プロデビューから1年。17歳になったパッキャオは何日も食べ物を口にできない空腹に身悶えすることも、軽量で重りを隠し持って秤の乗る必要もなくなっていました。

試合後は仲間と連れ立って海岸に行き、勝利者賞として送られるサンミゲルビールとバーベキューを楽しむようになりました。

栄養失調で干からびた少年の肉体は、大量の肉と酒で膨らみ続けました。
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終わりのときが訪れます。1996年2月。

ローランド・パスクアのフィリピン・ジュニアバンタム級タイトルマッチのセミファイナルで、ついに体重超過を犯してしまうのです。

最後の1ポンドが削れなかったパッキャオは6oz→8ozのグローブハンデを科せられ、3ラウンドで沈みます。

このトレカンポ戦のリングサイドにいたのが元軍人でトレーナーのリック・スタエリで「噂には聞いていたが、あんなに観客を熱狂させるボクサーは初めて見た」と、負けたとはいえパッキャオに強烈な印象を持ちました。

スタエリはレオナルド・パブロからチーフトレーナーの座を引き継ぎ、パブロはアシスタントに下がります。

まず、スタエリが手につけたのは食生活。

「当時、世界で最も大きなフライ級の一人だったパッキャオの最大の敵は計量だった」。

スタエリは白米を玄米に、砂糖をたっぷり使ったパンを全粒小麦のパンに変えました。

1997年は世界戦線に一気に浮上する年になりました。そして、その報酬もドル建てで手にすることが普通になり、マニラの人気者はアジアの強豪へと孵化します。

6月にチョクチャイ・チョクビワットを倒してOPBFのタイトルを強奪したとき、ファイトマネーは1000ドルに達しました。平均年収が10万ペソ、約3000ドルのフィリピンではとんでもない大金です。

9月のメルビン・マグラモ戦では3000ドルに、12月にタノンディ・シンワンチャーを迎えた初防衛戦では7000ドルに達しました。

パッキャオの勢いはバギオでキャンプを張っていたWBC世界ジュニアバンタム級王者ジェリー・ペニャロサの目に止まります。

川島郭志を破って王者に就いたペニャロサは11月の趙英柱との防衛戦でサウスポーのスパートングパートナーを探していたのです。

スタエリは「1ヶ月の報酬が1万ペソだったが、濃密な経験になった」と語り、ペニャロサも「技術的には未熟だったが左の破壊力は見たことがない種類だった。大物になるとわかった」と10代のパッキャオを評価していました。

そして、1998年。パッキャオは初の外国遠征に挑みます。 

最初は5月、憧れの地・東京で寺尾新を1ラウンドで撃退。そして12月、パスポートにはタイ王国のスタンプが押されます。

PFPファイターのユーリ・アルバチャコフからWBCのピースを奪ったチャチャイ・ダッチボーイジムへの挑戦です。

バンコク郊外、プタモントンの公設市場に特設された屋外リング。開始ゴングが鳴らされたのは灼熱の午後2時。

チャチャイは1988年ソウル五輪代表のエリートアマで、プロでの黒星はユーリとの初戦を僅差で落とした1敗のみ。荒削りにもほどがあるパッキャオに勝ち目はないーー誰もがそう思っていました。

I knew he had to win by knockout, said Staheli. 

スタエリも「バンコクでタイの強豪王者に挑戦するのは、日本のスター選手ではタブーになっている。まともな神経をしていたら選ばないオプションだ。それほど難しい挑戦だった」と認めています。 

「勝つにはノックアウトするしかない」。

ひとまわり体の大きなパッキャオがパンチを上下に散らしながらプレッシャーを掛ける展開。タイ人が試合をコントロールしているように見えましたが、チャチャイは「受けたことのないような強烈なパンチだった。パッキャオの決意の強さ、ハングリーさにもたじろいだ」と心身ともに追い込まれていたと告白しています。

7ラウンドまでの採点は70−64/69-64/68-65。現実の試合もスコアカード同様に見えましたが、チャチャイの内部だけは違いました。

勇猛果敢なタイの戦士が明らかに怯えていたのです。

恐怖も負荷した疲労にチャチャイのガードは下がり気味になります。この月に20歳の誕生日を迎える19歳のフィリピン人はコーナーに追い込むと、大きく振った左を王者の顎にヒットします。

※リング誌やボクマガなど一部メディアは、この頃のパッキャオの年齢を「22歳」と伝えていますが、パキャオのサバ読みを真に受けたままの資料だったのでしょう、もちろん間違いです。

なぎ倒されたチャチャイは必死に立ち上がろうとしますが、パッキャオの looping left をまともに食らったのです。立てるわけがありません。

「王者を倒した瞬間、会場が静まり返って凍りついた。私を応援してる人は本当に誰一人いなかったからね」「タイのファンからしたら調整試合のつもりだったろうが、中盤から王者が下がりだしたのでノックアウトできると確信した」「ポイントは気にしてない。判定で勝とうだなんてこれっぽっちも考えてなかったから」「どこかで左が当たれば終わるのはわかってた」とパッキャオは笑います。

誰もが大番狂わせにしか見えませんでした。後から見直せばチャチャイが不思議なくらいに警戒していたのが、恐怖からだと想像できますが、当時はうまく戦っているようにしか感じられませんでした。

この勝利でパッキャオの母国での人気は沸騰します。

タイで大番狂わせを起こした映像はニュース番組で何度も繰り返され、翌日の新聞は一面で英雄誕生を報じました。

凱旋帰国したパッキャオは、アパレルブランド「No Fear」と複数年のスポンサー契約を結び、防衛戦までの調整試合でも開場前の早朝から長蛇の列ができました。

当時、北コタバト市の副市長に選ばれたばかりだったマニー・ピニョールは「無名のトッド・メケリムとの試合に朝6時からファンが並んでいるんだから驚きだった。ボクシングが盛んな国だけど、史上最高の人気者だと思った。試合も面白いし、極貧から栄光へのシンデレラ物語もドラマティック過ぎた」と回想しています。
 
「あの頃の熱狂は今でも覚えている。当時はあれ以上の熱狂なんてありえないと思っていたんだが…」。ピニョールは嬉しそうに笑います。

ピニョールだけではありません。少年パッキャオの大冒険時代を知る人々は、幸せそうに、例外なくそう言うのです。 

「あれ以上なんて、ありえないと思ったよ。だってそうだろう?あれ以上大騒ぎになるなんて想像もできないさ。大騒ぎを通り越す熱狂は、街に人っ子一人いなくなるなんてね。」。