世界的な統括団体が存在せず、腐敗した承認団体だけが増殖しているプロボクシングの世界では、他のスポーツではあり得ないことが、普通に目にすることが出来てしまいます。

フェデラーがナダルとの対戦を避けたり、先延ばししたりなんて起き得ません。そんなことしたら不戦敗になるだけです。

しかし、ボクシングの世界では「フェデラーとナダル」が、ついに対戦しない 、賞味期限が切れてから対戦する、というファンへの裏切り行為が何度も繰り返されてきました。 


ケース①マイケル・スピンクスの深謀(成功例)
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1983年にIBFが設立されプロボクシング3団体時代が幕を開けると、プロボクシングにおける「世界一」は完全に迷宮の中に迷い込んでしまいます。

発足直後の新興団体は冷ややかな視線を浴びるのが常ですが、大物選手を担ぎ込むことでその権威を世界にアピール、存在感を高めていきます。

のちのWBOではナジーム・ハメドとオスカー・デラホーヤを、そしてIBFはWBCからヘビー級王者ラリー・ホームズを迎え入れました。

1983年、WBCとIBFの世界ヘビー級王者(IBFは贈呈されたペーパータイトル)となったホームズでしたが、WBCが指示した指名試合(グレグ・ペイジ戦)を報酬が少ないと拒否、ローリスク・ハイリターンのマービス・フレージャー(ジョー・フレージャーの息子)を選びます。

ホームズの選択は、21世紀の現在に通じる〝トップ選手のマニュアル〟通りでした。

ロッキー・マルシアの49-0の更新が確実視されながらも、1985年36歳になっていたホームズは僅差ながらも3−0のユナニマス・デジションでマイケル・スピンクスにタイトルを奪われてしまいます。

「アリのコピー」と揶揄され、その実力と実績を考えると過小評価されていたホームズは、4−1のオッズをひっくり返されただけでなく、「ライトヘビー級王者に史上初めて負けたヘビー級王者」という汚名を被ることにもなってしまいました。

そのスピンクスもまた、腐敗団体の本質を見抜き、メガファイトを追求した時代を先取りしたボクサーでした。

自力でライトヘビー級を統一(同時期にマービン・ハグラーも3団体統一王者でしたが、彼の場合は対立王者を倒してコレクションした〝自力〟ではなく、伝統のミドル級の恩恵を享受したもの)したスピンクスはハグラーに「世界に2人しかいない統一王者同士で戦おう。ライトヘビーに上がって来い」と挑発しました。

もし、実現していたらメガファイトです。当時、ボクシング界の中心だったハグラーを倒すことは巨大な意味を持っていました。一方、ハグラーにとっても勝てばその歴史的評価は今以上になっていたはずです。

しかし、ミドル級で十分な名誉と報酬を得ているハグラーにとって不人気階級に上げるリスクを選ぶ理由は全くありません。トーマス・ハーンズ、ロベルト・デュランらビッグネームがその名を連ね、さらにシュガー・レイ・レナードまでが戻ってくるかもしれない肥沃なリングから離れるなんて馬鹿げています。

ハグラーは「お前がミドルに降りて来い」、寝言は寝て言えと返します。

大魚が釣れなくてもスピンクスは挫けません。次に狙う獲物は、ジョルジュ・カルパンチェもアーチー・ムーアも成し遂げられなかった「ライトヘビー級王者としてヘビー級王者に勝つ」こと。そして、その史上初の偉業をホームズ相手に実現したのです。

ホームズを倒してヘビー級のリネラル(正統)チャンピオンとして君臨したスピンクスは、もはや不人気に焦るライトヘビー級ボクサーではありません。念願の「カード」を手に入れたのです。

当然、スピンクスには美味しそうな話がいくつも舞い込んできます。中でも二つのオファーの報酬は桁違い、飛び抜けて魅力的でした。
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【「スピンクス・ジンクス」と名付けられた必殺の右フック。強烈な角度でねじ込んでいます。】

一つ目は〝白人の希望〟ジェリー・クーニーとのメガファイト、まさにローリスク・ハイリターンの見本です。

そして、二つ目がマイク・タイソンを主役に添えた〝世界ヘビー級統一トーナメント〟への出場依頼です。正統王者のスピンクスには、決勝でタイソンと当たる第2シードが用意されました。こちらはハイリスク・超ハイリターン。

初防衛戦でホームズを返り討ち、欧州王者のステファン・タングスタッドに楽勝で2度目の防衛を果たしたスピンクスが美味しいご馳走を食べる順番は、決まっています。

当たり前です。

1987年6月15日、アトランティックシティ・コンベンションホール、前菜のクーニー戦です。タングスタッド戦では100万ドル(当時のレートで約1億5000万円)だった報酬は、10倍の1000万ドルに高騰、クーニーにも500万ドルが約束されていました。

しかし、スピンクスはトーナメントから離脱するためにIBF王座を返上したため、報酬の重要な出処であるクローズドサーキットの売り上げが伸び悩みます。

4ヶ月前に行われた「マービン・ハグラーvsシュガー・レイ・レナード」のクローズド・サーキットは全米各地で満員札止めでしたが、この試合はニューヨークのナッソーコロシアムでわずか3600人(ハグレナ1万5000人)、デトロイトのジョー・ルイス・アリーナに至っては前売り券が16枚しか売れないという前代未聞の不人気で上映中止に追い込まれてしまったのです。

それでも、当日の会場には1万6500人が詰めかけ、ゲート収入は好調、スピンクスは400万ドル、クーニーは250万ドルをそれぞれ手に入れました。ビジネスとしては大成功です。
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【スピンクスの腰に巻かれようとしているのはマイナー団体、UBA世界ヘビー級、ピープルズチャンピオンのベルトです。】


そしてメインディッシュはタイソンです。1988年6月27日、サイトはまたしても当時のメッカ、アトランティックシティ・コンベンションホール。

ついに実現した無敗のヘビー級王者同士の激突のオッズは、4−1でタイソン有利。

試合を先延ばしした自業自得とはいえ、スピンクスは31歳になり、その右膝は走ることが出来ないほど痛んでいました。

トランププラザはこの試合を呼ぶために1100万ドルの招致フィーを支払いましたが、会場には2万1485人が詰めかけソールドアウト、ゲート収入は1230万ドルを売り上げました。当日だけで130万ドルの黒字ですが、この試合でアトランティックシティに集まった人々がギャンブルに興じた金額は3億4400万ドルに上りました。

例年の6月週末平均が2億1500万ドルだといいますから、とんでもない経済効果です。1100万ドルの招致フィーは安すぎる投資でした。

そして、タイソンが2200万ドル(当時のレートで約29億円)、スピンクスは1350万ドル(18億円)と共にキャリアハイの報酬を手にしました(タイソンの金額は当時のプロボクサー歴代1位)。

もし、スピンクスが素直にトーナメントに参加していたら、タイソン戦の報酬は800万ドル前後だったと言われています。そこでキャリアが終わっていたら、クーニー戦もなかったわけです。

これは、タイソンの立場からも同じことが言えます。スピンクスが先延ばししてくれたことは、悪いことではありませんでした。

そう、美味しい主菜を後回しにしたからといって、「スピンクスはタイソンから逃げた」とは言い切れないのです。