フシ穴の眼 〜スポーツ疾風怒濤編〜

      Hope Lights Our Way / 希望の道を、つなごう。

カテゴリ: 壁を越える人々

人気者が優遇されるという点において斎藤祐樹を例に挙げているのでしょうが、とっくの昔に戦力外というのは的外れです 

斎藤佑樹に限らず、活躍の期待値が高いとされるドラフト上位の選手が長く在籍するのは珍しくありません 
 
また、ドラフト上位の選手はドラフト時点で活躍の期待値が高いことを意味しており、排出した学校や企業の期待に答え、学校や企業との関係性を壊さないよう、その選手をしっかりと面倒を見なければならない事から長く在籍することは一般的です 

戦力外になるかは所属する球団の選手層も影響し、斎藤佑樹が所属する日本ハムはここ数年、投手の選手層が薄いため2軍では結果を残していた斎藤佑樹が残ることは不思議ではありませんでした 

斎藤佑樹が戦力外になる可能性を論じるのは年齢と怪我で上がり目が無くなった今年以降と見るのが妥当です 

ボクシング記事のヤフコメが酷いのはいつものご指摘の通りですが、斎藤佑樹をとっくの昔に戦力外というのも、毎年斎藤佑樹を戦力外と叫ぶ的外れなヤフコメと同等と認識した方が良いと、老婆心ながら思います 

斎藤佑樹にとって人気が良い方向に働いたこともありましたが、 
むしろ、人気があり注目度があったことで、ドラフト上位の選手が活躍できなかった末路として特別ではなかったにもかかわらず、ライト層から過剰に批判された例でもあったと思います
 
2020-08-31 16:11:55 返信編集 ななし 202.243.234.199
 
 
ドラフト1位で入団するのと、そうではないのでは待遇や与えられる出場機会に大きな差が生じてしまうのは当然です。

期待外れに終わった大卒ドラ1が球団職員として第二の人生が用意されるケースを見かけますが、それも入団時の契約条件に盛り込まれていることが当たり前です。

また、甲子園で大活躍するなど知名度だけならプロでもトップクラスのルーキーも特別過保護に扱われます。

もし、斎藤佑樹がハンカチ王子という別の名前を持たない、大学時代の実績だけのドラ1なら、プロ10年目のシーズンを迎えることはなかったでしょう。

そして、甲子園でライバルだった田中将大が世界最高のクラブでエースに成長していることも、二人の明暗のコントラストを強烈なまでに残酷たらしめています。

もちろん、ボクシングの世界でも、井上尚弥や井岡一翔らが木村翔のように圧倒的不利予想のアウエーで戦うことはありえません。

しかし、斎藤佑樹は斎藤佑樹であるがゆえに、他のドラ1なら与えられる忘却という免罪符を得ることのないまま、10年経っても二軍の試合で打ち込まれたことがニュースにされてしまうのです。

何か一つでも違ったら…。きっと、今のような底意地の悪い批判の矢を浴びることはなかったでしょう。

あの夏の相手が田中でなければ。そして歴史的な死闘で勝者になっていなければ。それなら、現在の影はここまで漆黒の闇色ではなかったはずです。

あのとき早稲田大学に進学せずに、即プロ入りしていたなら…。結果は変わらなかったかもしれませんが「進学してダメになった」という、本人が最も否定したい非難を粘着的に浴びることはなかったでしょう。

熱烈なファンの罵声が球団の寵愛を簡単に粉砕する巨人阪神のような人気球団に入っていたら…。 それなら、とっくに戦力外です。そして、その知名度から手を差し伸べる球団もあったでしょう、それこそファイターズのような球団が。

>ドラフト上位の選手が活躍できなかった末路として特別ではなかったにもかかわらず、ライト層から過剰に批判された例でもあったと思います

ななしさんのこの指摘は二つの意味で間違っています。

一つは「斎藤はドラフト上位の選手としては特別扱いではない」ということ。斎藤のように一度もローテーに入ることもなく、2年目以降は戦力にならない低迷を続けて9シーズンもクビにもトレードにも出されなかった選手が、特別でないわけがありません。

そして、その批判はライト層ではなく、メディアからも吹き出しています。

もちろん、メディアや多くのファンが「斎藤は贔屓されている」と決め付けても、「特別」かどうかの客観的な定義や、線引きなど、そんなものは存在しません。

しかし、二つ目。言葉尻をとらえるようですが「活躍できなかった末路」というのは、明らかな大間違いです。

当然のことながら「末路」にも定義はありません。「こっから向こうが末路」なんて線引きもありません。

斎藤を語る文脈の中で「末路」という言葉は「惨めな最期」というニュアンスを感じてしまいます。もちろん、これは私の主観です。

定義や線引きなど存在しませんが、それはあくまでも客観的な話です。私の中では定義も線引きもあります。彼はまだ「末路」ではありません。

「プロになってからずっと辛いですよ。ずっと。戦力外にしてもらった方が楽だけど 、求められてるならクビになるまでやります。(どこかが求めてくれるなら)クビになってもやります」。

もっともっと楽なオプションが目の前にあるのに、甲子園史上最高のヒーロー(主観)は32歳になっても諦めていません。

きっと「ここがボトム」という程度に考えているのでしょう。でないと、とっくに折れています。

そして、何よりも…。

彼への批判は、彼のパフォーマンスにだけ向けられるべきです。彼への批判の多くに、彼がコントロールできないこと、すなわち球団の方針や姿勢まで含められていることは、あまりにも不条理で理不尽で無知蒙昧です。
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大相撲も魁皇の晩年あたりは温情相撲がかなり怪しい感じがありましたが。 
プロ野球は異質ですね。有名選手の保有や記録達成のための出場。引退試合では直球勝負、フルスイングが暗黙のルール、かと思えばノーノーやサヨナラ負けなんて事も。忖度の物差しのよく分からん世界です。 
2020-09-01 11:29:04 返信編集 ムーンサルトをする森光子 49.98.156.158

人気者の優遇処置(無理に出場機会を作る)という点においては、連続試合フルイニング出場世界記録中の晩年の金本知憲が一番分かりやすいと個人的には思っています
2020-09-01 14:21:25 返信編集 
ななし 153.164.69.204 

これは、お二人とも同じことを指摘しています。

勝手にまとめると「スポーツにおける実戦、真剣勝負の舞台で〝功労賞〟を持ち込むな」ということです。

〝功労賞〟はあるべきだ、と考える人でも行き過ぎた〝功労賞〟には眉を顰めるでしょう。

しかし、個人的には実戦の舞台でも〝功労賞〟はありだと思います。もちろん〝功労賞〟が存在しようがないボクシングは、だからこそ好きなので、大きな矛盾を孕んでいますが。

兎にも角にも、レジェンド達に実戦の場で贈る〝功労賞〟は正しい!(主観)

しかし、それはレジェンドの〝功労賞〟につきます。イチローや松坂は言うに及ばず、斎藤だって普通のドラ1ではありません、レジェンドです(主観)。



イチローが成し遂げた偉業は数え切れませんが、最も大きなものは小細工の首位打者争いを一切せずに戦い抜き、それまで日陰賞だった最多安打に眩しい光を当てたことです。

タイトルを争う現役バリバリの選手が首位打者を競り合う中で欠場したり、本塁打争いで対戦相手のライバルを意味なく敬遠したり。最多勝争いをする先発投手に安易に勝ちの付くイニングでショートリリーフさせる…そんな噴飯行為はファンを舐めきっているだけです。


ボクシングでいうと「3つ全部取られても勝ってる」と採点で大量リードと決め付けて終盤を流したブラッドリー初戦のパッキャオなんかは最低です。 

「肩を痛めて普通の状態じゃなかった」(メイウェザー戦) 、「オーストラリア入りしてからひどい風邪をひいて最悪の体調だった」(ホーン戦)も相当に見苦しいですが、リングの外の戯事です。

許せないのはリングの中でファンが面白くない戦法を選んだブラッドリー初戦の言い訳です。

主要メディアがパッキャオ勝利を支持、WBOが公式に誤審を認めた内容(誤審は認めても判定は覆らないのがボクシングとはいえそうじゃないこともあるから闇深い)でしたが、あんな試合誰が見たいと思うか!




この話は、まだまだ続きますね。。。。。(主観)。 

今朝の通勤で大枠書いた
【朝採り通勤レポ】ですが、加筆してこんな夜中にアップします。 実質「夜採り」ですがタイトルは「朝採り」です(主観)。
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1980年代中盤、私は高校から大学に進学した時代。




************このブログは移動中に書くことが多いのですが、夜中のタクシーで帰宅中、酔った勢いで思いついたことを書き殴って、自宅でまとめることもあります。

時間が経っても、どういう粗筋なのかは把握してるものですが、「これ」は何が書きたかったのか、どういう着想だったのか、どこに着地させようとしてるのか、全く思い出せません。

そこまで泥酔してないし、そもそも昨日か一昨日の話です。


「これ」↓

タイトルは「平岡公威(ひらおか・きみたけ)と長谷川公彦(はせがわき・みひこ)。」で、三島由紀夫と島田紳助の本名です。

書き出しは「 1980年代中盤、私は高校から大学に進学した時代。」。

何を書こうとしてたのか、全くわかりません。

タクシーの運転手さんとの会話から思いついたりしたのなら、何かしら覚えてるものですが…。


ついにボケが始まったのかとも戦慄しますが、こういうことが増えていくのがボケなのかなあ。

でも、せっかく書きかけたのだから、出発進行してみます。 
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お盆はとっくに過ぎたというのに、まだ考えております…。


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しかも、暫しの移動中に。移動時間に思いついて書いたり、映画やスポーツの録画を見たりはよくしていますが。

読書や映画鑑賞があらかじめ想定された移動時間内で読み切ったり、見終えるとは限らないように「書く」も書き切ることはあったりなかったりでした。

しかし、最近はなぜか忙しくゆっくり書く時間が取れないことが多くなりました。

よくよく考えると、移動中にすぐに使う資料やスケジュールなどを作成するのは普通のことで、それらは当然訪問先に到着した時点で完成していなければなりません。

と、考えるとこういうブログのお話なんかは結構簡単に移動時間内で書ききれると思い、最近は中途半端なまま下書き保存しないようにしています。

仕事の分析資料なんかを書くよりも、気分転換になって快適です。

この話も【ラスベガスの《ス》】で終わりではなく《ス》がリフレインする羽目になっているのは、そんなこととは関係なく、単に計画性が全くない、思いつきで書いているからですが。

しばし、耳障りなリフレインにお付き合いください。
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所詮はショーに過ぎないプロレス。アスリートというよりも役者や演者であるプロレスラーが、真剣勝負の総合格闘技で頂点を目指す。

それは、サーカスの踊り子がオリンピック体操競技で金メダルを狙うようなものです。

もし、そんなことが実現したら、そもそも存在すらしなかった「神話」が蘇ることになります。
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日本人のバンタム級でも、パッキャオがラスベガスでやってのけたようなメガファイトが実現する…。

これも「神話」の類です。

もし、それが存在しないのであれば、日本の軽量級は引き篭り状態から一歩も動けないまま、極めてドメスティックに世界チャンピオンを名乗り続けるしかない…。

"protecting the secrets of the business"

それは、富裕であるがゆえに王者を選んで来日させ、ベルトを奪うのが常套となった日本ボクシング界にとって否定してはいけない幻覚なのかもしれません。

裕福な挑戦者と貧乏な王者。

一見矛盾に思えますが、日本ボクシングの世界ではこれがデフォルトです。

そんな奇妙なボクシング界が「ラスベガスでは軽量級でもビッグマネーが稼げる」と幻覚を見ているのですから、これもまた「神話」に違いありません。


プロレスが長らく守ってきた、すでに広く一般知られていても、自分たちの口からは絶対に発してはいけない、秘密。

プロレスという仕事、この生業の存続に関わる重大事だからこそ、守らなければならない秘密。

"protecting the secrets of the business"

しかし、プロレスではそれは、もう過去の話です。

日本でも米国でもプロレスファンのメインストリームはみんな秘密を知って、このスポーツでも演劇でもない摩訶不思議なパフォーマンスを純粋に楽しむようになっています。

「今、我々の物語を楽しんでくれているファンは、そこにシナリオがあるのかどうかに関心を持つ人はいない。そこにあるのは物語が面白いかどうか、ワクワクできるかどうか」(新日本プロレス ハロルド・ジョージ・メイ社長)。

プロレスはついにファンと共に「神話」を乗り越えたのです。

神話を現実にしようとした桜庭和志やアレキサンダー大塚、安田忠夫…多くの偉大なプロレスラーたちは私たちに蜃気楼を見せてくれました。

しかし、現実の太陽が容赦なく照りつけるようになると、蜃気楼は儚く霧散します。

それでも〝八百長〟の世界から真剣勝負の舞台を目指したプロレスラーや、ソフトボールからプロ野球での活躍を夢見た大嶋琢磨のような挑戦が、無謀だと笑われる前に、誰の目にも気高く美しく荘厳にすら見えたのは、彼らが本物を目がけて砕け散ったからです。

同じ荘厳は、軽量級という〝卑しい〟出自にもかかわらず〝高貴な〟ウェルター級に挑戦したパッキャオにも見てとれるでしょう。

プロレスラーや大嶋匠と、パッキャオの間には1ミクロンの差もありません、そんなものがあろうはずがない。

あるのは蹉跌したか、成功したかという些末な結果だけです。

一方で、西岡利晃がMGMで犯してしまったことは、けして美しく気高い挑戦とは言えない欺瞞でした。

西岡に先駆けた長谷川穂積は「MGMメイン」は免れたものの「世界中から注目されている」と日本テレビが煽り立て、挙句はジミー・レノンJr.に「米国でも大きな関心が集められている試合だから、なんとしてもリングアナをつとめたかった。だから報酬なしで引き受けました」と言わせる始末。

あんな愚挙は繰り返してはなりません。

当の選手も可哀想です。

西岡がやったことは、サーカス小屋の小さなテントの中に五輪マークをあつらえて空中ブランコの技を披露したようなものでした。

次回は世界を震撼させる〝サーカスの踊り子〟は、パッキャオが最初で最後になってしまうのか、それとも?、を検証してみます。



さあ、電車が大嫌いな渋谷駅に止まりました。
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Kayfabe=ケーフェイ。
その語源は諸説ありますがBe Fake=イカサマをやるをその文字列に隠した隠語というのが通説です。
NHK BSプレミアムで昨夜放送された アナザーストーリーズ「タイガーマスク伝説~愛と夢を届けるヒーローの真実~」。

これを見て触発されたお話です。

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プロレスが「真剣勝負のプロスポーツ」として、一般紙やテレビのニュースでも扱われてきた戦後まもなくの時代から幾星霜。

多くの人が「プロレスは八百長」「プロレスラーは本当は弱い」ということに気付いてしまっていた1980年代初め。

村松友視が「私、プロレスの味方ですー金曜夜八時の理論」を書いたのが、ちょうど1981年。それはタイガーマスクが現実のリングに出現した年でした。

当時、それでも、プロレスにはまだ「神話」の最後のひとかけらが残っていました。

「ほとんどが八百長でも真剣勝負もある」「打撃と寝技、格闘技のあらゆるエッセンスを詰め込んだプロレスは強い」。

ごく少数意見でも、そんな「神話」を信じる、村松友視とは異なる視線でプロレスを見つめるファンも存在しました。

そんな時代、プロレスラーを志し、その門をくぐった若者たちにも「神話」を信じていた人間が少なからず存在していたことは容易に想像出来ます。

プロボクシングで世界チャンピオンを目指すのと変わらない「強くなりたい」という純粋な思いを、彼らは胸に育んでいたはずです。

しかし、彼らが現実のリングで見たものは、ロープに振るときは必ず相手の左手を取るなど細かい不文律がひしめいた虚飾の世界、最初から勝敗が決まっている〝八百長〟でした。

それを世間が〝八百長〟と呼ぶのなら、プロレスは確かに〝八百長〟でした。

「神話」の崩壊、というよりも、そもそも「神話」など存在すらしなかったことを知った彼らは、程度の差こそあれ幻滅を覚えたでしょう。

そこにあると信じた「神話」が存在すらしない蜃気楼だったーー。

その虚しい感覚は「ラスベガスに存在しないメガファイト」を妄想する日本の軽量級ボクサーにも類似するかもしれません。

WOWOWの特番内でラスベガス進出が決まった井上尚弥を、京口紘人は「ラスベガスでメインなんて今まで日本人ができなかったこと」と讃えました。

現実にはWOWOWも加担して西岡利晃がラスベガスメインを果たしていることを、聞いていた高柳謙一アナが失念しているはずがないのですが、京口発言はそのままスルーされました。

〝西岡のMGMメイン〟はケーフェイと呼ぶにはあまりにもお粗末で浅はかなフェイクでした。

私も小さな頃に「金曜夜八時」にプロレスをよく見ましたが、ちょうど世界のボクシングの耽溺の沼に足を絡めとられ始めた時期で、プロレスへの興味は濃厚なものではありませんでした。

村松友視の名著はほぼリアルタイムで読み、非常に感銘を受けましたがそれはまた別の話になります。


「お盆に軽く考える」シリーズ…お盆はとっくに明けて、「朝の通勤」シリーズと化し、さらに続きます。
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英国ボクシングニューズ誌5月14日号は、ナジーム・ハメドの大特集でした。

アマチュアで62勝5敗のリングに上がり、1992年にジュニアバンタム級6回戦でプロデビュー。無敗のまま2年後に欧州バンタム級を獲得、このブログでも取り上げていますが日本でも「辰吉丈一郎のタイトルを狙う強豪の1人」と見られていました。

その後、ジュニアフェザー級でWBCインターコンチネンタルの王座に就き、フェザー級初戦でWBO王者スティーブ・ロビンソンを8ラウンドTKO、21歳で戴冠します。

WBOストラップを15度防衛する過程で、IBF王者トム・ジョンソン、WBA王者ウィルフレド・バスケスを撃破しますが、完全統一王者=Undisputed Championには一度も届きませんでした。

それでも、ケビン・ケリーやウェイン・マッカラー、セサール・ソト、ブヤニ・ブングら軽量級のビッグネームを倒して、階級最強と目されていました。

リング誌のBEST FIGHTER POLL(年間PFP)には1995年に10位で初登場。無敗を守っていたものの、ファン・マヌエル・マルケスらメキシコの強豪をあからさまに避けていたことからランクアウトもあり、戦績の割に世界評価は低く、2000年の6位が最高。

2007年に殿堂入り資格が発生しましたが、当然ながら一発殿堂はならず。7年後の2014年にようやく殿堂入り。

「メキシコの強豪と逃げずに戦っていたら、たとえ全て惨敗でも一発殿堂だったかもしれない」なんて理屈をESPNのダン・ラファエルは言っちゃってましたが、それはおかしいでしょう。

それなら、殿堂の決め手は心意気ってことになります。個人的にはチキン丸出しだったハメドの一発殿堂ナシもある程度納得ですが、あの実績ですから一発殿堂で文句もありません。

それでも、HBOも動かしたイエメン王朝の強力なバックアップ、入場から奇抜なパフォーマンスと型破りのファイトスタイルから世界的に人気の高いアイドルでした。

1974年生まれのプリンスは現在、46歳。英国ボクシングニューズ誌のマット・クリスティーのインタビューに答えています。
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Q:世界での華々しい活躍を聞く前に、ボクシングを始めたきっかけを教えて下さい。

A:単純明快な話で、近所にボクシングジムがあったんだ。

Q:まさか、そこが…?

A:そう、セント・トーマス教会ジム。

家から300mもない距離にあった教会の中にジムがあった。〝ブレンダン・イングルの家〟だ。

7歳のときだったから、しばらくのあいだ世界中の教会には、ボクシングジムが併設されてるものだと思い込んでいたよ。

そんなのはブレンダンのとこだけだって、ずっと後になって知るんだけどね。

ジムにはエロール・グラハムもいて、彼からも教えてもらったことをよく覚えている。11歳のときに英国学童タイトルを獲ったんだ。11歳の英国チャンピオンさ。プロでやる自信も芽生えていた。


プロ転向したのは1992年、18歳だった。その年に開催されたバルセロナ五輪に出場してからプロ入りすべき、ともさんざん言われたが、待ちきれなかった。

11歳のときに「(10年後の)21歳で世界チャンピオンと億万長者になっている」と豪語してたから、時間は限られていた。

本当に欲しかったのは英国タイトル。あの見た目も美しいロンズデールベルトを手に入れることが出来なかったことは、今でも心残りだ。


Q:プロ入りしてから、あなたの戦い方はすぐに評判になりました。派手なアクションと相手を罵倒するスタイルです。

A:歴史に残るファイターはみんな派手な戦い方をしていたからね。彼らを参考にしたんだ。「またの名はカシアス・クレイ」のビデオは大げさではなく15年間、毎日繰り返し見ていた。

アリはとにかく、全てが特別だ。


Q:世界初挑戦のときも、試合前から自信満々に見えました。不安は全くなかった?

A:全くなかった。スティーブ・ロビンソンはテレビで見てたし、大きな相手(ハメドが身長164㎝/リーチ163㎝に対してロビンソンは173㎝/178㎝)だともわかってた。何度も防衛してたが、そんなの関係ねぇ。

あの試合ではフェザー級リミットに満たないジュニアフェザー級の体重でリングインしたんだ(本当は125ポンド1/2、しっかりフェザー級でした)、それであの(圧勝の8ラウンドTKO)パフォーマンスだぜ。

21歳で世界チャンピオンになる、その夢が叶ったんだ。試合をまとめてくれたフランク・ウォーレンには今も感謝している。

Q:入場パフォーマンスの宙返り、あれは失敗したら最悪ですよね?

A:滅多にないけど、正直に言うと失敗もあった。顔面から着地する最悪はないけどね。思いっきり着地バランスを崩してしまったことがあった。

ロープを使った宙返りは難しそうに見えるかもしれまいけど、実はその方が簡単なんだ。グローブをはめているとロープをしっかり掴めないから、そこは難しいけど。

とはいっても、着地で足首を痛めるリスクはあるからね。

Q:そんなリスクを負ってでも宙返りをするのはどうして?

A:いつだって勝つ自信があったから、少しくらい痛めたとしても関係なかった。

何より、チケットを買ってくれた観客や、テレビを見てくれているファンを喜ばせたかった。
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Q:唯一の敗北、マルコ・アントニオ・バレラ戦ではいつもの自信が感じられなかった。入場時から生気が失せて、いつもと違い神経質になっているようだった。宙返りもしなかった。
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バレラ戦の入場。いつもと変わらないように見えましたが、緊張から生気が失せていたといわれました。

A:そんなことはない。8週間で2.5ストーン(=35ポンド=15.88kg)の減量はボクサーを弱らせる。全く力が入らなかった。

宙返りをしなかったのは、直前になってグローブを変えられたから。試合前の2、30分前になってやっとグローブを与えられたんだ。

あの試合では、とにかく全てが悪い方、悪い方へ進んでしまった。

Q:バレラ戦では途中でもう勝てないと思った?

A:全くそんなことはない。一発当てればいつものように勝てると信じていた。

負けると思ったのは12ラウンドの最後の数秒。もうダメだと思った。負ける、負けたと思ったのはあの試合が最初で最後だ。


Q:あの試合であなたは初めてメキシコの強豪を迎えて初めて敗れ、あなたの神話が崩壊しました。

A:ノックアウトされたわけじゃない。効いたパンチはいくつもあったけど、倒されなかった。試合終了のゴングが鳴ったときは、バレラと同じように私も二本の足でしっかり立っていた。

ボクシングで負けるってことはノックアウトされることだ。そういう意味では私は負けていない。私のボクシングキャリアで誰も私をノックアウトできていないんだ。

あのときのバレラは全盛期だった。活発に試合をして動きも最高だった。逆に私は試合数も減って感覚が鈍っていた。そこに苛酷な減量やグローブの問題まで重なった。

なにもかもが、うまくいかなかった。

Everything that could have gone wrong ,went wrong.


**************

相変わらず言い訳のオンパレードですが、バレラ戦の前は極度の緊張状態だったようです。

米国で大きな報酬と人気を手に入れたハメドが、軽量級では破格のスターだったことは間違いありません。

イエメン王室の後押しがあったにせよ、HBOは英国生まれのムスリムに6試合1200万ドル(当時のレートで約15億6000万円)と複数契約を結びます。

1998年の米国デビューにはマジソン・スクエア・ガーデンのスポーツシアター、最高の舞台が用意されました。

倒し倒されの末にケビン・ケリーを4ラウンドで屠った試合は、内容的には「安定感ゼロ。ガードが甘い。いつ負けてもおかしくない」と手厳しかったのは、試合前に「(フェザー級史上最強とされる)ウィリー・ペップにも楽勝できる」と米国の誇るグレートをコキおろしながら、ケリー相手にいくつも綻びを見せたせいもありました。 

一方で、HBOのセス・エイブラハム代表は「素晴らしい試合だった。HBOの軽量級史上最高の試合だ。彼には大きなスポンサーもついているが、我々は彼の実力を評価する」と大喜び。

しかし、ケリー戦以降に爆発が期待された人気は思ったほど上がらず、イエメン王朝の支援も期待とは全く違い、さらにはメキシコの強豪との対戦をことごとく回避しようとする姿勢に、HBO内では「1200万ドルは高すぎる」と契約打ち切りの声も高まります。

そして、2001年のバレラ戦と、米国を襲った同時多発テロで大言壮語のムスリムはHBOにとって非常に扱いが難しくなります。

6試合契約は5試合で打ち切りに。

ハメドは現役続行の意思は表明する一方で、マルケスの対戦オファーは完全無視を続けて、2002年のマヌエル・カルボ戦(12ラウンド判定勝ち)を最後にリングを去りました。

次回のハメドは、そのマルケスやメイウェザー、アセリノ・フレイタスらとの対戦が実現しなかった背景や理由を、やはり言い訳(愛嬌?)たっぷりに語ります。
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米国では、フェザー級以下の軽量級にビッグファイトはない。メキシカンかプエルトリカン、米国人でなければ本物のスターになれない。

「ビッグファイト」「本物のスター」の基準に国際規格があるわけはなく、ここではハードルをグッと下げて「報酬100万ドル」「Aサイドとしてラスベガスかニューヨークにホームリングを持つ」とします。
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米国では、軽量級にビッグファイトはない。メキシカンか米国人でなければ本物のスターになれない。…この常識を覆したボクサーとして真っ先に挙がるのはマニー・パッキャオです。

ただし、そのパッキャオですら「フェザー級以下」というフィルターを通すと「Aサイドとしてラスベガスかニューヨークにホームを持つ」というスター条件は満たせていません。

21世紀になってから、米国リングで爪痕を残した〝招かれざる〟軽量級を思い出すと…。

①マニー・パッキャオ(フィリピン)=ジュニアフェザー級〜フェザー級

②ナジーム・ハメド(英国)=フェザー級

③ワシル・ロマチェンコ(ウクライナ)=フェザー級

④ローマン・ゴンザレス(ニカラグア)=ストロー級〜ジュニアバンタム級

⑤ノニト・ドネア (フィリピン)=フライ級〜フェザー級

⑥ギレルモ・リゴンドー(キューバ)=ジュニアフェザー級

⑦ユリオルキス・ガンボア(キューバ)=フェザー級

⑧ホルヘ・リナレス(ベネズエラ)=フェザー級

⑨ビック・ダルチニアン(アルメニア/オーストラリア)=フライ級〜フェザー級

⑩カール・フランプトン(英国)=フェザー級

こんな順位でしょうか?

10人全員がPFPファイターとして高評価を受け、ロマゴンは軽量級史上初の1位にも輝きました(パッキャオはライト級で初の1位)。

しかし「スター条件」は誰一人満たせず、フェザー級以下で100万ドル以上を手にしたのはパッキャオ、ハメド、ロマチェンコ、ドネア、フランプトンの5人に絞られてしまいます。

そして、そしてこの5人で1試合で最も稼いだのはパッキャオではありません。

マルコ・アントニオ・バレラ戦で850万ドルを稼いだハメドです。 
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ボクサーはもちろん、どこの国で生まれるか、それが幸せを決める大前提です。

混迷が深まるベネズエラから、今月に入ってまた狂気のニュースが届いています。

5月4日にマドゥーロ大統領が会見し「米国の支援を受けたグアイド国会議長が軍事クーデターを企てたが、治安部隊が犯行グループを拘束、失敗に終わった」と発表したのです。

埋蔵量世界一といわれる石油大国ベネズエラですが、中国とロシアの支援を受けて独裁を続けるマドゥーロ大統領の政権下で国民生活は窮乏を極めています。

さらに、米国の支援を受けたグアイド議長が昨年から「暫定大統領」を名乗り、ボクシング界も真っ青な分裂状態が続いています。

中露が支援するマドゥーロvs米国支援のグアイド。身勝手な大国の代理戦争で割りを食うのは、いつも戦場にされた国土に住む一般市民です。
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マドゥーロ大統領の「米国が首謀者」という批判に対して、ポンペイオ国務長官は「関与していない。なぜなら我々が関与していたら違う結果(暗殺成功)になっていたからだ」とマフィアのような発言で応酬。

国務長官が口にする言葉じゃありません。怖いです。

グアイド議長も関与を否定していますが、拘束された犯行グループはグアイド議長が署名した「殺害契約書」をテレビカメラに映し(そんな書類を持ってクーデターの現場に赴くか?という疑問はありますが)、彼らが所属する軍事コンサルタント会社の代表も「(暗殺の代金は)グアイドが政権奪取後に石油の売却で2億ドル(約200億円)で合意していた」と語り、グアイドとの電話での会話も公開。

軍事コンサルタント会社というとわかりにくいのですが、要は元軍人など戦闘のエキスパートを戦地に向かわせる傭兵派遣会社です。

この会社は世界50カ国で〝警備業務〟にあたる業界大手の一つだそうです。

クーデター計画が存在したことは間違いありません。

しかし、拘束メンバーの装備は米国が関与したとは考えられえないお粗末なものでした。

金銭面で細かい合意に至らない段階で、グアイド陣営が見切り発車で計画に乗り出したーーそれが、杜撰なクーデターの実態だったようです。

独裁政権を敷くマドゥーロ以上に強権を振るい、米国を挑発し続けたのが南米の狂犬ウーゴ・チャベス前大統領でした。

チャベスは2013年に58歳で病死、副大統領のマドゥーロがトップにスライドしたのでした。

このチャベスを信奉し、刺青でチャベスの肖像まで彫っていたのがエドウィン・バレロ

ベネズエラの悪霊が乗り憑ったようなボクサーでした。

バレロのお話、続きます。
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ライバルがたくさんいるメジャーで野茂のようなド派手なインパクトを残せば、バンタム級以下でももりあがる可能性はあるかもしれませんが、問題はバンタム級以下にアメリカ人の強豪ボクサーやメキシカンボクサーが皆無に等しいでもりあがりにかけます。 
 
2020-05-13 17:30:03 返信編集 ななし 61.126.96.20

▶︎ななしさん=書きかけの記事をアップしてしまいごめんなさい。

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長谷川への誘いはモンティエル戦の前でした? モンティエルには誘いがなかった? 長谷川モンティエル戦とバンタム4の関係を掘り下げて欲しいです❗ 
 
2020-05-15 23:22:18 返信編集 山田 126.209.37.152



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ヘミングウェイは熱狂的なボクシグファンでした。もちろん、ボクシングをテーマにした物語も少なくありません。

「Fifty Grand(5万ドル)」も名作です。prize fighter(プロボクサー)という職業の一面をリアルに描いています。

この作品が収められた「Men Without Women(男だけの世界)」に、ロートルの闘牛士を主人公にした「The Undefeated(敗れざる者)」がありますが、どんなボクサーも一人残らず「敗れざる者」です。

ランス・アームストロングやタイガー・ウッズはもちろん、ロジャー・フェデラーやクリスティアーノ・ロナウドらでも何かしらの闇を抱えながら戦っているでしょう。

しかし、少なくとも彼らが生計を立てる職場は、公正なトーナメントと実力が支配する世界です。それに反する行為は厳しく罰せられます。

そこは、誰の目からも公正を欠くキャッチウェイトなど思いつきもしない純粋な世界です。

自らを弱体化させる減量にのたうち回る矛盾もなければ、腐敗した承認団体がいくつも跋扈する魔宮でもありません。

そして…二つの拳をいかに効果的に使って相手の急所を撃ち抜くか、それだけを訓練をされた「公園でやったら逮捕される」特異な職業がボクシングです。

相手の急所を狙って脳震盪を起こすことを目的としながらも、いざ対戦相手を死なせてしまうと「どうしてこんなことに」と泣き崩れるしかないのが、ボクシングです。

36分間で3億ドルを手に入れたフロイド・メイウェザーとマニー・パッキャオですら、挫折の深い谷底から這い上がって来たのです。

その谷の名前は「自分を正当に評価しない世界への苛立ち」や「極貧に喘ぐ母国の未来への不安」でしょうか。

そう考えると、彼らがその谷底から本当に脱け出せたのかどうかもわかりません。もしかすると、彼らが格闘しているのは這い上がることが出来る谷ではなく、底無し沼かもしれません。
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世界中を見渡しても相当に恵まれている日本の prize fighter も「何か」から抜け出そうと七転八倒してきました。

長谷川穂積もまた「敗れざる者たち」の一人です。

2006年のシーズンオフにポスティングシステムを使ってボストン・レッドソックスが5111万1111ドル11セントで独占交渉権を獲得した松坂大輔は6年5200万ドル(当時の為替で約60億円)の契約を結びました。

この年の長谷川はまだ千里馬神戸所属。ウィラポン・ナコンルンアンプロモーションから奪取したWBCバンタム級のストラップの防衛テープを3に伸ばしたところでしたが、すでに「日本のエース」と誰もが認める存在でした。

「ラスベガスでメガファイト」を公言していた長谷川の目に、松坂が眩しく映ったののは想像に難くありません。松坂は「一足お先に」と笑い、長谷川にサインボールを渡しました。

「条件さえ整えばいつでも」と〝世界進出〟を目指した長谷川でしたが、そもそもそんな「条件」など整う道理がありません。

真正ジムの山下正人会長が「恩義がある」とテレビカメラの前で発言したWBCから送り込まれる〝最強の刺客〟を次々にクリア。1試合3000万円以上のファイトマネーを手にするようになった長谷川は、ジュニアフェザー級以下の世界で最も報酬の高いボクサーでした。

そして、それが保証されるのは軽量級への尊敬と需要がある日本だから、の一点に尽きました。

松坂が夢(本人は「夢という言葉は嫌い」と語っていましたが)見たメジャーは、栄光と報酬が日本とは桁違いの世界です。そこで成功を収めたら、栄光とカネが両方手に出来るのです。

超高額報酬を手にしていながら、オリンピック出場に憧れ、金メダルを夢見るテニスプレーヤーは、そこにあるのが栄光だけでも、その大きさを知っています。

ところが…日本の軽量級ボクサーにとってラスベガスには栄光もカネもないのです。

この10年間で米国で行われた最も評価すべきジュニアフェザー級以下の超軽量級試合はノニト・ドネアvsフェルナンド・モンティエルの決戦でしょう。

その舞台は、井上のラスベガスデビューとなるはずだったMGM系列マンダレイベイ・イベンツセンター。
キャパ1万2000の大会場ですが上階席はすべて封鎖、ばら撒いた無料券も含めて4805人が入りましたがチケットは格安、ゲート収入は15万ドルに届きませんでした(日本経済新聞はこの試合をもとに「井上vsカシメロ戦」のゲート収入を日本人ツアーが高額チケットを買う効果で20〜30万ドルと試算していました)。

3階級制覇のメキシカンといっても評価・人気ともに低劣だったモンティエルと、外国人ドネアのバンタム級試合ですから、仕方がありません。

二人は初のHBOメインのリングに上がり、ドネアはキャリアハイを2倍以上更新、モンティエルも生涯2番目の報酬を得ました。

しかし…その金額は、ドネアで35万ドル。モンティエルは5000〜6000万円とも言われた長谷川戦の半分以下の25万ドルでした。

そして、視聴者数も予想通り伸びず、ボブ・アラムはのちに「(ゴールデンボーイ・プロモーションズとの綱引きで条件を引き上げてしまった)ドネアはモンティエル戦から不良債権のお荷物だった」と告白しています。

実質、トップランクをクビ(表向きは契約満了前に自由契約)にされた人気のないドネアは、Bサイドとしてアウエー転戦と低報酬を余儀なくされます。
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フィリピーノ・フラッシュが報われたのは、もちろん井上尚弥との激戦です。

報酬はもちろんのこと、初体験の1万人以上の大観衆を前にしてのメイン、米国ではありえない軽量級に注がれるリスペクトを満喫したはずです。

ジョンリール・カシメロをはじめ世界中の軽量級が「埼玉で戦いたい」と希求したのは、カネの匂いだけでなく「井上とドネアが入場したとき、ウェルター級のスーパースターを迎えるように観客が沸いた」という栄光の輝きに魅せられたからです。
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誰も靴を履いていない国に降り立ったセールスマンは「靴なんて売れるわけがない」ではなく「靴の巨大な潜在需要がある」と前向きに捉えるべき。 ーーー という有名でちょっと陳腐な〝営業マン研修〟話があります。

しかし、米国の軽量級は全く事情が違います。彼らは靴(軽量級)を知らないわけではなく、自分に合った靴を既に何世代にも渡って履き続けているのです。

しかも、マーケットはもう半世紀もの間、シュリンクしっぱなしの下り坂。 

日本人の軽量級は下駄です。物好きで履いてくれる人はいるかもしれません。それでも、そんな物好きですら、普段履きのスニーカーやオフィシャルの皮靴以上のカネは払いません。

品揃え(タレント)も貧弱で層も薄く、馴染みのない軽量級という「下駄」が米国で脚光を浴びるとしたら、①メキシカンの人気選手②そのライバルが複数存在、この2点が絶対条件です。

そして、メキシカンでない日本人なら、②に食い込むしかありません。

しかも、それが揃っても「マイケル・カルバハルvsウンベルト・ゴンザレス」「レオ・サンタクルスvsアブネル・マレス」という稀有なマッチアップでのみビッグファイトになります。

彼らは「単体の100万ドルファイター」ですらないのです。しかも、そのほぼ全てが事実上のメキシカン対決という絶望的な軽量級。

パッキャオやカール・フランプトンのようにメキシカンを倒すことで米国に人気と需要の種のようなものは芽生えますが、それでもフランプトンのような微妙な実力ではニーズは頭打ちです。

しかも、彼らメキシカンのビッグファイトのハードルですら報酬100万ドルと、人気階級と比べるとぐっと低くなります。

実は①②が揃ったとしても、単体で100万ドルファイターすら存在しないというのが米国軽量級の現実なのです。



松坂が実現したように米国には大きな夢がある。そのはずだ…しかし、待てども暮らせども長谷川のもとに「整った条件」のオファーは舞い込みません。

当たり前です。

より生活に溶け込んだ靴を履いている人々に、下駄を3000万円どころか、億で売れると考えていたのですから。

かつて、キックボクサーの魔裟斗も「ラスベガスでメガファイト」と公言していました。

「軽量級でラスベガス」もあれと全く同レベルです。「アメリカでビッグネームになってビッグマネーを掴む」と妄想するソフトボール選手のようなものです。

もちろん、マニー・パッキャオのようにマイナーなソフトボール=軽量級から、メジャーな野球=ウェルター級に乗り込んで大暴れするなら話は別です。

下駄を売るのではなく、より機能性とファッション性に優れたスニーカーや革靴を売る、それなら全く物語は違ってきます。

長谷川は、2009年に米国プレミアムケーブルのショウタイムから〝バンタム級最強決定トーナメント〟「Winner Take All」のオファーが来たとき、完全に事実を知ったでしょう。

決勝戦で用意される報酬が両者合わせて20万ドル…だったら1回戦の報酬はいくらだったのでしょうか?

WBSSは間違いなく「バンタム4」から学習していたはずです。

「正直に報酬を発表したら誰も注目しないし、そもそも選手が集まらない」と。

「ラスベガスにバンタム級のメガファイトなどありない」と思い知った長谷川にとって残された世界進出の道は「世界に行く」のではなく「世界を呼ぶ」ことでした。

当時のバンタム級シーンはIBFを争うヨニー・ペレス(ボクシグマガジンのインタビューで「長谷川?知らない、ごめんなさい」と告白していた正直なコロンビア人)、ジョゼフ・アグベコ(「優勝したら日本で長谷川と戦いたい」と希望)が「バンタム4」への参戦が決定。

IBFは長谷川のターゲットから外れます。

WBAは2008年にウラジミール・シドレンコを翻弄したアンセルモ〝ゴースト〟モレノ

精力的にリングに上がり、6連続防衛を重ねていたパナマ人は「ショウタイムはオスカー・デラホーヤを気遣ってオファーしなかった」とメディアやファンから非難されます。

当時はアルファベット団体での防衛回数と鮮烈な勝ち方で長谷川が「バンタム最強」と見られていましたが、「モレノ最強」の意見も少なくありませでした。

モレノとゲンナディ・ゴロフキン、タイプは対照的ですが、GBPがアブネル・マレスとカネロ・アルバレスのために激突の引き延しを工作された、全盛期は破格の階級最強王者でした。

長谷川をプロモートしていた帝拳にとっても、当時のモレノは「触らぬ神に祟りなし」です。

しかし、そんな大人の事情を抜きにしても、WBOのモンティエルは最もスムースに試合が組めるアルファベット王者でした。

前の年の2009年12月18日、神戸で長谷川との対戦が決定していたエリック・モレノが過去に重大事件で逮捕歴があることから来日が難しい状況となったため試合がキャンセルになったことがありました。

このときのピンチヒッターで内定したのがモンティエルで、すでに交渉のパイプは開通していたのです。

2階級制覇したときの報酬が1万5000ドルしかなかった超不人気メキシカン、モンティエルに提示した報酬は5万ドルもなかったでしょう。

モンティエルは急なスケジュールの長谷川戦を回避し、WBOバンタム級王者になっても評価と人気は低いままで(試合内容が悪いので当然でしたが)、ショウタイムも「長谷川とドネアの補填を考えたが、バンタムに名前のある選手はいなかった」と眼中にありませんでした。

ちなみに「バンタム4」は長谷川とドネアを加えた6人トーナメントを構想していたとされますが「GBPによるマレスのためのトーナメント」に、10連続防衛ながら未知の強豪・長谷川、危険極まるフィリピーノ・フラッシュの参戦に本気で取り組んだのか、は疑問です。

実際にマレスは、長谷川への挑戦を「公平な判定が期待できない日本には行かない」と来日前提ですが1度は断っています。


もし、長谷川が半年前の〝最初の交渉〟でモンティエル戦が実現していたら?

それでも、結果は変わらなかったかもしれません。

しかし、リングサイドに座った亀田興毅が「ボクシングの会場がここまで緊張するなんて」という、あの日の武道館に充満していた重く堅い空気にはならなかったはずです。

また、あの舞台がラスベガスなら小さな会場か、あるいはほとんどの席が封鎖された大会場で、長谷川はもっとのびのび戦えたかもしれません。

長谷川や日本人軽量級にとって、ラスベガスにはカネもなければ、栄光も見当たりませんでした。とどのつまりは、夢もありませんでした。


最強を証明する一本道が見えないトップボクサーは「どうしたら実力を認めてもらえるか」に頭を悩ませてしまいます。

長谷川のように圧倒的な内容で10度も王者を守っても「強い相手と戦っていない」と言われるてしまうのです。


20勝投手に「強打者と対戦していない」とケチをつける人はいません。サッカーW杯の優勝国に強豪チームが番狂わせで負けたから幸運と揶揄する人もいません。

「どうしたら最強を証明できるのか」。

まともなスポーツなら選手が考える必要などないことに思い悩んだ挙句に、夢遊病者が幻覚する蜃気楼ように見えてしまうもの、それが「ラスベガス」だとしたら悲しい話です。

「PFPファイターならラスベガスでメガファイトが出来る」。

短絡的で無責任で、ありもしない蜃気楼を見せる報道は慎むべきです。ボクマガは随分、控えめになりましたが、ネットニュースではまだフェイクまがいの報道が目立ちます。

一時、「西岡利晃」で暴走してしまったWOWOWも先日の当の西岡の特集で印象的なやり取りがありました。

「いい試合をすると会場が盛り上がってくれて次のオファーが来る、認知されてることが実感出来る」という亀海喜寛の言葉を受けた司会者が「西岡さんの場合は?」と聞かれた西岡は「日本に帰ってきてから、こんなに報道してくれてたんだと」と現地では実感がなかったと告白。

司会者が「軽量級ですからね」と悪気なく返した一幕がありました。

そりゃそうです。何十試合、何百試合を観てもジュニアフェザー以下でマディソン・スクエア・ガーデンのアリーナや、ラスベガスの大会場がメインの試合はまずありません。

ロマチェンコvsリナレスのライト級統一戦ですらMSGの上階席を封鎖するしかありませんでした。

PPV歩合が膨らむ1000万ドルレベルの報酬となると、歴史上1試合もありません。フェザー級以下ではPPVメインも考えられません。

「〝黄金のバンタム〟でPPVで20億円」。

もちろん、それは敬虔な信者にとっては心地よい幻覚を見せてくれるお経かもしれませんが…。 
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1980年代の中量級黄金時代が去り、1990年にマイク・タイソンが東京ドームに沈んで迎えた1990年代。

世界のボクシングシーンはフリオ・セサール・チャベスを中心に回っていました。

モハメド・アリからシュガー・レイ・レナード、マイク・タイソンと米国の黒人選手をリレーしてきたスーパースターのトーチが、ボクシング大国メキシコについに渡ったのが90年代でした。

その後、メキシカンの血が流れていないフロイド・メイウェザーとマニー・パッキャオがトーチを握ります。

しかし、彼らのメガファイトの多くが「いつ」行われたかを思い出せば、カネロ・アルバレスの出現を語るまでもなく、米国リングでメキシコの極彩色がますます色濃くなっていることがわかるでしょう。
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【1990年3月17日】リチャード・スティールは正しかったのか?永遠に答えの出ない問題を提起したメルドリック・テイラー戦の「あと2秒」。

【1992年9月12日】メキシコvsプエルトリコ。伝統の一戦に新たなページを加えたヘクター・カマチョ戦。

【1993年2月20日】メキシコシチーのアステカスタジアムに記録的な13万人の大観衆を集めたグレグホーゲン戦。

【1993年9月10日】4階級制覇を賭けたパーネル・ウィテカ戦で、無敗記録を守った疑惑のマジョリティ・ドロー。

【1996年6月7日/1998年9月18日】「メキシコによるスーパースターの世代交代」という新時代を映したオスカー・デラホーヤとの2試合。

【1999年12月18日】近代ボクシングでは稀有な連勝記録を持つ2人のビッグファイト。101連勝のバック・スミスと89連勝のチャベスの対決。

ーーJ・C・スーパースターが繰り広げた絢爛の名勝負から最も印象的な試合を「一つだけ選べ」というのは土台無理な注文です。

しかし、チャベスの快進撃と「デビュー以来無敗」は常にセットでした。

その意味では、無敗記録を「90試合(90戦89勝74KO1分)」でストップされたフランキー・ランドール戦の衝撃は強烈でした。

ときは1994年1月29日、フェリックス・トリニダードvsヘクター・カマチョのもう一つの大国プエルトリカン対決のセミファイナルにセットされたWBC世界ジュニアウェルター級12回戦。

リングが組まれたのはMGMグランド・ガーデンアリーナ。今ではラスベガスの象徴として定着したMGMグランドにとって、記念すべき最初のボクシング興行がこの日でした。

そして、メキシコの神は、ついに91試合目でアラバマ生まれの〝The Surgeon〟(外科医)の拳に圧倒されてしまうのです。

このお話の主役は、今なおメキシコでは神のごとく崇められるJC・スーパースターの神話を切り崩したランドールです。

外科医のコスチュームで入場するショーマンシップも持ち合わせていたランドールといえば、チャベスに(2度)勝った男、です。

アマチュア時代にゴールデングローブ大会を5度制し、プロでも3度も世界王者に就いたランドールが一流のボクサーであることは論を待ちません。

しかし、100人のボクシングファンに「ランドールとは?」と聞いて、すぐに返ってくる答えは「チャベスに勝った最初の男」でしょう。

そして、彼は誰よりもプロボクサーという職業を愛し抜きました。

それなのに、現在58歳になる「伝説に終止符を打った男」にとって、運命はけして優しいものではありませんでした。

 I love my job.

息子のマーカス・ランドールは静かに語ります。

「父親はボクサー性の認知症とパーキンソン病が進行して、今はテネシー州の介護施設にいる。脳手術も受けて会話や動作、精神状態も安定しない」。

「彼はボクサーで、その職業を愛していた。そして家族を支えてくれた。でも、私たち家族はその父親の面倒をもう10年もみて来た」。

「人々は『チャベスに勝ったボクサー』として父親を記憶してくれている。私にとっても父親はヒーローだ。そして、やっぱり父親は父親なんだ。目の前に、静かにこうして座っているのも父親なんだ。父親はボクサーとして戦ってきた。今度は私たちが戦う番なんだ」。

マーカスは、ボクシングを恨んだり憎んだりしていません。

「ボクシングが、この仕事が大好きなんだ」。父親がいつもそう笑って語ってくれたボクシングを嫌いになれるわけがないのです。

「父親は素晴らしいボクサーだった。このスポーツに打ち込んで、世界中を驚かせた」。

父親について二つの素晴らしい思い出は、マーカスの宝物です。

一つは、自分の職業を愛した姿勢。父親が「ボクシングという仕事が大好きだ」という言葉を何度聞いたことか。

もう一つは1−15の圧倒的不利をひっくり返した、チャベス戦後のインタビュー。

フランキー・ランドールは ShowTime から向けられたマイクに叫びました。「テネシーに帰ったら小さな息子マーカスに自慢してやるんだ!父さんはやったぞ!ヒーローになったぞ!」。

マーカスは「まだ小さかったけど、父親がラスベガスでとんでもない勝利を掴み取ったことは、よくわかった。父親が大好きな仕事で大成功したんだと。最高の思い出だ」と嬉しそうに笑います。
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チャベス戦の衝撃はトレーナーのアーソン・スノーウェルにとっても忘れることができません。

「ティム・ウィザスプーンやマイク・タイソン、ジュリアン・ジャクソン、ティム・オースティン…いろんな選手をコーチして、試合でコーナーに着いてきたが、あの試合ほど興奮したことはなかった。今まで一度もダウンしたことがないチャベスをキャンバスに這わせたんだ。私はボクシングの歴史が作られた瞬間に立ち会ったんだ」。

チャベスとの再戦を不可解な8ラウンド負傷判定で落としたときのこともよく覚えていました。

「誰が見てもランドールの勝ち。(主審の)ミルズ・レーンは何度もチャベスに休息の時間を与えた。360度チャベスの応援で、主審も3人のジャッジもみんなグルだった」。

スノーウェルは憤懣やり方なく帰りのバンに乗り込み、父親が悪玉に仕立て上げられた挙句に判定まで盗まれてしまい、小さなマーカスはわんわん泣いていました。

しかし、スノーウェルがあの日の出来事で最も印象に残っているのは、理不尽な判定ではなく、子供を抱きしめたランドールの言葉でした。

「泣かないでおくれ。かわいい息子よ。ボクシングにはいろんなことがあるのさ。そんなことも全部ひっくるめて、父さんはこの仕事が大好きなんだ。泣かないでおくれ、ここで終わりじゃない。続きがあるんだから。お前が応援してくれるから、父さんはまた頑張れるんだ」。



「私が教えたボクサーの中にはこの仕事が嫌いなやつもいた。そんなボクサーと一緒に練習を積むのは苦痛だった。でも、ランドールは心の底からボクシングを愛していた。あいつと一緒に戦えたことは最高の幸せだった」。

スノーウェルは「一番嬉しかったのはチャベスに勝った瞬間」「一番悔しくて納得できなかったのはチャベスとの再戦」と言います。

チャベスの存在はそれほど大きなものだったのです。


…でも、本当にそうでしょうか?

チャベスに勝ったとか負けにされたとかは、どうでも良い後付けではないでしょうか。

そんな些細なことよりもボクシングを愛し抜いたフランキー・ランドールと懸命に戦うことが出来た、その時間こそがスノーウェルの大切な思い出になっているのではないでしょうか。
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そのとき自分が関心を持っていたものに、神様が配剤したかのように偶然出会う。

そういうことって、時々ありますよね。

新幹線のフリーペーパーに沢木耕太郎がエッセイを連載しているのを見つけた数日後に、米国ボクシングニューズ24が、面白い記事をアップしてくれていました。

拙訳です。
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夏の終わりの、ひどく蒸し暑い午後だった。

上空の雲は、いつ雨を降らせてやろうかと脅迫するように低く黒くトグロを巻いていた。

嫌な予感は的中する。

ネオンが点き始めた横浜中華街の入口近くで、巨大な給水塔の底が抜けたかのようなゲリラ豪雨に見舞われてしまったのだ。

大粒の雨が、弾丸を打ち込むような大音響でアスファルトを叩く。

目的の場所はすぐ近くのはずだったが、住所とビルの二階ということしか分からなかった。

傘も効かないスコールのような雨を避けて、とりあえず雨宿りに駆け込んだ小さな建物の案内板に、その名前を見つけた。

E&Jカシアスジム。

傘を畳んで二階に上がり、入口のドアを開けると、ジムはものすごい湿気と汗の匂いで蒸せ返っていた。

私の眼鏡はたちまち曇り、視界はゼロに。

立ちすくむ私に、練習生たちが、軍隊式の大きな声で挨拶、歓迎してくれた。

曇った眼鏡を拭いていると、若い女性が「インタビューのお約束ですね?」と微笑んで「カシアスは今こちらに向かっていますのでしばらくお持ち下さい」と小さなベンチに座るよう薦めてくれた。

書棚に並ぶ本や壁に貼られた写真を眺めながら、彼の到着を待った。

カシアス内藤。

米国では畏れ多くて誰もリングネームに出来ない、その名を使う元プロボクサーだ。

咽頭癌と闘いながらジムを経営しているカシアスは、今69歳。

在日米軍兵の父親と日本人の母親との間に生まれたカシアスは、小さい頃から抜群の運動神経を発揮、目立つ存在だった。

もちろん、それ以上に目立っていたのはその漆黒の肌と、縮れた髪の毛だったが。

観光ではなく、日本で生活する、それは明らかに外国人の見た目を持つ少年にとって、非常に複雑で、ときとして残酷な体験であることは容易に想像できる。

朝鮮戦争に従軍、戦死してしまった父親の顔を彼は覚えていない。

もし、父親が生きていて、米軍基地の中で暮らしていたら、外見も生い立ちもそこでは異質ではない彼は全く違う人生を送ることが出来ただろう。

ジムで練習に励んでいるのは、その多くが10代の若者だ。

そういえば、ジムは彩り豊かで若い雰囲気が満ち溢れている。

しばらくすると、内藤が到着した。

もう70前と言うのに、その声も立ち居振舞いもずっと若く見えた。

内藤は静かに微笑むと「少し静かなところに移りましょう」と、近くの喫茶店に案内してくれた。

カウンターにはアルバイトの大学生らしい女性が二人。

私が初めてカシアス内藤について知ったのは、日本の有名な作家が1970年代に書いた短編だった。

題名は「クレイになれなかった男」。

クレイとはカシアス・クレイのこと、偉大なモハメド・アリの本名だ。

物語は、日本を代表するホープだったカジアス内藤をサポートする著者が、有り余る才能を持ちながら世界王者はもちろん、リングの上ではついに何者にもなれなかった内藤を透明なレンズを通して語るように書き綴っていく。

そして、その原因を勝利への飽くなき執着が、内藤に欠落していたからだと結論づける。

カシアス内藤は、皮肉にもその名をいただいたカシアス・クレイが無尽蔵に持っていたものを持ち合わせていなかったのだ。

それはボクサーとしては致命的な欠陥だったかもしれない…しかし、それは同時に人間としては人を思いやる感情が豊かで、いろんな気配りが出来るということだった。

私は、カシアスの名を背負った彼に無性に会いたくなったのだ。

優しい目をしたカシアスは、静かにゆっくりと語ってくれた。

米軍基地の近くで育った少年時代。

彼が過ごした1950年代は、日本にとっては経済的にも精神的にも、敗戦の傷跡がまだ生々しい時代だった。

1950年代の日本。

米軍基地内なら悠々自適でも、基地の外で黒い肌を持つ少年が生きるには、あまりにもタフな時代だった。

誰もが彼に異端を見る冷たい視線を突き刺し、同年代の少年たちには囃し立てられ、いじめられた。

「どうしてと聞かれたら答えようがないけど、彼らを憎んだことは一度もなかったなあ。彼らが私をいじめたい理由もわかるし、それを止めさせることもできないし…」。

「それでも、毎日いじめられるのは耐えられなかった。ある日、3〜4人のいじめっ子に囲まれて殴られていたとき、自分を守るためにそのうちの一人にやり返した。すると、その子は『どうして俺だけ?』と泣き叫んだ。その子はもう私に向かってくる気が折れていたので、次の子に向かったよ」。

「悪いやつばかりじゃなかった。友達になってくれたやつも、助けてくれたやつもいた。そんなやつらは、今でも友達さ」。
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カシアス内藤は、とにかく運動ならなんでも出来た。

ボクシングをやる前は、優秀なハードル選手だった。

そして、彼が最初に教わったボクシングは、非常に伝統的なスタイルだった。

ガードを高く上げて、打たれたら打ち返す。

それは、テレビで見たカシアス・クレイとは全く違うボクシングだった。クレイはダンスを踊るようにリングを回り、ノーガードで相手を挑発し、打たせずに打っていた。

運命の出会いがあった。

エディ・タウンゼントがトレーナーをしていたジムのドアを叩いたのだ。

エディは、そのときすでに何人かの世界王者を育てた名伯楽だった。

そのときから、エディが天国に旅立った1988年まで、二人の関係は特別なものだった。エディは父親だった。

その後も世界王者を何人も育て、日本を代表するトレーナーとなったエディは、あるインタビューで最も才能があったボクサーを教えて下さいと尋ねられると「カシアス内藤だ」と間髪いれずに答えたという。

過酷な毎日を送った少年時代から、モハメド・アリは希望のシンボルだった。

カシアス内藤の本名は、内藤純一という。

E&Jカシアスジム。Jは純一を、最初のEはエディを表わす。

尊敬するアリの名前、カシアスをリングネームに採用したのは彼の希望だった。

そして、アリ本人にそのことを話し、承認してもらう機会にも恵まれた。

そのとき、アリはすでにアリであり、ザ・グレイテストにとってカシアスは奴隷の名前でしかなかった。

アリは「カシアスを名乗るのは認めない、モハメドを使え」と何度も諭したが、内藤は尊敬する人の言葉を頑なに拒否、最後はアリの方が折れた。

それから数年後の1972年4月。

アリはマック・フォスターとの〝顔見せ〟試合に来日した。

試合後、アリは詰めかけた大観衆の中に内藤を見つけると彼を呼び寄せて叫んだ。

「俺は世界で最も偉大な男だが、この男も俺と同じくらいに偉大だ。カシアス内藤だ!」。

アリがボクサーとしていかに偉大か、米国史においていかに偉大な役割を果たし、世界にいかに偉大な影響をあたえたか…その種のことは語り尽くされているが、アリを愛すべき偉人たらしめているのは、細やかな気配りと他者への尊敬だ。

「カシアスなんて奴隷の名前を使うな」というのはアリにとっては絶対に譲れない、その存在に関わることだったはずだ。

それを聞き入れなかった内藤を群衆の中に見つけて、彼を讃えて励ましたというのだ。

人目を憚らず感激に泣く内藤の涙をアリは拭いてくれたという。

「偉大な男は涙を見せるな!」。

もし、あのときアリの言葉を受け入れてムハマド内藤になっていたとしても、やはりアリは群衆の中に内藤を見つけて同じ称賛を叫んだかもしれない。

しかし、その言葉は少し軽いものになっていたかもしれない。


雨は、やんでいた。


私たちは喫茶店を出て、ジムに戻った。

カシアス内藤の写真を撮らせてもらうためだ。

「こうやって若いボクサーの指導をするのは、やっぱりやりがいがある?」。

「もちろん。若者たちに何かを伝えたい、教えたいというのは、ずっと考えていた夢だったからね」。

「幸せな毎日だよ」。
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微笑むカシアス内藤からは幸福のオーラが発散していた。

「これまでの人生のどこを振り返っても、今が間違いなく一番幸せだなあ」。

Twitter: @RishadMarquardt
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