井上尚弥以前に、原田超えに挑んだ5人のグレート。

大場政夫と具志堅用高、辰吉丈一郎、長谷川穂積、西岡利晃。

この中で、モダーン部門で殿堂入りを果たしたレジェンドはいません。というか、日本ボクシング史上でモダーン部門での殿堂入りはファイティング原田ただ一人だけです。

大場と具志堅はオールドタイマーで殿堂入りしましたが、モダーン部門で〝時間切れ〟した結果です。もちろん、オールドタイマーでもとんでもない偉業です。

さて、クロニクル形式でのご紹介になります。


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今日放送されたダイナミックグローブ「WBO世界フライ級王者決定戦:中谷潤人vsジーメル・マグラモ」でもオープニングに登場したのは大場政夫でした。

1949年生まれの大場が思春期を過ごした60年代は、空前のボクシングブームが日本列島を包み込み、元旦から興行が打たれ、週に10本以上のプロボクシング中継がオンエアされる時期もありました。

中学を卒業した1965年、アメ横の菓子問屋・二木商店に住み込みで就職した大場はすぐに帝拳ジムの門を叩きます。翌年11月には17歳でプロデビュー。
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大場が世界王者になったのは1970年10月22日、日大講堂。

WBAからWBCが分離独立してからまだ4年しか経っていないとはいえ、当時はすでに二団体時代です。

対戦相手は両親ともに中国人ながらタイ人というWBAフライ級王者ベルクベック・チャルバンチャイ。

このときのWBC王者はチャチャイ・チオノイでしたから、タイがフライ級2団体のピースをコンプリートしていたことになります。

〝中国人〟チャルバンチャイは母国タイで人気がなかったため、日本のリングに簡単に引っ張り込まれてしまいました。

しかも、相手は大場。

4団体時代の現代と比べて、大場の時代は2団体11階級。世界挑戦の道は今の2倍以上険しかったと想像しがちですが、現実はそれどころではありません。

まだ、承認団体が今のように腐りきっていない時代です。

日本のボクシングファンにとって身近なところでは「ミゲール・コットと亀海喜寛がWBOの世界ジュニアミドル級王者決定戦」は典型です。コットと亀海の勝者が〝世界一〟だなんてシュールにもほどがあります。

しかし、大場は「日本」「東洋」「世界」の王者をことごとく撃破して、世界初挑戦の舞台に上がったのです。

それだけなら、今でもカネロちゃんのように世界中で散見できます。ロートルの元王者を蹴散らして世界挑戦、よくある話です。

しかし、大場のケースはノンタイトルながら…なんと全て「現役」だったのです!

おそらく、当時のオッズも予想も挑戦者・大場の圧倒的有利だったでしょう。そして、その通りに13ラウンドKOでタイトルを強奪します。

それでも、二団体時代。理屈では大場も a champion の1人に過ぎませんでした。 

大場に「a」(有象無象の王者の一人)なんてくだらない冠詞は全く似合いません。

大場には「The=Only 」こそが似合います。

その理由が、王者のまま夭折したからではなく、その戦い方、その勝ち方、その振る舞い方がまさしく「The」Fighterであったからだと、偉大なフライ級をリアルタイムで知らない私でも簡単に想像することが出来ました。

彼がa championなどではないことは、その余熱のあまりの熱さからハッキリと、私にでも伝わったのです。

余熱で後世のファンを焼き焦がすボクサーなど、滅多やたらにいるわけがありません。

大場の灼熱のオーラをリアルタイムでヒリヒリ感じらことが出来た往年のボクシングファンには、もう激しく嫉妬するしかありません。

そこには、団体統一やPFPなどの「頭でっかちな取扱説明書」など一切不要の、二つの拳がただ燃えたぎるだけの熱気の渦が咆哮していたはずです。

大場にあって井上尚弥に無いもの、それはこの崖っ淵のヒリヒリ感に他なりません。

そして、その人生と同様に生き急ぐような激しいファイト、試合前のただでは済まないという嵐の予感。

さらに、自らが現役王者をことごとく粉砕した「ノンタイトル」という危険地帯に、世界王者になっても躊躇なく踏み込んでいったのも、まさに「This is 大場」でした。

彼にはきっと、怖いものなど何もなかったのです。

1970年10月22日に世界王者になってから、1973年1月2日(こんな正月に世界戦があったんですね…箱根駅伝どころじゃないです)にチャチャイ・チオノイを大激闘の末に12ラウンドKOで決着させ5度目の防衛に成功するまで、大場は10度リングに上がっています。

「10試合」ー「世界戦6試合」=「4試合」。

そうです、世界王者になってからも4試合も、大場は危険なノンタイトル戦のリングに、嬉々として上がっていたのです。

もちろん当時、世界王者がノンタイトル戦を挟むのことは、珍しくはありませんでしたが、相手はいずれも現役世界ランカーや未来の世界挑戦者だったことは特異でした。

もし、大場が当時のバンタム級王者やフェザー級王者からオファーが届いたら、二つ返事で受けていたでしょう。

なにしろ、1972年にあのモハメド・アリが来日、日本武道館でマック・フォスターのノンタイトル15回戦を戦った試合を見て「ヘビー級ならもっと迫力があると思ったのに、アリから学ぶものは何もねえな」と言い放ったのですから。
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井上尚弥は、大場が出来なかったモダーン部門での殿堂入りの可能性を秘めています。

そして、井上はきっと後輩思いの素晴らしい指導者になるでしょう。解説者席に座っても、バラエティ番組に出演しても、今と同様か、それ以上にそつなくこなすでしょう。



そんな優等生・井上と比べて、大場ときたら…。

あのバカは「もし」の世界があるなら、どんな「引退後」を送っていたでしょうか?

勝手な偏見ですが、ロクでもない辛辣なご意見番になっていた気がします。

そして、本田明彦は、あんなにのびのびと生きて、世界的なプロモーターになれなかったかもしれません。

何よりも大場政夫なら、きっとモダーン部門で殿堂入りを果たす偉大な〝続き〟を、必ず魅せてくれていたに違いありません。



「井上?なかなか良い選手だな、あれは。日本歴代3位でも良いかもな?俺と原田さんの次にしてやるよ。あ?でもこれ、辰吉にも言ってたなあ、俺。アッハハハハ!3番以下は誰でもいいよ」。

余熱ですらボクシングファンを焼き焦がしてしまうチャンピオンですから、今生きていたら、余計なことをあちこちで発言、行動して、あちこちで炎上していたかもしれません。



見たかったです。本当なら今、71歳になっている大場政夫を。 炎上しても悪びれない大場政夫を。

大場の試合を見るたびに、胸が詰まります。



それにしても…それにしても…。

あなたは、リングの上では、信じられないくらいのダイ・ハードだったじゃないですか!

なんで、あんな緩いカーブを曲がれなかったんですか、…バカ!