フシ穴の眼 〜スポーツ疾風怒濤編〜

      Hope Lights Our Way / 希望の道を、つなごう。

カテゴリ: リング誌から

15 YEARS OF STARDOM

Manny Pacquiao’s historic march through the featherweight, lightweight and welterweight divisions and his meteoric climb through the pound-for-pound rankings was chronicled on the covers of The Ring Magazine during the 2000s and 2010s.

マニー・パッキャオがリング誌をカバーしたのは、2020年9月時点で合計40回。

さすがに全ては紹介しませんが、独断と偏見で選んだ、自称「ボクシングの聖書」の表紙からアジアが生んだ奇跡の拳を振り返ります。
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2004年4月号でカバーデビュー。「バレラを倒した男」「ボクシング界の台風の目」として大々的に特集されました。

当時、PFP1位になったばかりのフロイド・メイウェザーと過去のグレートたちとの誌上対決企画も。
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2006年6月号。「WHO NEEDS THE HEAVYWEIGHTS?〜ヘビー級なんてもう要らない?」「Pac−Mania Explodes〜パックマニア急増中」。

この頃にはすでに「未来の殿堂入り確実」と評価されていました。
 
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2007年9月号では「ホワイトホープ」のケリー・パブリックと、「ファンを味方につけられるか?」と心配されたまだプリティーボーイと呼ばれていたメイウェザーを従えてます。

注目度と報酬が劣るフェザー級という不人気クラスとしては、パッキャオの名声は破格でした。

そこには、ナジーム・ハメドを底上げしたアラブマネーのようなリング外のサポートは一切存在しませんでした。

純粋な実力だけで成り上がる、絶対に打ち合いを避けない、その姿が熱狂的なファンを増幅させたのは言うまでもありません。
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2007年11月号はバレラとのリマッチを大特集。

「ホプキンスvsライト」「ゴメスvsガッティ」「ドネアvsダルチニアン」を〝前菜〟に堂々のメインディッシュです。

バレラ戦で賭けられたのはフェザー級に続いて、WBCインターナショナルのジュニアライト級タイトルでしたが、アルファベット王座の尊厳が地に堕ちた状況でベルトの持つ価値は限定的で、ファンが注目するのは「誰と戦うのか」に、すでに絞られていました。
 
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2008年10月号。メイウェザーが引退。すでにボクシング界きっての人気者になっていたパッキャオはPFPキングの座にも就き、名実ともにリングのトップランナーとなりました。

2008年末にはオスカー・デラホーヤの持つ階級制覇記録「6」に並ぶ、リッキー・ハットン戦が内定していましたが、この試合はハットン陣営に待機料を支払い後ろ倒しにされます。

当時、ハットン以上の相手など世界中に一人しかいませんでしたが、その男からオファーが届いたのです。
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2008年12月号はまさかのドリームマッチの特集。

MGMグランドガーデンアリーナはフルハウス。その観客は、なんとパッキャオへの声援が圧倒的。

ボクシング界最大のスター、オスカー・デラホーヤはキャリア初の〝完全アウエー〟。かつて浴びたことのないブーイングに、花道を進む表情は戸惑いで強張っていました。

〝死に場所〟を探していたデラホーヤは自叙伝「アメリカの息子」を上梓するなどキャリアの総仕上げには入っていましたが、ヒスパニックのファンの目には「小さなパッキャオを選びやがって」と卑怯者に映ってしまうのです。

すでに、プロキャリア52戦で2000万ドル以上を稼いでいたパッキャオでしたが、ドリームマッチで最終的に手にした報酬は2500万ドル、たった1試合で過去52試合を凌駕する金額を手にしたのでした。

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そして、2009年5月号はハットン戦を控えて21ページの大特集。

「私はデラホーヤと違う」「アンダードッグは関係ない。これまでも何度も不利予想を跳ね返してきた」と強気のハットンは英国から3000人の大応援団が詰め掛ける中、陣営はShock The World(世界を驚かせてやる)とプリントされたブルゾンで入場します。

ジュニアウェルター級最強と目されていたリング誌王者が相手でも、もはやパッキャオが3−1で有利と、世界はその実力に気づき始めていました。

そして「パッキャオのスピードにハットンは付いていけない。パッキャオの中差判定勝ち」が濃厚予想されていたこの試合は、確かに世界を驚かせることになるのです。
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2009年11月号はプエルトリコの英雄ミゲール・コットと史上初の7階級制覇を懸けて激突。

マジソン・スクエア・ガーデンをホームとする東海岸最大の人気者コットですら、ラスベガスに引っ張り込み、キャッチウェイトまで飲み込ませる…。オッズも3−1で圧倒的有利。

ウェルター級でも最強、もはやパックマンはアンダードッグになりえない、強力なAサイドに変貌していました…唯一アンダードッグになるとしたら、無敗のままリングを去ったあの男が復帰するケースしか考えられませんでしたが…。
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いつ崩壊してもおかしくない112ポンド、フライ級の体重調整。

左の一発頼みで防御に無神経なスタイル。

そして、のちにウェルター級でも打たれ強いと言われるアゴは、フライ級の当時はグラスジョーと見られていました。

「世界基準でマニー・パッキャオが勝ち続けるのは時限爆弾を背負ってタイトロープを渡るようなもの」。

つまりいつか爆発するか、転落するか、いずれにしても安定王者になるとは考えられていませんでした。

それは、地元でタイトルを奪われ屈辱を味わったタイのプロモーター、ビラット・パチーラも良く理解していました。

パチーラはオプションを行使、フィリピンのスラッガーを再びタイに呼ぶために報酬を上乗せします。

1999年9月17日、タイが送り出したのはパッキャオより一つ年上の21歳の新鋭、18戦全勝11KOのメッグン・シンスラット。

大番狂わせで世界チャンピオンになったフィリピンのアイドルは潤沢な収入と、十分な栄養を楽しんで心身ともに満ち足りていました。

「メッグン陣営が予備軽量の秤を軽く表示されるように細工していた」という陰謀説、いわゆる〝タイの秤〟にパッキャオが謀られたという説もありますが、それは後の伝説に酔ったパックマニアの戯言に過ぎません。

軽量当日の朝、体重計の針は3ポンドオーバー。

タイに入ってから絶食、脱水症状にふらつく20歳のフィリピン人は「一口だけ水を」と泣きつきますが、唾液を絞り出すために酸味の強い柑橘カラマンシーの皮を舌に擦り付けられ、髪の毛を切られ、サウナに放り込まれてしまいます。

それでも正式計量は1ポンド、453gオーバー。

たったの1ポンドですが、この日のパッキャオの肉体は干からびて、搾り出すものは何も残っていませんでした。

たったの1ポンドを削れずに体重計の上でタイトルを剥奪された王者。

トレカンポ戦と同じプロボクサーとして最低の過ちを、再び犯してしまったパッキャオには「素質に溺れた落伍者」の烙印が押されます。

そして、試合も3ラウンドTKO負け。
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パッキャオは母国で「堕ちた英雄」と罵詈雑言を浴びる…と思いきやフィリピンのボクシングファンは、その国民性のままに「またやり直せばいい」と、失意の青年を暖かく受け入れます。

それは、フィリピンのボクシング界も同じでした。

メッグンに敗れてわずか3ヶ月後には、2階級飛ばしてジュニアフェザー級=122ポンドで再起。母国のリングでパッキャオはメインイベンターを張り、人気者であり続けます。

マニー・パッキャオを語るとき、誰もがその運の強さには溜息をつくしかありません。

もし、3つの嘘を付いたデビュー戦でそれを咎められ、試合に出れなければ?

あるいは、LMジム時代の早朝から日が暮れるまでの工事現場の肉体労働から、夜の練習、その過酷な環境で体を壊したり、誘惑に負けて別の仕事についていたら?

そもそも、LMジム時代よりも過酷で危険な草拳闘で、多くの子供ボクサーがそうなるようにその後の人生にも影響するような大怪我を負っていたら?

さらに、憧れの日本でジョー小泉とマネジメント契約を結んでいたら?

なんのアテもない米国への進出を考え、自費で練習場所とトレーナーを探す旅を途中で諦めずに「これで最後」とドアを叩いて、滑舌の悪い白人トレーナーと出会わなければ?


…そして、信じられないような幸運が、またもや舞い込みます。

このブログでも繰り返しているように、アジアの軽量級ボクサーが米国で本当の意味で強烈な印象を残すことは不可能です。

PPVイベントのメインはおろか、ビッグファイトのメインもありえません。せいぜい前座です。

考えうる幸運を絞り出せば、当代きってのスーパースターのPPVファイトで、強豪王者相手のセミファイナルを任され鮮やかな大番狂わせを演じる…それでも不十分です。

メインのスーパースターが欲求不満の残る試合をして、セミが際立つような奇跡の演出も必要です…それでも軽量級では、そこで〝詰み〟。

軽量級の強豪王者など米国のボクシングファンは興味はありません、それに勝ったとて一夜限り…。
しかし、その勝利の先に強豪王者の枠も超えるような一発殿堂の実力と人気を持つメキシコ人が待ち構えているなら話は変わります。

ましてや「強豪王者の枠も超えるような一発殿堂の実力と人気を持つメキシコ人」が3人も待ってくれているのなら、話は全く違ってきます。

そして、2001年6月上旬、信じられないような幸運が舞い込みます。 

当代きってのスーパースターのメガファイト、そのセミファイナルに出場する強豪王者リーロ・レジャバの対戦相手エンリケ・サンチェスが直前になってキャンセルするのです。

もし、あのときサンチェスがキャンセルしなければ?

Who knows how long it would have taken for him to break out. 

パッキャオのブレークがもっと先のことになっていたのは間違いありません。

いいえ、もしかしたら…それは「もっと先」ではなく、ついに訪れなかったかもしれません…。

「もしかしたら」ではないですね。サンチェスが棄権していたら、間違いなくマニー・パッキャオ」はいません。

試合までわずか10日を切ったオファーを、パッキャオが二つ返事で快諾していなければ…?

それどころか、あのタイでの防衛戦で最後の1ポンドを落とし切っていたら…?もはや何が幸いするかわかりません。

もし、小さな歯車が少しだけ狂っていたら、私たちが「マニー・パッキャオ」と出会うことはありえなかったのです。

しかし、彼のボクサーとしての人生の歯車は一度も軋むことなく美しく滑らかに回転しながら、大劇場の幕を引き上げるのです。

いや、大きく軋んで聞こえたり、ときには歯車が破損したように見えたのも、すべては「誰か」が仕組んでいたのです。

2009年、タフなリッキー・ハットンを失神させたKO劇に香川照之は「神が介在している」と戦慄しましたが、実は神はその8年前からパッキャオを溺愛していたのです。

いいえ、8年前どころか12歳のパッキャオを「少年、路上でドーナツを売るより、もっとボロい商売があるぞ」と草拳闘に誘ったあの初老のブローカー、彼も地上に降りた神のかりそめの姿だったのかもしれません。

そして、パッキャオと簡単に契約を結べる立場だったジョー小泉の耳元でも、神様はこう囁いていたはずです。

「体重も作れないボクサーなんてやめておけ。遊び癖は治らないし、練習態度も悪いだろう。あんなのと契約してもカネの無駄だ」。



それでも、彼と拳を交えたジェリー・ペニャロサは初めて会ったときから「それ」に気づいていたと言います。

I think that’s his Destiny,” said Penalosa. “That’s why he became Manny Pacquiao..

「すべては神の思し召しだ。それがマニー・パッキャオのマニー・パッキャオたる所以なんだ」。 
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プロデビューから1年。17歳になったパッキャオは何日も食べ物を口にできない空腹に身悶えすることも、軽量で重りを隠し持って秤の乗る必要もなくなっていました。

試合後は仲間と連れ立って海岸に行き、勝利者賞として送られるサンミゲルビールとバーベキューを楽しむようになりました。

栄養失調で干からびた少年の肉体は、大量の肉と酒で膨らみ続けました。
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終わりのときが訪れます。1996年2月。

ローランド・パスクアのフィリピン・ジュニアバンタム級タイトルマッチのセミファイナルで、ついに体重超過を犯してしまうのです。

最後の1ポンドが削れなかったパッキャオは6oz→8ozのグローブハンデを科せられ、3ラウンドで沈みます。

このトレカンポ戦のリングサイドにいたのが元軍人でトレーナーのリック・スタエリで「噂には聞いていたが、あんなに観客を熱狂させるボクサーは初めて見た」と、負けたとはいえパッキャオに強烈な印象を持ちました。

スタエリはレオナルド・パブロからチーフトレーナーの座を引き継ぎ、パブロはアシスタントに下がります。

まず、スタエリが手につけたのは食生活。

「当時、世界で最も大きなフライ級の一人だったパッキャオの最大の敵は計量だった」。

スタエリは白米を玄米に、砂糖をたっぷり使ったパンを全粒小麦のパンに変えました。

1997年は世界戦線に一気に浮上する年になりました。そして、その報酬もドル建てで手にすることが普通になり、マニラの人気者はアジアの強豪へと孵化します。

6月にチョクチャイ・チョクビワットを倒してOPBFのタイトルを強奪したとき、ファイトマネーは1000ドルに達しました。平均年収が10万ペソ、約3000ドルのフィリピンではとんでもない大金です。

9月のメルビン・マグラモ戦では3000ドルに、12月にタノンディ・シンワンチャーを迎えた初防衛戦では7000ドルに達しました。

パッキャオの勢いはバギオでキャンプを張っていたWBC世界ジュニアバンタム級王者ジェリー・ペニャロサの目に止まります。

川島郭志を破って王者に就いたペニャロサは11月の趙英柱との防衛戦でサウスポーのスパートングパートナーを探していたのです。

スタエリは「1ヶ月の報酬が1万ペソだったが、濃密な経験になった」と語り、ペニャロサも「技術的には未熟だったが左の破壊力は見たことがない種類だった。大物になるとわかった」と10代のパッキャオを評価していました。

そして、1998年。パッキャオは初の外国遠征に挑みます。 

最初は5月、憧れの地・東京で寺尾新を1ラウンドで撃退。そして12月、パスポートにはタイ王国のスタンプが押されます。

PFPファイターのユーリ・アルバチャコフからWBCのピースを奪ったチャチャイ・ダッチボーイジムへの挑戦です。

バンコク郊外、プタモントンの公設市場に特設された屋外リング。開始ゴングが鳴らされたのは灼熱の午後2時。

チャチャイは1988年ソウル五輪代表のエリートアマで、プロでの黒星はユーリとの初戦を僅差で落とした1敗のみ。荒削りにもほどがあるパッキャオに勝ち目はないーー誰もがそう思っていました。

I knew he had to win by knockout, said Staheli. 

スタエリも「バンコクでタイの強豪王者に挑戦するのは、日本のスター選手ではタブーになっている。まともな神経をしていたら選ばないオプションだ。それほど難しい挑戦だった」と認めています。 

「勝つにはノックアウトするしかない」。

ひとまわり体の大きなパッキャオがパンチを上下に散らしながらプレッシャーを掛ける展開。タイ人が試合をコントロールしているように見えましたが、チャチャイは「受けたことのないような強烈なパンチだった。パッキャオの決意の強さ、ハングリーさにもたじろいだ」と心身ともに追い込まれていたと告白しています。

7ラウンドまでの採点は70−64/69-64/68-65。現実の試合もスコアカード同様に見えましたが、チャチャイの内部だけは違いました。

勇猛果敢なタイの戦士が明らかに怯えているのです。

恐怖も負荷した疲労にチャチャイのガードは下がり気味になります。この月に20歳の誕生日を迎える19歳のフィリピン人はコーナーに追い込むと、大きく振った左を王者の顎をヒットします。

※リング誌やボクマガなど一部メディアは、この頃のパッキャオの年齢を「22歳」と伝えていますが、パキャオのサバ読みを真に受けたままの資料だったのでしょう、もちろん間違いです。

なぎ倒されたチャチャイは必死に立ち上がろうとしますが、パッキャオの looping left をまともに食らったのです。立てるわけがありません。

「王者を倒した瞬間、会場が静まり返って凍りついた。私を応援してる人は本当に誰一人いなかったからね」「タイのファンからしたら調整試合のつもりだったろうが、中盤から王者が下がりだしたのでノックアウトできると確信した」「ポイントは気にしてない。判定で勝とうだなんてこれっぽっちも考えてなかったから」「どこかで左が当たれば終わるのはわかってた」とパッキャオは笑います。

誰もが大番狂わせにしか見えませんでした。後から見直せばチャチャイが不思議なくらいに警戒していたのが、恐怖からだと想像できますが、当時はうまく戦っているようにしか感じられませんでした。

この勝利でパッキャオの母国での人気は沸騰します。

タイで大番狂わせを起こした映像はニュース番組で何度も繰り返され、翌日の新聞は一面で英雄誕生を報じました。

凱旋帰国したパッキャオは、アパレルブランド「No Fear」と複数年のスポンサー契約を結び、防衛戦までの調整試合でも開場前の早朝から長蛇の列ができました。

当時、北コタバト市の副市長に選ばれたばかりだったマニー・ピニョールは「無名のトッド・メケリムとの試合に朝6時からファンが並んでいるんだから驚きだった。ボクシングが盛んな国だけど、史上最高の人気者だと思った。試合も面白いし、極貧から栄光へのシンデレラ物語もドラマティック過ぎた」と回想しています。
 
「あの頃の熱狂は今でも覚えている。当時はあれ以上の熱狂なんてありえないと思っていたんだが…」。ピニョールは嬉しそうに笑います。

ピニョールだけではありません。少年パッキャオの大冒険時代を知る人々は、幸せそうに、例外なくそう言うのです。 

「あれ以上なんて、ありえないと思ったよ。だってそうだろう?あれ以上大騒ぎになるなんて想像もできないさ。大騒ぎを通り越す熱狂は、街に人っ子一人いなくなるなんてね。」。 
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SOWING THE SEEDS そして種は蒔かれた。

巨大な成功を掴み取った多くのファイターがそうであったように「マニー・パッキャオ」も誰も知らない全く無名の少年から始まりました。

1995年1月。マニラからサブラヤン島まで2時間の小さな定期船、それは特別なものなど何一つない全く取るに足らないものでした。

もし、その船に16歳のマニー・パッキャオが乗っていなければ、この短い定期船が記憶されることはなかったでしょう。

しかし、彼が乗っていました。

そして、全ては、そこから始まりました。


小さなフィリピン人少年は、その島でプロボクサーとしてのデビュー戦のリングに上がるのです。

2時間かけて島に着くと、そこからさらに3時間。バスケットボールコートにリングを誂えた粗末な会場に16歳がようやく辿り着きました。

「長旅だったけど、ずっと何も食べてなかったので空腹が辛かった」。

106ポンド=48.1㎏が契約体重でしたが、少年は極度の栄養失調で98ポンド=44.5㎏しかありません。

8ポンドのギャップを埋めるために、石やベアリングをポケットに隠して秤に乗りました。

少年はデビュー戦で二つの嘘をつきますが、最初の嘘が重りを隠して秤に乗った計量です。そして二つ目が、年齢下限の18歳だと2歳もサバを読んだことです。

主催者から出生証明書のコピーを持ってくるよう指示されていましたが「船の中に忘れてしまった」と嘘をつきます…つまりは正確には3つ嘘をついたわけです。

試合は20歳のエドモンド・イグナシオを4ラウンド判定で下しました。試合報酬は1000ペソ、約30ドル、日本円で4000円足らずでした。

それでも路上生活を送って極貧に耐えている母親と5人の弟妹を助けるには大きな金額でした。パッキャオはドーナツ売りなどで家族を支えていましたが、その賃金は1日数ペソに過ぎません。

1000ペソのファイトマネーは「ビッグマネー」だったのです。
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マニラからサブラヤンまでの長い船旅が消し飛ぶほどのロングジャンプ、太平洋を越えてハリウッドのワイルドカード・ボクシング・クラブで練習をするようになった頃のパッキャオは、ボブ・ディランやシルベスター・スタローンが〝表敬訪問〟するアイコンになりますが、それはもう少し後の話。

プロボクサーになったパッキャオはサンパロックのパクイタ通りにあるLMジムで汗を流すようになります。

オーナーはポールディング・コリア。建設業で財をなしたコリアは趣味でボクシングをサポート、若いボクサーを全国から呼び寄せていました。

ジェネラルサントスから呼び寄せた7人のボクサーの一人がパッキャオでした。日中はコリアの工事現場で働き、夜は練習、寝るのは床に雑魚寝。

この200m四方の粗末なジムは、ルイスト・エスピノサ、モーリス・イースト、ローランド・パスクワら〝番狂わせの超人〟たちが世界に羽ばたいた「アップセット工場」でしたが、その最高傑作がパッキャオです。

アンモニアの臭いが立ち込め、暗くジメジメした迷路のような裏通りにあったジムは、2009年に取り壊されてしまいます。

周囲の住民が驚くほどの高額で土地は買い取られ、その跡地に建設されたのがオフィスとジムなどが融合された近代的なMPタワーです。

そして、薄暗い裏通りが、今では明るく清潔なメインストリートに様変わりしました。
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パッキャオに不思議なオーラを感じたコリアは「この子は普通じゃない」と、フィリピンの大プロモーター、ロッド・ナザリオと、ジムへの出資者の一人リト・モンデジャーに紹介。

二人がマネジメントする国営放送の人気ボクシング番組「 Blow by Blow」のスターとしての道が開けます。

当時のトレーナーは元ボクサーで隻眼のレオナルド・パブロ。「殺るかやられるか」「攻撃は最大の防御」というパッキャオの骨格はこの頃に固まります。

 Blow by Blowの解説者ホアキン・ヘンソンは「当時は非常に不注意なファイターだった。防御技術が習得できていないから劣勢になるとどうしようもなかったが、圧倒的な攻撃力で押し切っていた」「豊かなフットワークを見せていたが無駄な動きも目立った」と振り返ります。

当時のパッキャオをよく知るジェリー・ペニャロサも「彼の戦い方はストリートファイター。相手を殺す気でリングに上がっていた」。

“I knew it from the beginning that this guy would become big; he would become something.” – Gerry Penalosa パッキャオが成功する、大物になるのは早い段階でわかっていた。=ペニャロサ



この凶暴な〝幼虫〟が何かに化ける予感は誰もが持っていました。しかし、誰の予想も超える怪物に成長するとは、神様でも御存知なかったでしょう。



栄光の助走を始めたパッキャオは、悲劇も経験しました。

「兄弟」と愛した、一緒にマニラに来た7人のボクサーのうち二人が命を落としてしまうのです。

いつも床で隣に寝ていたエディー・カダルゾは、過酷な日常がたたって就寝中に死亡。

ユージーン・バルタグは試合中に負った怪我が原因で1995年12月9日に亡くなってしまいます。この日、バルタグを見舞ったパッキャオは彼の髪の毛をグローブに入れて試合に臨みました。

デビューから1年足らずでメインイベンターに成長したパッキャオはローロンド・トヨゴンを10ラウンド判定で下したあとに訃報を聞いてしまいます。


「こんな短い間で二人も〝兄弟〟を喪ってしまった」。

悲しみに慟哭するパッキャオに、1年前には予想もしなかった恐るべき強敵が彼に迫っていました…。
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リング誌11月号はマニー・パッキャオ特集号。

パッキャオの奇蹟と思える偉業に、最もインスパイアされたのは日本のメディアやボクサーたちです。

小さなアジア人が米国のリングを震撼させたのですから、当然といえば当然です。

専門誌でも「見たか!アジアの灼熱の拳を!」(ボクシングマガジン)のように、完全に自分たちの代表という感情移入ぶりが目立ちました。

もちろん、それも2008年のオスカー・デラホーヤ戦までのことです。

少なくとも、メディアはあの試合以降、パッキャオをアジアの同志と重ねて見ることはできなくなりました。

「本当に遠くまで行っちゃいましたね、後楽園ホールで戦ったこともあるんですよ。手が届かないとこに行っちゃいましたね、今までも手が届いてたわけじゃないし、嬉しいけど…」(香川照之)。

一方で、ボクサーは「対戦相手としてはもう想定できないです」という全盛期の長谷川穂積の不遜や、「パッキャオが見た風景を見てみたい」と語った井上尚弥など、同じアジア人のパッキャオはもしかしたら手に届く存在に映るのかもしれません。
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パックマニアとしてパッキャオ本はかなりのコレクションにのぼります。それでも、リング誌で出してくれたのは底抜けに嬉しいです。

しかも2020年というタイミングも、知らなかったエピソードや、伝説の数々の補正など、マニアにはたまりません。

ゆっくり噛みしめながらご紹介してゆきます。

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さて、1966年8月20日の世界チャンピオンです(リング誌から)⬇︎。

ヘビー:カシアス・クレイ
ライトヘビー:ホセ・トーレス
ミドル:エミール・グリフィス
ウェルター:空位 ※
ジュニアウェルター:サンドロ・ロポポロ
ライト:カルロス・オルティス
ジュニアライト:フラッシュ・エロルデ
フェザー:ビセンテ・サルディバル
バンタム:ファイティング原田
フライ:ウォルター・マクゴーワン

※ウェルター級の空位はグリフィスがミドル級王座を奪取したため
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オリジナル8から10階級時代に移行したとはいえ、なんという潔い王者の名簿でしょうか。美しい。

これ、今やったらどうなりますか?

アルファベットやら、暫定、休養、スーパー、ダイアモンド、ゴールド、フランチャイズ…そんなのが17階級に渡って繰り広げられる汚物リスト、誰が見たいと思いますか?

まともなスポーツファンなら「それでボクシングって誰が一番強いの?」と聞いてくるでしょう。

そして、この10階級9人が今の4団体17階級の温室ぬるま湯時代に席捲していたら、何が起こっていたのでしょうか?

原田が実質3階級制覇していたのは多くの人が認めるでしょうが、4団体17階級なら???

もちろん、ぬるま湯に漬けられたらどんな名刀もサビつきます。

カシアス・クレイは間違いなくクルーザー級で最初のタイトルを奪取していたでしょう。そして難なくヘビー級も攻略して2階級制覇。

〝21世紀の原田〟は間違いなくジュニア階級の穴王者を狙い、ジョフレはもちろんポーン・キングピッチも絶対回避しながらアルファベットのタイトルを着々とコレクションしたでしょう。

体重管理の甘い原田はなんだかんだとジュニアウェルターあたりのWBA暫定王座決定戦くらいまでには進出して、レギュラー王者に後追い認定されてそうです…。

となるとフライ、ジュニアバンタム、バンタム、ジュニアフェザー、フェザー、ジュニアライト、ライト、ジュニアウェルター…8階級制覇です。

マニー・パッキャオは「原田に次ぐ史上二人目の8階級制覇」になるところでした。

。。。。。そして今度は逆に現在の「オリジナル8」がタイムマシンに乗って1960年代に遠征したら…? 
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少し前まで、リング誌に「オールドスクール8」という毎号企画がありました。

古き良き8階級、オリジナル8時代なら、誰が世界王者か?を想像するものでした。

しかし、米国ボクシング市場の凋落とリンクしながら、リング誌の経営状況も底なし沼的に悪化。他の人気企画も含めて「オールドスクール8」もリストラされ、2017年10月号を最後に連載は閉じられました。
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最後の「オールドスクール8」では4人の記者のうち3人がフライ級で井岡一翔、バンタム級で井上尚弥を推してくれていました。

残る一人はフライ級がドニー・ニエテス、バンタムがファン・フランシスコ・エストラーダを〝王者〟と見ました。

「井岡と井上が常識だろ」と思いますが、まー、なるほど、今見直しても納得です。 その見方もありです。全然、ありです。

これ、今やればこんな感じでしょうか⬇︎?

◉ヘビー:タイソン・フューリー

◉クルーザー:ユニエル・ドルティコス

◉ライトヘビー:アルトュール・ベテルビエフ

◉ミドル:カネロ・アルバレス

◉ウェルター:テレンス・クロフォード

◉ライト:ワシル・ロマチェンコ


◉フェザー:ゲイリー・ラッセルJr.

◉バンタム:井上尚弥

◉フライ:寺地拳四朗

3年前と変わっていないのはクロフォードとロマチェンコ、井上の3人。

1団体8階級のシステムで日本人が二人も同時に王座に就けるか?という疑問はさておき、オリジナル8の風景は非常に鮮明で誰の目にもわかりやすく映ることは間違いありません。

日本でもボクシングのステイタスが絶対的にも、他のスポーツと比較した相対的にも下落の一方ですが、オリジナル8に戻されたら全く違うでしょう。



今夜はリング誌の「オールドスクール8」の時間軸を逆に攻めたらどうなるか?というお遊びです。

バック・トゥ・ザ・フューチャー「プレゼント17階級」な感じ?でしょうか。

60年代、オリジナル8で2階級制覇したファイティング原田が4団体17階級の〝ゆとり〟時代に戦っていたら?

そして、モハメド・アリは?エデル・ジョフレは…?
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マイク・タイソンは、プロボクサーにしては実は珍しいボクシングマニアでした。

「ジミー・ワイルドやファイティング原田の戦い方を勉強しているヘビー級は一人もいないだろう。ヘビー級で軽量級の動きができれば無敵だ」(カス・ダマト)。

“I’d watch fight films all day and all night.”
– Mike Tyson

そして、もちろんヘビー級の伝説も何度も繰り返し観てきました。

キャッツキルのカス・ダマトの邸宅。その小さな居間に設えた小さなスクリーンに映写された伝説の躍動をアイアン・マイクが振り返ります。
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Floyd Patterson 
Title Reign: 1956 – 1959, 1960 – 1962 • Record: 55-8-1 (40 KOs)

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What made him special?

パターソンほど過小評価されているチャンピオンはいない。

多くを語らないおとなしい性格がその原因だろうけど、それはリング内の評価とは関係がないはず。あの小さな体で無差別級を戦い抜いただけでももっともっと評価されるべき。


Favorite moment?

インゲマル・ヨハンソンとの第2戦。左フック一発でスウェーデン人を失神させた。

タイミングといい軌道といい、完璧な一発だった。



Sonny Liston Title Reign: 1962 – 1964 • Record: 50-4 (39 KOs)
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 What made him special?

リストンほど恐怖されたヘビー級はいない。

クリーブランド・ウィリアムスやゾラ・フォーリーを沈めた試合を見たら、誰だって震え上がっちまう。

アリと戦うまでの唯一の敗戦、マーティ・マーシャルには顎を割られても最後まで戦い抜いた。そして、これが一番大事なことだが、マーシャルにきっちり雪辱した。敗北は雪辱によってのみ精算される。


Favorite moment?

すべての試合、リストンのすべての試合がお気に入りだ。彼の試合はどれもが素晴らしい、面白い。



Muhammad Ali Title Reign: 1964 – 1967, 1974 – 1978, 1978 – 1979 • Record: 56-5 (37 KOs) 
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What made him special?

もちろん、私にとっても永遠のヒーロー。アリが特別でない人は存在しないだろう。

あれほど自信に満ち溢れた人物を私は知らない。

技術的にはタブーを平気で犯すことが多かった。両手ぶらりのノーガードに、ボディブローは絶対に打たない。

ファストボールしか投げない投手のように、自分の流儀を崩さなかった。

ロープ・ア・ドープ?勘弁してくれ…タブーとか問題外。絶対にありえないから、そんな戦法。

私や他の誰かが同じことをやったら、たちまちノックアウトされただろう。

アリはリングで死ぬ覚悟があった。絶対にギブアップしない。アリを相手にしたら、誰だって最後は怖気付いてしまう。


Favorite moment?

リストンとの初戦。ジョー・フレイジャーとの初戦と第3戦。ベストはクリーブランド・ウィリアムス戦。

とにかく美しかった。

 

Joe Frazier Title Reign: 1970 – 1973 • Record: 32-4-1 (27 KOs) 
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What made him special?

マルシアノのように、勝利への執念が凄まじいグレートだ。そして、マルシアノよりも獰猛だった。

アリとの第3戦で両目の視力を失ったフレイジャーは、インタバルでエディ・ファッチにこう言ったんだ。

「アリがどこにいるのか教えてくれ。俺の右か左か。絶対にあいつを捕まえて倒すから」。

考えられない…。


Favorite moment?

アリとの初戦は、私が最も好きな試合の一つ。

それでも、やっぱり第3戦かな。大袈裟ではなく、互いに死力を尽くした。あんな試合は誰にもでいない。



George Foreman Title Reign: 1973 – 1974, 1994 – 1995 • Record: 76-5 (68 KOs)
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What made him special?

リングに上がると、とにかく容赦がなかった。ものすごいパンチ力だった。瞬間最大風速なら史上最強。


Favorite moment?

フレイジャーとの初戦は、何かの間違いかと思うほどの圧勝劇だった。
 styles make fights なんて言われたって
フレイジャーがあんなに簡単に負けるなんて信じられない。



Larry Holmes Title Reign: 1978 – 1985 • Record: 69-6 (44 KOs)
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What made him special?

「アリのコピー」という烙印を打ち消すためのキャリアだった。そして、それを見事に成し遂げた。

私との試合は長いブランク明けでいきなりの試合だった。

十分なチューンナップをこなしたあとはホリフィールド相手に判定まで持ち込み、レイ・マーサーに勝利した。オリバー・マッコール戦はオフィシャルでは惜敗だったが、間違いなくホームズの勝ち。

もし、ドン・キングの罠にはまっていきなり私と戦ってなければ…少なくとも4ラウンドで勝てる相手じゃなかった。



Favorite moment?

レナルド・スナイプス、アーニー・シェーバース、マイク・ウィーバー…全盛期のホームズはとにかくスタイリッシュで強かった。
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10代で激しく過酷な練習に没頭したマイク・タイソンは、過去のグレートたちのフィルムを繰り返し研究した〝懐古厨〟としても広く知られています。

“I’d watch fight films all day and all night.”
– Mike Tyson

過去のグレートの中には、難攻不落の60年代最高ボクサー、エデル・ジョフレからタイトルを奪取した〝狂った風車〟ファイティング原田も含まれています。

フィルムが擦り切れるまで、何度も見て最も研究し、感銘を受けたのはシュガー・レイ・ロビンソンの戦いぶりでした。

「SLRの凄さは見れば見るほどわかる。1984年のロス五輪で初めて会ったときは天にも昇る気分だった」。

ヘンリー・アームストロングも大のお気に入り。「あのノンストップの攻撃は誰も真似できない。フェザー、ライト、ウェルターを10ヶ月で制覇して同時に保持してただなんて、一体どうなってるんだ!?」。

そして、タイソンの大先輩たち、偉大な世界ヘビー級チャンピオン10人について、耽溺的に語っています。
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Jack Johnson 
Title Reign: 1908 – 1915 • Record: 54-11-7 (34 KOs)

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What made him special?

白人女性を見ただけで黒人が殺されていたような時代で、ジョンソンは自分を貫いた。白人女性と三度も結婚した。大きな尊敬しかない。

アリも時代と戦ったが、黒人にとってどちらが過酷な時代だったかは言うまでもない。


Favorite moment?

彼が運転する車の前を警官がバイクで塞ぎ、50ドルの罰金をよこせと詰め寄った。何も違反していないのに。当時の50ドルは、今ならいくらになる?多分1000ドルか、それ以上だ。

ジョンソンは「釣りは要らないぜ。またすぐに戻ってここを通るから、その分も今払っとく」と笑って100ドル分の紙幣を投げたんだ。これって、格好良すぎるだろ!?



Jack Dempsey Title Reign: 1919 – 1926 • Record: 54-6-8 (44 KOs)
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What made him special?

彼ほど興奮するファイターはいない。野獣のように獰猛で、みんな気づいていただろうけど、私は彼のようになりたかったんだ。

ローリング20’の激動の時代に暴れまくり、史上初の100万ドルファイターにもなった。


Favorite moment?

ジェス・ウィラード戦、トレドの惨劇は何度も見た。

肋骨と頬骨と眼窩底を打ち砕いたデンプシーは野獣そのものだった。そう、私はあのときのデンプシーのように戦うことを目指していたんだ。



Joe Louis Title Reign: 1937 – 1949 •Record: 66-3 (52 KOs)
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What made him special?

それまでのヘビー級は強打の一発を狙うスタイルだったが、ルイスは正確なコンビネーションパンチをまとめた。それはとても美しく、私にとっては大変勉強になった。

ただでさえ強打者のルイスの連打を食ってしまうと、誰も立ち上がることなど出来なかった。

そして衝撃的なダウンを演出しても、何事もなかったようにニュートラルコーナーに下がるんだ。格好良かった!もちろん、私も真似したよ。


Favorite moment?

ビリー・コンとの初戦と、ジェシー・ジョー・ウォルコットとの再戦。

劣勢の試合を逆転KOで締めくくった。感動的だった。私も、見る人の心を震わせる、ああいう試合をしたかった。

ウォルコットを沈めたコンビネーションの素晴らしさと言ったら…もう言葉にできない!



Rocky Marciano Title Reign: 1952 – 1956 • Record: 49-0 (43 KOs)
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What made him special?

彼の何が特別かって?

あの勝負根性だ。マルシアノは相手を叩き殺すつもりでリングに上がっていた。

勝利のためには何でも捧げた野獣だった。


Favorite moment?

ジェシー・ジョー・ウォルコットとの初戦。美しい右の一撃だった。

初回にダウンを喫してスコアカードは劣勢だったが、13ラウンドに起死回生の一発を叩き込んだんだ。

世界タイトルマッチで必要なのは最後まで諦めないこと、必ず訪れるチャンスを逃さないこと、それを私はマルシアノから学んだ。
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第58回WBC年次総会が日本時間の金曜日に開幕しました。

世界的なパンデミックの影響で、今回は各議題についてオンライン会議を行う形をとっています。

マウリシオ・スライマン会長とドン・キングやフランク・ウォーレン、トム・ラフラーら錚々たるプロモーターが意見交換。

初日は全17階級における現状報告と、世界戦、世界挑戦者決定戦について発表されました。
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ライト級
ではリング誌/WBA/WBO王者ワシル・ロマチェンコは、IBFのピースを持つテオフィモ・ロペスが、紆余曲折を経て10月17日に3団体統一戦が行われる模様。

といってもWBCには関係ないはずですが、トップランクのカール・モレッティ副社長の「ロペスが勝てば防衛戦義務のないフランチャイズ王者にしてほしい」というリクエストを受けてWBCは委員投票を実施。

The WBC board of governors voted in favor of accepting Top Rank vice president Carl Moretti’s request that if Lopez wins he be recognized as a “franchise champion.” 

賛成多数で、モレッティの要求が受け入れられました。 

防衛戦を行わなければ承認料が稼げないはずですが、フランチャイズのカラクリはどうなっているのでしょうか? 

そして、もう一つ気になったのがジュニアフェザー級

日本でもおなじみの名前が出ています。

王者レイ・バルガスが足の怪我で治療に数ヶ月かかる見通しで、バルガスを休養王者に。世界挑戦者決定試合として組んでいたルイス・ネリvsアーロン・アラメダの勝者を王者として繰り上げ認定すると発表。

勝者、すなわち休養王者は指名試合2試合をこなす予定だそうで、最初がカルロス・カストロvsクリストファー・ディアスの勝者。ディアス、フェザー級でタイトルを目指すと聞いていましたが、さらに下げるんですね…大丈夫か?

次に、ダニエル・ローマンvsファン・カルロス・パヤノの勝者。このローマンvsパヤノは9月26日のショウタイムのPPVイベント「チャーロ兄弟の帰還」のアンダーカードに組み込まれる予定です。

このイベントにはすでにWBAジュニアフェザー級王者ブランドン・フィゲロアvsダミアン・バスケスもセットされており、近い将来の統一戦に向けた含みだと期待してしまいます。
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