違いますが、同時代の大場政夫や輪島功一、具志堅用高らと比べて、けして驚くような報酬ではありません。しかし、サラテvsサモラが今なお語り継がれる世界的な大勝負であったことは間違いありません。 
 
スクリーンショット 2021-09-19 10.55.11
変圧器までオーバーヒートさせる試合は、第1ラウンドに1人の男がリング内に闖入。

〝空手ポーズ〟をとる男にZ-Boys も主審のリチャード・スティールも唖然。男は警備隊5人がかりでリング外に叩き出された。

きっと、この空手男も〝バンタム級〟史上最大の決戦の高熱にうなされていたに違いない。

コーナーポストにコロナビールの広告がある以外は簡素極まるリング、両者ともに赤のレイジェスに赤のトランクス、どこまでもひたすらクラシックな大勝負だった。

そして、ロープはまだ3本。4本ロープの契機になった「エミール・グリフィスvsベニー・パレット」(1962年3月24日)から15年の歳月が流れていたが、メキシコではまだ4本ロープは完全ルール化されていなかった。

第4ラウンド、サモラが3ラウンドに続いて2度目のダウン。 


◆完全に効いています。これがフォーラムではなく、ラスベガスならスティールはすぐ試合をストップしたかもしれません。ただ、それではサモラのファンが暴動を起こしたでしょう。◆


このラウンド2度目のダウンは、サラテの左アッパーのダブルから右アッパー。うつ伏せに沈んだサモラは弱々しく体を仰向けると、ちょうどその顔の上に父親が投げたタオルがふわりと落ちた。

 サモラ父がリングに駆け上がったのは息子の介抱のためではなく、クーヨ・エルナンデスをぶん殴るためだった。

「最後のパンチはダウン後に打った反則だ!120ポンド契約もジャッジも何から何までサラテに有利、こんな試合は認められない!インチキだ!」。

変圧器も空手男もサモラ父も、何もかもがオーバーヒートした試合が終わった。


◆負けてから何を言っても、始まりません。試合は終わってしまったのです。だからこそ、Bサイドに回る試合は慎重に契約しなければならないのです。カネロと戦うボクサーが交渉をコジらせるのは、報酬の吊り上げだけが目的ではありません。

サモラはサラテ戦から引退までの9試合を4勝5敗、黒星はいずれもKO負け。 

一つの敗北を境に、別人になってしまう。アルフォンソ・サモラは、そんな哀しいボクサーの典型でした。

しかし、サラテ戦の何もかもが記憶に残る一戦、そしてサラテ戦までのパーフェクトレコードは日本のボクシングファンも一生忘れることなく、いつまでも語りつがれるでしょう。 ◆