SOWING THE SEEDS そして種は蒔かれた。

巨大な成功を掴み取った多くのファイターがそうであったように「マニー・パッキャオ」も誰も知らない全く無名の少年から始まりました。

1995年1月。マニラからサブラヤン島まで2時間の小さな定期船、それは特別なものなど何一つない全く取るに足らないものでした。

もし、その船に16歳のマニー・パッキャオが乗っていなければ、この短い定期船が記憶されることはなかったでしょう。

しかし、彼が乗っていました。

そして、全ては、そこから始まりました。


小さなフィリピン人少年は、その島でプロボクサーとしてのデビュー戦のリングに上がるのです。

2時間かけて島に着くと、そこからさらに3時間。バスケットボールコートにリングを誂えた粗末な会場に16歳がようやく辿り着きました。

「長旅だったけど、ずっと何も食べてなかったので空腹が辛かった」。

106ポンド=48.1㎏が契約体重でしたが、少年は極度の栄養失調で98ポンド=44.5㎏しかありません。

8ポンドのギャップを埋めるために、石やベアリングをポケットに隠して秤に乗りました。

少年はデビュー戦で二つの嘘をつきますが、最初の嘘が重りを隠して秤に乗った計量です。そして二つ目が、年齢下限の18歳だと2歳もサバを読んだことです。

主催者から出生証明書のコピーを持ってくるよう指示されていましたが「船の中に忘れてしまった」と嘘をつきます…つまりは正確には3つ嘘をついたわけです。

試合は20歳のエドモンド・イグナシオを4ラウンド判定で下しました。試合報酬は1000ペソ、約30ドル、日本円で4000円足らずでした。

それでも路上生活を送って極貧に耐えている母親と5人の弟妹を助けるには大きな金額でした。パッキャオはドーナツ売りなどで家族を支えていましたが、その賃金は1日数ペソに過ぎません。

1000ペソのファイトマネーは「ビッグマネー」だったのです。
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マニラからサブラヤンまでの長い船旅が消し飛ぶほどのロングジャンプ、太平洋を越えてハリウッドのワイルドカード・ボクシング・クラブで練習をするようになった頃のパッキャオは、ボブ・ディランやシルベスター・スタローンが〝表敬訪問〟するアイコンになりますが、それはもう少し後の話。

プロボクサーになったパッキャオはサンパロックのパクイタ通りにあるLMジムで汗を流すようになります。

オーナーはポールディング・コリア。建設業で財をなしたコリアは趣味でボクシングをサポート、若いボクサーを全国から呼び寄せていました。

ジェネラルサントスから呼び寄せた7人のボクサーの一人がパッキャオでした。日中はコリアの工事現場で働き、夜は練習、寝るのは床に雑魚寝。

この200m四方の粗末なジムは、ルイスト・エスピノサ、モーリス・イースト、ローランド・パスクワら〝番狂わせの超人〟たちが世界に羽ばたいた「アップセット工場」でしたが、その最高傑作がパッキャオです。

アンモニアの臭いが立ち込め、暗くジメジメした迷路のような裏通りにあったジムは、2009年に取り壊されてしまいます。

周囲の住民が驚くほどの高額で土地は買い取られ、その跡地に建設されたのがオフィスとジムなどが融合された近代的なMPタワーです。

そして、薄暗い裏通りが、今では明るく清潔なメインストリートに様変わりしました。
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パッキャオに不思議なオーラを感じたコリアは「この子は普通じゃない」と、フィリピンの大プロモーター、ロッド・ナザリオと、ジムへの出資者の一人リト・モンデジャーに紹介。

二人がマネジメントする国営放送の人気ボクシング番組「 Blow by Blow」のスターとしての道が開けます。

当時のトレーナーは元ボクサーで隻眼のレオナルド・パブロ。「殺るかやられるか」「攻撃は最大の防御」というパッキャオの骨格はこの頃に固まります。

 Blow by Blowの解説者ホアキン・ヘンソンは「当時は非常に不注意なファイターだった。防御技術が習得できていないから劣勢になるとどうしようもなかったが、圧倒的な攻撃力で押し切っていた」「豊かなフットワークを見せていたが無駄な動きも目立った」と振り返ります。

当時のパッキャオをよく知るジェリー・ペニャロサも「彼の戦い方はストリートファイター。相手を殺す気でリングに上がっていた」。

“I knew it from the beginning that this guy would become big; he would become something.” – Gerry Penalosa パッキャオが成功する、大物になるのは早い段階でわかっていた。=ペニャロサ



この凶暴な〝幼虫〟が何かに化ける予感は誰もが持っていました。しかし、誰の予想も超える怪物に成長するとは、神様でも御存知なかったでしょう。



栄光の助走を始めたパッキャオは、悲劇も経験しました。

「兄弟」と愛した、一緒にマニラに来た7人のボクサーのうち二人が命を落としてしまうのです。

いつも床で隣に寝ていたエディー・カダルゾは、過酷な日常がたたって就寝中に死亡。

ユージーン・バルタグは試合中に負った怪我が原因で1995年12月9日に亡くなってしまいます。この日、バルタグを見舞ったパッキャオは彼の髪の毛をグローブに入れて試合に臨みました。

デビューから1年足らずでメインイベンターに成長したパッキャオはローロンド・トヨゴンを10ラウンド判定で下したあとに訃報を聞いてしまいます。


「こんな短い間で二人も〝兄弟〟を喪ってしまった」。

悲しみに慟哭するパッキャオに、1年前には予想もしなかった恐るべき強敵が彼に迫っていました…。