英国国営放送BBCは井岡の四階級制覇を「最軽量ストローからジュニアバンタムまで四つのタイトルを順番にコレクションしたのはレオ・ガメス、ローマン・ゴンザレスに続く史上3人目の〝快挙〟」と報じました。
四階級制覇の最大振幅はスーパーミドル(168ポンド)からヘビー(200ポンド〜無制限)にかけての32ポンド以上です。
それに対して、ストロー(105ポンド)からジュニアバンタム(115ポンド)は最小振幅で、わずか10ポンドに過ぎません。
さらに、意地の悪い言い方をするとストローを起点とした層の薄い軽量級四階級制覇は、最も難易度の低い四階級制覇です。
もちろん、王者と階級が増殖し続ける現代ボクシングでの評価は「誰に勝ったか」。それが全てです。
何階級制覇したとか、何度防衛したとか数字そのものには何の意味もありません。
たとえ軽量級四階級制覇でも、その「誰に勝ったか」がリカルド・ロペス、マイケル・カルバハル、ユーリ・アルバチャコフ、カオサイ・ギャラクシー、全盛期の彼らを片っ端から粉砕してのストローからジュニアバンタムの四階級制覇なら一発殿堂間違い無し、歴代PFPキングも取り沙汰されるべき大偉業ですが…。
さて…〝ストロー始まりの四階級制覇〟。その元祖、レオ・ガメスの物語です。
プロ通算35勝26KO12敗1分。
その35勝の中に文句なしの強豪はもちろん、強豪と呼べるボクサーを探すことも難しいガメス。
将来殿堂入りする柳明佑との初戦では健闘こそしましたが、凡庸な相手にも星を落とすことも珍しくありませんでした。
WBAの庇護のもと12敗もしながらも、多くのチャンスに恵まれ、四階級制覇したベネズエラ人。
ガメスをそう切って落としても間違いではありません。
しかし、このスポーツを職業に選んだ人間の人生模様がすべからく蠱惑の魅力をちりばめた艶やかで複雑なモザイクであることは必然の真理です。
ましてや、彼がベネズエラ人であったのなら…。
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He was from a large family of 13 children.
ガメスは1963年8月8日、ベネズエラグアリーコ州パルマナという貧村に生まれました。本名はシルビオ・ラファエル・ガメス。
ガメスが10歳のときに、両親は貧しさに耐えかねて北部の都市マラカイに移り住みます。
しかし、男9人、女4人の13人兄妹と両親を合わせた15人家族は、当時も極貧だったベネズエラでも特に困窮した家庭でした。
慢性的な不況で仕事にありつけるのは父親だけ。大家族は日々の食べ物にも事欠く貧しさに苦しんでいました。
ガメスは路上で靴磨きや、エンパナーダ(トウモロコシ粉で作った揚げパンに牛ひき肉を挟んだサンドウィッチ)売りなどの仕事を見つけて、懸命に家計を助けます。
12歳になったある日、1人の怪しい男が町を訪れました。
鋭い顔つきの男は子供たちの目つきや骨格を素早く事務的に見定め、何人かの男の子にボクシングのグローブを渡すと、スパーリングを始めさせました。
男はボクシングのブローカーでした。
12歳で働きづめの毎日を送り、将来に何の希望も見出せないでいたガメスにとってストリートファイトは日常でした。
しかし、刃物やときには拳銃を持っているような相手と格闘することは生きた心地がしない恐怖の体験でしかありませんでした。
それなのに…。ボクシングのスパーリングは全く違いました。
「グローブはきちんと握れ」「蹴ったり肘打ちはするな」「組み合うな、離れろ」「ヘソから下は打つな」。
「これは殺し合いじゃない!」。「これはボクシングだ!」。
男の抑揚のないぶっきら棒な指示と注意は、恐怖ではなく安心と不思議な高揚感をガメスにもたらしてくれました。
体格で勝る相手との乱取りで一番小柄なガメスが、なんと全員を叩きのめします。
ブローカーの男は、ガメスの才能が尋常なレベルでないことをすぐに見抜きました。
「何も教えていないのにパンチにフォロースルーを効かせることを習得している」。
しかし、一つだけ気になること、心配なことがありました。
ひときわ小さな12歳は、ボロボロと涙をこぼしながら戦っていたのです。
どんなに才能があっても、恐怖心や相手に対する憐れみに溺れてしまう子供はボクサーには絶対に向きません。
男は目の前に現れた原石が不良品ではないかと訝しんで、言葉を嚙み砕くようにして問いただしました。
「殴り合いが怖いのか?それとも殴ってしまった相手に申し訳ないのか?」。
ガメスは流れる涙も拭かずに、しゃくりあげながら答えました。
「楽しいんだ。こんなに楽しいことが世の中にあるなんて。嬉しいんだ。痛かったり怖かったり悲しかったりしたら、涙が溢れてくるのはよく知ってるけど…嬉しくても涙が出るなんて今日初めて知ったよ」。
12歳になってガメスは生まれて初めて「俺は生きている」と実感しました。
ブローカーはニヤリと笑いました。男の名前はホセ・ボリバル。
ボクシングが盛んなベネズエラでも、有名な腕利きのブローカーで〝チェオ〟と呼ばれていました。
‘Boy, do you want to put on your gloves?’
「少年よ、 ボクシングをやるか?やるなら、もっと割のいい仕事も紹介してやる」。
チェオが紹介してくれたのは、早朝から日暮れまでの道路工事の肉体労働でした。ボクシングの練習は、仕事が終わって疲れ切った肉体に鞭打って、夜中まで。
「辛くはなかったかって?そりゃ、きつい毎日だったけど練習をして汗を流すのが楽しくて仕方がなかった」。
「仕事が終わるとジムまで走っていくんだけど、ちょうどその頃に古いジムの建物の向こう側に夕日が沈むんだよ。沈む太陽を捕まえるような気持ちで走ってたなあ」。
小さな体に喜びを爆発させて、ゴムまりのようにジムまで走るガメス少年の目に映った夕焼けは、きっと世界で一番美しかったに違いありません。
ほどなくアマチュアの試合に出場するようになったガメスは、国内選手権で2度優勝。ベネズエラ代表チームにもその名を連ねました。
アマチュアで69勝7敗の戦績を残して、1985年2月にプロ転向。デビューから破竹の16連勝(11KO)を飾ります。
当時のWBA本部はベネズエラのマラカイ、ガメスの街です。
チェオをはじめ、有力なプロモーターや実力者たちはWBCとIBFでも新設が決定していたストロー級をWBAに働きかけ、導入を決定させていました。
地元中の地元ガメスのために。
1988年1月10日、無敗のままベネズエラのジュニアフライ級王者となった24歳は勇躍、韓国釜山に乗り込みます。
WBA初代ストロー級王者決定戦。
ちなみに、この試合前のガメスの身長は156㎝。その後、何度かの踊り場を経ながら153㎝まで下降線を辿ります。
ボクサー〝あるある〟です。
なんとなく153㎝も怪しく思えるて来るのは私だけではないでしょう。
リングこそ韓国に設営されましたがジャッジはプエルトリコ2人、パナマ1人。ヒルベルト・メンドサ会長が直々にガメスを激励するなど公明正大なスポーツとは思えない怪しい雲行きが漂う中で第1ラウンドのゴングが鳴りました。
対戦相手は金奉準。〝150年に1人の天才〟大橋秀行に黒星をつけた精力的なコリアンファイターです。
金はガメスをコーナーからロープに追回し、数え切れないショート連打を浴びせかけます。中盤、インタバルで座り込んだガメスは何度も首を振り、棄権するのではないかを思わせるほど疲弊していました。
12ラウンド終了。いくらなんでもガメス勝利はない…そう思われましたが採点は、三者とも1点差の116−115*2/115−114の3−0。まさかのガメス勝利。
中南米の大ボス、マチャードが床に唾を吐いて控え室に戻る途中にオフィシャルでは勝利していたにもかかわらず「ガメスは釜山の寒さに負けた」と本音をこぼしてしまうほどの不当判定でした。
“The greatest moment of pride in boxing was when I was world champion for the first time. You feel great, very proud,” he said.
ガメスは「ボクサーにとって初めて世界チャンピオンになった瞬間は特別なもの。誇らしくて最高の気分だった」と回想していますが、現実はメンドサ会長が即座に再戦指令を出す後味の悪い世界戦でした。
その後、ガメスは故障と減量苦からジュニアフライ級に転向するも柳に2連敗、続けてフライ級に上げげて金容江にも破れて対コリアンに3連敗(実質4連敗)。
負けても負けてもWBAはガメスにチャンスを与え1993年10月21日、やはり空位のジュニアフライ級王者決定戦の舞台を用意します。

9回で帝拳のテクニシャンを粉砕して見せました。
このタイトルは1995年2月、崔熙庸に奪われ対コリアンは4連敗(実質5連敗)。
そして、またまたWBA忖度で1996年3月にフライ級王者セーン・ソー・プルンチットに挑戦しますが敗北。
その後、1年以上のブランクを作りましたが1999年3月にやはりWBAのウーゴ・ソトを3ラウンドKOで下して、キャリア初の王者を倒してのまともな戴冠劇。
この試合はWBA/IBF王者のイベンダー・ホリフィールドvs WBC王者レノックス・ルイスのヘビー級最強決戦、メガファイトの前座にセットされ(会場はマジソン・スクエア・ガーデン)、名実ともにガメスのキャリア最高の試合となりました。
しかし、初防衛戦でソーンピチャイ・クランティーンジムにKO負け。あっさりタイトルを手放します。
それでも2000年10月にはまたもやWBAのジュニアバンタム級王者・戸高秀樹を7回KOで破って四階級制覇達成。
このタイトルも初防衛戦でセレス小林に10回TKO負けで奪われてしまいました。このときガメスは37歳。
あの夕焼けに向かって走ったときから、四半世紀の歳月が過ぎていました。
その後、ジョニー・ブレダル、戸高秀樹との再戦にも破れて悲願の五階級制覇には届かず。
戸高戦では、ガメスは40歳。ベネズエラでは「ボクサーは40歳で引退しなければならない」と法律で定められていましたが、特例措置を受け42歳まで現役を続けました。
プロで戦ったのは48試合。そのうち15試合が世界戦。
特筆すべきはその全てがWBAであったこと。そして、その全てが母国を離れた敵地で戦ったこと。
ガメスは、そのキャリアでトータル9カ国のリングに上がりました。
「貧しいベネズエラで興行を打ってもカネにならない」「でもベネズエラ人に勝たせたい母国愛も捨てがたい」。
WBAは相反する欲望を摩訶不思議なランキング操作と不当判定という両輪をフル回転させて両立させました。
対抗団体WBCはさらに狡猾に「母国愛のメキシコ人とカネの成る日本人」という路線を明確にして最大団体に成長、他団体が後に続くビジネスモデルを確立していましたが、それはまた別のお話。
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レオ・ガメスの四階級制覇、サムソン・ダッチボーイジムの38連続防衛。
38連続防衛はまだしも、四階級制覇は今では珍しい風景ではなくなりました。
2人の数字は平凡ではありませんが、ボクシング国際名誉の殿堂にはいまだに招かれていません。
承認団体と階級が増殖する一方の現代ボクシングで、ガメスとサムソンはオマール・ナルバエスらと共に「数字には意味が無い」ことの象徴的な戦犯とされてきました。
では、世界基準で彼らは雑魚か?と聞かれると皮肉屋の専門家でも「雑魚ではない」と答えるしかありません。
彼らは殿堂クラスの強豪でも、絶対的な王者でもありませんでした。しかし、世界基準での物差しを当てても、けして雑魚ではありませんでした。
今年で56歳になるガメスは6人の子宝と2人の孫に恵まれ、マラカイ(MLB現役唯一の三冠王ミゲール・カブレラの故郷でもあります)で幸せに暮らしています。
“I would have liked to have faced Ricardo ‘Finito’ Lopez, Michael Carbajal and Chiquita Gonzalez,” he said. “I could not face them because my managers never introduced me to the American market, [except one fight].”
「リカルド・ロペスやマイケル・カルバハル、ウンベルト・ゴンザレスと対決したかった。でも、アメリカで戦わせてくれなかった(1試合を除いて)のが残念だった」
ガメスは自分の名前を冠したジムを開いて、約20人の子供達にボクシングを教えています。
「強い世界チャンピオンを育てるのが夢だ。今のアメリカにはカルバハルもチキータもいないから、やっぱり日本かな。日本はファイトマネーが最高に素晴らしいし。私の教え子だから戦うためにはどこへだって行くさ」。
…ガメスにふれてサムソンを書かないのは不公平ですね。。。

コメント
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私がリアルタイムでボクシングを見始めた頃で、当時の世界王者であった戸高秀樹のアゴを粉砕した試合は印象的でしたし、その後のセレス小林との試合は、確か横浜アリーナ(だったと思うのですが、だとしたら今このカードでは考えられないハコですね…)までセレスの応援に行きました。
生い立ちについてはこの記事で初めて知りましたが、
タイトルは全てWBAだったんですよね。強豪では無いが、雑魚でも無い。いま振り返るとそのとおりだなぁと思います。
フシ穴の眼
が
しました