フシ穴の眼 〜スポーツ疾風怒濤編〜

      Hope Lights Our Way / 希望の道を、つなごう。

カテゴリ: 英国ボクシングニューズ誌

ボクサーの年齢、その若さに、あらためて驚かされることが多々あります。

具志堅用高がハングリーなペドロ・フローレスの攻勢に燃え尽きたのは25歳のとき。

シュガー・レイ・レナードが長期ブランクからまさかの復帰、マービン・ハグラーを競り落としたのは30歳のとき。

マニー・パッキャオがマルコ・アントニオ・バレラを圧倒して〝アジア人最長不倒〟を更新したのは24歳のとき。
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ミドル級の元王者アラン・ミンターが癌のため、69歳で亡くなりました。

完全統一王座の座をかけてビト・アンツォヘルモと死闘を繰り広げ、ハグラーの強さを世界に改めて知らしめてくれたサウスポー。

ハグラーに惨敗した一戦はプロ45戦目でしたが、調べてみるとまだ29歳の若さ、ハグラーより3つだけ年上でした。

私の中ではレジェンドの戦いに登場する貴重な脇役で、その年齢ももっと重ねていると思い込んでいました。

ミュンヘン五輪ミドル級で銅メダルを獲得して、プロ転向。

米国の五輪金シュガー・レイ・シールズを5ラウンドTKO、晩年のエミール・グリフィスをポイントアウトするなど、そのキャリアは鮮やかな色彩に富んだものでした。

ミンターは英国ボクシング史上、ただ一人唯一のUNDISPUTED MIDDLEWEIGHT CHAMPION、まだタイトルに幾ばくかの価値があった時代の完全統一王者、しかもミドル級です。

ミンターからその玉座を強奪したハグラーが膝から崩れ落ちて歓喜に号泣する姿は、恐ろしく新鮮で感動的でした。

それにしても、まだ69歳でしたか。長い闘病生活を送っていたそうですから。若かったが故に癌の進行も早かったのかもしれません。

素晴らしい激闘、忘れません。安らかにお眠り下さい。 
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This condition isnt related to my boxing career nor is it hereditary. It was just My turn.


これはボクシングで激闘したからでも遺伝でもない。言ってみればそういう巡り合わせだったんだよ。

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引退から10年以上も経つというのに、彼のファイトは今も生々しく多くのボクシングファンの記憶の中で生き続けている。

殴られたら殴り返せ。

ジュニアフェザー級(122ポンド)のタイトルを三度獲得した男は今、静かにソファに腰を沈めリラックスしながら語り始めた。

イスラエル・バスケス。 

パンデミックがボクシング産業も直撃する中で、Showtime は過去の名勝負を再放送し、生の試合を楽しめないファンの心を慰めている。

その中でもマニアを喜ばせているのがバスケスとラファエル・マルケスが繰り広げた歴史に残る激闘「3」連戦だ。 

「もう10以上も前のことなのに、まだよく覚えてくれているファンがいることは、どう表現したらいいのか、とにかくすごく嬉しいよ」。

43歳になるMagnifico は現役時代、ボクシングファンが最も好むスタイルを身につけていた。

殴られたら殴り返す。

一歩も引かない。

どちらかが倒れるまで殴り続ける。

実は、ボクシングはそれだけの簡単なスポーツだ。そこから逃げるからブーングを浴びるのだ。

しかし、ファンに溺愛されたバスケスに、人生の神様は冷淡だった。

激闘のキャリアとの引き替えに神様は、彼の右目をその代償として差し出させた。

さらに昨年は全身性強皮症=SSc(※)と診断され、体重は112ポンドまで削られてしまった。

※皮膚が硬くなる原因不明の病気。多彩な臓器、特に心臓や肺などの重要臓器にも病変を伴うこともある。

「1年近くもこの厄介な病気と付き合ってるんだ。免疫機能がやられるから他の病気にもかかりやすくなるし、皮膚だけじゃなく筋肉や内臓もやられてしいまう。何も治療しないと死んでたところだ」。

それでも、適切な治療を受けたバスケスの症状は安定してる。

「私の身に何かが起きると『ボクシングの後遺症だ』と決めつける人がいるけど、ああいうのはうんざりだ。これはボクシングのせいじゃないし、遺伝でもない。言ってみればそういう巡り合わせ(turn)だったってことだけだ」。

「ラファエルとの3試合で眼球を傷めてしまったけど、正常に回復して2試合を戦っている。何度か手術したけど右目は良くならなくて、摘出して義眼を埋め込んでいるけどね」。

「一生アスリートのつもりだし、体を動かすことが大好きなんだ」というバスケスだが、SScの治療のため安静にしていなければならない。

「そりゃ辛いよ。でも乗り越えてみせる。少しずつ良くなってるからね。どんな逆境にも絶対に挫けない、それが人間と他の動物の違いだ。リングの中と同じ、周りから絶体絶命に思えても、1%しか見えてない可能性を拳で掘り起こす、それがファイターだ」。

当代きってのアクションヒーローだった現役時代の戦績は、44勝32KO5敗。
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根性勝負。不利と予想された通りの展開だったジョニー・ゴンザレス戦でしたが、ジョニゴンの精神的な弱さを引きずり出すような展開で逆転KO勝ち。

前戦でフェルナンド・モンティエルとのホープ対決を制したものの「二人ともチキン」と酷評される内容で、ジョニゴンにとって名誉挽回の一戦でしたが、この試合でさらに評価を落とした。

ジョニゴンが過大評価だったのはその後も凡庸な相手に失態を重ねたことから明らかだったが、この夜は相手も悪かった。



素晴らしい数字だが、その中身はもっとMagnifico=荘厳だ。だからこそ、今も多くのボクシングファンが彼に惹きつけられる。

「鼻血が止まらないから棄権した」なんて発想は、バスケスの頭の中を隅々まで探しても欠片も見つからないだろう。

ラファエル・マルケスとは四度拳を交えたが、最初の3試合は歴史に残る大激闘だった。2007年3月3日の初戦から2008年3月1日までの12ヶ月、25ラウンドに渡って殴り合ったスペクタクルはボクシングの本質が全てパッケージされていた。

21世紀はじめは、バスケスvsマルケスに並んでアーツロ・ガッティvsミッキー・ウォード、マルコ・アントニオ・バレラvsエリック.モラレスと歴史に残るトリオロジーが誕生した。

「素晴らしい試合というのは互いが持てるもの全てをぶつけ合うから出来上がる。その意味ではラファエルも私も何もかも全てを最後の一滴まで絞り尽くして戦った」。

「あくまで私の見方だけど、バレラvsモラレスは初戦を除くと非常にスマートに戦った。もちろん、素晴らし試合だったけど、二人とも考えすぎていたね」。

「最高のトリオロジーは私とラファエルだろう。最初から楽に勝とうなんてこれっぽっちも思っていなかった、あいつも私も」。



バスケスはメキシコシチーの葬儀会社の家族として育った。

そして、なけなしのカネを握りしめて、国境を越え、縁もゆかりもない米国の土を踏んだ。もちろん、英語なんて一言も話せなかった。

バスケスの癒しは妻のラウラだった。もちろん、一緒に〝ボーダー〟を越えた。

彼女は行きつけの散髪屋の理髪師だった。

そして、バスケスも自分で理髪店を開いて彼女と切り盛りした。

「働きながら戦うのを、誰もが『大変な苦労だろう?』と心配してくれるが、実はそうじゃない。生きるってどういうことか?がよくわかるんだ。大金持ちの資本家や、ボクシングに集中出来るウェルター級のチャンピオンには理解できないかもしれないけど」。

「ただ、これはあくまでも私の意見だけど、資本家やウェルター級のスターよりも私は人生を楽しんでいるし、幸せだ。そして、間違いなく彼らよりも強い」。

「彼女がいなければとっくの昔に挫けていた。みんな私を生まれながらのファイターだと思うかもしれないけど、そんな奴は絶対にいない。みんな本当は弱い人間だ」。

「ラウラとは18歳のときからずっと一緒、いろいろあったけどずっと一緒だ。7年間経営していたヘアサロンを家族のために閉めて、母親に徹してくれた」。

「私が逆の立場なら、家族を捨ててボクシングを選んだかもしれない。そう考えたら、絶対に負けられなかった。万一負けても、ラウラが『頑張った、ありがとう』と言ってくれるような負け方でないと、自分が許せなかった。私が三度も世界王者になれた一番大きな理由は、ラウラの存在だ」。

「人生最大の誇りは妻と家族だ。私の人生は、リングの中と外しかなかった。そして一番大切なのがリングの外であるのは言うまでもない。でも、リングの中でいえば誰にも負けなかったのが誇りだ。記録で敗北となっているのは、全部誰かが決めたことだ。自分で参ったとは言っていない」。

「リングの中の思い出も掛け替えのないものだけど、日々の生活との戦い、これこそが人間の営みそのもの。そして、それが一番タフなのは誰もがわかっている」。

There is always one final question which needs to be asked of every fighter.

「あらゆるプロボクサーは引退する日に、ファイナルアンサーをしなけりゃならない。この苛酷な仕事をやり遂げて、それは割に合うものだったのか?それとも代償ばかりが多かったのか?」。

ボクサーでなくても、何かの仕事に全身全霊を打ち込んだ人間にとって、すぐに答えるには難しいことだ。

「この問題は実は簡単だ。カネや名誉、地位、それを〝割に合う〟の基準にしてしまうと、きっと答えに詰まる」。



バスケスの言う通りだ。

「カネは溜まったけど」「名誉と地位は手に入れたけど」…。



バスケスは淡々と話す。

「私には何の後悔もない。この右目が義眼であること、治療法のない難病に冒されたこと、これが例えばボクシングのせいだったとしよう。そんな不幸な私は今こうして英国のメディアから長いインタビューを受けているわけだ。英国だけでもこれが初めてじゃない。私は10年前に引退したボクサーなのに。私を不幸だと思うかい?」。

「私は損得を考えて戦ったことは一度もない。1秒1秒を全力で戦ってきただけだ。相手にひるんだ1秒は、一度もなかった。ただ、その結果が、今こうして巡り巡ってくれているのだとしたら、それもまた巡り合わせってことだ」。
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バスケスへのインタビューを終えたいま、正直にいおう。

最初はバスケスを同情していた。神様から見放された男だと思いかけていた。



今は、バスケスが羨ましい。

右目が健康でも、忸怩たる人生を生きている人は数え切れない。私もその1人かもしれない。 

神様は、重い代償をバスケスに要求しすぎだと思ったこともあったが…。それはきっと間違いだ。

この難病を突きつけた神様は、また何かしらの代償をバスケスに求めてるのかもしれない。

それにしても、ボクシングファンだけでなく、神様にまで愛され、付きまとわれるなんて。

バスケスがひたすら羨ましい。

いや、バスケスが、たまらなく、妬ましい…。

もちろん、神様がバスケスを好きになる理由はよくわかる。

そして、それが私や多くの人が持っていない、いやもっと正確に言うなら持とうとしない勇気であることもわかっている。

それだからこそ、余計にバスケスが妬ましい…。 
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私が世界のボクシングを見始めた1980年代。

米国ではリング誌はもちろん、KOマガジンやボクシング・イラストレイテッドなどが月刊で発行されていました。

また、スポーツイラストレイテッドも今では考えられませんが、結構なペースでボクシングを特集していました。

これら米国の雑誌は日本でも大きな書店の洋雑誌売り場で入手可能でしたが「KO」と「ボクイラ」は廃刊、ボクシング人気の凋落も激しく、今では日本中を探してもリング誌を置いている書店もないかもしれません。

英国のボクシングニューズ(BN)は世界唯一のボクシング専門週刊誌として健在ですが、後発のボクシングマンスリーは今年の5月号で廃刊に追い込まれてしまいました。

一方でネット媒体はそれなりに生き残っていますが、BOXINGNEWS24やboxing scene.com はESPNに代表される大手メディアやリング誌からの転用記事が目立ち、個性の輪郭が見えません。

「まとめサイト」的な便利さはありますが、やっぱりジャーナリズムとは呼べません。
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4月に「 Four Kings (四天王)」を出したリング誌は8月にも「GATTI WARD」の特別号を出版します。「GATTI WARD」は要りません…。「GATTI WARD」は日米ボクシングファンの意識の大きなズレの象徴です。

その逆がマニー・パッキャオです。あの小さなフィリピン人はボクシングファンの国境を簡単に超えました。

紙媒体でなければジャーナリズムではない!とは言いません。

実際にESPN電子版の充実度は、リング誌を超えますし、私のような愛読者ですらリング誌とBN誌が紙媒体を維持している説得力のある理由が思い浮かびません。

リング誌なら毎月、 BN誌なら毎週、自宅ポストにニューヨークとロンドンからカラフルな雑誌が届けられます。

それは、人生のささやかな楽しみの一つですが、私が変わり者で超マイノリティなのも自覚しています。
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週刊ボクシングニューズ誌。今日発行の6月11日号もデジタルバージョンでは読めますが、やはりプリントバージョンの到着が楽しみです。

スマホを触るだけで英国にいるのと同じ最新号が読める、というのは素晴らしいし、私もスマホやPCなどで興味を引く記事を読んでから、プリントバージョンで全ての記事に目を通すというのが習いです。


ボクシング専門の紙媒体が生き残るためには何か必要か? 

それともボクシングも紙媒体も〝死に行く産業〟といわれる現在、そんな巨大で重い十字架を二つも背負わされたボクシング専門誌が「生き残ろうとしていること」がそもそも間違っている、無駄な努力なのでしょうか? 

まだまだ。続くのです。
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世界唯一の「週刊」のボクシング専門誌。英国ボクシングニューズ誌。

期待以上の内容の濃さだけでなく、週イチでポストに届けられる心地よい頻度に満足しています。

しかし、この忌々しいパンデミックの影響で2週間以上も届かないこともありました。

「流通機関が機能不全で配達が遅れている。絶対に届けるからそれまで待っててくれ」というお手紙をもらっていたので、大きな心配はしていませんでした。

ただ、同じ英国の「ボクシング・マンスリー」が廃刊に追い込まれたことや、米国のリング誌も売り上げ減に悩んでいることから少しだけ心配していましたが、ついに今日、6月4日号が届けられました。

ロンドンから5日遅れですが Other Countries (外国)の日本です、配達まで時間がかかるのです。この5日遅れが普通なので、ついに正常に戻りました。

ジョー・カルザゲの大特集に「BOXING IS BACK!」(明日6月10日のトップランクのイベント)に「米国のゴールデングローブスの盛衰」に、本当なら今週開催されていた殿堂式典に絡めて「HALL OF FAME IS IT FAIR?」(殿堂は公平か?)も特集。

ナイジェル・ベンやラファエル・マルケス、イスラエル・バスケスら「殿堂入りでもおかしくない10人」に渡辺二郎も名前を連ねました。

二郎はリング誌やESPNなどでも、この種の企画のレギュラーです。

2団体時代、それもAC対立が深く、団体統一戦には大きな壁が立ち塞がっていた時代に、瞬間的とはいえ Undisputed Champion の座に就いた渡辺の評価は海外で高いものがあります(日本では暴力団幹部ですから前向きな評価が控えられるのは仕方ありませんが)。
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*****コンバーテッド・サウスポーの渡辺は左だけでなく、右でもKOパワーを秘めていた。

最大の特徴は抜群の距離感覚と、パンチの精度。

7年のキャリアは短いが、内容は濃密だった。

4年足らずの間に11連続で王座を守り、団体完全統一戦に乗り出したことはもちろん、富裕な日本では珍しく(史上初めて)海外防衛に成功した冒険的なボクサーでもあった。

日本の年間最高選手賞は、1982〜1985年まで4年連続で受賞。ファイティング原田に続く、日本最高ボクサーの第2グループを引っ張る存在だ。

残念なことに引退してリングを離れた彼は社会人としてのバランスを大きく崩してしまう。リングの中では完璧なバランスを見せてくれていたというのに。*****



ロンドンも泣いてるぜ、二郎さん。。。。
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ナジーム・ハメドは謎の多いボクサーです。

「本当はどれほど強かったのか?」という実力面。

そして「どうしてHBOは無名のムスリムと巨額の契約を結んだのか?」という経済面。
特にミステリアスなのは、この2点です。

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実現しなかった殿堂入り5人(フロイド・メイウェザーの殿堂資格発生は来年ですが一発殿堂は間違いありません)への思いを語るハメド。ファン・マヌエル・マルケスについては、いつものように最初に「逃げた覚えは一切ない」。そろそろ許してあげたいのですが、わかりやすくて面白いキャラです、ハメド。〜リング誌2019年12月号「パックマンvsプリンス大特集」より。


▶︎まずは、プリンスの本当の「実力」を考えてみましょう。

もし、殿堂がボクサーの実力だけが評価されるなら、ナジーム・ハメドが一発で殿堂入りできなかったことは、明らかに間違いです。

個人的には当時ESPNのダン・ラファエルらの「ファン・マヌエル・マルケスからのあからさまな逃げっぷりは殿堂に値しない」という考え方を支持したい気持ちはありますが。

その考え方の延長上に「アーツロ・ガッティは勇気の塊だから一発殿堂」だったのなら、確かに筋は通っています。

ただし、もしそうなら八重樫東も一発殿堂でなければ納得いきません。

しかし、殿堂入りはリングに残した業績で評価されるべきです。

ハメドがアーツロ・ガッティに劣る要素があるとしたら、勇気だけです。その他の要素、階級に君臨した絶対度や戦績、世界のボクシングを盛り上げた功績…ハメドのプラスを全て集めてもガッティに届かない理由を誰が説明出来るでしょうか?

やはり摩訶不思議なFirst Ballot (一発殿堂)ダニエル・サラゴサと比べて、ハメドが劣っていたのは何だったのでしょうか?

ハメドが完敗したマルコ・アントニオ・バレラ、ついに拳を交えなかったエリック・モラレス、ファン・マヌエル・マルケスが一発殿堂を決めたのは、もちろん誰もが納得です。

ファンやメディアからは、その3人との対戦が熱望されましたが、バレラに完敗した1試合しか実現せず、他の2人との対戦はついに叶いませんでした。

ハメド没落の直後に、マニー・パッキャオが繰り広げた軽量級にはあるまじきスケールのラウンドロビンは、本来ならハメドにこそ期待されていました。

それでも、正式決定していないメガファイトでお馴染みのポテンシャルオッズで、ハメドは3人のいずれとも有利の数字が叩かれていたのも事実です。

もちろん、実際に戦っていたら3戦全惨敗で、ラウンドロビンから早々に脱落していた可能性大です。

それでも、リング誌Best Fighter Poll でも最高位6位=2000年とその実力は非常に高く評価されていました。

ハメドは穴王者だったのか?答えはもちろんNOです。

どこの世界にバレラ、モラレス、マルケスを向こうに回して有利のオッズが並ぶボクサーがいますか?

では、プリンスが打ち倒した36勝の名簿から「いつの誰に勝ったのか?」を洗い直します。

まず、この手の評価で最初に上がる「殿堂」ボクサー。

ハメドの36勝に殿堂入りボクサーは1人もいません。殿堂クラスもいません。

次に、PFP10傑でもいません。PFP10傑の経験者もいません。

さらに枠を広げて現役・前・元世界王者。

ケビン・ケリーは弱い王者ではありませんが、強豪にはきっちり負ける礼儀正しい男です。その意味でもハメドは強豪でした。

ケリー、ウィルフレド・バスケス、マヌエル・メディナ、トム・ジョンソン、ウェイン・マッカラー、ポール・イングル、ブヤニ・ブングら世界王者経験者に対しては、なんと9勝8KOと凄まじい数字を残しています。

しかし、三階級で勇名を馳せたバスケスを除くと、平凡なアルファベット王者リストにすぎません。

そのバスケスも当時は37歳。「誰に勝ったか」はクリアできても「いつ」では論外です。

フェザー級バージョン、37歳のプエルトリカン、バスケスは、あまりにも無様な負け方をしたボクサーがいたことから「日本人キラー」と語られることもありますが、全盛期のバンタム、ジュニアフェザー級時代には六車卓也や横田広明に難しい戦いを強いられており、全盛期でも盤石の強豪王者とは言い切れない存在でした。

そんなバスケスのフェザー級バージョン、しかも37歳との試合がキャリア最高試合というのが、ハメドの実態です。

もちろん、それでも一発殿堂に十分な実績です。

この実績に、世界中のボクシングファンを楽しませたボクシングスタイルに入場パフォーマンスまで加えると、その功績が一発殿堂でなく何年も殿堂入りを待たされたことは、全くもって腑に落ちません。
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▶︎そして、ハメドの報酬です。軽量級では信じられない、ありえない300万ドルファイターでした。

このブログで何度も繰り返しているように「軽量級が最も尊敬されるリングは日本」です。そして「軽量級はラスベガスをはじめ米国では需要がありません」。

欧米で軽量級で、人気階級のスター並みの大きな成功を収めたボクサーは皆無です。 

カリド・ヤファイですら「大きな家も好きな車も買うことができた。でも、私がミドル級で同じことをやっていたら全く違う家と車になっていた」と幻滅しました。

PFPファイターのファン・フランシスコ・エストラーダも「ウェルター級などのクラスとの報酬格差は許容範囲を超えている。PFPとかどうでもいいから報酬でも評価して欲しい」と事あるごとに怒りを露わにしています。

彼らは間違いなく成功者です…が、「軽量級としては」という但し書きが必要です。

「軽量級は需要がないから報酬も低い」。

そんな欧米では当たり前の常識で、唯一の例外がナジーム・ハメドです。

そのハメドですら、ウェルター級やミドル級、ヘビー級で騒がれるような「巨額の報酬」を手に入れたわけではありません。

唯一の例外、ハメドですらそうなのです。それほどまでに、米国では軽量級の需要、人気がないのです。

それでも、ハメドがHBOと結んだ6試合1200万ドル(当時のレートで約15億6000万円)は、デビューしたばかりとはいえフロイド・メイウェザーをして「すげぇな、羨ましい」と言わしめました。

1試合200万ドル保証。軽量級としては破格も破格、今に至るまでも、前代未聞です。

この輝きがあまりにも眩しすぎて、ハメドの引退から20年近く経っても井上尚弥の口から「(ラスベガスで注目されるなら)最低でもフェザー」という言葉がこぼれたのかもしれません。

もちろん、何の実績もない米国にデビュー戦から破格の待遇が用意されたことにはカラクリがあります。

ハメドの血統であるイエメン王朝からHBOへ莫大な資金が供出されていたことは有名な話です。

さらに、サウジアラビアの王族までがスポンサーに名乗りを上げ、この二国だけで5000万ドル以上の放映権料を支払ったとも伝えられています。

他のいわゆる「湾岸諸国」も多額の放映権料でハメドの試合を購入、ボクシングファンからは「HBOHome Box Office ではなくHamed Box Office だ」とまで揶揄されました。

イエメンでは建国以来、初めてのスポーツヒーローがハメドでした。

年1回の大統領表敬訪問では宮殿内にトレーニングキャンプが設営され、記念切手までが何種類も発行されることになります。

高級腕時計やベンツなどの高級車、豪邸は訪問のたびにいくつも与えられたといいます。

このように、ハメドは実力で米国市場の扉を開いたわけではありません。

もちろん、HBOが200万ドル(2億6000万円=莫大なオイルマネーに浴したいしては少ない?)もかけて大宣伝を行ったケビン・ケリー戦は、多くの視聴者を集めて非常に面白い試合になりました。

ハメドは単なる金持ちのボンボンではありませんでした。 アラブマネーで扉を開いて、実力で人気者になりました。

ハメドほど極端ではないにせよ、日本のスター選手の海外挑戦も強力なサポートに後押しされているのは当然です。

イチローや松井秀喜の契約が、日本から支払われる莫大な放映権料や球場に掲げられるユンケルやクボタの大看板と無縁であるはずがありません。

かつて、セリエAに挑戦した世間体を人一倍気にする中田英寿は入団会見で「スポンサーの話はNG」と規制しました。

井上尚弥のSuper Fly 興行参戦でもHBOは軽量級では破格の2000万円近い報酬を用意しましたが、日本での放映権料から上乗せされていたことは疑いようがありません。

それでも、日本で戦う半分程度の金額でした。井上にはフジテレビやWOWOWが別途放映権料を支払う形で最終的には日本での報酬に近い約4000万円を手にしたと言われています。

ただ、イチローや松井、中田と井上が決定的に違う事実は、野球やサッカーは米国、欧州が「本場」、つまり栄光とカネがそこで待っていますが、ラスベガスは日本の軽量級スターにとっては文字通りの砂漠、需要がないのです。そこでは、逆にカネを吸い取られるだけ、ということです。

そして、ハメドと井上も全く違います。

当時のハメドにとってイエメンやサウジアラビアには戦うリングが、今以上に存在しませんでした。 

米国でもハメドが大会場で戦えたのは2試合だけですが、それでもイエメンで試合を組むよりははるかにマシです。

井上は、そうではありません。 ラスベガスやニューヨークでやるよりも、はるかに大きな尊敬と栄光とカネが待つ、母国のリングを持っているのです。

その意味では、ハメドは〝ホームレス〟でした。

アラブの王族からこれ以上ない寵愛を受けながらも「プリンス」というキャラクターを作ってきたハメドは、早く偽りの仮面を脱ぎたかったのでしょう。

メキシカンや米国人ではないハメドの人気が高まれば高まるほど、より高いハードルをついつけてくるのがアメリカです。

マニー・パッキャオはその状況を手を叩いて喜び、アウエーのリングで超強豪に挑みかかりました。

しかし、ハメドは一体一代の大勝負の重圧に耐えられず、トレーニングから試合まで藁にもすがる神頼みの時間を過ごしてしまいます。

ハメドがメキシカンなら事情は変わっていたでしょう。

もしそうなら、カネロ・アルバレスは〝ミドル級のハメド〟と後ろ指を差されていたかもしれません。

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ナジーム・ハメドは1974年生まれで1992年にジュニアバンタム級でデビュー。フロイド・メイウェザーは1977年生まれで1996年にジュニアライト級デビュー。

2人の対決は何度か交渉のテーブルに乗ったと言われていますが、現実の条件交渉は無かったと見られています。



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Q:メイウェザーとの対戦話は実際にあったのか?


A:一切なかった。

フロイドとは彼がプロ転向した直後に米国で会ったことがあるんだ。良い友達さ。「外国から来ていきなりHBOとあんな巨額の契約を結ぶなんてすごいな!」と感心されたよ。 



Q:あなたがジュニアライト級時代のメイウェザーと戦っていたら、彼はまだ無敗だっただろうか?


A:なんとも言えない。もちろん、勝っただろうという自信はある。 


Q:ファン・マヌエル・マルケス…。


A:グレートファイター。長い時間、私にとって指名挑戦者だった。

前に出てくるスタイルの彼は、私にとってやりやすい相手だから、戦うなら勝つ自信があった。

私が彼から逃げたと多くの人が信じているが、プロモーターが彼を戦うことを嫌がっていたんだ。

プロモーターは私が負けると感じていたわけじゃない、当時のマルケスは無名で世界チャンピオンでもなくて、優先順位が低かったからだと思う。

ただ、私はマルケスと戦いたかった。今は彼がとにかく偉大なファイターだと思ってる。



Q:アセリノ・フレイタスは?


A:彼とは、同じトレーナーだった。オスカー・スアレス。私がボクシングから離れる頃に、スアレスはアセリノと大きな仕事をやり始めた。

アセリノと戦うことは無かっただろう。とにかく階級が違い過ぎる。



Q:あなたはブレンダン・イングルに育てられ、スアレスとマニー・スチュアードの指導を受けた。イングルはあなたに「トレーナーを必要としない段階が来るだろう」と語りました。その特別なときはいつでしたか?


A:ブレンダンは第二の父親だった。私は彼が家族といるよりもずっと長い時間を過ごした。

そんな長い時間を共にすると、普通の感覚では理解できない信頼関係が出来るんだ。そして、私は彼のジムで初めての世界チャンピオンになった。

名声もカネも、私は彼と彼のジムに捧げた。彼は私に多くのことを教えてくれたし、それは一生忘れない。

すれ違いはあったし、息子のジョンにお願いしてブレンダンにお詫びする機会も作ってもらった。



Q:練習に身が入らなくなったのはいつのこと?


A:何を聞いてるのかわからない。いつだってハードに練習していた。

いつも練習時間に遅刻していた?ちょっと待ってくれ、練習開始時間なんて、そんなにしっかり決まってるわけじゃない。

ウォーミングアップなしで、いきなりスパーリングに入るから勘違いしているんじゃないか?そのスタイルに問題があるとは思わない。

私が練習嫌いだった、それがブレンダンを怒らせたというのは、とにかく間違いだ。メディアはいろんなことを勝手に書くけど、全部間違っている。



Q:あなたにはカムバックの噂が絶えませんでした。現実に復帰を考えたことは?


A:全くない。噂や勝手な憶測記事だった。

引退したのは28歳。ずっとその年で引退すると決めてたから。休みたかったんだ。

まだ、もう少しカネを稼げたかもしれないけど、後悔はない。



Q:あなたは才能を爆発させて、英国ボクシングの歴史を変えました。やり残したことはない?


A:ないね。

初めて負けて、28歳で引退したけど、全部出し切った。体はボロボロだった。

拳の故障は慢性的で、いつも試合前にコルチゾン注射を射ってリングに上がっていた。

試合前にドクターを入れて太い注射針を手首の裏に刺すんだ。最初はとんでもない激痛だったけど、何度も繰り返してると痛みも感じなくなるんだ。怖かった。

そのたびに、もう終わりにしようと思うんだけど…。

大金を手にして、汗臭いジムで練習するのが嫌になっただとか、憶測だけで勝手な記事を書かれたけど、そんなことだけじゃないんだ。



Q:悲願の殿堂入りも果たしました。ついに殿堂入りできたときは感慨深かったんじゃないか?


A:殿堂は全てのボクサーの最終目標、そこに辿り着いたんだから言葉では表現できない。

もちろん、私の出した結果が評価されたんだけど、それだけじゃない気もする。試合前には厳しいキャンプがあり、過酷な減量があり、記者会見もある。

ボクシングはたった一夜の、長くても36分間の戦いだけじゃないんだ。

自分の全てが認められた気分だ。どのファイターも(殿堂入りの)電話を待っているが、その電話を取れるのは本当に一握りだけ。

自分の名前が刻まれた記念碑の前で「彼の試合がまた見たい」「彼の試合を生で見たかった」と永遠に語られるんだ。素晴らしい誇りだ。






マルケスからあからさまに逃亡したことは、これはもう言い訳できません。

「優先順位が低い指名挑戦者」。もはや論理が破綻しています。

活字の間からも言葉を濁す様子が伝わってきます。そのチキンぶりも大きな要因となって、一発殿堂を逃してしまいました。

There is no doubt that Hamed ducked him because Marquez was a dangerous opponent and the risk .

フレイタスについても「階級が違いすぎる」と主張しますが、フェザーとジュニアライトのたった1階級。それが「大きい」ということですから、ファイターの器がわかります。

自分を恐れて縮こまる相手にはめっぽう強い〝マイク・タイソン〟型のファイターでした。

メイウェザーやマルケス、パッキャオとやってたら八つ裂きにされていたでしょう。ファイターとしての志に差があり過ぎます。

コルチゾン注射の件はドーピング疑惑も指摘されていました。

 WADAの2020年コードでは禁止物質ですが、ハメドが活躍した90年代は世界的にドーピングパラダイスでした。

この惨状に、WADAがIOCから独立した検査機関として発足したのが1999年。ネバダ州アスレティック委員会のリングドクターを長らく務めていたマーガレット・グッドマンがVADAを立ち上げ、ボクシングやMMAにプログラムを導入しはじめたのは2010代に入ってから。

2003年に明るみに出て世界を震撼させたバルコスキャンダル以前のハメドの時代は「やりたい放題」(ビクター・コンテ)でした。

殿堂入りについて、当初は不満も漏らしていたハメドは「マルケスから逃避した」と問い詰められると「プロモーターに聞け」と開き直っていましたが、7年越しで与えられた殿堂に満足しているようです。

ハメドがチキンだったのは間違いありませんが、それでもあの実績で一発殿堂でなかったことには違和感しか覚えません。

ダニエル・サラゴサやアーツロ・ガッティが一発殿堂で、ハメドが7年放置される…おかしいです。 ただ、殿堂で「なんでこいつが?」というのはサラゴサとガッティくらいですが。

次回はトーマス・ハウザーの「The Day it all went wrong 」(何もかもが悪い方向に転がった日)。バレラ戦で何が起きたのか? です。 

そして…Boxrecの誕生物語です。 
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IBF(International Boxing Federation) は「WBAから分裂」という先輩のWBC、後輩のWBOと同じプロセスから1983年に誕生しました。

WBCが将来の独立を目論んで1963年に設立、準備(根回し)期間を経て1966年に正式に分離独立した経緯をなぞるように、IBFも1979年にWBA内部にUSBAとして母体が生まれ、4年間の根回しを経て1983年に独立しました。

WBAが反乱分子を抱える持病持ちであることは間違いありません。

決して一貫性のない組織JBCが「タイトルの価値を貶める」という大義名分を掲げてIBFを認めませんでしたが、それはもちろん偽善にすぎません。

醜悪な大義名分の裏側には、既得権益に固執するWBAとWBCから何らかの工作があったこと、IBF設立同時に国内で誕生したIBFジャパンの勢力拡大を恐怖した自己保全がありました。

もし、WBCが極東の巨大市場の橋頭堡としてWBCジャパンを設立する戦略を選択していたなら、JBCが第二団体をスムースに受け入れることはなかったでしょう。

JBCがIBFを認めたのは2013年。第三団体IBFの誕生から30年もの歳月が流れ、第4団体WBO発足からも25年もの時間が経っていました。
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HISTORY

1977年、IBFの母体となるUnited States Boxing Association(USBA)がWBA内部に米国を担当する部署として誕生しました。

USBAが将来の分離独立を目指す思惑をもっていたことは、1979年にNorth America Boxing Association(NABF)加盟州にニューヨークを除く米国各州コミッションを加盟団体として、WBAの意志から離れて北米での地域タイトルの承認を開始したことからも明らかでした。

1970年代からWBAの中南米志向は鮮明になり、WBCもメキシコで強固な一族経営の地盤を築くなど〝アメリカ離れ〟〝アメリカ飛ばし〟の色彩が濃厚になっていました。

そんな中で、1982年にパナマのロドリゴ・サンチェス会長の急死で空位となったWBAの会長選挙に立候補したのが黒人役員ロバート・リーでした。

リーと、彼を支援していたドン・キングら米国のプロモーターが目指したのは「米国復興」でしたが、パナマとベネズエラでたらい回しが決められていた会長の椅子に米国人が座れるはずもなく、リーは会長選の落選。

勝利した新会長がヒルベルト・メンドサ(ベネズエラ)でした。

「ロドリゴ・サンチェスは殺されたのではないか?」。その後のWBAを牛耳り、WBCと同じく世襲制を敷くことに成功したヒルベルトには強烈な動機がありました。

そして、ヒルベルト以上にリーとキングにも。さらに、キングは(元?)殺人のプロ。動機もスキルも十分です。

こうした背景から、1983年に誕生したのが United States Boxing Association-International(USBA国際部)、でした。

WBCが分離独立したときに、その妨害工作はWBAからだけ受けましたが、IBFの場合はそうはいきません。WBAとWBCの2団体の嫌がらせに勝ち抜く必要がありました。

IBFの対抗戦略は「ブランディング」でした。

最初に目をつけたのがシュガー・レイ・レナードの引退で、世界の中心となっていたWBA/WBC完全統一王者マービン・ハグラー

IBF1983年5月27日、ウィルフォード・シピオンとの防衛戦をIBFは初代ミドル級王者決定戦と承認します。

この試合は当初、WBAとWBCが「12回戦」として承認していましたが、ハグラーがこれを拒否したことで「15回戦」で仕切り直しを提案したUSBA-Iにチャンスが回ってきたのです。

もちろん、WBAとWBCは承認せず。しかし、腐敗した承認団体とリングのスーパースター、どちらが強いかなんて、当時でも火を見るよりも明らかでした。

12月にはWBCタイトルを放棄したラリー・ホームズを初代ヘビー級王者にリングの上ではなく、机上の書類手続きで認定しますが、ビッグネームの取り込みは USBA-I の思惑通りに世界的な認知に直結しました。

1984年には、USBA-IからInternational Boxing Federation/United States Boxing Associationと、日本の銀行が合併したときのような長ったらしい名称に変わります。

実はこの長い名称は2018年にInternational Boxing Federation(IBF)とシンプルに改称されるまで、正式名称でした。

United States Boxing Association もIBF傘下の地域タイトルとしてその名前は残っています。
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デュランとアルゲリョとの3ショットに収まるマリアン・モハマド。


初代会長はロバート・リー。2代目はヒアワサ・ナイト。

そして、3代目のマリアン・モハマドは承認団体史上初で唯一の女性会長です。

そして2010年から現会長のダーリル・ピープルズが指揮を執っています。先行2団体とは違い、世襲制ではありません。

では、世襲制でないIBFが最も信頼に値する承認団体なのでしょうか…? 
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ジャック・ヒルシュの記事から。

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ESPNが「史上最高のボクサーはモハメド・アリ 」と発表したことに対して、フロイド・メイウェザーは「アリじゃない、俺だ」と考えているだろう。

世代を超えたボクサーはリングの上で決着をつけることが出来ない以上、比較する方法は一つしかない。

誰に勝ったのか?

それしか比較の拠り所はない。 
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アリの場合はソニー・リストン、ジョージ・フォアマン、ジョー・フレイジャー。

リストンとフォアマンは当時、誰も勝てないと恐れられた世界ヘビー級チャンピオンで、下馬評ではアリが圧倒的不利と見られていた。そして、フレイジャーとの3試合は伝説的な名勝負。いずれの相手も全盛期。

メイウェザーに目を向けるとマニー・パッキャオ、カネロ・アルバレス、ファン・マヌエル・マルケス、ミゲール・コット、オスカー・デラホーヤ。カネロ以外はピークが過ぎたグレートで、当時のカネロも経験不足だけでなくキャッチウェイトを強いられた。

メイウェザーは「アリを尊敬している」と前置きし「 私は無敗でアリは7敗もしている。どちらを上にランクするかを迷う必要があるか?」と主張している。

現実にはアリの敗北数は5つだが、メイウェザーに言わせると「ケン・ノートンとは2勝1敗ではなく3戦全敗」ということらしい。

アリがノートンに勝った2試合が微妙な判定だったのは間違いないが、それを言い出したらメイウェザーのホセ・ルイス・カスティージョ戦はもっと微妙な勝利だったから、メイウェザーは無敗ではない。

さらに、メイウェザーは「The Rope-a-dope なんて〝打たせずに打つ〟というボクシングの基本を無視した愚かな戦法」と馬鹿にしている。

しかし、当時のアリは32歳とはいえ3年7カ月の刑期で大きなブランクを作り、本来のスピードと反射を失っていた。ショルダーロールを習得したメイウェザーが近代ボクシング屈指のディフェンスマスターであるのは間違いないが、かつてのアリもそうだった。

もちろん、記録上はメイウェザーは無敗。アリは5敗している。

メイウェザーは「アリを尊敬している」(尊敬していない人類がいるか?)という通り、歴代ベストの5位にヘビー級では唯一人、アリを選んでいる。

しかし、彼が信仰する「無敗」の物差しを当てるならロッキー・マルシアノをアリ以上に評価すべきだ。

無敗でないシュガー・レイ・ロビンソンとシュガー・レイ・レナードよりも上にすべきだろう。アンドレ・ウォードやジョー・カルザゲもランキング上位に入れなさい。

スベン・オットケやエドウィン・バレロ、テリー・マーシュらを二人のシュガーより上にランクするのも良い考えだ。

そういうと、彼はこう反論するだろう。「無敗でも強い相手に勝ってなければ意味がない!」と。

それなら、もはやメイウェザーがアリに勝つことは不可能だ。

リストンとフォアマン、フレイジャーは言うに及ばず、アリは世界のトップが全盛期にあるときに戦って、勝ってきた。

もし、メイウェザーがアリより優れている点があるとしたら、ボクシングというスポーツに真剣に向き合い続けた一貫した姿勢だ。

アリよりも激しく厳しく練習に打ち込み、最高のコンディショを作ってリングに上がり続けた。

キックボクサーとの試合では醜くだぶついた肉体を晒した?あれは試合じゃない。

コナー・マクレガー戦では肉体はシェイプアップされていたが、動きは最低だった?あの茶番も試合に数えるならそうかもしれないが、2年以上のブランク明けの40歳なら十分だったろう。

アリは、けしてそうではなかった。

メイウェザーはカスティージョ戦を除くと、議論を呼ぶような判定は一つもない。

アリは、そうではなかった。

最後にこれを言うのは反則かもしれないが、時代も階級も違う2人を比較するなんて無意味だ。

アリもメイウェザーも彼らの時代を代表する最高のボクサーであるが、時代や階級を超えることは出来ない。
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プロボクシングに巣食う悪の象徴、承認団体。

20世紀初めまで、BBBofC(英国ボクシング統括委員会)に繋がる英国貴族の道楽グループや、ニューヨーク州やオーストラリアなど強力な自治体・国家が好き勝手に世界チャンピオンを認定、特に世界中からボクサーが集まるニューヨーク州は強力なポジションを確立していました。

当時、ボクシングが人気の州は多く、1920年にニューヨークと対抗する13の州が「連邦承認団体」NBAを発足させます。

しかし、ファーストエントリーで地理的な優位性もあるニューヨーク州の優位性を崩すのは容易ではなく、1948年に設立された欧州ボクシング連合(EBU)もBBBofC とニューヨーク州との提携を選択、この時点で世界から孤立したNBAは消滅してもおかしくないはずでしたが…。

1940年代、ボクシングに大きな転機が訪れます。テレビの普及です。

試合をどこでやろうがスポンサー付きのテレビ放映が、ビジネスとして成立する時代が幕を開けたのです。

よほどのビッグファイトでなければ、ヤンキースタジアムやポログラウンズに何万人も集める必要は無くなりました。

ニューヨークの地理的優位性は完全に瓦解したのです。その一方で、地理的優位性の全くなかった西の果ての砂漠の街がボクシング産業の一大拠点になりました。ラスベガスです。

ニューヨークの地理的優位性の前に致命的な欠点に見えたNBAが全米に展開する「連邦型」スタイルでしたが、テレビの普及によって欠点どころか大逆転の武器になったのです。

こうして、長らくボクシング界で圧倒的な地位を築いてきたニューヨークでしたが、今では〝東のメッカ〟となりました。

ラスベガスやカリフォルニア、テキサスなど大きな市場と多くのファンを抱える〝西〟が太陽だとしたら、〝東〟のニューヨークは月になってしまいました。

前置きが長くなってしまいました。

今日のテーマは「タイトル」。現状のボクシング界は団体と階級の増殖だけでなく、腐敗団体が同一階級にいくつも世界王者を乱立させる異常事態に陥っています。

しかし、この団体同士の浅ましいパイの食い合いは、100年前から受け継がれた醜い遺伝子です。

100年前も反目し合うニューヨーク州とNBAは同一階級で別の世界王者を擁立することがあり、ボクシングファンは「世界王者は一人だけにしろ!」と怒っていたのです。

【TITLE タイトルとWBC、その腐敗の流儀】

WBCほど仕事熱心な承認団体はいません。

1963年の発足当時では、10階級の世界タイトルマッチを承認することしかできません。

「階級を増やせばもっと儲かるぞ!」というのは普通の人の発想です。

「世界チャンピオンが一つの階級に一人だけなんて既成概念は捨てよう!」とWBCにとっては大きな一歩が踏み出され、ボクシングファンは恐るべき混乱をもたらす谷底に突き落とされたのです。

「メキシコ人にも名誉ある世界タイトルマッチのチャンスを!」とマテオス大統領が祈願したのは「メキシコ人のチャンスを増やそう」ということであって「世界タイトルの数を増やそう」ではありませんでした。

もし、マテオスが21世紀に大統領になっていたら「メキシコ人にチャンスを!」などという寝言を吐くことはなかったでしょう。そもそも、ボクシングに興味をもつことはなく、サッカーや野球でメキシコ人が世界と戦える道筋を整備していたはずです。

WBCのベルト量産工場は年々グレードアップしています。

最新の「フランチャイズベルト」は非常によく考えられた商品です。

マウリシオ・スライマン会長が誇る「最上仕様のベルト」は、指名試合を免除し 、引退後には「名誉王者」として永遠にWBCが付きまとうことになります。

金払いの良い人気選手を囲い込むためのベルトです。

理事会の2/3の承認を得ることで、あらゆる階級に適応できることから井上尚弥や井岡一翔らも間違いなくターゲットに入っているでしょう。

「暫定王者」はもはやその言葉の意味を失っています。

「王者が怪我などの理由で試合ができない場合、世界戦を維持するために設ける王座」。こんな王者が認められるわけがありません。

指名試合を拒否したり、防衛戦を一定期間行わない王者はタイトルを剥奪すればいいだけです。

 WBCの業務は「階級と王者を量産すること」に加えて「1試合でも多くの世界戦を承認すること」です。

最近では、2月にタイソン・フューリーがデオンティ・ワイルダーからWBCヘビー級タイトルを奪うと、すぐにディリアン・ホワイトとアレクサンデル・ポベトキンが争う暫定王者決定戦がスケジュールされました。

「王者が長らく試合から遠ざかるために作られた」という名目の暫定王者は、王者が健康で活発な状態であっても作られるのです。

スライマンは9ヶ月で5試合も承認させてくれるエマヌエル・ナバレッテを抱えるWBOが羨ましいとは思っていません。あんな王者がいたら暫定王者を作る隙もないからです。

「運が悪いな、ご愁傷様」と笑っているはずです。

シルバー王者も謎です。

指名挑戦者決定戦の勝者に贈られるということですが、何の意味があるのでしょうか?

さらに、YouTuber対決で用意される「 YouTube世界チャンピオン ベルト」に至ってはもう言葉も出ません。
マネー
そしてWBCで最も高価なベルトはフロイド・メイウェザーvsコナー・マクレガーの勝者に贈るために製作されたマネー・ベルトです。

ベルトはグリーンのクロコダイルレザーを使用し、パックルには3360個のダイヤと600個のサファイア、300個のエメラルド、そして1.5キロの24金が散りばめられており、一説には制作費100万ドルとも言われていますが、その制作費は日本人が世界戦で支払った承認料などが原資となっています。


「世界チャンピオンは各階級に1人だけである必要はない」。言語を破壊する禁断の領域に深く潜行しているWBCにとって、言葉など意味を持ちません。

彼らにとって意味があるのはベルトをとにかく量産すること、それだけです。 
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昨年6月から英国ボクシングニューズ誌を購読していますが、このパンデミックの影響で英国も大混乱。

「流通が100%機能できていない。海外の愛読者の方々にプリントバージョンを手元にお届けする約束の時間が守れない可能性が出てきた」。

「それでも必ず絶対届けるから、待っててくれ。デジタルバージョンを読んで待っててくれ」。

そんな律儀なお手紙を頂いて、確かに4月2日号から届かなくなりました。約1週間遅れで我が家のポストに到着するはずの4月2日号(4月9日到着予定)が、今日届きました。

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月刊誌のリング誌よりも週刊ということで、同じ月刊レベルで見ると両誌の情報量は英国に軍配が上がります。

このブログでは「WBAの回」で止まっていた「承認団体を斬る!」シリーズ、いよいよWBCです。

WBCが WBAから分離独立できた力学の源泉がずっとわからなかったのですが、ボクシングニューズ誌の記事を読んで、やっと納得できました。

元ボクサーでボクシング大好きの大統領が〝国策〟として設立したのです!

   *******
【HISTORY】

1963年にWBAから分離独立したWBCは、最も影響力のある承認団体として現在に至り、特徴的なグリーンのWBCベルトは、多くのボクサーとファンから「メジャー」と認められている。 

ボクシングがあるゆるスポーツの中でも「メジャー」と認められていた1970年代、このベルトにはスポンサーが付いていた。

アディダスだ。

長年のボクシングファンなら、アディダスのロゴが入ったWBCベルトを見たことがあるはずだ。 



時を戻そう。1963年だ。 

アドルフォ・ロペス・マテオス。

この名前を聞いて「メキシコのボクサー?」と思ったあなたは勘が鋭いが、ボクシング以外のことも少しは勉強すべきだ。

マテオスは第48代メキシコ大統領だからだ。

そして、若い頃はボクサーだった。
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元ボクサー、大のボクシングファンというだけで、すごいシンパシーです、マテオス大統領。今も空港の名前に残っています。 
 
The WBC Began in 1963 . Mexico's then President, Adolfo Lopez Mateos, a boxer in his youth, grew conerned that Mexican boxers were not getting the opportuninties to fight the world title.


当たり前だが、マテオス大統領は大のボクシングファン。

少年時代からアメリカとヨーロッパ、日本という経済大国がタイトルをたらい回しにするギルドを形成していることに不満を募らせていた。

「どうしてメキシコのボクサーには世界挑戦のチャンスが回ってこないんだ?」「才能あふれるメキシコ人の努力を無駄にしてたまるか」。

ボクシングの素晴らしさを理解している大統領は「このスポーツを腐敗させてはならない」と、強烈な思いに駆られ、私財も投げ打って積極的なロビー活動を展開した。

そして、機は熟した。

1963年2月14日。マテオスはメキシコシチーにボクシング界のリーダーと有識者を世界中から集めて、世界ボクシング協会(WBA)、欧州ボクシング連合(EBU)、英国ボクシング管理委員会(BBBofC)、ラテンアメリカプロボクシング連合(LAPBU)、東洋ボクシング連盟(OBF)がスクエアに討議する「評議会」として「World Boxing Council」をついに設立させた。

当初、賛同した各国コミッションはメキシコと米国、英国、アルゼンチン、フランス、フィリピン、パナマ、チリ、ペルー、ベネズエラ、ブラジルの11カ国に過ぎなかった。

それがいまや、主要4団体で最多の166カ国まで拡大することに成功する。

発足当初、WBC世界戦の勝者に贈られたのは、ベルトではなくグローブを形どったトロフィーだったが、60年代後半には黒い革とサテンのベルトが登場。

1975年12月、ホセ・スライマンが第4代会長に選出されると、WBCは現在とほぼ同じ緑のベルトを採用し、アディダスをスポンサーにするなど新しいビジネスモデルも模索した。

グリーンのベルトは美しい。

その大きなバックルの周囲には加盟国の国旗が小さく縁取られ、中央には右手を上げて勝利を喜ぶボクサーを包むようにメキシコや米国、英国の10カ国の国旗が大きく彩られている。

「え?オリジナルの11カ国じゃなくて10カ国?」。

よく見たまえ。

よく見れば、そんな純粋な疑問はどうでもいい話になる。

この「中央10カ国」の国旗の中で最も目立っているのは…米国でも英国でもなく、当初加盟を固辞していた日本なのだから。

「中央10カ国」はベルトによって異なるが、日本とメキシコ、米国、英国がデフォルト。

WBCとは何なのか?

この疑問に言葉は要らない。

ベルトを見ればよくわかる。ベルトはカネで買えることを、そのベルトで表現したWBCのセンスは即物的だが、あまりにも即物すぎて逆説的に芸術的ですらある。

ESPNは「WBCはそのうち自動販売機でベルトを販売する。誰でも「承認料」のボタンを押せばガチャンと出てくるはずだ」と揶揄していたがリアルすぎて笑えなかった。

スライマンは悪の権化のように見られているが、多くの革新も進めてきた。

ボクサーの安全と健康を考慮して12ラウンド制と、階級別にグローブの重さを設定、前日計量、(アミング防止の)親指接着型グローブも積極的に導入した。

それらが全て効果があったかどうかは問題ではない。スライマンがボクシングの発展を考えて、課題に取り組んだという事実は評価すべきだ。

マテオス大統領はWBCの発展を見届けることなく、1969年に亡くなった。

不遇に泣くメキシコ人ボクサーを救済したいと尽力したマテオスは、カネロ・アルバレスやレオ・サンタクルスを見て「悲願が達成された」と歓喜するだろか?

WBCを世界タイトル量産メーカーに貶めたスライマンをどう見ているだろうか?
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