英国ボクシングニューズ誌5月14日号は、ナジーム・ハメドの大特集でした。

アマチュアで62勝5敗のリングに上がり、1992年にジュニアバンタム級6回戦でプロデビュー。無敗のまま2年後に欧州バンタム級を獲得、このブログでも取り上げていますが日本でも「辰吉丈一郎のタイトルを狙う強豪の1人」と見られていました。

その後、ジュニアフェザー級でWBCインターコンチネンタルの王座に就き、フェザー級初戦でWBO王者スティーブ・ロビンソンを8ラウンドTKO、21歳で戴冠します。

WBOストラップを15度防衛する過程で、IBF王者トム・ジョンソン、WBA王者ウィルフレド・バスケスを撃破しますが、完全統一王者=Undisputed Championには一度も届きませんでした。

それでも、ケビン・ケリーやウェイン・マッカラー、セサール・ソト、ブヤニ・ブングら軽量級のビッグネームを倒して、階級最強と目されていました。

リング誌のBEST FIGHTER POLL(年間PFP)には1995年に10位で初登場。無敗を守っていたものの、ファン・マヌエル・マルケスらメキシコの強豪をあからさまに避けていたことからランクアウトもあり、戦績の割に世界評価は低く、2000年の6位が最高。

2007年に殿堂入り資格が発生しましたが、当然ながら一発殿堂はならず。7年後の2014年にようやく殿堂入り。

「メキシコの強豪と逃げずに戦っていたら、たとえ全て惨敗でも一発殿堂だったかもしれない」なんて理屈をESPNのダン・ラファエルは言っちゃってましたが、それはおかしいでしょう。

それなら、殿堂の決め手は心意気ってことになります。個人的にはチキン丸出しだったハメドの一発殿堂ナシもある程度納得ですが、あの実績ですから一発殿堂で文句もありません。

それでも、HBOも動かしたイエメン王朝の強力なバックアップ、入場から奇抜なパフォーマンスと型破りのファイトスタイルから世界的に人気の高いアイドルでした。

1974年生まれのプリンスは現在、46歳。英国ボクシングニューズ誌のマット・クリスティーのインタビューに答えています。
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Q:世界での華々しい活躍を聞く前に、ボクシングを始めたきっかけを教えて下さい。

A:単純明快な話で、近所にボクシングジムがあったんだ。

Q:まさか、そこが…?

A:そう、セント・トーマス教会ジム。

家から300mもない距離にあった教会の中にジムがあった。〝ブレンダン・イングルの家〟だ。

7歳のときだったから、しばらくのあいだ世界中の教会には、ボクシングジムが併設されてるものだと思い込んでいたよ。

そんなのはブレンダンのとこだけだって、ずっと後になって知るんだけどね。

ジムにはエロール・グラハムもいて、彼からも教えてもらったことをよく覚えている。11歳のときに英国学童タイトルを獲ったんだ。11歳の英国チャンピオンさ。プロでやる自信も芽生えていた。


プロ転向したのは1992年、18歳だった。その年に開催されたバルセロナ五輪に出場してからプロ入りすべき、ともさんざん言われたが、待ちきれなかった。

11歳のときに「(10年後の)21歳で世界チャンピオンと億万長者になっている」と豪語してたから、時間は限られていた。

本当に欲しかったのは英国タイトル。あの見た目も美しいロンズデールベルトを手に入れることが出来なかったことは、今でも心残りだ。


Q:プロ入りしてから、あなたの戦い方はすぐに評判になりました。派手なアクションと相手を罵倒するスタイルです。

A:歴史に残るファイターはみんな派手な戦い方をしていたからね。彼らを参考にしたんだ。「またの名はカシアス・クレイ」のビデオは大げさではなく15年間、毎日繰り返し見ていた。

アリはとにかく、全てが特別だ。


Q:世界初挑戦のときも、試合前から自信満々に見えました。不安は全くなかった?

A:全くなかった。スティーブ・ロビンソンはテレビで見てたし、大きな相手(ハメドが身長164㎝/リーチ163㎝に対してロビンソンは173㎝/178㎝)だともわかってた。何度も防衛してたが、そんなの関係ねぇ。

あの試合ではフェザー級リミットに満たないジュニアフェザー級の体重でリングインしたんだ(本当は125ポンド1/2、しっかりフェザー級でした)、それであの(圧勝の8ラウンドTKO)パフォーマンスだぜ。

21歳で世界チャンピオンになる、その夢が叶ったんだ。試合をまとめてくれたフランク・ウォーレンには今も感謝している。

Q:入場パフォーマンスの宙返り、あれは失敗したら最悪ですよね?

A:滅多にないけど、正直に言うと失敗もあった。顔面から着地する最悪はないけどね。思いっきり着地バランスを崩してしまったことがあった。

ロープを使った宙返りは難しそうに見えるかもしれまいけど、実はその方が簡単なんだ。グローブをはめているとロープをしっかり掴めないから、そこは難しいけど。

とはいっても、着地で足首を痛めるリスクはあるからね。

Q:そんなリスクを負ってでも宙返りをするのはどうして?

A:いつだって勝つ自信があったから、少しくらい痛めたとしても関係なかった。

何より、チケットを買ってくれた観客や、テレビを見てくれているファンを喜ばせたかった。
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Q:唯一の敗北、マルコ・アントニオ・バレラ戦ではいつもの自信が感じられなかった。入場時から生気が失せて、いつもと違い神経質になっているようだった。宙返りもしなかった。
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バレラ戦の入場。いつもと変わらないように見えましたが、緊張から生気が失せていたといわれました。

A:そんなことはない。8週間で2.5ストーン(=35ポンド=15.88kg)の減量はボクサーを弱らせる。全く力が入らなかった。

宙返りをしなかったのは、直前になってグローブを変えられたから。試合前の2、30分前になってやっとグローブを与えられたんだ。

あの試合では、とにかく全てが悪い方、悪い方へ進んでしまった。

Q:バレラ戦では途中でもう勝てないと思った?

A:全くそんなことはない。一発当てればいつものように勝てると信じていた。

負けると思ったのは12ラウンドの最後の数秒。もうダメだと思った。負ける、負けたと思ったのはあの試合が最初で最後だ。


Q:あの試合であなたは初めてメキシコの強豪を迎えて初めて敗れ、あなたの神話が崩壊しました。

A:ノックアウトされたわけじゃない。効いたパンチはいくつもあったけど、倒されなかった。試合終了のゴングが鳴ったときは、バレラと同じように私も二本の足でしっかり立っていた。

ボクシングで負けるってことはノックアウトされることだ。そういう意味では私は負けていない。私のボクシングキャリアで誰も私をノックアウトできていないんだ。

あのときのバレラは全盛期だった。活発に試合をして動きも最高だった。逆に私は試合数も減って感覚が鈍っていた。そこに苛酷な減量やグローブの問題まで重なった。

なにもかもが、うまくいかなかった。

Everything that could have gone wrong ,went wrong.


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相変わらず言い訳のオンパレードですが、バレラ戦の前は極度の緊張状態だったようです。

米国で大きな報酬と人気を手に入れたハメドが、軽量級では破格のスターだったことは間違いありません。

イエメン王室の後押しがあったにせよ、HBOは英国生まれのムスリムに6試合1200万ドル(当時のレートで約15億6000万円)と複数契約を結びます。

1998年の米国デビューにはマジソン・スクエア・ガーデンのスポーツシアター、最高の舞台が用意されました。

倒し倒されの末にケビン・ケリーを4ラウンドで屠った試合は、内容的には「安定感ゼロ。ガードが甘い。いつ負けてもおかしくない」と手厳しかったのは、試合前に「(フェザー級史上最強とされる)ウィリー・ペップにも楽勝できる」と米国の誇るグレートをコキおろしながら、ケリー相手にいくつも綻びを見せたせいもありました。 

一方で、HBOのセス・エイブラハム代表は「素晴らしい試合だった。HBOの軽量級史上最高の試合だ。彼には大きなスポンサーもついているが、我々は彼の実力を評価する」と大喜び。

しかし、ケリー戦以降に爆発が期待された人気は思ったほど上がらず、イエメン王朝の支援も期待とは全く違い、さらにはメキシコの強豪との対戦をことごとく回避しようとする姿勢に、HBO内では「1200万ドルは高すぎる」と契約打ち切りの声も高まります。

そして、2001年のバレラ戦と、米国を襲った同時多発テロで大言壮語のムスリムはHBOにとって非常に扱いが難しくなります。

6試合契約は5試合で打ち切りに。

ハメドは現役続行の意思は表明する一方で、マルケスの対戦オファーは完全無視を続けて、2002年のマヌエル・カルボ戦(12ラウンド判定勝ち)を最後にリングを去りました。

次回のハメドは、そのマルケスやメイウェザー、アセリノ・フレイタスらとの対戦が実現しなかった背景や理由を、やはり言い訳(愛嬌?)たっぷりに語ります。