日本ボクシングの暑い夏、1960年代が過ぎ去った1970年代。
 
世界的にもAC2団体時代を迎え、プロボクシングの地位は坂道を転がり落ち始めます。

具志堅用高が新設のジュニアフライ級、WBAのストラップをファン・グスマンから強奪したのが1976年10月10日。

「そこ」に至る までの1970年代をフラッシュバックします。
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総理大臣から官邸に招かれた具志堅用高。国民的英雄と呼べるボクサーは、このまま彼が最後となってしまうのでしょうか?


1954年から16年間も続いた高度経済成長が終わった70年は大阪万博が開幕、ビートルズ解散。

「最後に確認しよう。われわれは“明日のジョー”である」と赤軍派が宣言したよど号ハイジャック事件も起きました。そして三島由紀夫の割腹自殺。

71年にはニクソン・ショック、ドルの神話が崩壊します。そしてなにより江夏豊のオールスター9者連続奪三振。マクドナルドとカップヌードルが登場したのもこの年でした。

73年はもちろん江夏が史上初の延長戦ノーヒットノーラン達成。東京教育大学が筑波大学として再出発。

そして、この73年に「あしたのジョー」の連載が最終回を迎えます。

74年はフィリピンのルバング島から小野田寛郎元少尉が帰国。志村けんがドリフターズに正式加入。長嶋茂雄が引退。

75年は赤ヘル旋風、広島が初優勝。サイゴン陥落、米国が歴史上初めて戦争に敗れました。

60年代まで確かに約束されていたはずの明るい未来が信じられなくなった70年代。



それでも日本列島は王貞治と具志堅用高という国民的ヒーローが塗り替える記録、すなわち「数字」の宴に酔いしれました。

ボクサー最後の国民的ヒーロー具志堅が戴冠した76年10月10日。翌日の10月11日 には王貞治が阪神戦でベーブ・ルースを抜く715号本塁打を放ち、ハンク・アーロンの世界記録755本の更新へ向けて日本のスポーツファンは熱狂しました。

…とはいえ、ジュニアフライ級の具志堅と、距離表示まで騙っていた箱庭球場で圧縮バットを振り回していた王。

二人の「世界チャンピオン」の数字など、本当の〝世界〟は注目などしていないーーそれが事実でした。

しかし、当時それをわかっていた一部の人々のほとんどはそっと〝秘密〟を胸の奥に仕舞い込み、熱狂に水を差すような無粋はしませんでした。

「具志堅はもう日本では見れない」「ラスベガスでメガファイトが待っている」などという脳みそに蛆がわいた信者も、もちろんいませんでした。

思えば、今の時代は無粋だらけ、無知蒙昧からフェイクニュースを広めてしまう蛆虫も少なくありません。

これほど情報が溢れ、SNSで誰もが意見を発信できる時代には、粋な純情など期待すべくもないのですが…。




では…。

もし、具志堅が生まれるのが45年遅ければ、あれほどの熱狂はなかったのでしょうか?

今ではボクシングのスポーツとしての地位は完全に没落。日本人世界チャピオンの名前を全員諳んじられる人は、相当なマニアです。

確かに、70年代には人気沸騰の手形として通用した「沖縄」と「連続防衛」という名の大きな付加価値は、21世紀には霧散しています。

一方で、2団体13階級時代の13連続防衛は、単純換算で30連続防衛以上にも匹敵します。実際にそれ以上の価値があるでしょう。

「ジュニアフライでも減量は余裕だった」という具志堅が現代に存在していたら、ストロー級でこそ絶対王政を築き、ジュニアフライの2階級に渡ってそれぞれ二桁防衛を果たしていたはずです。日本人初の3階級制覇の可能性もあったでしょう。

そして、70年代のように日本列島を揺るがし、首相官邸に招かれることはなかったでしょう。

しかし、後年、リング誌の70年代PFPでも9位評価を受けているくらいですから、軽量級評価の敷居が超低くなった現代なら少なくとも瞬間的なPFP1位の座に就いていた可能性大です。

そして、もちろん「ラスベガス信者」もわいていたでしょう。



…具志堅用高とは何者だったのか。

まだまだ続きます。