Breez is Nice!

はしゃいで生きる青春は 俺にはないと 思ってた。

「転がる石」(石川さゆり)





授業をサボって手当たり次第に本を貪り読み、場末の映画館で古い映画を夜を明かして観て、高校生らしいことといえば、野球や陸上の練習したり試合に出たりはしてましたが、90%以上の高校の先生方からは「他の生徒の邪魔や、消えろ。とっとと自分から退学しろ」とか…かなり酷い言葉も浴びせられました。

たださえ社会不適合者なのに、大人の先生から罵詈雑言を浴びると、ますます学校にいる時間が苦痛になりました。

私が生き返るのは、学校から離れた球場やグラウンドで練習試合や試合をするときです。

そして、もう一つ、野球部や陸上部の仲間も、私をなぜか評価してくれていた残り10%弱の先生も知らない、私が生き返る場所がありました。

学校から40分近く自転車をこぎまくり、10キロ以上は離れた国道沿いの寂れた区画にあった小さな古い映画館です。

そこは、知ってる人のいない隠れ家。見かけのボロさに輪をかけて館内はさらにボロボロで、いくつかのシートはスプリングが壊れてて、迂闊に「よっこらしょ」と腰を下ろすと、ズブズブズブと沈み込むばかりか、折れたスプリングが剣山のように尻を突いて「いてぇーーー!」と悲鳴をあげてしまう〝地雷〟なのでした。

その掘立て小屋みたいな小さな映画館のロビーでは、ずっとラジオが流れていました。

夜の11時になると「ヤングリクエスト」が始まり、国内外の流行曲が聞こえてきました。私の洋楽体験の始まりは、そんな深夜ラジオからです。

1981年にニューヨークで開局したMTVはすでに存在していましたが、民度が低空飛行する阪神エリアでそんなことは知る由もありません。

「転がる石」は石川さゆりデビュー30周年を記念して2002年にリリースされた曲なので、オンボロ名画座のロビーで聞いたわけではありませんが、この歌を聴くと、なぜかあの頃を思い出します。

社会不適合、屈折した毎日を送っていた私は暗い青春時代を送っていた、少なくとも当時はそう思っていました。

ところが、ずーーっと後になって振り返ると、友達は少なく、彼女もいなかったものの、恐ろしく明るくて、キラキラといろんなものが乱反射しまくっていた、間違いなく青春時代でした。

あれは間違いなく、青春でした。



小さな古い名画座には、私も含めて怪しい常連客が巣食っていました。

私も学校からの逃げ場所だと自覚して、当時はけして前向きに大好きではなかった場所なのに、いまではまぶしすぎる青春の記憶になっているなんて、とんでもない人生の不思議です。

「こんな毎日は嫌だ」。

それくらい後ろ向きな気持ちに沈んでいたはずなのに、もしいまあの頃に戻ったら、間違いなくまた、授業をサボって図書室にこもり、つぶれかけの名画座に通うはずです。

絶対に。

でも、もうあの頃に戻れるわけがありません。

高校としては巨大な図書室のあった古い校舎はとっくの昔に取り壊されてしまい、映画館のあった場所には大きな家電量販店が建ってしまいました。

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⬆︎これは新横浜の「ラーメン博物館」。私の行きつけの名画座にあったのも、このタイプの瓶の自販機でしたが、コカ・コーラではなくペプシでした。



映画館では誰も友達がいないと思っていましたが、数人の常連さんとは目で挨拶する関係だったし、中には古い自販機の瓶のコーラや、塩加減に許容範囲を超えたバラツキのある自販機のポップコーンをおごってくれたり、軽い会話を交わす人もいました。

もぎりのおばちゃんは、多めに渡された回数券に「これちゃうで」と言うと「どうせいつも空いてるから、学割や」と、差し戻してくれました。

今思えば、私の周囲の大人はみんな優しかった…大多数の高校の先生方は除いて。

上映する作品はテーマも時代も製作国もてんでバラバラでしたが、今思えば抜群のセンスでした。

「今思えば…」。せつない言葉です。当時は、その魅力に気づいていなかったのですから。

それなのに、彼らのことを社会に馴染めない自分を棚に上げて、粗末な名画座に集う行き場を失った人々だと、あんな大人になりたくないとまで考えていた気もします。若さとは、身勝手でもあります。

ただ、当時は彼らがどういう人なのか全く知らなかったから、冷えたコーラの瓶を後ろからそっと首筋に当ててびっくりさせる三井紀子さんはおそろしく綺麗なお姉さんで、それがまた怪しさを増幅し「この人はヤクザの情婦とかで、非常にやばい人に違いない」と思ってました。

体格が良くて場違いにおしゃれなおっちゃんは、私を見つけたときだけ妙に明るくなって声をかけてきました。私が〝地雷シート〟に座ろうとしてバインッ!と沈み込むと、「そこは一番アカンとこや」と手を叩いて笑われました。このおっちゃんは怪しいとかは通り越して、もう絶対その筋の人でした。

こんな人たちに気に入られるなんて、やっぱり俺はダメ人間なんだ…そんな風に思う一方で、三井さんもその筋さんも、自分に素直に生きてる感じが滲み出ていたのでした。

特に、その筋の人は、私を追いかけ回していたガラの悪い外国学校の不良集団でもこのおっちゃんにはビビるだろうなという、普段は静かに映画を見ているだけでもオーラを発散させていたのです。


もし、あのおっちゃんと再会できたなら…40年ぶりとかのレベルです。

どうやって見つけたのか想像もつかなかったけど、三井さんは、あのおっちゃんを見つけたのです。


私は30代になるかならないかの頃に沖縄出張で仕事先で三井さんと全く偶然に〝再会〟。

そこで初めてお互いの名前やら素性がわかったのでした。もしかしたらあのときも「このレポート、面白いなあ」と予定になかった沖縄行きを決めた三井さんが私を見つけたのかもしれません。

あのときは、これぞ南国なホテルの開放的な会議室で「見ぃつけた。しかし、つまらん大人になってもうたなぁ」。そんなことを言われた記憶があります。

当時、まだ40前の三井さんは沖縄進出を考えるコンビニの大株主の会社の偉いさんに大出世していて、夜の懇親会で私が「まさか、まともな人だったとは。ヤクザの情婦と思ってて申し訳ありませんでした」と正直に言うと、よく冷えた瓶ビールを首筋に当てるのではなく、頭の上からドボドボぶっかけてきたのでした。

驚いたのは同行していた会社の人たちで「こいつが何か粗相しましたか?すみません、すみません!」と大慌て。三井さんの部下たちも気色ばみましたが、三井さんが「この男、とんでもない粗相を働きましたが、二人だけの問題なので気にしないで」と、周囲からますます怪しがられることをのたまうのでした。


そんな、三井さんが名前も素性も知らないあのおっちゃんを見つけたのです。どんな情報通やねん。

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待ち合わせ場所の伊丹空港⬆︎で、先に着いていた三井さんが「ちょっとここで待ってて」と言って「じゃじゃ〜ん!ちょうど卒寿(90歳)になられました〜」と、あのおっちゃんが座った車椅子を押してきて「おっちゃん、覚えてるでしょ、いっつも壊れたシートでひっくり返ってた高校生」と私を指さします。

「三井さん、さすがやなー、おっちゃん見つけ出すなんてCIAでも無理ですよ。しかし、もう少し発見が遅れてたら死んでましたね、おっちゃん」というと、おっちゃんは「40年ぶりに会って最初にそれかいな?CIAもインターポールも全く関係ないわ。真面目な話すると、FBIに調書取られたことはあるけどな」と、それ以上詳しい話は聞きたくないことを口にするのでした。


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馬淵史郎が率いる明徳義塾が日南学園に1−2で惜敗、70歳の名将は「(あと2年ぐらいはやってね)もう何年もやる気はありませんと、引き際について語りました。

注目スポーツと毀誉褒貶はセットですが、この人ほど評価・評判が乱高下した人も稀れでしょう。

今から34年前、1992年の夏の甲子園。星稜の松井秀喜を全(5)打席連続敬遠したことで、馬淵は日本中から凶悪犯罪者の如く非難されました。

社会人になりたての私の周囲でも大きな話題になりましたが「凶悪犯罪者」という見方は主流ではありましたが、私を含むほんの一部の人は「ルールの中で勝利だけをひたすら追求する、それは松井と真っ向勝負させるよりも厳しく、深く、もしかしたら正しい教育かも」と感じていました。

馬淵が座右の銘にする「疾風に勁草を知る」。猛烈な風が吹き荒ぶとき、頑丈に見えた樹木があっさりとへし折られても、しっかりと根を張って風に飛ばされない雑草もある。

うわべの空気に流される浅はかな大衆が大きな樹木だとしたら、そのときには認められなくても決して揺るがない確固たる信念の根を張るのが雑草。

もし、34年前にSNSが普及していたなら、馬淵はあそこまで悪者扱いされなかったかもしれません。



SNSの弊害は数え切れませんが、たとえ間違った意見でも議論の俎上に乗るというのは悪い話ではありません。


巨人入団が日本列島を揺るがす大事件に発展した江川卓や桑田真澄も凶悪犯罪者の扱いでしたが、SNSがあったなら強烈な擁護論も巻き起こっていたでしょう。

そして、馬淵のように江川と桑田もその並外れた実力を見せつけました。


和毅と尚弥

馬淵と同じ名を持つ亀田史郎も一家が凶悪犯罪者のごとく非難されました。TBSやWBAがスポーツの倫理道徳を超えて擦り寄ってくるのを拒まず、踊らされたことは、彼らの責任はゼロではありません。ゼロだったのは、彼らの知能です。

TBSの無軌道な報道、WBAの認定料優先の醜い商魂こそが悪の根源で、亀田一家は知能ゼロのお調子者であることにつけ込まれて利用されただけ。

JBCとの法廷闘争の結果が明らかなように、最も卑劣で凶悪なのは亀田一家に群がった輩どもでした。

ところが、社会的制裁を過剰なまでに受けた彼らがいまなお名誉挽回できないまま、アンチが粘着している背景には馬淵や江川、桑田らとは違い、リングの上では消化不良な煮え切らないパフォーマンスしか見せることのできない実力に起因しています。

もし、亀田興毅が全盛期のノニト・ドネアとのバンタム級最強決戦を回避せずに、明白に勝利していたなら?三兄弟で唯一、大毅が内藤大助にクリーンファイトで勝っていたなら?和毅が井上尚弥に先んじてムロジョン・アフマダリエフに完勝していたなら?

…JBCから法にも触れる誹謗中傷まで受けた亀田一家でしたが、事実が明らかになってJBCが壊滅的打撃を受けても、名誉回復の流れが弱かったのは、彼らが並外れた実力を持っていなかったことにも起因しているように思えます。

もし、彼らにパッキャオのような人気階級で大活躍するような傑出した実力があれば、T−モバイル・アリーナをフルハウスにして、莫大なPPVマネーを稼いで本物の世界的スターになっていたなら、西岡利晃や井上尚弥の〝なんちゃってラスベガス〟なんてやらずに済んだでしょうに。



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日本のプロボクシングは野球と同じく米国を目指して、そこに追いつけ追い越せと坂道を登ってきました。しかし、そこにはいくつもの影が折り重なってきました。

米国で注目されるヘビー級チャンピオンは1人も生み出すことができず、注目が集まる人気階級でタイトルを獲得したのも、カネロ・アルバレスやゲンナジー・ゴロフキンらが割拠していたミドル級で村田諒太がWBAストラップを獲得しただけ。

発育の悪い発展途上国の選手がほとんどという恩恵も受けて、選手層や競技レベルが低く、専業ボクサーも少ない軽量級では大きな成果を収め続けていますが、そこは関心が低い欧米の死角です。



そして、米国に追いつけ追い越せの影には人気階級で成果を残せないというだけでなく、敗戦国ならではの悲哀もにじんでいます。



ーーー在日米軍兵士の父と日本人の母の間に生まれ、プロボクサーになった男たち。駐留期間を終えると、母親に連絡先も告げずに帰国する兵士たち…。

1961年1月生まれのこの男も、父親を知りません。父親は彼が生まれる2ヶ月前に帰国、行方知らず。米国黒人と日本人のハーフといっても、見た目は完全に黒人。剃り上げたスキンヘッドに口髭、その出立ちは同時代に米国で大活躍していたマービン・ハグラーとそっくり。母親に育てられたというのもハグラーと同じ。

ただ…ハグラーと似ていたのは、見た目と家庭環境だけ。打たれ弱く、勝ったり負けたり、ファイターとしては似ても似つきませんでした。

大和田正春は、1979年7月のデビューから2連敗。

咬ませ犬扱いで完全敵地の大阪のリングに引っ張り上げられた赤井英和との伝説の一戦でシンデレラ・マンになったのも束の間、次の試合から2試合連続KO負け。

ジュニアライト級でデビューした肉体は5階級上のミドル級になっていましたが、グラスジョーはますます深刻なものになっていました。

ところが、日本ミドル級王者の無限川坂とのノンタイトル戦でまさかの番狂せ。連敗を止めて戦績を10勝9KO10敗1分の五分に戻し、再戦は7年間のキャリア初のタイトルマッチとなりました。

「あした」が、ちょうど30年前となる1986年8月11日、後楽園ホール。

グラスジョーを自覚している大和田は初戦でKO勝ちしているにもかかわらず、アウトボクシングで慎重にポイントをピックアップ、ユナニマスデジションで念願のチャンピオンベルトを腰に巻きました。



このタイトルを全てKOで4度防衛すると「ニューヨークで世界タイトルマッチを戦って父親と会いたい」という夢を賭けて、1987年9月6日にOPBF王者ポーリー・パシレロンに挑戦。

結果は、早すぎるストップとはいえ7ラウンドTKO負け。

もし、大和田が当時売り出し中の大和武士のような日本人なら、パシレロンのホームであるインドネシアまで遠征することはなかったかもしれません。あるいはミドル級ではなく、軽量級なら世界挑戦のチャンスに恵まれたかもしれません。

ハグラーへの挑戦という壮大な夢、そのはるか手前で挫折した大和田はまだ26歳の若さでしたが、これで引退と多くのファンが考えましたが…。

1987年12月14日、彼はまたしても脇役のポジションを受け入れて、日本タイトルを賭けて大和武士を挑戦者に迎えます。

結果は、大和田の第5ラウンドKO勝ち。

https://fushiananome.blog.jp/archives/22291849.html


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大和田正春、赤井英和、大和武士。この三人が出演した「どついたるねん」(阪本順治)が公開されたのは「大和田vs大和」から、わずか1年あまりあとのこと。

なんというスピード、なんという生々しさでしょうか。

今見返しても、そんな鮮度がビシビシ伝わってくるのもあの作品の魅力でしょう。





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お盆休みで横浜に帰りました。

それにしても、今年の夏は暑い!暑い!!暑すぎる!!!

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自分ちに戻る手前、少年野球関係で馴染みの鶴見で降ろしてもらって、野球場近くにある以前から気になっていた「おきなわ物産センター」へ。

しかし、暑い…。


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むむむ、有楽町あたりにあるアンテナショップとは一線を画するディープな雰囲気です。

こういうお酒を求めて知らない町をふらっと散策するのは、やっぱり一人がいいものです。


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さて!「オリオンって沖縄で飲むと美味しいのに、東京で飲むと今ひとつだよねー」という通説にピリオドを打ってくれるのが「オリオン・ザ・プレミアム」であります!

いろんなバージョンがあってどれも美味しい。

オリオンに限らず、南国のビールは例えばインドネシアの「ビンタン」などは「ジャカルタで飲むとあんなに美味しかったのに、東京では…」なんてことが、あるある。

これはやっぱり、現地の気候がビールに最高すぎるからですね…いや、ビンタンの場合はそうとも言えないかも。


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そして、炙りソーキそば。コーレーグースーを少し多めに垂らします。

いやいや、スペアリブ、とろとろでんがな。冷えたオリプレも美味すぎます。

もはや何も言うことはありません。オリプレをおかわり、泡盛(残波)もあおって、暑熱対策はOKや!かかってこいや!猛暑ッ!!



さーて、鶴見にはもう一つ気になっていたとこがあります。

物産センターからぐわ〜っと京急とJRの高架を潜り抜けて、大本山總持寺へ。

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うううううううう…ビールと泡盛をあおって酷暑の中に飛び込むのは…ダメダメだー。汗が止まらない、体がだる重い…。



さて…總持寺には、13歳のときに一家でブラジルに移住するまで鶴見に住んでいた縁で、スーパースターのお墓があるのです。

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日曜日とあってファンがある程度いるかもと思ってましたが、誰もいません。


ご存知の方も多いでしょうが、アントニオ猪木の墓はもう一つあります。青森県十和田市、南八甲田山の中腹にある蔦温泉旅館近くの小さな墓地にある「アントニオ猪木家の墓」。

蔦温泉旅館、いつか投宿してみたいものです。


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ギミックとケーフェイを艶やかに交錯させる妖しいキャラクターたちの名前に混ざって、亀田興毅もしっかり刻銘されています。

それにしても「獣神サンダーライガー」…最高やなぁ。私のお墓にも、こんなとんでもない名前の人の刻銘が欲しい…。

そういえば、格闘技世界一決定戦50周年記念「アントニオ猪木VSモハメッド・アリメモリアル展Supported by 京王プラザホテル55周年」がちょうど今日、京王プラザホテルで開幕。こっちも行きたいのですが、予定が詰まってて、新宿に寄れそうにありません、無念!




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猪木の墓の前に、セミの抜け殻が落ちていました。

周囲に土や木はないので、どこからか風に乗って、ここまで運ばれてきたのでしょう。



暑すぎる日が続きます。みなさま、ご自愛くださいませ。










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日本でも世界でもキックボクサーがボクシングのリングで躍動しています。

しかし、この〝非常事態〟はタイ王国に限っては歴史的に当たり前の日常であり続けています。

辰吉丈一郎のキャリア最高傑作で名脇役を演じたシリモンコン・ナコントンパークビューもまた、そんな元キックボクサーでした。

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ムエタイジムの実家に生まれたシリモンコンは1993年、15歳でWVC(世界ムエタイ評議会)のタイトルマッチを手がけるランシットスタジアムでミニフライ(105ポンド)級チャンピオンになると、タイの資産家から熱心な支援を受けて16歳で国際式に転向。

設立されたばかりのマイナー団体WBU(2004年に消滅)のジュニアバンタム級とバンタム級のストラップをつかみます。

そして「あした」がちょうど30年前となる1996年8月10日にホセ・ルイス・ブエノとWBCバンタム級の暫定王者決定戦を争いました。舞台はシリモンコンのホーム、タイ・ピサヌロークの県営サッカー場。

この時のリングネームは、ムエタイ時代のシリモンコン・シンマナサックのままでした。

帝拳がプロモートに甘噛みする中南米の強豪ブエノは川島郭志や文成吉とクロスゲームを繰り広げたテクニシャンでしたが、抜群の格闘技センスとフィジカルを持つ19歳の前に第5ラウンドで失神KO負け。

モーションが小さく、重い大砲のような左ジャブ。そして、この日も試合を決めた破壊的な右。この攻撃力を全面に打ち出せば、もっと大きな成果を残したはずでしたが、その火力とは似つかわしくないKO率は、無理やり倒しに行かないスタイルに起因していました。

あれから30年が経ちましたが、天才はまだ49歳。

私生活でも波瀾万丈のシリモンコンは今月1日にクルーザー級10回戦で7戦全勝7KOのヌルベク・バリスホノフ(キルギスタン)をバンコクに迎え、デビューからの連続KOはストップさせたものの、SDで敗退。

昨年からヘビー級でリングに上がるシリモンコンにとってクルーザー級は、辰吉戦を思い出させるような減量苦とも戦っていたのかもしれません。

それにしても、あの大阪城ホールのドラマから29年。49歳になってもまだ戦っているという驚き、ヘビー級まで階級を上げたという驚き、そしてまだアジアレベルの実力はキープしているという驚き…。

日本のリングに呼べばボクシングファンの間で大きな話題を呼ぶでしょうが、但馬ミツロでは悲惨な結果しか思い浮かびません。







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