ゲバ棒とヘルメットと手拭いマスクとハカイダーはさておき、改造社書店であります。

三省堂書店や紀伊国屋書店に、丸善なんて本屋さんは聞こえや文字面がかっこ良いです。

しかし、文字面と聞こえのかっこ良さでいうと改造社書店が抜きん出ています。

改造社です。

これが「改造車」だと途端に民度と品位が急降下しますが、改造社であります!

成田や羽田の空港、パレスホテルなどにテナントしている普通の書店なのでボクシングファンの皆様もご存知の方が多いでしょう。

それにしても名前が只者ではありません。ー

何しろ「改造社」です。

ちょっとでも隙を見せたら拉致されて、サイボーグ009のように改造されてしまいそうです。
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そしてこのロゴです。絶対に只者ではありません。

1919年(大正8年)創業といいますから、リング誌創刊の1922年を紀元0年とする拳闘暦では堂々の紀元前です。

総合雑誌「改造」を創刊した出版社で、バートランド・ラッセル、アルベルト・アインシュタインという「ノーベル賞」を受賞するレジェンドを日本に招聘したことからも、とんでもない権威あるメディアだったことが推察できます。

当時中学生だった湯川秀樹は、このとき開催されたアインシュタインの講演を聞いて物理学の道を選びました。
 
岩波書店などと競合した「マルクス・エンゲルス全集」を最後まで刊行できたのも改造社だけ。岩波書店をも圧倒していたのです。

やはり、只者ではありません。

…そういえば岩波も「世界」を10年くらい前まで定期購読してましたが、やはり時代をつかめていない内容に幻滅して今ではきになるテーマが取り上げられているときだけ買ってます。

1944年(昭和19年)に軍部によって解散させられたというエピソードも、伝説的です。軍部にとって目障りな存在だったのです。
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第二次世界大戦後に改造社は再建、「改造」も復刊しましたが、出版社としては衰退の一途を辿り、現在は書店としての機能しか残っていません。


そんなレジェンドな改造社の本拠地は、今も銀座の外れにあります。

先日、仕事の保険関係の手続きで、近くまで来たので改造社書店を見に行きました。

そういえば、最初に来たのは大学一年生の秋でした。

銀座に来たのもそのときが初めて。つまり私の銀座初体験が改造社でした。
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ずっと「故障中」の自動ドアも、もはやチャームポイントです。
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改造社書店の独特のフォントで記された看板ネオンは、今もあの当時のまま(たぶん)。無意味な電飾すらも〝改造〟的です。
 
私が大学進学で上京したのは80年代も深まった時期で、学生運動などとっくの昔にどマイナー化、学生たちはバブル前夜の高揚と、好景気を満喫していました。

もちろん私もその1人でしたが、中学時代に読んだ「青春の門」と名画座で観た「イチゴ白書」、さらにはラジオ「ヤングタウン」(だったと思うのですが)でMCをしていたぱんばひろふみが歌った「イチゴ白書をもう一度」などに感化された影響から学生運動にちょっとだけ憧れを持っていました。

新入生歓迎週間に、最初に声をかけられたのが、ゲバ棒を手にヘルメットをかぶり、手拭いマスクで顔半分を隠した集団でした。

「戦艦ポチョムキンを見ないか?」。

絵に描いたような話ですが、本当です。 

こいつが「オルグ」ってやつか!と軽く感動しながら、古い校舎の狭い屋根裏部屋に連れ込まれ16㎜の映写機で映し出された「戦艦ポチョムキン」を見たのでした。

「学生運動って知ってるか?」と聞かれて「青春の門」で初めて知ったと答えると、手拭いマスクの男連中には笑われましたが、狭い部室の片隅に座っていたリーダーらしき女性が「最初はそれでいいの」と少し色っぽく答えてくれました。

手拭いマスクの一人が「戦艦ポチョムキンはモンタージュ技法を駆使したことでも画期的」なんて口にしたところから、話は映画にそれました。

ニューシネマや当時すでに突入していたSFXからCGへのハリウッドの潮流、そんな話をまともに出来ないのは映研じゃないので仕方ないにしても、知ったかぶりしかできずに口ごもる手拭いマスクたちには幻滅と苛立ちを感じてしまいました。

映画の話じゃ敵わないと思ったのか、出身高校の話になり、私は無名の馬鹿高校出身ですが、彼らは出自が違うとでも言いたげに「湘南」「麻布」「栄光学園」と自慢げに語り始めました。


報徳学園や東海大姫路などの一流名門校ならビビりますが、湘南とか麻布など私は聞いたこともありません。

私が知ってる進学校なら灘、神戸くらいです。全く縁はなかったですが。

険悪な雰囲気になる前に屋根裏部室を出た私でしたが、一人だけ手拭いマスクをせず素顔を見せていた女リーダーは気になりました。名前はレイラさんにしましょうか、レイラ・アリから取って。

彼女は自分が美人だとわかって手拭いマスクをしてなかったのかな、だとしたら嫌な女だな、とか思いながら古い校舎の石造りの階段をトントン降りて行きました。

私が頭の中で知っている学生運動は、もう死滅したんだとそのときあらためて感じました。



「最後に確認しよう。われわれはあしたのジョーである」と、よど号をハイジャックした赤軍派は、80年代が深まった私の時代には、もうずっとずっと遠くへ、見えないところまで、もっと具体的にいうと自分で帰って来れないところまで、飛び立っていたのでした。 

それにしても新入生歓迎週間は、いろんなサークルがブースを出して新一年生を勧誘していました。

テニスやラクロスの華やかな雰囲気のサークルは特に熱心でしたが、なぜか私は全く声をかけられず、〝活動家〟の連中には目をかけられたのでした。

完全に目つき、顔つき、着衣、容姿から発散する空気が「私たちの楽しいサークルには不要」と〝目視〟で却下されていたようです。

すでに体育会の説明会で陸上競技部とボクシング部と準硬式野球部に仮入部を申し込んでいた私にとって〝活動部〟は興味本位でちょっと覗いてみたのでした。

今と同じで物事をよく考えずに行動する私は、体育会と学生運動という全く相反するグループに興味を抱いていたのです。我ながら大馬鹿です。

そして、5月の関東インカレのメンバーから漏れた私は、1年生の9月に新人戦のような大会で1500mに出場。 そこにレイラさんが〝アポなし〟で応援に来てくれました。

中高の体育の授業でしか走ったことのない私でしたが、そこでは全勝無敗。しかし、初の公式戦は一次予選であっけなく敗退。

陸上部の新入生歓迎会では「彼女はいない」と言ってた私に、同じ大学の結構目立つ4年生のレイラさんが応援に来たから、しばらくは「大嘘つき」「狼少年」と極悪人にされてしまいました。

そのレイラさんに「どこか行きたいところがあるか?」と聞かれて「改造社」と答えて、二人で行ったのが銀座の改造社書店でした。

「レジにハカイダーが座ってそうな雰囲気ですよね」という私のくだらない冗談が冷たくスルーされたのを覚えています。


結局、付き合ってたとは言えない微妙な関係は終わり、レイラさんは国家公務員に就職。「えー?学生運動家が就職するだけでも裏切り行為なのに、まさかの国家公務員!」と、もう何かに発展することがない関係になっても二人で大笑いしながら居酒屋で就職祝いをしたのを思い出します。

でも、もう20年近く交流はなくなってしまいました。別に深い付き合いではなかったのですが、なんとなく理由はありませんが互いの結婚式には呼びませんでしたし、女性だてらに偉くなったようで、もう積極的に会うことはありません。

でも、生きてたら何が起こるかわかりません…。