フシ穴の眼 〜スポーツ疾風怒濤編〜

      Hope Lights Our Way / 希望の道を、つなごう。

カテゴリ: 世界最強の男

「(ジャスティン・ビーバーの)ビーバーカットだね?」。

シェーン・モズリーとのメガファイト、その会見場で記者に問いかけられたマニー・パッキャオは「子供たちはジャスティンのファンだけど、私の髪型はそうじゃない。これはブルース・リーだ!」と即答しました。
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「I Am Bruce Lee」(2012年米国映画:上映時間95分)に出演時は無冠だったパッキャオ。「8階級制覇した伝説中の伝説」とキャリアを終えたグレートとして紹介されています。まさか8年後の2020年でも世界王者のベルトを巻いてPFPにも名前を連ねているとは、当時の誰も想像できなかったでしょう。
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「昨日今日、この髪型にしたんじゃない。ずっとこのスタイルだ」。「私の人生のアイドルだ」。「ヌンチャクでよく遊んだけど、いつも肘にぶつけてたけどね。ほら、まだそのときの傷が残ってる」。
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「前後の細かいステップワークはブルース・リーから学んだ」。「半身から繰り出す小さな右もカンフースタイルだ。同じサウスポーだから、彼の動きは勉強になった」。

もし、彼がまだ地上にいたなら…パッキャオの華やかな記者発表やリングサイドには、還暦をとっくに超えた稀代のカンフースターが座っていたはずです。


もしかしたら、リングサイドにも…。想像しただけでゾクゾクしてきます。 

あらゆる格闘技に精通していたブルース・リーが最も研究したのは、古いプロボクサーのビデオでした。


ジャック・デンプシーやジョー・ルイス、そしてモハメド・アリ。

サウスポーのブルース・リーは、アリのフィルムを裏返してその動きを研究していたと、妻のリンダ・リー・キャドウェルが振り返っています。
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パッキャオは実戦でもブルース・をイメージすることがあります。

「ブルース・リーの真似をしてると、何故かアリシャッフルを踏んでしまうのが不思議だった。あとから思うと不思議でもなんでもない、自然の流れだったんだけど。彼らは一つだったんだ、そして願わくば私も」。

「ブルース・リーが本当に強かったか?戦ったことはないけど、間違いなく強かっただろう。うまく説明できないけど、私にはわかる」。

一方で…「ブルース・リーはあくまで映画俳優で、総合格闘技では通用しない、全くの論外」「オープンフィンガーグローブを開発したり、寝技で極めるスタイルも確立していたが、あれは映画用」と斬り捨てる意見も少なくありません。
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しかし、ダイナ・ホワイトは一笑に付します。

「格闘技の世界ではブルース・リーの名前を出しただけで不機嫌になる人もいる。汚らわしいと怒り出す人もいる」。

「でも、よく思い出すといい。彼がオープンフィンガーのグローブをどう使ったか、グラウンドで極め技を繰り出す手順を。あれは西部劇にあるアクションのマニュアルなんかじゃない。総合格闘技の本質を彼は1960年代で完全に見抜いていたんだ」。

「監督や演出家から指導を受けてたんじゃない。100%、彼のオリジナルだ」。
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「彼が本当に強かったのか?彼が現在の総合格闘技に大きな影響を及ぼしているのか?議論の余地などありえない」。

映画やスポーツ、エンターテインメントの世界は人気が全てです。人種差別に見えるのは、それはアメリカ人の総意です。

大きな映画の主役は、白人でなければならない。ボクシングのスーパースターは米国人か、メキシコ人しか認めない。

そこには、実力以外の壁が明らかに存在しました。
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ブルース・リーは、全てを自分一人で演出しました。 

それは、パッキャオも全くの同じです。テレビ局やプロモーターの操り人形ではありませんでした。そう見せかけて、ずっと牙を研いでいたのです。

二人はハリウッドとラスベガスの思惑を超えて、番狂わせを起こし続け、ついに人種の壁を突き破り、最後は革命に成功しました。

しかし、彼らが通ったそのあとの轍には、誰も続いていません。

それを革命と呼べるのかどうかは、わかりません。彼らを「パイオニア」と呼ぶのも間違いでしょう。

しかし、アメリカの巨大なシステムを、力づくで引っくり返した、彼らの行為は、明らかに革命でした、暴力革命でした。

「これでもまだ無視できるか?」。

そう嘲笑うように、彼らの魅力にアメリカは完膚なきままに叩きのめされてしまいます。

「主役は白人でなければならない?これが白人にできるのか?」。

「スーパースターはメキシカン?奴らをメキシカンスタイルでその座から引きずり下ろしたら?」。

アメリカにも、異邦人にとっては実力以外の壁が存在する。

それは、正確にいうと「常識を超えたとんでもない実力」以外の実力には大きな壁が存在する、というだけの話でした。



そして、12月17日にはパッキャオは42歳の誕生日を迎えます。

永遠のアイドルよりもちょうど10歳上の年齢になって、今なおボクシング最高峰のリングに上がり続けるパッキャオは、ゴールをどこに見据えているのでしょうか。 
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ハリウッド。

ボクシングファンにとってはワイルドカード・ボクシング・ジムのある街ですが、普通に考えると映画の街です。

アメリカは自由の国。実力があればアメリカンドリームを掴める。

もちろん、アメリカもまた差別と偏見の国です。

正確には「実力があれば他の国と比べると、大きな夢を掴みやすい」が、異邦人ではそれも「限界がある」。

例えば、ボクシング。アメリカでは全く人気のないフライ級やバンタム級には、そもそもからして大きな夢が存在しません。「メガファイトの前座」が最高の舞台です。

人気のあるミドル級なら、アメリカンドリームは確かに存在します。それでも、あなたがメキシコ人かカザフスタン人かでは果実の大きさは笑っちゃうほど違ってきます。

これはラスベガスでもハリウッドでも同じです。

アジア人俳優でも類い稀なる才能と不断の努力によってアメリカンドリームを掴む可能性がありますが、それは巨大な予算で製作された映画の脇役が上限・限界です。

「軽量級にはニーズがない」ように「アジア人には主役ニーズがない」のです。

それでも映画の世界で成功を掴めば、母国で得られる何倍、何十倍ものギャラと名誉を手にすることができます。

しかし、本当の主役の座には永遠に届きません。

常識なら。
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アジア人には、けして与えられない果実を力づくで奪い取り、絶対に約束されることのない場所に辿り着いた、二人の青年が奏でた奇跡の行進曲のお話です。

一人はシュガー・レイ・レナードがロビンソンやモハメド・アリに対するのとは異質の〝憧憬〟を隠さず、一人はボブ・ディランが尊敬の訪問〝参拝〟を繰り返しました。

二人の誕生日は1940年11月27日と、1978年12月17日。

本当なら2人は親子のように、何度も会っていたはずです。

しかし、アメリカのハリウッドとボクシングで最も華々しい成功を収めた二人のアジア人が、会って親交を深める機会は永遠に失われてしまいました。

それでも、残された一人は今もスパーリングで偉大な先達のパフォーマンスを怪鳥音までコピーして見せ、その髪型まで真似ているのです。

今夜から二人の誕生日が来るまで、アメリカを掛け値なしにノックアウトしたただ二人のアジア人が紡いだ奇跡の躍動を振り返ってゆきます。
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▶︎▶︎ジョフレが偉大なのは前から承知していますが一つ疑問で、ではそのジョフレは誰に勝ったのでしょうか?ジョフレが勝った相手にPFPはいたのでしょうか。

メデルやサルディバルが該当するのでしょうか? 

2020-09-20 20:18:10 返信編集 さんちょう 180.196.24.136


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この便所の落書きブログのエッセンシャル・テーマです。

「オリジナル8」の時代は偉大だった。「1団体」フォーミュラの王者は格が違う。

その通りですが、仮に今「1団体8階級」だったとしたら?

誰かが「白井義男」や「ファイティング原田」になっていたのです。

「強い相手に勝ってない」という難癖は突きつけられるわけもなく、UNDISPUTED CHAMPION が他のスポーツと同じように屹立していたはずです。

…もちろん、その誰かは、日本人でないかもしれません。日本人だけで、世界王者が10人以上いるとか、同一階級に複数いるとか…そんな倒錯的な世界は体験せずに済んだでしょう。


古き良き時代の、清廉潔白な基準が、今に生き永らえていたら、やはり、8人の正真正銘の世界チャンピオンがいたのです。

私も含めて、この駄文を読んでくれているおそらく全ての人が知らない水鏡瑞澄の時代です。

例えば、バンタム級なら。

それは、辰吉丈一郎だったかもしれません。あるいは長谷川穂積の可能性も、山中慎介の目もあります。

井上尚弥も有力候補の一人です。

しかし、今の時代では完全統一王者、議論する余地のない王者=UNDISPUTED CHAMPION になるしかありません。

長谷川穂積や山中慎介を「議論する余地のない王者」と紹介していたメディアの感覚は、もうあきれ果てるしかありません。
 
「議論する余地のない王者」が、彼らのオリジナルの発想なら全然問題ありません。しかし、それは間違いなく UNDISPUTED CHAMPION から発露していることは疑いようもありません。

「黄金のバンタム」と同じように、都合よく使い回していました。

「黄金のバンタム」は、軽量級ではありえない破壊的かつ長期政権を築いたエデル・ジョフレの称号です。

まともな感性で「黄金のバンタム」を〝訳す〟としたら「掃き溜めに鶴」です。

欧米目線で「層が薄い」「レベルも低い」「注目度も低い」どうしようもない、カス階級にもかかわらず途轍もなく凄い王者が出現した…ということです。

もちろん、A級戦犯は高森朝雄かもしれませんが、この情報時代で「井上尚弥が無名なわけがない」と盲信する人の感覚は、もはや理解不能です。

今でも、本気で「井上が無名なんてありえない」と思ってるのでしょうか?きっと、そういう人は日本のYahooニュースや専門誌以外の情報は遮断しているのでしょう。

もちろん、コアでゴリゴリのマニアは亀田兄弟や井岡一翔、井上を知ってますが…。

まーた、前置きが長くなりました。

「ジョフレが誰に勝ったのか?」。

「大坂なおみとイチローはどっちが偉大?」なんて超難問を日本で問われる話とは違って、極めて簡単です。 
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1973年。まだ、為替相場が1ドル265円だった時代。

というよりも、固定相場から変動相場性に移行したのが1973年2月だったという方が、この時代の経済感覚がよくわかるでしょう。

1ドル360円の固定相場が崩れて、一気に265円にまで円が高騰したのです。それまでの輸出貿易の莫大な利益は大きく目減りし、それは海外で戦うボクサーも同じでした。

米国圏でドルで報酬をもらえる試合はボクサーにとって大きな美味みのあった時代が、終わりつつありました。

そして、これは鈴木石松がガッツ石松になる前のお話でもあります。

BoxRec がこの試合を「ガッツ石松」としているのは、混乱を避けるためです。確かに名前を変えるボクサーは少なくありませんから。
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1973年9月8日、パナマシティのヌエボ・パナマ体育館。

22歳にしてパナマの国民的英雄となっていた石の拳が、極東から呼び寄せた挑戦者は24歳の鈴木。

パナマでは絶大な人気を獲得していたロベルト・デュランでしたが、世界的には第一次政権をエステバン・デヘススの競り落とされた荒削りな才能という評価にとどまる存在。

それでも「前年に小林弘を7回でノックアウトしているデュランは鈴木には荷が重い」というのが日本国内の予想でした。

試合は鈴木が徐々に削られ、ジリ貧の展開。7ラウンドにパナマの英雄をロープに押し込み意地のラッシュを見せますが、9ラウンドに2度、10ラウンドに3度倒されゲームオーバー。

試合後に「デュランの強打は噂通りだったか?」と聞かれた鈴木が答えた言葉が戦慄でした。

「接近戦ならパンチが当たるはずなのに全く当たらなかった。どうしようもなかった」。



この7ヶ月後に、ガッツ石松が生まれます。 

石松はデュラン戦から多くを学び、デュランはただひたすら栄光のスターダムへと駆け上がっていくのでした。  
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15 YEARS OF STARDOM

Manny Pacquiao’s historic march through the featherweight, lightweight and welterweight divisions and his meteoric climb through the pound-for-pound rankings was chronicled on the covers of The Ring Magazine during the 2000s and 2010s.

マニー・パッキャオがリング誌をカバーしたのは、2020年9月時点で合計40回。

さすがに全ては紹介しませんが、独断と偏見で選んだ、自称「ボクシングの聖書」の表紙からアジアが生んだ奇跡の拳を振り返ります。
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2004年4月号でカバーデビュー。「バレラを倒した男」「ボクシング界の台風の目」として大々的に特集されました。

当時、PFP1位になったばかりのフロイド・メイウェザーと過去のグレートたちとの誌上対決企画も。
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2006年6月号。「WHO NEEDS THE HEAVYWEIGHTS?〜ヘビー級なんてもう要らない?」「Pac−Mania Explodes〜パックマニア急増中」。

この頃にはすでに「未来の殿堂入り確実」と評価されていました。
 
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2007年9月号では「ホワイトホープ」のケリー・パブリックと、「ファンを味方につけられるか?」と心配されたまだプリティーボーイと呼ばれていたメイウェザーを従えてます。

注目度と報酬が劣るフェザー級という不人気クラスとしては、パッキャオの名声は破格でした。

そこには、ナジーム・ハメドを底上げしたアラブマネーのようなリング外のサポートは一切存在しませんでした。

純粋な実力だけで成り上がる、絶対に打ち合いを避けない、その姿が熱狂的なファンを増幅させたのは言うまでもありません。
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2007年11月号はバレラとのリマッチを大特集。

「ホプキンスvsライト」「ゴメスvsガッティ」「ドネアvsダルチニアン」を〝前菜〟に堂々のメインディッシュです。

バレラ戦で賭けられたのはフェザー級に続いて、WBCインターナショナルのジュニアライト級タイトルでしたが、アルファベット王座の尊厳が地に堕ちた状況でベルトの持つ価値は限定的で、ファンが注目するのは「誰と戦うのか」に、すでに絞られていました。
 
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2008年10月号。メイウェザーが引退。すでにボクシング界きっての人気者になっていたパッキャオはPFPキングの座にも就き、名実ともにリングのトップランナーとなりました。

2008年末にはオスカー・デラホーヤの持つ階級制覇記録「6」に並ぶ、リッキー・ハットン戦が内定していましたが、この試合はハットン陣営に待機料を支払い後ろ倒しにされます。

当時、ハットン以上の相手など世界中に一人しかいませんでしたが、その男からオファーが届いたのです。
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2008年12月号はまさかのドリームマッチの特集。

MGMグランドガーデンアリーナはフルハウス。その観客は、なんとパッキャオへの声援が圧倒的。

ボクシング界最大のスター、オスカー・デラホーヤはキャリア初の〝完全アウエー〟。かつて浴びたことのないブーイングに、花道を進む表情は戸惑いで強張っていました。

〝死に場所〟を探していたデラホーヤは自叙伝「アメリカの息子」を上梓するなどキャリアの総仕上げには入っていましたが、ヒスパニックのファンの目には「小さなパッキャオを選びやがって」と卑怯者に映ってしまうのです。

すでに、プロキャリア52戦で2000万ドル以上を稼いでいたパッキャオでしたが、ドリームマッチで最終的に手にした報酬は2500万ドル、たった1試合で過去52試合を凌駕する金額を手にしたのでした。

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そして、2009年5月号はハットン戦を控えて21ページの大特集。

「私はデラホーヤと違う」「アンダードッグは関係ない。これまでも何度も不利予想を跳ね返してきた」と強気のハットンは英国から3000人の大応援団が詰め掛ける中、陣営はShock The World(世界を驚かせてやる)とプリントされたブルゾンで入場します。

ジュニアウェルター級最強と目されていたリング誌王者が相手でも、もはやパッキャオが3−1で有利と、世界はその実力に気づき始めていました。

そして「パッキャオのスピードにハットンは付いていけない。パッキャオの中差判定勝ち」が濃厚予想されていたこの試合は、確かに世界を驚かせることになるのです。
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2009年11月号はプエルトリコの英雄ミゲール・コットと史上初の7階級制覇を懸けて激突。

マジソン・スクエア・ガーデンをホームとする東海岸最大の人気者コットですら、ラスベガスに引っ張り込み、キャッチウェイトまで飲み込ませる…。オッズも3−1で圧倒的有利。

ウェルター級でも最強、もはやパックマンはアンダードッグになりえない、強力なAサイドに変貌していました…唯一アンダードッグになるとしたら、無敗のままリングを去ったあの男が復帰するケースしか考えられませんでしたが…。
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いつ崩壊してもおかしくない112ポンド、フライ級の体重調整。

左の一発頼みで防御に無神経なスタイル。

そして、のちにウェルター級でも打たれ強いと言われるアゴは、フライ級の当時はグラスジョーと見られていました。

「世界基準でマニー・パッキャオが勝ち続けるのは時限爆弾を背負ってタイトロープを渡るようなもの」。

つまりいつか爆発するか、転落するか、いずれにしても安定王者になるとは考えられていませんでした。

それは、地元でタイトルを奪われ屈辱を味わったタイのプロモーター、ビラット・パチーラも良く理解していました。

パチーラはオプションを行使、フィリピンのスラッガーを再びタイに呼ぶために報酬を上乗せします。

1999年9月17日、タイが送り出したのはパッキャオより一つ年上の21歳の新鋭、18戦全勝11KOのメッグン・シンスラット。

大番狂わせで世界チャンピオンになったフィリピンのアイドルは潤沢な収入と、十分な栄養を楽しんで心身ともに満ち足りていました。

「メッグン陣営が予備軽量の秤を軽く表示されるように細工していた」という陰謀説、いわゆる〝タイの秤〟にパッキャオが謀られたという説もありますが、それは後の伝説に酔ったパックマニアの戯言に過ぎません。

軽量当日の朝、体重計の針は3ポンドオーバー。

タイに入ってから絶食、脱水症状にふらつく20歳のフィリピン人は「一口だけ水を」と泣きつきますが、唾液を絞り出すために酸味の強い柑橘カラマンシーの皮を舌に擦り付けられ、髪の毛を切られ、サウナに放り込まれてしまいます。

それでも正式計量は1ポンド、453gオーバー。

たったの1ポンドですが、この日のパッキャオの肉体は干からびて、搾り出すものは何も残っていませんでした。

たったの1ポンドを削れずに体重計の上でタイトルを剥奪された王者。

トレカンポ戦と同じプロボクサーとして最低の過ちを、再び犯してしまったパッキャオには「素質に溺れた落伍者」の烙印が押されます。

そして、試合も3ラウンドTKO負け。
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パッキャオは母国で「堕ちた英雄」と罵詈雑言を浴びる…と思いきやフィリピンのボクシングファンは、その国民性のままに「またやり直せばいい」と、失意の青年を暖かく受け入れます。

それは、フィリピンのボクシング界も同じでした。

メッグンに敗れてわずか3ヶ月後には、2階級飛ばしてジュニアフェザー級=122ポンドで再起。母国のリングでパッキャオはメインイベンターを張り、人気者であり続けます。

マニー・パッキャオを語るとき、誰もがその運の強さには溜息をつくしかありません。

もし、3つの嘘を付いたデビュー戦でそれを咎められ、試合に出れなければ?

あるいは、LMジム時代の早朝から日が暮れるまでの工事現場の肉体労働から、夜の練習、その過酷な環境で体を壊したり、誘惑に負けて別の仕事についていたら?

そもそも、LMジム時代よりも過酷で危険な草拳闘で、多くの子供ボクサーがそうなるようにその後の人生にも影響するような大怪我を負っていたら?

さらに、憧れの日本でジョー小泉とマネジメント契約を結んでいたら?

なんのアテもない米国への進出を考え、自費で練習場所とトレーナーを探す旅を途中で諦めずに「これで最後」とドアを叩いて、滑舌の悪い白人トレーナーと出会わなければ?


…そして、信じられないような幸運が、またもや舞い込みます。

このブログでも繰り返しているように、アジアの軽量級ボクサーが米国で本当の意味で強烈な印象を残すことは不可能です。

PPVイベントのメインはおろか、ビッグファイトのメインもありえません。せいぜい前座です。

考えうる幸運を絞り出せば、当代きってのスーパースターのPPVファイトで、強豪王者相手のセミファイナルを任され鮮やかな大番狂わせを演じる…それでも不十分です。

メインのスーパースターが欲求不満の残る試合をして、セミが際立つような奇跡の演出も必要です…それでも軽量級では、そこで〝詰み〟。

軽量級の強豪王者など米国のボクシングファンは興味はありません、それに勝ったとて一夜限り…。
しかし、その勝利の先に強豪王者の枠も超えるような一発殿堂の実力と人気を持つメキシコ人が待ち構えているなら話は変わります。

ましてや「強豪王者の枠も超えるような一発殿堂の実力と人気を持つメキシコ人」が3人も待ってくれているのなら、話は全く違ってきます。

そして、2001年6月上旬、信じられないような幸運が舞い込みます。 

当代きってのスーパースターのメガファイト、そのセミファイナルに出場する強豪王者リーロ・レジャバの対戦相手エンリケ・サンチェスが直前になってキャンセルするのです。

もし、あのときサンチェスがキャンセルしなければ?

Who knows how long it would have taken for him to break out. 

パッキャオのブレークがもっと先のことになっていたのは間違いありません。

いいえ、もしかしたら…それは「もっと先」ではなく、ついに訪れなかったかもしれません…。

「もしかしたら」ではないですね。サンチェスが棄権していたら、間違いなくマニー・パッキャオ」はいません。

試合までわずか10日を切ったオファーを、パッキャオが二つ返事で快諾していなければ…?

それどころか、あのタイでの防衛戦で最後の1ポンドを落とし切っていたら…?もはや何が幸いするかわかりません。

もし、小さな歯車が少しだけ狂っていたら、私たちが「マニー・パッキャオ」と出会うことはありえなかったのです。

しかし、彼のボクサーとしての人生の歯車は一度も軋むことなく美しく滑らかに回転しながら、大劇場の幕を引き上げるのです。

いや、大きく軋んで聞こえたり、ときには歯車が破損したように見えたのも、すべては「誰か」が仕組んでいたのです。

2009年、タフなリッキー・ハットンを失神させたKO劇に香川照之は「神が介在している」と戦慄しましたが、実は神はその8年前からパッキャオを溺愛していたのです。

いいえ、8年前どころか12歳のパッキャオを「少年、路上でドーナツを売るより、もっとボロい商売があるぞ」と草拳闘に誘ったあの初老のブローカー、彼も地上に降りた神のかりそめの姿だったのかもしれません。

そして、パッキャオと簡単に契約を結べる立場だったジョー小泉の耳元でも、神様はこう囁いていたはずです。

「体重も作れないボクサーなんてやめておけ。遊び癖は治らないし、練習態度も悪いだろう。あんなのと契約してもカネの無駄だ」。



それでも、彼と拳を交えたジェリー・ペニャロサは初めて会ったときから「それ」に気づいていたと言います。

I think that’s his Destiny,” said Penalosa. “That’s why he became Manny Pacquiao..

「すべては神の思し召しだ。それがマニー・パッキャオのマニー・パッキャオたる所以なんだ」。 
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プロデビューから1年。17歳になったパッキャオは何日も食べ物を口にできない空腹に身悶えすることも、軽量で重りを隠し持って秤の乗る必要もなくなっていました。

試合後は仲間と連れ立って海岸に行き、勝利者賞として送られるサンミゲルビールとバーベキューを楽しむようになりました。

栄養失調で干からびた少年の肉体は、大量の肉と酒で膨らみ続けました。
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終わりのときが訪れます。1996年2月。

ローランド・パスクアのフィリピン・ジュニアバンタム級タイトルマッチのセミファイナルで、ついに体重超過を犯してしまうのです。

最後の1ポンドが削れなかったパッキャオは6oz→8ozのグローブハンデを科せられ、3ラウンドで沈みます。

このトレカンポ戦のリングサイドにいたのが元軍人でトレーナーのリック・スタエリで「噂には聞いていたが、あんなに観客を熱狂させるボクサーは初めて見た」と、負けたとはいえパッキャオに強烈な印象を持ちました。

スタエリはレオナルド・パブロからチーフトレーナーの座を引き継ぎ、パブロはアシスタントに下がります。

まず、スタエリが手につけたのは食生活。

「当時、世界で最も大きなフライ級の一人だったパッキャオの最大の敵は計量だった」。

スタエリは白米を玄米に、砂糖をたっぷり使ったパンを全粒小麦のパンに変えました。

1997年は世界戦線に一気に浮上する年になりました。そして、その報酬もドル建てで手にすることが普通になり、マニラの人気者はアジアの強豪へと孵化します。

6月にチョクチャイ・チョクビワットを倒してOPBFのタイトルを強奪したとき、ファイトマネーは1000ドルに達しました。平均年収が10万ペソ、約3000ドルのフィリピンではとんでもない大金です。

9月のメルビン・マグラモ戦では3000ドルに、12月にタノンディ・シンワンチャーを迎えた初防衛戦では7000ドルに達しました。

パッキャオの勢いはバギオでキャンプを張っていたWBC世界ジュニアバンタム級王者ジェリー・ペニャロサの目に止まります。

川島郭志を破って王者に就いたペニャロサは11月の趙英柱との防衛戦でサウスポーのスパートングパートナーを探していたのです。

スタエリは「1ヶ月の報酬が1万ペソだったが、濃密な経験になった」と語り、ペニャロサも「技術的には未熟だったが左の破壊力は見たことがない種類だった。大物になるとわかった」と10代のパッキャオを評価していました。

そして、1998年。パッキャオは初の外国遠征に挑みます。 

最初は5月、憧れの地・東京で寺尾新を1ラウンドで撃退。そして12月、パスポートにはタイ王国のスタンプが押されます。

PFPファイターのユーリ・アルバチャコフからWBCのピースを奪ったチャチャイ・ダッチボーイジムへの挑戦です。

バンコク郊外、プタモントンの公設市場に特設された屋外リング。開始ゴングが鳴らされたのは灼熱の午後2時。

チャチャイは1988年ソウル五輪代表のエリートアマで、プロでの黒星はユーリとの初戦を僅差で落とした1敗のみ。荒削りにもほどがあるパッキャオに勝ち目はないーー誰もがそう思っていました。

I knew he had to win by knockout, said Staheli. 

スタエリも「バンコクでタイの強豪王者に挑戦するのは、日本のスター選手ではタブーになっている。まともな神経をしていたら選ばないオプションだ。それほど難しい挑戦だった」と認めています。 

「勝つにはノックアウトするしかない」。

ひとまわり体の大きなパッキャオがパンチを上下に散らしながらプレッシャーを掛ける展開。タイ人が試合をコントロールしているように見えましたが、チャチャイは「受けたことのないような強烈なパンチだった。パッキャオの決意の強さ、ハングリーさにもたじろいだ」と心身ともに追い込まれていたと告白しています。

7ラウンドまでの採点は70−64/69-64/68-65。現実の試合もスコアカード同様に見えましたが、チャチャイの内部だけは違いました。

勇猛果敢なタイの戦士が明らかに怯えているのです。

恐怖も負荷した疲労にチャチャイのガードは下がり気味になります。この月に20歳の誕生日を迎える19歳のフィリピン人はコーナーに追い込むと、大きく振った左を王者の顎をヒットします。

※リング誌やボクマガなど一部メディアは、この頃のパッキャオの年齢を「22歳」と伝えていますが、パキャオのサバ読みを真に受けたままの資料だったのでしょう、もちろん間違いです。

なぎ倒されたチャチャイは必死に立ち上がろうとしますが、パッキャオの looping left をまともに食らったのです。立てるわけがありません。

「王者を倒した瞬間、会場が静まり返って凍りついた。私を応援してる人は本当に誰一人いなかったからね」「タイのファンからしたら調整試合のつもりだったろうが、中盤から王者が下がりだしたのでノックアウトできると確信した」「ポイントは気にしてない。判定で勝とうだなんてこれっぽっちも考えてなかったから」「どこかで左が当たれば終わるのはわかってた」とパッキャオは笑います。

誰もが大番狂わせにしか見えませんでした。後から見直せばチャチャイが不思議なくらいに警戒していたのが、恐怖からだと想像できますが、当時はうまく戦っているようにしか感じられませんでした。

この勝利でパッキャオの母国での人気は沸騰します。

タイで大番狂わせを起こした映像はニュース番組で何度も繰り返され、翌日の新聞は一面で英雄誕生を報じました。

凱旋帰国したパッキャオは、アパレルブランド「No Fear」と複数年のスポンサー契約を結び、防衛戦までの調整試合でも開場前の早朝から長蛇の列ができました。

当時、北コタバト市の副市長に選ばれたばかりだったマニー・ピニョールは「無名のトッド・メケリムとの試合に朝6時からファンが並んでいるんだから驚きだった。ボクシングが盛んな国だけど、史上最高の人気者だと思った。試合も面白いし、極貧から栄光へのシンデレラ物語もドラマティック過ぎた」と回想しています。
 
「あの頃の熱狂は今でも覚えている。当時はあれ以上の熱狂なんてありえないと思っていたんだが…」。ピニョールは嬉しそうに笑います。

ピニョールだけではありません。少年パッキャオの大冒険時代を知る人々は、幸せそうに、例外なくそう言うのです。 

「あれ以上なんて、ありえないと思ったよ。だってそうだろう?あれ以上大騒ぎになるなんて想像もできないさ。大騒ぎを通り越す熱狂は、街に人っ子一人いなくなるなんてね。」。 
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SOWING THE SEEDS そして種は蒔かれた。

巨大な成功を掴み取った多くのファイターがそうであったように「マニー・パッキャオ」も誰も知らない全く無名の少年から始まりました。

1995年1月。マニラからサブラヤン島まで2時間の小さな定期船、それは特別なものなど何一つない全く取るに足らないものでした。

もし、その船に16歳のマニー・パッキャオが乗っていなければ、この短い定期船が記憶されることはなかったでしょう。

しかし、彼が乗っていました。

そして、全ては、そこから始まりました。


小さなフィリピン人少年は、その島でプロボクサーとしてのデビュー戦のリングに上がるのです。

2時間かけて島に着くと、そこからさらに3時間。バスケットボールコートにリングを誂えた粗末な会場に16歳がようやく辿り着きました。

「長旅だったけど、ずっと何も食べてなかったので空腹が辛かった」。

106ポンド=48.1㎏が契約体重でしたが、少年は極度の栄養失調で98ポンド=44.5㎏しかありません。

8ポンドのギャップを埋めるために、石やベアリングをポケットに隠して秤に乗りました。

少年はデビュー戦で二つの嘘をつきますが、最初の嘘が重りを隠して秤に乗った計量です。そして二つ目が、年齢下限の18歳だと2歳もサバを読んだことです。

主催者から出生証明書のコピーを持ってくるよう指示されていましたが「船の中に忘れてしまった」と嘘をつきます…つまりは正確には3つ嘘をついたわけです。

試合は20歳のエドモンド・イグナシオを4ラウンド判定で下しました。試合報酬は1000ペソ、約30ドル、日本円で4000円足らずでした。

それでも路上生活を送って極貧に耐えている母親と5人の弟妹を助けるには大きな金額でした。パッキャオはドーナツ売りなどで家族を支えていましたが、その賃金は1日数ペソに過ぎません。

1000ペソのファイトマネーは「ビッグマネー」だったのです。
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マニラからサブラヤンまでの長い船旅が消し飛ぶほどのロングジャンプ、太平洋を越えてハリウッドのワイルドカード・ボクシング・クラブで練習をするようになった頃のパッキャオは、ボブ・ディランやシルベスター・スタローンが〝表敬訪問〟するアイコンになりますが、それはもう少し後の話。

プロボクサーになったパッキャオはサンパロックのパクイタ通りにあるLMジムで汗を流すようになります。

オーナーはポールディング・コリア。建設業で財をなしたコリアは趣味でボクシングをサポート、若いボクサーを全国から呼び寄せていました。

ジェネラルサントスから呼び寄せた7人のボクサーの一人がパッキャオでした。日中はコリアの工事現場で働き、夜は練習、寝るのは床に雑魚寝。

この200m四方の粗末なジムは、ルイスト・エスピノサ、モーリス・イースト、ローランド・パスクワら〝番狂わせの超人〟たちが世界に羽ばたいた「アップセット工場」でしたが、その最高傑作がパッキャオです。

アンモニアの臭いが立ち込め、暗くジメジメした迷路のような裏通りにあったジムは、2009年に取り壊されてしまいます。

周囲の住民が驚くほどの高額で土地は買い取られ、その跡地に建設されたのがオフィスとジムなどが融合された近代的なMPタワーです。

そして、薄暗い裏通りが、今では明るく清潔なメインストリートに様変わりしました。
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パッキャオに不思議なオーラを感じたコリアは「この子は普通じゃない」と、フィリピンの大プロモーター、ロッド・ナザリオと、ジムへの出資者の一人リト・モンデジャーに紹介。

二人がマネジメントする国営放送の人気ボクシング番組「 Blow by Blow」のスターとしての道が開けます。

当時のトレーナーは元ボクサーで隻眼のレオナルド・パブロ。「殺るかやられるか」「攻撃は最大の防御」というパッキャオの骨格はこの頃に固まります。

 Blow by Blowの解説者ホアキン・ヘンソンは「当時は非常に不注意なファイターだった。防御技術が習得できていないから劣勢になるとどうしようもなかったが、圧倒的な攻撃力で押し切っていた」「豊かなフットワークを見せていたが無駄な動きも目立った」と振り返ります。

当時のパッキャオをよく知るジェリー・ペニャロサも「彼の戦い方はストリートファイター。相手を殺す気でリングに上がっていた」。

“I knew it from the beginning that this guy would become big; he would become something.” – Gerry Penalosa パッキャオが成功する、大物になるのは早い段階でわかっていた。=ペニャロサ



この凶暴な〝幼虫〟が何かに化ける予感は誰もが持っていました。しかし、誰の予想も超える怪物に成長するとは、神様でも御存知なかったでしょう。



栄光の助走を始めたパッキャオは、悲劇も経験しました。

「兄弟」と愛した、一緒にマニラに来た7人のボクサーのうち二人が命を落としてしまうのです。

いつも床で隣に寝ていたエディー・カダルゾは、過酷な日常がたたって就寝中に死亡。

ユージーン・バルタグは試合中に負った怪我が原因で1995年12月9日に亡くなってしまいます。この日、バルタグを見舞ったパッキャオは彼の髪の毛をグローブに入れて試合に臨みました。

デビューから1年足らずでメインイベンターに成長したパッキャオはローロンド・トヨゴンを10ラウンド判定で下したあとに訃報を聞いてしまいます。


「こんな短い間で二人も〝兄弟〟を喪ってしまった」。

悲しみに慟哭するパッキャオに、1年前には予想もしなかった恐るべき強敵が彼に迫っていました…。
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リング誌11月号はマニー・パッキャオ特集号。

パッキャオの奇蹟と思える偉業に、最もインスパイアされたのは日本のメディアやボクサーたちです。

小さなアジア人が米国のリングを震撼させたのですから、当然といえば当然です。

専門誌でも「見たか!アジアの灼熱の拳を!」(ボクシングマガジン)のように、完全に自分たちの代表という感情移入ぶりが目立ちました。

もちろん、それも2008年のオスカー・デラホーヤ戦までのことです。

少なくとも、メディアはあの試合以降、パッキャオをアジアの同志と重ねて見ることはできなくなりました。

「本当に遠くまで行っちゃいましたね、後楽園ホールで戦ったこともあるんですよ。手が届かないとこに行っちゃいましたね、今までも手が届いてたわけじゃないし、嬉しいけど…」(香川照之)。

一方で、ボクサーは「対戦相手としてはもう想定できないです」という全盛期の長谷川穂積の不遜や、「パッキャオが見た風景を見てみたい」と語った井上尚弥など、同じアジア人のパッキャオはもしかしたら手に届く存在に映るのかもしれません。
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パックマニアとしてパッキャオ本はかなりのコレクションにのぼります。それでも、リング誌で出してくれたのは底抜けに嬉しいです。

しかも2020年というタイミングも、知らなかったエピソードや、伝説の数々の補正など、マニアにはたまりません。

ゆっくり噛みしめながらご紹介してゆきます。

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日本ボクシングの暑い夏、1960年代が過ぎ去った1970年代。
 
世界的にもAC2団体時代を迎え、プロボクシングの地位は坂道を降り始めます。

具志堅用高が新設のジュニアフライ級、WBAのストラップをファン・グスマンから強奪したのが1976年10月10日。

「そこ」に至る までの1970年代をフラッシュバックします。
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総理大臣から官邸に招かれた具志堅用高。国民的英雄と呼べるボクサーは、このまま彼が最後となってしまうのでしょうか?


1954年から16年間も続いた高度経済成長が終わった70年は大阪万博が開幕、ビートルズ解散。「最後に確認しよう。われわれは“明日のジョー”である」と赤軍派が宣言したよど号ハイジャック事件も起きました。そして三島由紀夫は割腹自殺。

71年にはニクソン・ショック、ドルの神話が崩壊します。そしてなにより江夏豊のオールスター9者連続奪三振。マクドナルドとカップヌードルが登場したのもこの年でした。

73年はもちろん江夏が史上初の延長戦ノーヒットノーラン達成。東京教育大学が筑波大学として再出発。

そして、この73年に「あしたのジョー」の連載が最終回を迎えます。

74年はフィリピンのルバング島から小野田寛郎元少尉が帰国。志村けんがドリフターズに正式加入。長嶋茂雄が引退。

75年は赤ヘル旋風、広島が初優勝。サイゴン陥落、米国が史上初めて戦争に敗れました。

確かに約束されていた60年代までの明るい未来が信じられなくなった70年代。



それでも日本列島は王貞治と具志堅用高という国民的ヒーローが塗り替える記録、すなわち「数字」の宴に酔いしれました。

ボクサー最後の国民的ヒーロー具志堅が戴冠した76年10月10日。翌日の10月11日 には王貞治が阪神戦でベーブ・ルースを抜く715号本塁打を放ち、ハンク・アーロンの世界記録755本の更新へ向けて日本のスポーツファンは熱狂しました。

…とはいえ、ジュニアフライ級の具志堅と、距離表示まで騙っていた箱庭球場で圧縮バットを振り回していた王。

二人の「世界チャンピオン」の数字など、本当の〝世界〟は注目などしていないーーそれが事実です。

しかし、当時それをわかっていた一部の人々のほとんどはそっと〝秘密〟を胸の奥に仕舞い込み、熱狂に水を差すような無粋はしませんでした。

「具志堅はもう日本では見れない」「ラスベガスでメガファイトが待っている」などという脳みそに蛆がわいた信者も、もちろんいませんでした。

思えば、今の時代は無粋だらけ、無知蒙昧からフェイクニュースを広めてしまう蛆虫も少なくありません。

これほど情報が溢れ、SNSで誰もが意見を発信できる時代には、粋な純情など期待すべくもないのですが…。




では…。

もし、具志堅が生まれるのが45年遅ければ、あれほどの熱狂はなかったのでしょうか?

今ではボクシングのスポーツとしての地位は完全に没落。日本人世界チャピオンの名前を全員諳んじられる人は、相当なマニアです。

確かに、70年代には人気沸騰の手形として通用した「沖縄」と「連続防衛」という名の大きな付加価値は、21世紀には霧散しています。

一方で、2団体13階級時代の13連続防衛は、単純換算で30連続防衛以上にも匹敵します。実際にそれ以上の価値があるでしょう。

「ジュニアフライでも減量は余裕だった」という具志堅が現代に存在していたら、ストロー級でこそ絶対王政を築き、ジュニアフライの2階級に渡ってそれぞれ二桁防衛を果たしていたはずです。日本人初の3階級制覇の可能性もあったでしょう。

そして、70年代のように日本列島を揺るがし、首相官邸に招かれることはなくとも、リング誌の70年代PFPでも9位評価を受けているくらいですから、軽量級評価の敷居が低くなった現代なら少なくとも瞬間的なPFP1位の座に就いていた可能性大です。

もちろん「ラスベガス信者」もわいていたでしょう。



具志堅用高とは何者だったのか。

まだまだ続きます。 
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