1988年11月7日、シーザースパレスのテニスコートと駐車場に特設された屋外スタジアムは1万3246人の観客で埋まっていました。

この夜のリングにはWBCの世界タイトルマッチが3試合(4試合?)も用意されていました。一つ目はヒルベルト・ローマンが元王者シュガー・ベビー・ロハスを返り討ちにしたジュニアバンタム級。

もう一つはロジャー・メイウェザーがビニー・パチエンザからダウンを奪って大差判定勝ちを収めたジュニアウェルター級。

ローマンは渡辺二郎から奪った第一次政権ではなく、第二次政権の3度目の防衛戦で、過去2度は内田好之と畑中清詞を子供扱いして王座を守りました。
ロジャーは浜田剛史からベルトを強奪したレネ・アルレドンドに圧勝したタイトルの4度目の防衛戦。

余談ですが、この夜のローマンの報酬は16万ドル(約1900万円)、ロハスは1万7000ドル(約210万円)。ローマンが日本人相手と同等の報酬を手にすることが出来たのは、このメガファイトの前座だからです。

同じ階級では、先日のゲンナディ・ゴロフキン対ダニエル・ジェイコブスの前座を務めたカルロス・クアドラスは10万ドル、ローマン・ゴンザレスはキャリアハイの55万ドルを稼ぎましたが、軽量級ではPFP1位でも55万ドル、約6200万円しか稼げないのが現実です。

ローマンの普段の報酬は10万ドルにも届かなかったにもかかわらず畑中、渡辺、内田と戦った日本のリングではいずれも2000〜2500万円を手にしました。

ロマゴンが日本人だったら、ファイトマネー1億円は間違いなく突破して、もっとリスペクトされていたでしょう。

ちなみに渡辺二郎の報酬はキャリア晩年で5000万円〜6500万円でした。軽量級の外国人選手が日本人と戦いたがるのは、今も昔も同じです。

もちろん、ローマンと同じメキシコ人でも人気が桁違いのウンベルト・ゴンザレスや、ソウル五輪で銀メダルを獲得した米国のマイケル・カルバハルは軽量級でも例外中の例外で「日本で戦いたい」とは思いもしない報酬を手にしていましたが、それでもこの二人が直接激突してやっと100万ドルというレベルでした。


【レナードの1試合で2階級タイトルマッチ。統括団体が存在せず拝金主義の承認団体がいくつも跋扈するボクシングの世界では汚辱にまみれた醜悪な試合がいくつもありましたが、その中でも最も腐臭を放つ試合の一つに数えられています。】

話を戻します。

このイベントで3つ目の世界戦、いいえ、正確には3つ目と4つ目が1試合でステイクされた奇天烈なリングに現れたのはWBCライトヘビー級王者、ドニー・ラロンデ。

彼の報酬はなんとライトヘビー級で当時史上最高となる500万ドル(約6億円)。

そしてスター選手によるキャッチウェイトの悪習を根付かせた悪の権化は最低保障で1500万ドル(約18億円)、最終的には2000万ドル近い大金を手に入れました。

金髪と端正なマスクを持つ、絵に描いたようなスタイリッシュな白人、ラロンデは重量級きっての人気者でした。

しかし、この夜だけは圧倒的なBサイド。175ポンドのライトヘビー級の世界戦にもかかわらず、契約体重は168ポンド、なんと7ポンドもの減量を強いられ、万一体重オーバーしたら1ポンド当たり100万ドルのペナルティまで課せられました。

168ポンドはスーパーミドル級リミットですから、ライトヘビーのタイトルを賭けること自体が正気の沙汰ではありません。だからというわけではないでしょうが、あろうことかこの試合にはスーパーミドル級のタイトルまでステイクされるのです。

これぞゲスの極みです。

スーパースターなら何をやってもいいのか?シュガー・レイ・レナードなら何をやっても許されるのか?

過酷な減量で骨と肉を削り衰弱したラロンデでしたが、悪魔たちが仕組んだ、どんなに理不尽な試合だとしても、勝てば人生が変わることをよく理解していました。

金髪の美青年は、母国カナダでは国技アイスホッケーの大試合でゲストに呼ばれるなどすでにヒーロー、アメリカでもそのルックスと豪快な試合から人気上昇中でした。


それでも今夜このリングで戦う相手は「ずっと、ずっと憧れていた存在。階級が違うから同じリングに上がれるなんて夢にも思わなかった」という図抜けたスーパースター、この男に勝てばボクサーとして何もかもが手に入るのです。

…もっというと、たとえ負けても30分あまりの試合で500万ドルが手に入るのです。

ラロンデの武器はゴールデンボンバー!と呼ばれた右ストレート。


この強力な大砲は破壊力だけでなく、精度も高く、全階級通じても最強の右との評価を得ていました。
一方で、少年時代にホッケー選手を断念するきっかけになった大怪我で太い針金が入ったままの左肩の影響から「ラロンデの左は流れるし、弱い」と、左のパンチは公認の欠点でした。

メガファイトをいくつも勝ち抜いてきたレナード相手に、まともな左リード無しで勝てるわけがありません。

ましてや不条理な減量を強いられ、干からびて衰弱した肉体です。


賢明なトレーナー、ケン・ホーソンはこの試合が好漢ラロンデにとって人生最大の大勝負であることを理解していました。


左肩の動きを滑らかにするためにいくつもの診療所を訪ね、独学でマッサージまで研究・習得し、壊れていた左に生命を吹き込みました。

さらに普段はヘビー級と行うこともあったスパーリングでも、ウェルター級の選手を呼び寄せ、スピード対策を徹底。

レナード相手の特化バージョンのラロンデを作り上げました。

初回、慎重にサークリングするレナードをラロンデは左ジャブを突いて追いかけます。

「こんなに速くて伸びる左を打てたのか!」余裕綽々でリングに上がったレナードの目に驚きの色が見えます。

しかし、不器用なカナダ人が一夜漬けで磨いた左ジャブよりも、はるかに上質なジャブを数え切れないほど見てきたレナードです。

「予想以上だが、ハーンズのジャブと比べたら豆鉄砲だ」。

早くも4ラウンドには金髪の美青年が繰り出す左ジャブを見切ると、攻勢に出ます。

しかし、一世一代の大勝負に挑んでいるラロンデが、傲慢なスターが見せた一瞬の油断を見逃すわけがありません。

ラロンデの左ジャブを意識したレナードの防御に、ほんの一瞬とはいえゴールデンボンバーを放つ軌道がはっきり開通したのです。

レナードの側頭部に、全階級通じて最強と称えられた右ストレートが打ち込まれました。


腰から崩れ落ちるレナード!

ネバダ砂漠に組み上げられた巨大な特設スタジアムが大番狂わせの予感に大揺れに揺れます。

この試合までにレナードがダウンしたのは、気まぐれでカムバックしたケビン・ハワード戦の一度だけ。

多くの専門家が「レナードに当たるわけがない」と断言していた右の大砲がついに炸裂したのです。

正義は必ず勝つ!

その期待が大きく膨らみます。

しかし、レナードはリング上で崖っぷちを切り抜けることに関しては史上屈指の天才です。

試合後のラロンデが「立ち上がってからのレナードの強さは信じられないくらいだった。倒れてから強くなるなんて、倒さない方が良かったかもしれない」と笑って呆れるほどでした。

ホーソンによって生命を吹き込まれた左はレナードを十分に幻惑し、乾坤一擲の右ストレートも炸裂させることが出来ました。

ホーソンとラロンデは不可能と思われたゲームプランを見事に完遂したのです。

それなのに、レナードはまだ目の前に立っていました。

ラロンデの武器を全て解析したレナードは恐るべきフェイントを駆使して、波状攻撃を仕掛けてきます。

スピード自慢のウェルター級のパートナーと練習を重ねてきたラロンデでしたが「スピード対策はやれるだけやったつもりだったが、次元が違った。パンチの出所が見えなかった」と八方塞がり。

【万策尽き果て、玉砕戦法の末に撃ち落とされた好漢ラロンデ。3分近くも上体を起こすことが出来ないほど深いダメージを負いました。】

それでも9ラウンド、ラロンデはフェイントに引っかかって鋭い連打を浴びても怯まず前進、力づくでレナードをロープに押し込み、右の大砲を連射します。

玉砕する覚悟でした。あわよくば刺し違えようと。

しかし…。

ロープ際の攻防においてもまた、レナードは史上屈指の天才です。

手品のように体を入れ替えると、そこからなんと20連発のコンビネーションをつないで、最後は渾身の左フックを打ち込みました。

墜落するような痛烈なダウンから、必死に立ち上がったラロンデでしたが、レナードがその天才性を最も発揮するのが詰め、フィニッシュです。

真面目一途に生きてきた金髪の青年には、レナードが繰り出す詰め将棋のパンチの嵐から逃れられる術はありませんでした。

ラロンデの巨体が再びキャンバスに落ちた瞬間に、主審はノーカウントで試合終了を告げました。

試合を裁いたのはストップが早いことで有名なリチャード・スティールでしたが、この夜は誰が主審でもカウントを取らずに試合を止めた、それほど強烈なダウンでした。

常識を逸脱した減量を強いられた上に、悲惨な敗北を喫したラロンデでしたがキャリアハイの報酬を得て、そして何よりもその名前をカナダ以外の世界中のボクシングファンに知らしめました。

もし、あの夜、レナードと戦うことがなかったら、30年以上も経った今でもドニー・ラロンデの名前を鮮烈に覚えている人なんていません。

熱心なボクシングファンでも、ラロンデを知る人が何人いたでしょうか?



カナダの田舎町で生まれたラロンデは幼い頃に両親が離婚、母の再婚相手の義父は体重100キロの大男で酷い家庭内暴力を受け続けました。

「あの時の恐怖に比べたらレナードなんてちっとも怖くないさ」と笑う表情が大きな共感を集めたのも、試合を煽るドキュメンタリー番組が制作されたからです。

引退後、児童虐待防止運動の活動に情熱を注ぐラロンデには多くの募金と支援の手が差し伸べられましたが、それも世界中に生中継されたこのメガファイトを勇敢に戦ったことと無関係ではないでしょう。

悪魔が仕組んだキャッチウェイトで二つの世界タイトルが1試合で賭けられたあの夜の出来事は、今でも厳しい非難を浴び続けています。

ボクシングの世界は芯から腐っています。健全なスポーツなら、あんな試合は無効です。

ボクシングでは多くの場合、ドーピングが判明しても試合結果が変わらないことまであります。まさに狂気の沙汰です。

レナードはあの夜を境に完全にヒールに転落しました。その意味で、レナードは勝者ではありません。


つまり、あの試合には勝者は存在しなかったのです。

卑劣なレナードが勝者であるわけがなく、骨と肉を削って弱った好青年を悪魔がメッタ打ちにする、そんな筋書き通りの残酷なショーを見せられたファンも敗者でした。


1988年11月7日、シーザースパレス特設リング。あの日のリングには勝者はいないはずでした…。

しかし、今なおチャリティー活動などでドニー・ラロンデの姿が報道されるのを目にするたびに、あの夜、確かな勝者がいたことを、強烈に思い知らされています。

ボクシング史上最も下劣な夜に、清々しい勝者が一人だけいたのです。


そうです。ドニー・ラロンデです。