ジョンリール・カシメロ

前回は「アムナット・ルエンロンとの2試合を見れば十分」と書いた31歳のフィリピン人ですが、その戦いぶりは、見れば見るほど不気味です。

井上尚弥はカシメロを「バカ」と表現しましたが、ボクシングファンでその言葉を額面通りに受け取った人は誰もいません。

現在、日本最高のボクサーが「バカ」と発したのは、最高レベルの警戒信号です。

これ以上ない簡潔で的を射た、さすがの表現です。

WBSSバンタム級トーナメントで事実上の決勝戦といわれたエマヌエル・ロドリゲスを井上は「気持ちが弱い」と見下しました。

対戦相手を卑下することがない井上にしては、珍しいというよりもあまりにも意外な言葉でした。あの謙虚な青年が対戦前に相手をここまで見下すか?とその真意を測りかねました。

多くのトップアスリートがそうであるように井上も感じたことをわかりやすい言葉にして、聞く者に伝えてくれる才能の持ち主です。そして、出来るだけ嘘はつかないようにしているのもわかります。それは、王者のプライドでもあるでしょう。

ロドリゲスとフェイスオフした感想を聞かれて「気持ちが弱い」と即答したのは、それほどまでに弱さが、疑いようもない弱さが滲み出ていたからに違いありません。

カシメロは不気味なボクサーです。

アムナット・ルエンロンとの2戦、そして直近のゾラニ・テテとの1戦。この3つがオッズで大きく不利と見られた試合でした。
John-Riel-Casimero-Amnat-Ruenroeng-Reuters-Damir-Sagolj
アムナットとは初戦から因縁があるにしても、対戦相手をあからさまに侮辱するのも反骨のフィリピン人のやり方です。

明らかなアンダードッグにもかかわらず「番狂わせの可能性も高い」という専門家予想も少なくありませんでした。

29勝20KO4敗、KO率60.61%。その小さな両拳に、軽量級としては破壊力十分のパワーを秘めているのですから「番狂わせ」の可能性があるのは当然です。

とはいえ、カシメロの試合から「一発がある」というだけで専門家が波乱の匂いを嗅ぎ取ったわけではありません。

確かにアムナット2にテテ、いずれの試合もその瞬間まで相手ペースの展開を一発で引っ繰り返しました…デオンティ・ワイルダーに代表されるワン・パンチャーの真骨頂です。

しかし、ワイルダーの逆転の一撃が意外なほど美しく理に適った軌道で真っ直ぐ放たれるテキスト・スタイルであるのに対して、カシメロのパンチがそう表現されることはありません。

フィリピンの野人が放った逆転のパンチには「awkward(見栄えが悪い)」「strange angle(見たことがない角度)」「 bizarre(奇妙な)」という、教科書に刃向かった形容詞が踊ります。 

さらには、テテ戦を実況した英国BTスポーツには「It wasn't intended.(あれは意図して撃ったパンチじゃない)」と決めつけられる始末です。

もちろん、それは英国の実況アナウンサーの間違いです。パンチャーが意図なしで放つ拳は一発もありません。無意識に放っているように見えても、全てのパンチには確かな悪意が込められているのです。

教科書に沿った教育からかけ離れたQuadro Alasのボクシング。

そして、あの傍若無人な態度が不思議なほど反感を買わないのは、そこに演技の匂いがしないからでしょう。

野獣があげる威嚇の唸り声に似ているからでしょう。あれはパフォーマンスや挑発ではなく、カシメロの素なのです。

現時点のカシメロの実績や技術は、高い評価に値しません。軽率で感情的で一貫性のない本能剥き出しのボクシング。

カシメロよりも上手くて強くて引き出しのあるボクサーはいくらでもいるでしょう。しかし、おそらく彼らのほとんどは、1人残らず見たことがない角度から放たれる奇妙なパンチに沈められるはずです。

井上が魅せた狙い澄ましたカウンターや、一瞬のタイミングを逃さないジャブクロス、教科書の最新ページで紹介されるような高等技術は、カシメロの13年間33試合のキャリアの中にはヒトカケラも見つけることができません。

ときどき目にするのは「見栄えの悪いスタイル」で、「見たことがない角度」から放たれる、「奇妙なパンチ」。

そして「なんじゃ、あのパンチは?」という変な一撃で、相手は想像をはるかに上回る甚大なダメージを負うのです。

「アムナットは打たれ弱い」「テテの顎はガラス製」。最初からわかっていたことです。変なパンチで倒されちゃっても不思議じゃない2人です。

アムナットもテテも被弾の理由を「一瞬気を緩めてしまった」と、油断にあったと後悔しました。オッズも予想も有利だったのですから、敗北の理由が自分たちの中にあるのは当然です…普通なら。

そう。普通なら。

井上の〝被害者〟たちが敗因にモンスターの技術やスピード、パワーを口にするのとは対照的です。

アムナットとテテが気を緩めてしまったのは事実でしょう。しかし、どうして素人目にもあの危険な距離で油断してしまったのでしょうか?

もしかしたら油断したのではなく、させられたのだとしたら?

もちろん、百戦錬磨の2人が隙を作るように落とし込んでいく周到な罠をカシメロが仕掛けたとは到底考えられません。

しかし、確かな事実は2人が一瞬だけ油断したこと。そして、その一瞬の刹那をカシメロが見逃さなかったということです。

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番狂わせを起こした2試合に対して、直近の敗北は2017年9月16日、3−1のオッズを引っ繰り返されたジョナス・スルタン戦でした。

完全に有利と見られていたにもかかわらず、マニラ・ブレティン紙は「カシメロは波が大きいボクサーで、その振幅は予想しやすい。母国で同じフィリピン人と戦うことは彼の波が下がる原因になりうるから、スルタンにもチャンスがある」と正確に予想していました。

試合は、スルタンが冷静にカウンターを決めて試合を進める一方で、カシメロの大きなスイングが空転。終盤の反撃も虚しく3−0で判定を落としてしまいます。

セコンドの「左からコンパクトに」という必死の指示がカシメロの鼓膜を通じると間逆に聞こえるのか、一発頼みの雑な攻撃を繰り返す姿は愚かにすら見えました。

それにしても「ホームで戦うと波が下がる」なんて、パッキャオvsラリオスを思い出してしまいました。

恐るべき、外弁慶です。

Quadro Alasの全身にもパックマンの血が流れているのでしょう。

マニラ・ブレティン紙の見立てを借りると、カシメロが井上戦でキャリア最大級の波を作ってくるのは疑いようがありません。

そして、ノニト・ドネアが健闘した原因が自分を恐れずに立ち向かってくるファイティングスピリッツだとしたら、カシメロもそのカードを明らかに持っています。

そして、何よりも、本当に恐ろしいのは説明できるヤツではありません。本当に恐ろしいヤツは教科書のどこを探しても載っていません。

Quadro Alasとは何者なのか?

一言で表現するなら…やはりこうなります。

カシメロはバカ…。