1980年代という時代は私にとっては小学、中学、高校、大学を過ごした時代になります。
そんな、個人的な事情からも80年代は特別でした。
高度成長期はとっくに終わり「明日は今日より素晴らしい」とは誰も信じていなかったにもかかわらず、日本は妙に浮き足立っていた80年代。
私はプロレスラーになれない絶望を抱えて中学へ。プロ野球選手の夢も砕け散って高校進学。
高校の図書室と小さな映画館が、私の逃げ場所でした。
私の周囲も、受験やイジメ、ノストラダムスの大予言、オカルトブームなど…70年代から引きずっていた経済優先の歪みが表面化していました。
本当なら、その代償を清算すべき時代が80年代でした。
しかし、80年代は現実や足元を直視することのない「その日が楽しければいい」というパーティな時代に踊り狂いました。
かくいう私も後先のことを考えずに、仁徳天皇陵に〝ゴロゴロ転がってるという人間の頭ほどのダイアモンド〟を目当てに夜中にゴムボートで潜入したり、あちこちで喧嘩したり、学校サボってカビ臭い映画館にこもってたり…。
まともじゃなかったです。
「ノストラダムス」が大嘘なのも、仁徳天皇陵にビーチボール級のダイアモンドなんて転がっていないことも、よくわかってました。
いくらなんでも当たり前です。そこまで馬鹿じゃないです…その一歩手前くらいの馬鹿でしたが。
受験勉強がくだらない作業で、イジメが臆病者の卑劣な病気であることもわかってたように、世の中はくだらないことばかりで溢れてると、10代半ばで厭世的になってました。
中学3年、期待していたスポーツ推薦はどの高校からももらえず、有名校から一般入試を薦められたのもショックでした。
高校は甲子園とは無縁の公立高校に進学、私は不登校になり、引きこもりました。
野球部と陸上競技部に籍を置いて練習や試合には出るけど学校は休みがち、という「世の中ナメとんか」な高校生でした。
「授業休んだ日は部活はさせない」「授業中に図書室にこもるのは禁止、図書室にカギかける」と怒り狂う先生もいましたが、何故かなし崩し的に看過されて卒業まで出来ました。
一部の先生やチームメイトらが尽力してくれたお陰でした。
ある日、健康診断だと言われて保健室に来たお医者さんに問診を受けたことがありました。
担任の先生から「授業の欠席は病気のため、部活はリハビリの運動じゃ」と〝お墨付き〟を頂きました。
しかし「学校行きたくないやつは他にもたくさんいるだろうに、自分だけ優遇されるのは嫌だ。学校辞めたっていい」みたいなことを伝えました。
先生は「学校に行きたないやつはいるやろ。でも、明日から来てもこんでもええぞと言って、ホンマに来ぇへんやつはいない。だから、お前だけズルいという文句は出ない」と言った後「それにお前はきっと、簡単に結構な大学に受かる。うちは公立やからどこぞの大学に何人入ったかなんてそこまで気にせぇへんけど、まあもったいないのはもったいない」と、学年でも成績最下位の私が「はあ?」となるようなことをノタまうのでした。
この先生が自称・元学生運動の闘士。この元闘士には何故か右翼の知り合いがいて、その右翼が連れてきた私と同学年の右翼の卵と4人で、丹波篠山の山奥でイノシシ鍋をつつきながら大酒を食らったことがありました。
公立高校の教師が未成年の教え子と右翼を炉端焼きで引き会わせて、アホほど酒飲ませる…今なら大問題です。
もちろん、当時も違法です。
「なんでこんな人里離れた猪鍋屋に連れてきたか分かっとんな?内緒やからな」とクギを刺されましたが、その先生本人が口の軽い陸上部のキャプテンにバラして、とにかく大変なことになりました。
そういえば、大学1年生は未成年ですが、みんな大手振って酒飲んでました…。
暗かった高校時代。でも、時間が経って思い返すと笑ってしまうほど、悩んでたことはくだらないことです。
プロ野球選手になれないと思ってショック受けるとか、今の私が当時の私に会えれば「報徳や東洋大姫路に行かんでもプロ野球選手になれるやろ!本気でやりたいなら本気でやれ!」と叱り飛ばしますが、あの頃、結局はいろんなことから逃げ出したかっただけでした。
現状への鬱屈と、未来への不安と、自己嫌悪と、いろんな負の感情にグラグラ揺れながら毎日を過ごしていた私の暗い80年代。
それなのに、、、見た目も実力も圧倒的な存在感をし、何よりも威風堂々としていたのがハグラーでした。
私とは正反対で、誰からも逃げない、最強の世界チャンピオンでした。
80年代、すでに米国ボクシングは凋落の坂道を転がり、団体と階級の増殖はボクシング界の内部からも批判が沸き起こっていました。
未来は必ず明るい…なんてことはない。
経済発展の行く末に幸せが待っている…そんなわけがない。
世の中に絶対なんて、ない。
そんな諦めと後悔から、現実を直視出来ずに日本中が「今が楽しければいいや」と踊り明かしていた80年代。
3Belt-Eraに突入したボクシングのリングも、新設階級とジュニア階級の水増しが進む中で、オリジナル8の純正クラスの重みまでもが軽くなる一方でした。
そんな80年代のボクシングシーンで、ミドル級の牙城を頑固に守るLneal Championであり、Undisputed Championとして君臨していたハグラーは重い存在でした。
安易な世界戦が繰り返されるリングで、ビッグファイトといえばハグラーの防衛戦、そのリングは安易さとは無縁の非情な王者による。殺戮現場でした。
チャンピオンとは威厳の称号です。
複数階級制覇のための数字稼ぎや、人気階級に飛び立つための踏み台であってはいけません。
世界に一つしかない王座を恐ろしいほど強いチャンピオンが守っている。
その挑戦者はファンやメディアが望む最強のラインナップ。
軽薄な80年代の真っ只中で、マーベラス・マービン・ハグラーのリングはどこまでも重厚でクラシックでした。
そんな、個人的な事情からも80年代は特別でした。
マーベラス・マービン・ハグラーは1980年年9月27日、英国ロンドン・ウィンブリーアリーナで世界ミドル級 Undisputed Championのアラン・ミンターを3ラウンドで粉砕、ついに世界王者になりました。
当時、日本では英語の発音通りに「ヘイグラー」と表記されていました。
ヘイグラーでも十分強そうですが、すぐに「ハグラー」になりました。
ハグラー!ハグラーです!もはや人名ではなく怪獣の名前に近い語感です。しかも、あのルックスでハグラー。もう、絶対に弱いわけがありません。
そういえば、黒人アスリートが頭髪を剃り上げるのは、ハグラーがハシリではなかったでしょうか?
1973年5月18日のプロデビューから7年4ヶ月の歳月と、53戦49勝40KO2敗2分という長い旅路の果てについに辿り着いた王座でした。
勝利の瞬間、ハグラーは膝まづき号泣しました。
とはいえ、私はリアルタイムでこのシーンを見ていません。
ずっと後になって(といっても若い頃の「ずっと後」は半年後だったりします)ハグラーが涙に咽び、ペトロネリ兄弟と抱き合う光景を目にしたとき、感動というよりも「あの恐ろしいほど強いハグラーが泣いている」と戸惑ってしまいました。
心ないロンドンの観衆はハグラーにビールの入ったままの紙コップを投げ、罵声を浴びせましたが、そんなことまで本当に格好良く映りました。
先の話をするのは憚られますが、村田諒太がゲンナディ・ゴロフキンを倒せば、次はあいつしかいません。
その場所は東京ドームである必要は全くありません。
あいつの家に乗り込んでやりましょう。ラスベガス最大のハコ、T−Mobileアリーナか。あるいは、テキサスのAT&Tスタジアムか。
会場がしょぼいベガスは嫌ですね、やっぱり巨大スタジアムがいいです、AT&Tスタジアムです。
テキサスなら、来年は入場制限も解除されているでしょう。7万人、360度アウエーのリングに上がる村田を見たら、もう死んでもいいです…いや、勝つのを見届けたら死んでもいいです…絶対死にませんが、きっと泣きます。
やっぱり、完全敵地で勝つ、それもアンダードッグで、というのがドラマティックです。
ちなみに、ハグラーは生涯、一度もアンダードッグを経験せずにグローブを吊るしました(実際にはデビュ−15戦目はアンダードッグだったと推測できますが、キャリア初期です)。
五輪メダリストなどの温室エリートや、穴王者と雑魚挑戦者が選り取り見取りの4-Belt Eraならいざ知らず、ハグラーの時代は2-Belt Eraと3-Belt Eraの端境期、ましてやハグラーはミドル級のUndisputed Championです。
ハグラーがどれほど強かったか、強いと認められていたかの証明の一つです。
「無冠の帝王」「議論する余地のない王者」「リネラル王者」「リング誌王者」「パウンド・フォー・パウンド」「シーザースパレス特設リング」…マーベラス・マービンが発信してくれる言葉に初耳はありませんでしたが、その意味は正確には理解していませんでした。
「無冠の帝王」「議論する余地のない王者」「リネラル王者」「リング誌王者」「パウンド・フォー・パウンド」「シーザースパレス特設リング(カジノ)」…それらは一つ残らずボクシング界の闇を映す鏡言葉であることを、これ以上ないわかりやすさで教えてくれたのがハグラーでした。
私は、ハグラーから世界のボクシングを習ったといっても過言ではありません。最強で最高の先生でした。
1980年9月27日に戴冠し、1987年4月6日までの6年6ヶ月と10日。
マーベラス・マービン・ハグラーが支配した6年6ヶ月は、ボクシング史上最も絶対的で濃密な王朝でした。
↑仁徳、いまは大仙陵古墳。
1980年代。
高度成長期はとっくに終わり「明日は今日より素晴らしい」とは誰も信じていなかったにもかかわらず、日本は妙に浮き足立っていた80年代。
私はプロレスラーになれない絶望を抱えて中学へ。プロ野球選手の夢も砕け散って高校進学。
高校の図書室と小さな映画館が、私の逃げ場所でした。
私の周囲も、受験やイジメ、ノストラダムスの大予言、オカルトブームなど…70年代から引きずっていた経済優先の歪みが表面化していました。
本当なら、その代償を清算すべき時代が80年代でした。
しかし、80年代は現実や足元を直視することのない「その日が楽しければいい」というパーティな時代に踊り狂いました。
かくいう私も後先のことを考えずに、仁徳天皇陵に〝ゴロゴロ転がってるという人間の頭ほどのダイアモンド〟を目当てに夜中にゴムボートで潜入したり、あちこちで喧嘩したり、学校サボってカビ臭い映画館にこもってたり…。
まともじゃなかったです。
「ノストラダムス」が大嘘なのも、仁徳天皇陵にビーチボール級のダイアモンドなんて転がっていないことも、よくわかってました。
いくらなんでも当たり前です。そこまで馬鹿じゃないです…その一歩手前くらいの馬鹿でしたが。
受験勉強がくだらない作業で、イジメが臆病者の卑劣な病気であることもわかってたように、世の中はくだらないことばかりで溢れてると、10代半ばで厭世的になってました。
中学3年、期待していたスポーツ推薦はどの高校からももらえず、有名校から一般入試を薦められたのもショックでした。
高校は甲子園とは無縁の公立高校に進学、私は不登校になり、引きこもりました。
野球部と陸上競技部に籍を置いて練習や試合には出るけど学校は休みがち、という「世の中ナメとんか」な高校生でした。
「授業休んだ日は部活はさせない」「授業中に図書室にこもるのは禁止、図書室にカギかける」と怒り狂う先生もいましたが、何故かなし崩し的に看過されて卒業まで出来ました。
一部の先生やチームメイトらが尽力してくれたお陰でした。
ある日、健康診断だと言われて保健室に来たお医者さんに問診を受けたことがありました。
担任の先生から「授業の欠席は病気のため、部活はリハビリの運動じゃ」と〝お墨付き〟を頂きました。
しかし「学校行きたくないやつは他にもたくさんいるだろうに、自分だけ優遇されるのは嫌だ。学校辞めたっていい」みたいなことを伝えました。
先生は「学校に行きたないやつはいるやろ。でも、明日から来てもこんでもええぞと言って、ホンマに来ぇへんやつはいない。だから、お前だけズルいという文句は出ない」と言った後「それにお前はきっと、簡単に結構な大学に受かる。うちは公立やからどこぞの大学に何人入ったかなんてそこまで気にせぇへんけど、まあもったいないのはもったいない」と、学年でも成績最下位の私が「はあ?」となるようなことをノタまうのでした。
この先生が自称・元学生運動の闘士。この元闘士には何故か右翼の知り合いがいて、その右翼が連れてきた私と同学年の右翼の卵と4人で、丹波篠山の山奥でイノシシ鍋をつつきながら大酒を食らったことがありました。
公立高校の教師が未成年の教え子と右翼を炉端焼きで引き会わせて、アホほど酒飲ませる…今なら大問題です。
もちろん、当時も違法です。
「なんでこんな人里離れた猪鍋屋に連れてきたか分かっとんな?内緒やからな」とクギを刺されましたが、その先生本人が口の軽い陸上部のキャプテンにバラして、とにかく大変なことになりました。
そういえば、大学1年生は未成年ですが、みんな大手振って酒飲んでました…。
暗かった高校時代。でも、時間が経って思い返すと笑ってしまうほど、悩んでたことはくだらないことです。
プロ野球選手になれないと思ってショック受けるとか、今の私が当時の私に会えれば「報徳や東洋大姫路に行かんでもプロ野球選手になれるやろ!本気でやりたいなら本気でやれ!」と叱り飛ばしますが、あの頃、結局はいろんなことから逃げ出したかっただけでした。
現状への鬱屈と、未来への不安と、自己嫌悪と、いろんな負の感情にグラグラ揺れながら毎日を過ごしていた私の暗い80年代。
それなのに、、、見た目も実力も圧倒的な存在感をし、何よりも威風堂々としていたのがハグラーでした。
私とは正反対で、誰からも逃げない、最強の世界チャンピオンでした。
80年代、すでに米国ボクシングは凋落の坂道を転がり、団体と階級の増殖はボクシング界の内部からも批判が沸き起こっていました。
未来は必ず明るい…なんてことはない。
経済発展の行く末に幸せが待っている…そんなわけがない。
世の中に絶対なんて、ない。
そんな諦めと後悔から、現実を直視出来ずに日本中が「今が楽しければいいや」と踊り明かしていた80年代。
3Belt-Eraに突入したボクシングのリングも、新設階級とジュニア階級の水増しが進む中で、オリジナル8の純正クラスの重みまでもが軽くなる一方でした。
そんな80年代のボクシングシーンで、ミドル級の牙城を頑固に守るLneal Championであり、Undisputed Championとして君臨していたハグラーは重い存在でした。
安易な世界戦が繰り返されるリングで、ビッグファイトといえばハグラーの防衛戦、そのリングは安易さとは無縁の非情な王者による。殺戮現場でした。
チャンピオンとは威厳の称号です。
複数階級制覇のための数字稼ぎや、人気階級に飛び立つための踏み台であってはいけません。
世界に一つしかない王座を恐ろしいほど強いチャンピオンが守っている。
その挑戦者はファンやメディアが望む最強のラインナップ。
軽薄な80年代の真っ只中で、マーベラス・マービン・ハグラーのリングはどこまでも重厚でクラシックでした。
コメント
コメント一覧 (5)
アンドレと!!
なかなか夢がありますね!!
そして勝つ術が思い浮かばない…。
あの巨体…。
子どもの頃はそんなこと考えて毎日がキラキラしてました。
私もストリートファイターになって世界中の強豪としのぎを削ることを夢想していましたが現実はそこまで甘くなかったです。笑
フシ穴の眼
がしました
先日YouTubeで初代タイガー見て本当に身体能力すごいな、と驚かされました。
練習量もハンパではないし、なるのも続けるのも大変そうです…。
フシ穴の眼
がしました
四天王の活躍、その中心人物がハグラーでしたね。彼は一体何度スポイラの表紙を飾ったことでしょう。「サウスポー、黒人、強すぎる」この不利な条件を背負いながら体制の壁を乗り越えていった万物のチャンピオン、マーベラス・マービン・ハグラー。
かつて、このハグラーに東洋太平洋王者が挑戦という話がありました。仮契約を結び、一時は期日まで発表されたましたが実現に至りませんでした。とても残念でしたね。しかし、ハグラーがワールドチャンピオンとして世界を見ていたことに間違えはありません。
素晴らしいヤツ、そして真の王者、マービン・ハグラー。
私からもご冥福をお祈りいたします。
フシ穴の眼
がしました
渡辺二郎の業と心の師 ,
『世界 ミドル級王者 』
マーベラス マービン. ハグラー
振り返ってみると、忍耐、努力、強い!凄い!
偉大なコンバーテットサウスポーボクサーですね。
雑誌で最も進化したサウスポーと記されていました。
このブログを拝見させてもらい、あらためて
世界を目指すボクサーのお手本とわかりました。
弱小ジムからの敵地での世界タイトル奪取
マーベラスサクセスです。
大きくて強いプロモーターの後ろ楯が、いないのか?
デュラン、ハーンズ戦は、王者なのに、
ハグラーは青コーナ側でした。
レナード戦は、どちらも、勝ってもおかしくないとおもいましたが.....
後ろ楯の差がでたのか?
再起、リマッチと思われましたが、潔く引退。
モルソン、ポプキンス、G G G,カネロ、
歴代安定世界ミドル級王者と比べられない
別格でした。
ご冥福お祈りいたします。
フシ穴の眼
がしました